2011年11月28日月曜日

車の次はストーブ

 

forest96-1.jpg

forest96-2.jpg・モノにガタが来はじめると次々連鎖反応が起こる。車を乗り換えて調子よく乗っているのだが、寒くなってつけはじめたストーブが煙りくさい。特に、空気を絞って還元状態で燃やすと途端にくさくなる。そんな状態は去年からだったから、思い切って新しいのに変えることにした。と言っても、付け替え工事は12月になってからだから、もうしばらくは臭いを我慢しなければならない。煙突に煤がつくのはシングル菅のせいだと言われたから、それもすべて新調することにした。ストーブよりも煙突の方が値段が高いから、総額ではかなりの出費になる。やれやれ。


forest96-3.jpg・ストーブを燃やし始めたら、来年の冬の薪を用意しなければならない。で、原木を3立方メートル買った。ただし、チェーンソーで切って、斧で割る前に、まず、この冬燃やす薪を移動させる必要がある。我が家で一番日が当たるのは南面で、割ったばかりの薪はまず、そこに積む。だから、そこをあける必要があるのだが、一番乾いた薪は、日当たりの悪い東面に積んであるから、その薪をどかして、南面の薪を移動させなければならない。

forest96-4.jpg・どかした乾いた薪をとりあえず積んでみたが、2時間ほどでくたびれたので、また明日。しばらくは天気も良さそうだから、このまま置くことにした。こんなペースでやると、薪を並べかえるのに数日かかるから、チェーンソーで玉切りするのはまた来週の作業になる。それを斧で割って、積んでいく作業は、雪が積もる前まで続くことになる。仕事に出かけない日の午後の日課である。

 

forest96-5.jpg・ガタが来て気になっていたのはもうひとつ。玄関前のバルコニーに上がる階段の木が腐ってずいぶん前からぐらついていて、作りかえなければと思っていた。ホームセンターで木を買って、のこぎりで切って金具で固定する。ただそれだけなのだが、寸法を間違えないように慎重にしなければならない。うまくできたら次はペンキ塗りで、色違いのペンキしかなかったのでそれを使ったが、これはこれでなかなかいい色に仕上がった。プロ並みとはいかないが、やってみれば大概のことは自分でできる。まさに DIY(Do it yourself)だが、最近このことばを聞かなくなった気がする。

2011年11月21日月曜日

レジャー・スタディーズとは?

 

Chris Rojek "leisure Theory" 2005, palgrave
"The Labour of Leisure" 2010, Sage

・来年度の後期に研究室に集まる人たちを中心にして「レジャー・スタディーズとツーリズム」というタイトルの特別企画講義をやることにしている。その準備のために、レジャーについて、改めて勉強し直すことにした。今年は校務に追われて、仕事らしい仕事は何もしていない。そろそろはじめなければ、錆が出てきてしまう。で、以前に翻訳をしたクリス・ロジェクの本を何冊か読んだ。


leisure1.jpg ・レジャーは余暇と訳されてきた。この領域を研究する学会も日本では「余暇」と名がついている。なぜ余った暇なのかというと、それは寝ることや食べること、そして何より働くといった、必ずやらなければならないことのほかに生まれる余剰の時間だからである。したがって「レジャー=余暇」というとらえ方には、「仕事に特権を与え、レジャーをそれに付随する変数とする」前提がある。

・とは言え、レジャーそのものに注目すれば、そこには個人を豊かにすることや、快楽のために意識的に使われる時間として探究できる材料はいくらでもある。レジャーは、その語源からして何より自由なもの、自発的なものであり、お金を気にせずに時間を自由に使える人は有閑階級(leisure class)と呼ばれて、大衆からは羨望のまなざしを受ける存在だった。彼や彼女たちが暇な時間にするさまざまな遊びやスポーツ、その時身につける衣服や道具が、大衆消費社会になるとファッションや娯楽の産業として発展していった。

・ロジェクはさらに「レジャー」の中には、人びとの協同や相互理解、あるいは心身の健康や幸福観といった社会的に定義された目標を達成する機能的な活動が含まれると言う。レジャーはこれらを統合して分析する必要のある、きわめて今日的な研究テーマだというのがこの本の基本的な視点で、そのために彼が提示するのは「行為分析」という概念である。

行為へのアプローチはレジャーを単に自発的な行為の蓄積としてみなさない。反対に、レジャーは、行為者をレジャー実践の決定論的な軌道に位置づける文化的、経済的、そして社会的強制力として分析される。この軌道はまた、行為者を差別化する。ここから、レジャーの軌道は個人の本質的な満足の追求という私的な投資を示唆するだけに留まらず、個人を階級、文化、ジェンダー、人種、宗教、そして地位基準に分類するのである。

leisure2.jpg ・「レジャー」という行為は快楽や感動を経験し、教養を身につけ、心身を健康にし、豊かな人間関係を作り、維持することを目的にする。ロジェクはもう一冊の本では、それによって得られるものを「感情知性」(emotional inteligence)と名づけ、それが「感情労働」(emotional labour)と呼ばれる仕事と大きく関連していることを指摘する。彼によれば、「感情知性」とは、私たちが出会う多様な社会的、文化的、そして経済的状況のなかで、私たちが有能で信頼がおけて適切にふるまう人として認められるために必要な「衆人知」(people knowledge)と技術にほかならない。

・レジャーの多くは商業化し、産業化している。だからレジャーの形式と実践は「コード化」され、多様なやり方で表象されている。ロジェクはレジャーを表象のシステムとして考察し、それを富や権力、つまり経済資本、文化資本、そして社会関係資本との関係で読み解く必要があると言う。なるほどと思ったが、急ぎ足で読んでポイントだけつかむような読み方だったから、講義が始まる前にもう一回、きっちり読まなければ、とも思った。講義のためにはもうひとつの課題である「ツーリズム」についても勉強しなければならないが、ロジェクはこの分野でも編著を出している。

2011年11月14日月曜日

紅葉を探しに

 

jmomiji.jpg


・今年は秋の深まりが遅い。いつまでも暖かい日が続くから、山の色づきも鈍かった。忙しかった前期と違って、後期は土日に出校することも少なかったので、月曜日は山歩きにしようと決めた。 で、10月の後半から近くの山に出かけることにした。陣馬山は高尾山の西にある。八王子から藤野や上野原に抜ける旧甲州街道の和田峠まで車で行き、そこから歩いた。標高は857mで登ったのもたいしたことはなかったのだが、久しぶりの山歩きで、途中から腿やふくらはぎが痛くなった。当然だが周囲の紅葉はまだまだだった。jinbayama.jpg
mizugaki1.jpg ・翌週は山梨と長野の県境にある瑞牆山(みずがき)へ行った。花崗岩の山が浸食されて、奇岩や巨岩がたくさんある。以前から行こうと思っていた山だ。2230mと高いから、こちらは麓が紅葉真っ盛りだった。先週からの筋肉痛が直っていなかったので、頂上まで登らずに、不動滝で引き返した。乗り換えたばかりの車で川上村から秩父にぬける林道を走ったが、予想以上の悪路だった。
cosmos1.jpgmizugaki2.jpg
mizugaki4.jpgmizugaki3.jpg
・11月になって出かけたのは陣馬山から相模湖をはさんで南にある石老山(せきろうさん)。ここも奇岩や巨岩がある山で、岩の一つ一つに名前があり、謂われがあった。ここは杉や檜の森で、紅葉は一部しかなかったが、二カ所ある見晴台からは眼下に相模湖がよく見えたし、山頂からは丹沢の山並みが一望できた。さて、次はどこに登ろうか。sekirosan1.jpg

2011年11月7日月曜日

BSがおもしろくなくなった

・地デジ化されて3ヶ月が経った。アナログ波がとまって、ザラザラ画面とは言え見えていたチャンネルの多くが見えなくなった。自治体にかけ合ってBS経由で地デジが見られるようになったが、それは山梨県で視聴可能なNHK2局と民放2局に制限されている。すでに書いたように、これは、見えるのにわざわざスクランブルをかけて見えないようにする総務省の方針のためである。地元放送局の保護と、全部見たければ地元のケーブルテレビと契約をせよ、というケーブル普及を意図した露骨な戦略で、新聞もテレビも自分の保持する既得権の問題だから、どこも何も言わないのである。

・BSだから、どのチャンネルも今までとは比べものにならないほど鮮明になったが、以前より見る気になったのはNHKの教育テレビぐらいだ。BSで見られる民放の地上波はNTVとTBSだが、きれいな画面になってもCMの多さばかりが気になってしまう。CMと言えば、BSでも民放チャンネルはCMが多くなった。地デジ化で視聴者が増えたためだろうが、CM が少ないからこそ、BSを見ていたのに、うんざりしてしまう。

・それに、昼と言わず夜と言わず、どのチャンネルでも韓流ドラマばかりやるようになった。たまたま見たライブドアのサイトに「地上波では4つの放送局が6作品を、衛星放送では7つの放送局が29作品を放映中」という記事を見かけたが、この数は半端ではない。デモをして反対することでもないが、自前で制作のできない局がいくつもチャンネルをもつのは、電波の無駄遣い以外の何ものでもないだろう。デジタル化によってあいた電波域はテレビではなく、通信に使うべきなのに、テレビ局は既得権を主張して、電波枠を手放さないようだ。

・10月の末からBSに新しいチャンネルができた、有料放送で最初は無料で見ることができたが、スカパーやスポーツ、そして競馬などのチャンネルで、CSとも光とも重なり合うものばかりだから、当然、新たに契約したいものはなかった。そもそも、光テレビと契約したときに、基本契約のチャンネルのなかに映画専門の局がいくつもあったから、BSのWowowも解除したのだった。

・NHKのBSは3局から2局に減った。その分番組を強力にするような前宣伝だったが、見たいと思わせる番組が減ったことは確かだ。世界中の山にアタックする「グレイト・サミッツ」など、確かにお金と時間をかけて作ったものもあるが、バラエティ形式の番組やタレントを使う番組が増えて、テーマに興味があっても途中で見るのをやめてしまうことも少なくなかった。

・と、文句ばかり書いてきたが、テレビをますますつまらないと思うようになった最大の理由はiPadがおもしろくて、今までテレビを見ていた食後の時間に、ほとんどiPadばかりをやるようになったからだ。ただで手に入るゲームがたくさんあるし、テレビ番組だって、少し立てばYouTubeなどで見ることができる。スマートフォンやタブレットの普及はものすごいスピードだから、テレビが斜陽になって取り返しがつかないほどに落ち込むのも、そう遠いことではないのかもしれないと思っている。