1999年12月31日金曜日

目次 1999年

 

12月

31日:目次

22日: Merry X'mas

15日:佐藤正明『映像メディアの世紀』(日経BP社)

8日:アジアのロック 黒名単工作室『揺籃曲』

1日:イーヴ・ヴァンカン『アーヴィング・ゴッフマン』せりか書房

11月

24日:オフ・シーズンの野球とベースボール

16日:「恋愛小説家」"As good as it gets"

9日:秋の風景

2日:広告依頼とDMについて

10月

26日: 賀曽利隆『中年ライダーのすすめ』平凡社新書

20日:Sting "Brand New Day",Steave Howe "Portraits of Bob Dylan"

13日:「社会学」のレポートを読んでの感想

6日:最近のテレビはおかしくありませんか

9月

28日:ロボット検索について

21日:『スポーツ文化を学ぶ人のために』の紹介

15日:田家秀樹『読むJ-POP』徳間書店

1日:河口湖で過ごした夏休み

8月

25日:郭英男(Difang)Cicle of Life

18日:Woodstock Live 99

11日:F.キットラー『グラモフォン・フィルム・タイプライター』筑摩書房

4日:富田英典・藤村正之編『みんなぼっちの世界』恒星社厚生閣

7月

28日:メールを通じて届いたミニコミなど

22日:Soul Flower Union "Ghost Hits93-96" ,"asyl ching dong" "marginal moon"

15日:ゴールと同時にギックリ腰、前期を振り返って

7日:中川五郎『渋谷公園通り』(KSS)『ロメオ塾』(リトル・モア)

6月

29日:"The People VS. Larry Flynt" "The Rainmaker" "Wag the Dog"

22日:ゼミ同窓会

15日:新しい職場で感じたこと

8日:村上春樹『スプートニクの恋人』講談社,『約束された場所で』文芸春秋

1日: Van Morrison "Back on Top", Tom Waits "Mule Variations", Bruce Springsteen "18 Tracks"

5月

21日:加藤典洋『可能性としての戦後以後』(岩波書店) 『日本の無思想』(平凡社新書)

14日: 場所と移動

6日:野茂の試合が見たい!!

4月

28日: Alanis Morissete (大阪城ホール、99/4/19)

20日:M.コステロ、D.F.ウォーレス『ラップという現象』(白水社)ジョン・サベージ『イギリス「族」物語』(毎日新聞社)

13日:職場が変わったことへの反応など

3月

24日:バイクで京都から東京まで

9日:ジム・カールトン『アップル 上下』(早川書房)

2日:石田佐恵子『有名性という文化装置』勁草書房

2月

25日:崔健『紅旗下的蛋』

17日:ABCラジオ体験

10日:『夫・山際淳司から妻へ』 (BS2)

3日:A.プラトカニス、E.アロンソン『プロパガンダ』〔誠信書房)

1月

27日:シンガポールとフィンランドからのメール

14日:R.E.M. "UP"

7日:ポール・オースター『偶然の音楽』新潮社,『ルル・オん・ザ・ブリッジ』新潮文庫

1999年12月22日水曜日

Merry X'mas




  • とにかく忙しい1年間でした。移動人間と化し、新幹線と車で3万kmを走破。何とか無事に二つの大学での勤めを済ませました。こんな生活はもうこりごりですが、おもしろい経験でもありました。東京と大阪の学生と同時につきあったこと。新幹線で見た人間模様と車窓の風景。それに、河口湖で過ごした夏休み。来年は、腰を落ち着けて、自分の仕事をやりたいと思います。

  • 追手門で受け持った4年生のゼミは、例年になくまとまりがあって、3月の三田と8月の河口湖と、二度の合宿をやりました。で、『林檎白書』第9号の完成。論文発表会もコンパも年内に済ませて、一応さよならです。ただ一つ気になるのは、院生の丁さん。修論は今年は無理なようです。

  • 東京経済大学ではゼミを三つ受け持ちました。まじめな学生が多かったように思いましたが、同時に、自発的にではなくやらされているという感じもしました。来年は、東経大の学生の書いた卒業論文とつきあうことになります。おもしろいものがたくさん出てくることを願います。



  • "X'mas Bell and Candle" by Yoko Hasegawa

    1999年12月15日水曜日

    佐藤正明『映像メディアの世紀』(日経BP社)

     

    ・ビデオについては腹立たしい思い出がある。下の息子が生まれたときに、僕の両親が出たばかりのソニーのベータムービーをプレゼントしてくれた。孫を映して送れというということだった。めずらしもん好きの僕は、二人の息子をせっせと撮った。1981年だったと思う。当然ビデオレコーダーもベータを買った。

    ・品質には不満はなかった。持ち運びは楽ではなかったが、従来の機種に比べたら雲泥の差があった。けれども、ビデオは徐々にVHSが体勢になり、買い換えの時期にはベータは消えてなくなっていた。2台目のカメラを8ミリ、レコーダーをVHSにせざるをえなくなる。互換性はもちろんないから、必要なものは全部ダビングしなければならなくなった。

    ・これが教訓になったせいか、レコードからCDに乗り換えるのはずっと後になった。けれども、マッキントッシュを見たときには、日本語がうまく使えないとか、PCとは互換性がないという批判や悪口があったにもかかわらず、100万円以上の金をはたいてアメリカからの並行輸入品を一式買ってしまった。おかげで、ずいぶん楽しい世界を知ることができたが、互換性のないこの道具にまつわる悩みはビデオ以上だった。

    ・佐藤正明の『映像メディアの世紀』はVHSを開発したビクターの高野鎭雄の物語である。高野は、テレビの開発者として有名な高柳健次郎がいた浜松高等工業(静岡大学)の出身だが、彼が入ったときには高柳はすでに退官していた。それが、就職したビクターで偶然再会する。高柳の役目は当然、テレビの商品化で彼は同時にビデオの開発も目論んでいた。ビデオは業務用から始まり内外のメーカーが様々な方式を開発するが、家庭用に焦点が合うのは 70年代に入ってからで、その主導権争いをしたのは、ソニーのベータとビクターのVHSだった。高野はそのVHS開発の責任者になった。

    ・この本を読んでいると、新技術の開発と普及、そして規格統一といった動向が、技術というよりは、陣地獲得の戦術合戦であることがよくわかる。高野は技術者である以上にすぐれた戦略家だった。ビクターは松下の傘下にあって、その意向を気にしつつ、また独自性も出さなければならない苦しい状況にあった。かたやソニーには技術とアイデアに絶対的な自信を持つ先進的な企業というイメージが定着していた。松下を味方につけ、その他の家電メーカーを結集させるにはどうしたらいいか。高野は一人知恵を絞り、企業との交渉や連絡に奔走する。

    ・国内メーカーの多くを味方につけたVHSはアメリカを松下が、そしてヨーロッパをビクターが制圧する。ベータとVHSの試作機第1号が1972年で、勝負に決着がついたのは1988年。その年ソニーはプライドを捨ててVHSを自社製造し始めた。ビクターの勝利だが、『映像メディアの世紀』は一企業の成功よりもっと大きな野心、つまり統一規格を作ることに懸命だった高野鎭雄を描き出す。600ページを越える壮大な物語で、僕は例によって新幹線にも持ち込んで一気に読んでしまった。

    ・家電や自動車など、20 世紀の後半はこと技術については間違いなく日本の時代だった。そこで働く人たちの生き生きした姿は、この本にはもちろん、ほかにもいくつものノンフィクションの作品になって描き出されている。僕はそんな話が好きだが、いつも同時に感じるのは、その世界のほとんどが男たちだけによって作られること、あるいはハードの話で終わっていて、ソフト面への応用となると、外国の話ばかりになってしまうということである。

    ・高野鎭雄はビデオの世界規格を達成したが、彼には家でビデオを楽しむ時間がなかったし、あったとしてもそうする気もなかった。ビデオに捧げた人生はまた、家にはほとんど戻らない20年の生活だった。ビデオ・カメラで子どもを撮り、マッキントッシュでニュースレターを作ったぼくの20年とはずいぶん違う生き方だなと思った。

    ・もちろん、ハードを開発することと、その新しい道具を使ってソフトを開拓することはまったく別の世界だし、それらを買って楽しむ世界もまた違ったものである。けれども、日本がハードばかりに突出したいびつな国であることも間違いない。ハードからソフトへの転換。それはたぶん、企業戦士が仕事から生活へ目を向けること、女たちがもっともっと仕事の第一線に参加すること、あるいは若い世代がベンチャー・ビジネスに野心を持つことといった変化を土台にしなければ可能性も見えてこないにちがいない。ハードの開発はもちろん大事だし、おもしろいことを否定する気もない。けれども、ぼくは日本人は、もっともっと、それを使って何かを作りだすこと、あるいは生活を楽しくすることに関心を向けるべきだと思う。

    1999年12月7日火曜日

    黒名単工作室『揺籃曲』


    rock21.jpeg・ここのところ、日本やアジアのポップやロックについての本をいくつか読んだ。おかげで、関心が欧米からアジアに向いている傾向や理由がよくわかった。たとえば『21世紀のロック』(陣野俊史編著、青弓社)。ほとんどの章はこの種の本にありがちな、わかる人にしかわからないというレトリックで、今ひとつだったが、一つだけ視野の広がりをもたらしてくれる章があった。小倉虫太郎の「越境する音楽」。中国と台湾の民主化と、同時期に現れたロックを中心にするポップ・カルチャーを紹介したものである。
    ・中国の天安門事件と台湾の民主化運動が新しい文化的な流れを生んだことは知っていた。たとえば中国のロックでは崔健、台湾では『非情城市』などの映画。「越境する音楽」には、二つの民主化運動の経緯とロック音楽の登場の様子が詳しく書かれていて、とても興味深かった。筆者は1990年から4年間、台湾に滞在していたようだ。


    blacklist.jpeg・忘れてならないのは、単なる流行歌に終わらない実験的な音楽を作っていたグループによって、台湾語のポピュラーソングがラディカルな社会批評の手段となり、なおかつ、中華圏においてはじめてと言っていい、音と言葉の結びつきにかかわる新たな実験の領野を開くことになったということである。そのグループの名前は「黒名単工作室」、直訳すれば「ブラックリストに載った者たちによる実験室」というパンチのきいたものだった。pp.204-205

    ・ぼくは興味を感じてさっそく探したが、残念ながら、ここで紹介されていた『抓狂歌』は見つからなかった。しかし、手に入れた1996年に発表された『揺籃曲』からも、たとえば、プログレがあったかと思うと、郭英男のような台湾先住民族風のもの、あるいは、歌謡曲とさまざまで、ことばも中国語や英語などがまじっていた。英語で歌われている「新聞時間」(News Time)には、戦争に巻き込まれる若い人たちの苦悩や世界の警察を自認するアメリカへの批判、嘘に満ちた世界への否というメッセージが率直に表されている。サウンドも含めて、中国の崔健や黒豹とはまた違う独特の世界を作り上げていておもしろいと思った。

    asia1.jpeg・松村洋の『アジアうた街道』は雑誌に連載したエッセイを集めたものだが、中国はもちろん、タイやマレーシアやイランやインド、そしてインドネシア、あるいは沖縄や在日のなかに新しく生まれた音楽を紹介していて、ここでも、聴いてみたいミュージシャンを何人も教えられた。その多くが日本でもコンサートをやっていることなどを知ると、今さらながらに、ぼくのアンテナが太平洋の向こうばかりに向けられていたことを思い知らされる。
    ・ たとえば沖縄のラテン・バンド「ディアマンテス」。ボーカルのアルベルト城間はペルー生まれの沖縄三世で、東京では相手にされずに、沖縄で音楽活動をはじめた。他にも、在日コリアンを中心に結成された「東京ビビンパクラブ」、タイの社会派ロックバンド「カラバオ」、マレーシアのザイナル・アビディン........。
    ・松村洋は、日本にいながらにして手に入る世界中の歌と、欧米以外の外国(人)に関心を向けない日本人の対照を指摘する。テクストとしての一つの歌と、一人のミュージシャン。そこから、彼や彼女が背負うさまざまなコンテクストへと向けるまなざしの大切さを主張する。まだまだぼくには知らない世界が多い、とつくづく感じてしまった。さっそくまたCDを探しに行こうと思う。

    1999年12月1日水曜日

    イーヴ・ヴァンカン『アーヴィング・ゴッフマン』せりか書房

     

    ・アーヴィング・ゴ(ッ)フマンは、ぼくにとって特別の社会学者だ。彼の本に出会わなければ、全然違うテーマを考えていただろう。と言うよりは研究者になっていなかったかもしれない。それだけ強い影響を受けた人だった。
    ・ゴフマンは人びとのコミュニケーションを対面的な状況に限定して考えた。人と人が出会っているとき、そこでは何が行われているのか?そのありふれた場面を独特の用語を使って微細に描写した。「気取り」「謙そん」「嘘」「冗談」あるいは「面子」や「体面」。日常の生活は演劇的要素に満ちていて、しかも、人びとはそれを隠蔽しようとする。大人社会の偽善さに嫌悪感をもっていたぼくには、「ほら見ろ、やっぱり」という思いがした。「社会学は現実の暴露だ」と言ったのはピーター・バーガーだが、そのことを実感として理解させてくれたのはゴフマンだった。

    ・ぼくは30代に二つのテーマをもった。一つは、男女(夫婦)や親子、友人・知人・同僚といった直接的な人間関係、もう一つは、メディアを使った個人的な関係。前者は『私のシンプル・ライフ』、後者は『メディアのミクロ社会学』(ともに筑摩書房)という形になった。そのどちらも、理論的な土台に据えたのはゴフマンである。しかし、それ以降少しずつ、彼はぼくにとって遠い存在になっていった。周辺でもあまり話題にならなくなった。死んでしまって新しい著作が出なくなったせいかもしれないし、また、社会が演劇的な要素で満ち満ちてしまって、説得力をなくしてしまったのかもしれない。40代のぼくの関心もパソコンとポピュラー音楽になった。
    ・しかし、この本を見かけたとき、読んでみたいという気持ちを強く感じた。決して懐かしさばかりではない。何となく中途半端で放ってしまっていたテーマが最近気になり始めてもいたからだ。で、読み始めるとすぐに「ゴフマンの著作は自伝である」という文章に出会った。ぼくは『私のシンプル・ライフ』を自分の経験を材料にして書いたが、下敷きにしたゴフマンの本には、彼の素顔らしいものはほとんど出ていない。そのことにほとんど気づきもしなかったし、違和感ももたなかった。彼の書いたものの中には、あたかもぼく自身や周囲の人間が登場しているかのように感じられた。

    ・ヴァンカンは自伝である理由として「ゴッフマンは『社会構造の中で彼が占めていた位置を作品の中で数限りなく再現している』と仮定することができる」と書いている。ゴフマンはその仕事を通して、日常生活の中で自己を演出することに懸命になる人びとの仮面を剥がしただけでなく、その登場人物にいつも自分自身を配役していたというわけだ。おもしろい見方だと思って一気に読んだが、最後が次のような指摘で終わっていることにはあらためて、やっぱりそうかという気がした。

     比較にはややもすれば不当な単純化の危険がつきものである。それは間違いないことだ。 しかしわれわれはゴッフマンにアメリカ社会学の一種のウッディ・アレンを見ずにはいられ ない。似たような体つき、民族的な出自も社会的出自も同じで(あるところまで)自伝的な 諸作品。いずれも多作で、作風は独創的、知的でしかも自分の属する世界を超えて多くの人 びとに受け容れられている。両者ともに深刻に悲愴である。P.134

    ・この本の後半は著者によるゴフマンのインタビューになっている。死の2年前に行われたものだ。その語り口は、彼の文章に感じられるのとは違って、きわめて正直で誠実なものである。しかし、ぼくはそれを意外な一面としては感じなかった。日常生活を正直な目で見て、誠実に描写する。ゴフマンの世界の信憑性は、何よりそこから生まれているのだから。

    1999年11月24日水曜日

    オフ・シーズンの野球とベースボール

  • メジャー・リーグもプロ野球も終わって、何となくつまらない時期。しかし、今年はオフの話題がなかなかおもしろい。とりわけ、フリーエージェントは興味津々である。野茂はどこへ行くか、佐々木はと思っていたら、工藤までがメジャーに接触した。イチローがもう一年と我慢したのは残念だが、日本のプレイヤーがメジャーを目標にし始めているのは間違いない。この傾向は、たぶんこれから加速度的に強くなると思う。
  • R.ホワイティングの「日出づる国の奴隷野球」が話題になっている。日本ではワルのイメージが強いダン野村と野茂の話が中心で、読んでいて痛快という気分を味わった。日本ではなぜ代理人交渉が認められないのか、フリーエージェントがなぜもっと短期間に設定されないのか。そう思う選手は少なくないだろう。しかし、各球団は話題にする気もないようだし、選手会の姿勢もいたって弱腰だ。なぜ、契約交渉という専門的な知識やテクニックが必要な行為を選手がやらなければならないのだろうか。その不当さはあらゆるスポーツで常識化しているのに、プロ野球だけが知らん顔をしている。監督と選手が直接会って、「真心」などという言葉が出てくるのは、僕には苦笑せずにいられない。野茂とダンは日本のプロ野球以外では当たり前の主張をしたにすぎないのである。
  • 野球は今、ベースボールとして世界的になりつつある。いつまでも鎖国状態でいられるわけはないのだが、各球団、とりわけ巨人とそのオーナーだけは、そのような認識が全く欠如しているようだ。オリンピックに対して消極的なのは、その好例だろう。しかし、さらに悪いのは日本のスポーツ・ジャーナリズム。球団べったりで、極めて保守的、批判精神とか将来へのビジョンなどはまるでない。ただただ、巨人と阪神、長島と野村で見出しが作れればそれで安心といった姿勢なのである。
  • BSで赤瀬川隼がメジャーの球団を訪れる番組を見た。目新しい視点はなかったが、基本的なところをおさえたおもしろい内容だった。野球はフィールド・スポーツ、つまり野原でやるものである。緑の芝生、これはアメリカではマイナーでも、リトル・リーグでも変わらない場面設定だ。けれども、日本の球場には、内野に芝生がない。外野も秋になれば枯れるところが多い。何より人工芝の球場ばかりになったのが気にいらない。サッカーの舞台がJリーグや国際試合のポピュラー化で様変わりしたのに、日本の球場は変わらない、というよりは悪くなっている。芝生は一つの文化だが、閉じた世界のままにしようとする発想をしている限りは、気づくことができないのかもしれない。
  • 赤瀬川は火の玉投手といわれたインディアンスのボブ・フェラーを訪ね、一緒にキャッチボールをした。もう 80歳を越えているが、彼の名前を知っている人は少なくない。歴史はオーナーではなく選手が作る。当たり前のことだが、日本ではやっぱり、ごく一部のスターを除けば、ほとんど忘れ去られている。報酬の高騰もあって、競争ばかりが目につくが、選手の相互の助け合いや後々のための改革の主張など、見習うべきは、野球そのもの以外にも少なくないのである。
  • BSでは、今年の野茂に焦点を当てた番組もあった。いつもながらの話しぶりだが、自信とプライド、と同時に自分の実力や体調を冷静に見る姿勢など、今さらながら感心してしまった。メッツの監督バレンタインが、野茂の肘が完全になおって、来年はもっとよくなると予言していた。
  • アメリカ人のファンはゲーム自体を楽しむことがうまいと言われている。集団の応援ばかりに熱中する日本人と対照されるところだ。それは選手にとってもうれしい態度だろう。しかし、メジャー・リーグのファンはまた、自分がGMであるかのように選手を評価しもする。ニューヨーク・タイムズのHPにはメッツとヤンキースのフォーラムがあって、そこでは年がら年中、こいつはいらないから、あいつとトレードをしてなどとやっている。もちろん去年は野茂に対する声は厳しくて、その気短さ、近視眼的な発想にうんざりした。バレンタインは今年も野茂がいたらもっと楽に勝っていたのにと思ったのかもしれない。野茂だって、ワールド・シリーズに出る可能性のあるチームから出されるのは、悔しかったようだ。
  • 最近のフォーラムでも、やっぱり、出したい選手、欲しい選手談義が花ざかりだ。しかし、野茂を戻せとは誰も言わない。たぶん、いらないと言った手前、欲しいと口には出せないのだろう。必ずしもいいとは思わないが、ファンとチームの距離の近さもまた、日本とはずいぶん違う特徴である。
  • 1999年11月16日火曜日

    「恋愛小説家」"As good as it gets"

     

  • とにかく今年は映画を見る機会がない、というよりは余裕がない。だから、テレビは結構見ているのに、Wowowで見るものをあらかじめチェックしてといったこともしなくなった。で、思い出したように番組欄を調べたら、見たいものがいくつかあった。「恋愛小説家」はその一つである。ジャック・ニコルソンとヘレン・ハント主演で監督は「愛と追憶の日々」のジェームズ・L.ブルックス。この映画は「タイタニック」がアカデミー賞を総なめにした年に、主演の男優と女優賞を横取りにして、デカプリオ人気に肩すかしを食らわした。日本では「タイタニック」に隠れてほとんど話題にならなかっただけに、よけいに見たいと思っていた映画の一つだった。
  • ニコルソンが演じる小説家のメルヴィンは極端な潔癖性で動物嫌い、そしてなにより人間不信の毒舌家である。住んでいるのはマンハッタンの高級アパート。隣人とは口をきくのも嫌で、食事をするのは決まったレストランの決まったテーブルで、しかも注文を取るのも決まったウェイトレス。もちろん食べるものも決まっていつも同じもの。しかしそのウェイトレスに対しても、積極的にかかわろうとするわけではない。彼にとっては、かろうじて接触を許容できる相手というにすぎない。作家である主人公が人との関わりに積極的になるのはワープロに向かって恋愛小説を書くときだけである。
  • そんなメルヴィンが否応なしに隣人のゲイの画家と関わらざるを得なくなり、嫌いな犬とを世話するはめになる。ウェイトレスが店を休むと家まで行って、君がいないと食事ができないと懇願するようになる。けれども彼女にとって彼は決して印象のいい相手ではない。と言うよりは口が悪くて偏屈な嫌な客にすぎないから、家まで来たりしたことをひどい言葉でののしる。彼女には病気がちの男の子がいた。
  • フィクションの中では男女の恋物語を自由自在に操ることができるが、現実になると、相手をむかっとさせたり、うんざりさせたり、傷つけたりすることばしか吐けない。読者として女性ファンを虜にすることはできても、現実の、目の前にいる女性にはまるでだめ。すでに60歳を過ぎているはずの、男や女の心理を知り尽くしているはずの男が見せる、まるで初恋を経験する純情な少年のような一面。そのニコルソンの演技は、笑わずにはいられないがまた、何とも切なくなってくる。
  • 都会では、何か一つ才能があれば、あるいは仕事さえあれば、人とはつきあわなくたって生きていける。生身の人間は思うようにはならないし、信用もできないが、それに代わるフィクションや疑似現実的な世界でなら、親しさも、恋愛感情も経験することができる。そんな意識は若い世代にはごく自然なものとして現れているが、中年以上の世代だって例外ではない。そしてやっぱりどこかに欠落感や孤独感を抱えている。
  • メルヴィンはゲイの画家の犬をしぶしぶ預かってはじめて、その犬を返した後にあいた心の穴に気づく。あるいはいつも行く店にいつものウェイトレスがいないことであらためて、自分の居場所が消えてることを思い知らされる。
  • その欠落感や孤独感は、現在の人間が持つ共有意識で、少なくともある程度都市化したところなら、住んでる場所を問わないもの。この映画を見ながら思ったのは何よりそんなことだった。ある日突然、安住の場であるはずの職場や家庭が消えてなくなったら、僕らは、その欠落感や孤独感をどうやって埋めていくのだろうか?
  • 1999年11月9日火曜日

    秋の風景




  • 夏休みを河口湖で過ごしたあとも、毎月一回4〜5日ほど訪れている。今年はいつまでも暖かいが、それでも、来るたびに陽の光や空気や景色が変わっていくのがわかる。で、11月の初旬はと言うと、山の上だけだが、ご覧のような見事な紅葉だった。場所は太宰治の「富士には月見草が似合う」で有名な御坂峠の茶屋のあたり。今は河口湖と御坂の間は長いトンネルで一走りだが、昔はカーブの多い細い道を越えなければならなかった。残念ながらこの日は富士山が隠れていたが、紅葉の向こうに湖という風景はやっぱり美しかった。




  • 家のログと屋根の隙間にミツバチが巣を作っていた。たまたま見たテレビで、野生の日本ミツバチだということを知って、8月から気になってよく見ていたのだが、飽きないのは巣を襲うスズメバチとの闘いだった。からだの小ささを何匹もで力を合わせてカバーする。そのチームワークの見事さに口を上げていつまでも見とれていた。
  • そのミツバチが何匹も家の中で死んでいた。どこかに中に入る道でもあるのだろうが、探してもよくわからなかった。夏に比べたら、ほんのわずかになったが、ハチはまだ飛び回っている。穴をふさごうか、来年もまた見物しようか、迷っている。

  • ハチに代わってやってきたのがかわいいお客様。伊藤家のヒビキ君はまだ8カ月でもうすぐハイハイをしはじめるところだ。これからがやんちゃな盛りで、目が離せないが、また這った、立った、歩いた、喋ったとかわいい時でもある。
  • ぼくは久しぶりに彼をだっこして「高い高い!」をやったために、二の腕が筋肉痛になり、笑顔に応えて、不断使わない顔の筋肉を使ったためか、帰ったあとはぐったり疲れてしまった。

  • 疲れたと言えば薪割り。ストーブに使う薪はやっぱり自力で調達と意気込んで、チェーンソウも買ったのだが、赤松や杉の倒木はとてつもなく重い。それを30cmほどに切って、今度は鉈でまっぷたつ。これがまたなかなか大変で、節のあるやつはなかなか割れてくれない。朝から始めて気がついたらもうお昼、などという日を、結局は毎日過ごしてしまった。ところが、苦労してつくった薪も、いざ燃やしてみると、一晩で一山も使ってしまう。上に写っている薪の山もせいぜい4日分といったところで、来年住み始めたらやっぱり灯油ということになるのかな、と思うと、ストーブや鉈やチェーンソウが恨めしくなる。
  • 火と言えば、カミさんは七輪を使った陶芸に夢中だった。七輪に炭を詰めてその上に陶器を置く。上からアルミ箔や一斗缶で覆いをして、ドライヤーで風を送る。そうすると、土が見る見る真っ赤に焼けてくる。それを新聞紙にくるんで還元。焚き火の灰をまぶすと、ところどころガラス質になっていたりして、なかなかのものだった。ちなみに七輪は1200円で調達したものである。



  • あとは付近の散歩。ぼくは毎朝、新聞を湖畔のコンビニまで買いに行ったのだが、いつも霧がかかっていて、霜も降りていた。しかし、太陽が高くなり始めると霧も晴れて雲一つない青空。パラグライダーが気持ちよさそうに舞っていた。稲刈りの済んだ田んぼ、近隣の集落には火の見梯子(?)と半鐘、そして樅の木になった赤い実。ぼくは子どもの頃に食べたことを思い出して、たまらなく懐かしかった。
  • 次に行くときはもう初冬、今度はどんな風と陽の光と風景が待っているのだろうか。
  • 1999年11月2日火曜日

    広告依頼とDMについて

     

  • Yahooに眼鏡マークつきで載るようになったせいか、最近広告依頼やDMがたくさん来るようになった。宿題のレポートなどに混じっているのを見ると、迷惑この上ない話で無性に腹が立つ。で、今回はそれを話題にすることにした。まず一つ紹介してみよう。
    広告ネットワークへの参加は無料。サイトの有効利用のために広告スペースを…… 広告スペースを確保したら5分以内に広告配信開始。広告を掲載することでサイト自体の認知度もアップ、広告主へ広告料金の請求と回収の代行。(広告料金の支払遅延、未払の心配無用) 高速回線によりどこよりも早いバナー広告の表示速度! (ホームページへの影響なし)掲載する広告を選択可能。(広告主別バナー非表示設定)リアルタイムでアクセス数レポートを表示。 毎月クリック数に応じて広告掲載収入が得られます。(1クリックあたり15〜25円)広告はデルコンピュータ・ホンダ・マイクロソフトをはじめ多くの優良クライアントが参加。
  • ぼくのHPは大学のサーバーに載っている。広告バナーを禁止しているのかどうか確認していないが、たぶんだめだろう。しかし、たとえOKでも、また個人でプロバイダ契約をして載せていたとしても、つける気はない。ぼくのHPは100%ぼくのメディアなのだから、金をもらって他人に場所を貸すなどというもったいないことはしたくない、と思うからだ。
  • インターネットが商売として儲かるという話をずいぶん読んだり耳にしたりする。確かにそういうこともあるだろう。けれども同時に、詐欺事件も多発しているようだ。上に紹介した誘いを詐欺だと言っているわけではないが、飛び込んできた誘いにうっかり乗るのはやっぱり危険だと思う。たとえば、別のメールでにはつぎのような甘い言葉があった。「毎日4000ヒットあるサイトAでは、5%の200人のユーザーがメンバーエリアにアクセスし、毎月¥2.500.000の収益を上げています」。1日に数十人のヒット数では、表示速度が遅くなるばかりで収入はほとんど見込めないはずで、儲かるのは契約を取り持つ代理業者だけだろう。
  • もちろん、インターネットで金儲けをしてはいけないと言っているのではない。うまく副収入を得ている人が多いことも知っている。他方で、マルチまがいの商法が相変わらず後を絶たなくて、学生が引っかかったといった話を良く耳にする。一見うまそうに見える話にうっかりお金を払う人が後を絶たない。社会問題化しているものも少なくないが、結局は個人で責任を負う性質のものなのだと思う。世の中を甘く見ている人間には、それなりの授業料がいるのかもしれない。
  • ところで、ぼくが今感じる腹立ちは、大学のサーバーに載っているHPにこんな誘いのメールを出す者の無神経さにある。インターネットはそこに参加する個人や教育機関や公的機関、それに企業などの自発的な協力によって維持されている部分が多い。そんなことお構いなしに金儲けに夢中の人間たちが好き勝手に動き回って獲物を狙っている。そんな図をイメージしてしまうからである。
  • たとえばこんなメールもやってくる。
    無料でいつまでも使える、高機能出会いウェブ『いっしょに遊ぼ』では、先々週より「ナイスバディなお友達」コーナーを開設していますが、夏と同じくもうすぐ終了の予定です。出会いを求めている女の子が水着や下着……でナイスなバディを披露してくれています。男性のかたにも素敵なボディを披露していただきたいのですが、なかなか難しいようです。お一人だけ、男性で参加していただいている方がいるのですが、女の子からのメールが殺到しているようです。
  • 何か勘違いしているんじゃないの?と言いたくなるが、最近大学教員の起こすセクハラがよくニュースなったりするせいかな?などと気を回したりもしてしまう。ぼくは毎週京都と東京を新幹線で往復していて、そのことをHPにも書いているから、旅行会社から「チケットの手配をいたします」といったメールも飛び込んできたりする。「まあよくお調べになって商売熱心ですね」と皮肉の返事を書こうと思ったが、やっぱりこの手のメールはすべて無視するのが一番と反応しないことにしている。
  • インターネットは世界につながっている。今さら言うまでもないことだ。当然、閉ざされた日本人的な感覚でなく「個人の責任」が第一にされなければならないはずだが、そのことをいったいどれだけの人が自覚しているのだろうか。
  • 1999年10月26日火曜日

    賀曽利隆『中年ライダーのすすめ』平凡社新書


  • ぼくはバイクに乗り始めてから、もう30年近くになる。最近では、自動車を使うことが多くなってしまったが、気持ちのいいワインディング・ロードに出会うと、「あーバイクで走ってみたい」と思うことが少なくない。暑さや寒さや風の強さを肌で感じる。コーナーでの傾きや後輪のスリップで実感する機械と身体との一体感。同じ登り坂や下り坂もその傾斜は車とはずいぶん違う。そんな感覚を、時々無性に味わってみたくなる。
  • とは言え、快適な時ばかりではないから、歳とともに「しんどさ」や「面倒くささ」が先に立つようにもなってきた。腰痛持ちで数時間も乗ると腰や尻が痛くなる。重たいバイクを引き回すとすぐに息が上がってしまう。だから、荷物を満載しての長距離ツーリングは、もう夢だけの世界で、街中や近くの山道をちょこちょこと走っている。で、今年長く走ったのは京都から東京への高速道路一直線と東京-河口湖一往復だけである。
  • 『中年ライダーのすすめ』を書いた賀曽利隆さんは51歳だから、僕より一つ上である。題名に惹かれて買ったが、読み始めてびっくりしてしまった。バイクで日本一周、世界一周はもちろん、それを50cc でもやったりしている。オーストラリアやアフリカの砂漠、あるいはモンゴルの草原。もちろん、それらを題材にしたフリー・ライターだから、それが仕事だといえばそれまでだが、飽くこともなく次から次へと走っている。そのエネルギーとバイクによる世界体験への好奇心は呆れるほどである。
  • よう身体がもつなと思ったし、費用はどうするんだろうと考えた。子どもが三人で扶養の義務も果たしているようだ。数カ月とか半年とか、家族をほったらかしてよく愛想をつかされないな。怪我や病気は......などと余計な心配ばかりしてしまったが、「ノーテンキ・カソリ」「強運のカソリ」「不死身のカソリ」といたって威勢がいい。
  • 「中年ライダーの愉しみと悩み」とか「中年ライダーの健康問題」の章は、さすがに歳相応の話かと予測したが、とんでもない。ここでも肺に腫瘍ができたとか心臓発作とか物騒な話が続き、それがオーストラリアやモンゴルに行った時期だと書かれている。しかもそれは無謀なことというよりは、自分の体力や気力を回復させるのに役立っている。もうただただ感心して読んでしまった。
  • 僕はとても彼にはついてはいけそうもない。けれども、バイク乗りとして共感できるところはいくつもあった。たとえば、「車というのは日常を引きずって走るもの、バイクは日常を断ち切って非日常の世界を走るもの」といった文章。ただし僕の非日常体験は、むしろ南伸坊がやるような裏道や裏山の探索といった程度で、しかも、だいたいは仕事の行き帰りの寄り道程度のものである。
  • もう一つ「そうだ」と同感したのは、バイクが決して危険な乗り物ではないということ。バイクに乗っていると、車が身体に比べて異様に大きな図体なのに、ドライバーがそれに無自覚であることに気づく。けれどもまた、車に乗っていると、身体をむき出しにしているのに、バイクの危険さを自覚しないライダーが気になる。ヘルメットを規則だからと仕方なく首に巻き付けているような人を見かけると、「死ぬのは勝手だけど、巻き込まれる人の身にもなったら」とつぶやいてしまう。同じ道路を走りながら車とバイクはまったく違う世界にいて、しかも互いを邪魔者に感じている。ぼくは、著者と同様、今まで30年近く、事故とは無関係だった。運もあるのかもしれないが、両方の世界を経験したことが大きかったと思う。
  • この本によれば、最近は若い人のバイク離れが目立つそうである。その代わりに中年ライダーが増えている。バイクが不良の乗り物ではなくおじさんたちのものになり始めている。ワーカホリックやリストラと、あまりいい思いをしていない中年たちが見つけた、自分を取り戻す一つの道具。それは、若者とは違うおじさんたちの文化を創り出す一つの契機になるのかもしれない。
  • 1999年10月20日水曜日

    Sting "Brand New Day",Steave Howe "Portraits of Bob Dylan"


    sting1.jpeg・スティングは好きなミュージシャンの一人だった。大阪城ホールで 5、6年前に見たコンサートは3人だけのシンプルな編成で、ぼくはじっくり聞かせる歌い方を堪能した。"Ten Summer's Tale"が出た後だったと思う。いい曲がたくさん入ったアルバムで、車の中でくりかえし聞いた。
    ・しかしその後、彼が登場したテレビCMを見てから、すっかり興ざめしてしまった。確か宮崎県の海岸に建つホテルだったと思う。彼はご丁寧に、そのホテルでコンサートを開いて客集めに一役買ったりもした。僕はたまらなく違和感をもった。
    ・もちろん、ロック・ミュージシャンはCMに出てはいけないという決まりはない。彼らにとっては自分でつくった音やことばはもちろん、姿形や生きざまだって商品として売られるものなのである。けれども、だからこそ、自らの商品化には意識的になってほしいとも感じてしまう。彼はずっと、アマゾンの熱帯雨林破壊の反対運動に賛同して、そのためのコンサートなどに積極的に出演していた。第一、スティングの音楽の良さは、その抑制された歌い方にあったはずである。「もう十分お金は手に入れたんじゃないの?」というのが、テレビに出たスティングに向けたぼくのことばだった。
    ・1996年に出た"Mercury Falling"は一般的な評価がどうだったのか知らないが、僕にとっては悪くはなかったが、印象の薄いアルバムだった。だから、くりかえし聴くことはなく、やがて、スティング自体も聴かなくなってしまっていた。シルベスター・スタローンの『デモリッシュマン』の音楽なども担当して、話題にはなっていたが、僕には、彼についてのイメージをますます違うものにする意味合いしか感じられなかった。
    ・で、今回のニュー・アルバムだが、たまたま見つけて久しぶりに聴いてみようかという気になった。"Brand New Day"。その最後の同名の曲には次のような一節があった。何やらこっちの気持ちをくすぐるような文句である。


    なぜ時計をゼロにできないのだろう
    有り金はたいて買ったモノを売ってしまおう
    真新しい日をスタートさせる
    時計を完全に元に戻して
    彼女が戻ってくるかどうかわからないが
    僕はまっさらのブランドで考える

    howe1.jpeg・もう一枚一緒に買ったのはスティーブ・ハウの"Portraits of Bob Dylan"。ハウはYES のギタリストでそのテクニックのすごさで知られるが、彼がディランに心酔していることをこのアルバムで始めて知った。中身は全てディランの曲。それらをハウ自身はもちろん、何人もの人たちが歌っている。ハウらしい静かなトーンでつくられていて、それなりにいいと思ったが、しかし聴いているうちにディランのオリジナルが無性に聴きたくなった。
    ・あのエネルギー、あの鋭さ、あの節回しがなければ、どれもこれもただのフォークやロックのスタンダードになってしまう。ディランのカバーで今まで、あのザ・バンドを除いて、ディラン自身よりいいというものに出会ったことがない。彼の作った歌はその存在抜きには考えられないのかもしれないが、それは、思い入れの強い僕個人の感覚だけなのかもしれない。

    1999年10月13日水曜日

    「社会学」のレポートを読んでの感想

  • 今年担当している「社会学」には受講生が200人以上いる。ほとんどが1年生だ。僕は去年も追手門学院大学で1年生の「入門社会学」を担当していたが、東経大のコミュニケーション学部には社会学のプロパーが少ないから、自分の得意な領域だけを講義するというわけにいかなくなった。で、「近代化」を中心テーマに基本的な話をしている。ちょっと大変だと思ったが、文献にもふれてもらおうと夏休みのレポートも出した。
  • 4000字のレポート200人分というと本で5-6冊はある。回収して積み上げたらうんざりするばかりだったが、連休の週末に久しぶりに河口湖に行ったから、がんばって全部を読んでしまうことにした。おかげで、暖かくて天気も良かったのに、ほとんど出歩くこともなく、4日間をレポートの束を抱えて過ごした。読後感はというと、まじめに書いている学生がほとんどだったが、いつもながらおもしろいものは少ないというものである。
  • 本を読むこと、それについて書くことは、基本的にはどちらも「考える」ことである。しかし、考えている学生が少ない。何が書いてあるのか、作者は何が言いたいのか、それについて自分はどう思うか、何を考えたか、それをどのように書いたらいいか。他人の書いた文章を読むおもしろさは、ひとつはそんな書き手の思考の後をたどることだが、学生の書いたものには、そんな姿がほとんど見えないものが多い。
  • 理由はいくつかあると思う。第一はこの種の本をはじめて読んだということ。どう読めばいいのか、どうまとめたらいいのか、どう書けばいいのかわからないこと。第二は、そんなとまどいをレポートに書いてはいけないと判断したこと。何しろこれはグレードがつくレポートである。多少は知ったかぶりもしなければいけない。第三は、作者、あるいは内容と、読んでいる自分との間にもつはずの距離感。これは、共感するにせよ、違和感を感じるにせよ、読むという行為に欠かせないものだが、そんな意識が不在なのである。
  • 大学生が本を読まない、ということに、今さら驚きもしないが、大学に入ってくるまでに、この種の本を一冊も読んだことがない学生がほとんどだということには、ちょっと不安な感じがする。大学に入るためには当然、「現代国語」や「英語」の試験がある。どちらにしても、社会や文化、政治や経済をテーマにした長文が出されて、結構難しい設問が設けられている。それをクリアして合格するのだから、文章を読んで理解する力はあるはずだ。しかし、それは一冊の本というのではなく、高校の教科書と、何より入試の問題集や参考書で培われる。それは、ちょっと前から一般的になった小論文でも同様だ。
  • 受験の弊害といえばそれまでだろう。しかし、日本語はもちろん英語にしても、読むおもしろさ、書くことの意味をまるで経験しない、というよりは、つまらないもの、しかし、やらねばいけないものと思いこませてしまう現状は問題である。学生は本は高くてつまらないものと考えている。しかし、専門書だって、最近では文庫や新書で豊富に出されている。それになじんで自分の関心がはっきりしてくれば、高くて難しい専門書にだって、取り組んでやろうという気が起こるはずである。
  • 今は大学生にそこから動機づけをしなければならない。200人の学生にそのことを理解させるのは至難の業で、僕もそんなことを自分の使命にするつもりはない。けれども、本を読むこと、それによって考えることをおもしろいと感じる学生が、何人かでもあらわれればという期待を込めて、学生に本を読むことを勧めてみようと思う。レポートには、この課題をきっかけに、これからはもっと本を読みたいといったことを書いた学生がかなりいた。社交辞令か、いい子ブリッコかもしれないが、僕はこのことばを信じようと思う。
  • 1999年10月6日水曜日

    最近のテレビはおかしくありませんか

     

    ・大学に長くいてつくづく思うのは、最近、政治はもちろん、文化の新しい流れが大学からはまったく生まれなくなったということだ。今、社会の流れを敏感にキャッチして、新しい方向づけをする役割は、大学生ではなく、高校生や中学生の女の子である。
    ・白髪模様の頭に厚底サンダルで肌はこんがり小麦色。今年の夏はどこにいてもこんな高校生の女の子ばかりだった気がする。で、大学でも今頃になって見かけるようになった。何も高校生のまねをしなくてもと思う。茶髪頭の数と偏差値は反比例するといった説を何年か前に耳にして、経験的に確かにそうだなと納得したことがあったが、今は厚底サンダルでそんなことが測れるのかもしれない。
    ・こんな傾向を見ていると、今の流行の発信源には「アホで幼稚」な感覚が必要なのだとつくづく感じてしまう。たとえば、テレビにはものを知らない女の子たちを笑う番組がたくさんあって、よってたかって馬鹿にしたりしているが、彼女たちも知らないことを恥じたりはしない。とんちんかんな受け答えをしても、あっけらかんとしている。彼女たちは何より、テレビに映されただけで満足なのだ。トレンドはそんな女の子たちとテレビが共謀してつくりだす。

    ・ダスティン・ホフマンとジョン・トラボルタの『マッド・シティ』を見た。恐竜博物館にライフルを持って立てこもった男と、そこに潜入して独占中継を試みるキャスターの話. 犯人に同情したキャスターは、世論を喚起するためにシナリオを作成して、犯人に演技をさせる。失業、路頭に迷う家族、思いあまっての犯行.....。うまく行きかけるが、ライバルのキャスターの横やりがあって、犯人は自爆する。定番のメディアものだが、おもしろかった。
    ・世論も流行もメディアがつくりだす。今さら断る必要もないことだ。ただ、メディアは、かつてはそれを悟られないようにやってきたはずだが、今ではあからさまにやる。「サッチー」の話題はもう半年以上もつづいているが、僕にはいったい何が問題なのかいまだにわからない。長島巨人の「メイク・ミラクル」を読売系以外のテレビがあんなに煽った理由もわからない。コマーシャルやドラマの主題歌にしてヒット曲を出す、というのは昔の話で、今は番組の中で出演者に歌わせて、それを実際にヒットさせる、といったことをやっている。ヒッチハイクでの冒険旅行の中継が、すでに何人もの人気タレントをつくりだしたことは今さら言うまでもないだろう。台風の最中に岸壁に立たせ、台湾の地震では阪神大震災の反省もなくヘリを飛ばし、災害現場でわがもの顔に振る舞っていた。神奈川県警の腐敗ぶりを叱り、東海村の核の事故を批判する口調は激しいが、NHKも民放も、局内でのセクハラやトイレの覗きといった下品な話題にあふれているし、アイドル化した女子アナはまたスキャンダルの餌食でもある。

    ・テレビ俗悪論は放送の開始時点からあって、僕はそのような議論にはほとんど与しなかったが、最近は本当に俗悪、というよりは醜悪になったなと思ってしまう。かつて、テレビの制作者はテレビ番組が俗悪なのは視聴者がそれを望んでいるからだ、と居直っていた。しかし、今はそうではなく、テレビ自体が俗悪さをふりまいている。何より「アホで幼稚」なのは視聴者や登場して喜ぶ素人ではなく、テレビ番組をつくる側なのである。しかも、同じ顔が次の瞬間には社会の良心といった表情に豹変するから、よけいに始末が悪い。警察や核施設のいい加減さがルールやマナーの軽視、たかをくくった慢心にあるとすれば、同じことはメディアにだって言えるはずである。テレビは何でもできる。テレビといえば誰もがにじり寄ってくる。そんな意識にスポイルされている。
    ・そんなふうに考えると、あまり邪心もなく、自分の外見をさまざまに変えては面白がっている少女たちの行動には、かえってほほえましい感じすら覚えてくる。自分たちが面白いことをやれば、メディアが追いかけてきて、それを話題にしてくれる。だから、馬鹿にされたってかまわない。彼女たちからのこんな自己主張にはけっして「アホで幼稚」と片づけてしまうことができないものがふくまれている気がする。とは言え、ちょっと遅れてまねする「フォロワー」の女子大生には、目につくせいもあってか、やっぱり、何とかしてよと言いたくなってしまうのも正直なところである。

    1999年9月28日火曜日

    ロボット検索について


  • ぼくのHPにはいったいどんな人が訪ねてきているのか。どのページをよく見ているのか。これは前から気になっていることだが、実際にはよくわからない。それがチェックできる装置があるようだが、そんなものをつかってまで知りたいとも思わない。だから手がかりになるのはメールだけなのだが、もちろん、訪れた人が皆メールをくれるわけではない。たぶん、メールをくれる人は訪問者の1%ほどにすぎないのだ。
  • それでも、その100分の1の割合でしかないメールによって気づくことはいくつかある。見ず知らずの人から来るメールには、主に二つの種類があるが、そのちがいが検索エンジンによるものであることに最近気がついた。
  • 検索エンジンにはたとえばYahooのような登録制のものとロボット検索よるものの2種類がある。ぼくはYahooにしか登録していないが、その社会学の項目が最近、細分化されて、ぼくのHPはメディア論の欄に入った。一番上に眼鏡(注目)マークで載っているから、そこから来る人がかなりいるようだ。当然、Tシャツ入りの表紙(玄関)からの訪問ということになって、やってくるメールにも自己紹介があったり、僕のHPの感想があったりとパーソナルな感じがする場合が多い。
  • もう一つのロボット検索は、知らないうちにページの隅々までチェックをしてリストアップするものである。だから、そこから入った人はいきなり中のページの細かな字句、たとえば人名や映画や音楽や本の題名にやってくることになる。さがしものや調べものなどをしているせいか、メールも具体的な用件が中心になって、返事をせかしたりするのだが、このようなものに限って、どこの誰かも書いてない場合が少なくない。
  • これは前回も書いたのだが、大学が試験の時期(入試ではない)になると、名前はもちろん、どこの大学の学生なのかも名乗らずに来るメールがかなりあって、そのあまりに初歩的な質問と、依存的な文面にうんざりすることがかなりある。またこの手のメールは、返事を出してもそのままなしのつぶてで、僕の返答が役に立ったのかどうかわからないままになってしまうのがほとんどだから、最近ではほとんど無視することにした。礼儀知らずもいい加減にしろとメールに向かって何度怒鳴ったことか。
  • もっともマナーの悪さは、インターネットの仕組みに原因があるのかもしれないという気もしている。検索エンジンはインターネット上の無料のサービスとして誰もが使うことのできるものである。だからそこから見つけたHPにもまた、それなりのサービスを要求して当然だという感覚を持つのはわからないことではない。現実にはHPは誰もがボランティアとして参加しているのだが、それは、自分でHPを公開してみなければわからないことなのかもしれない。
  • そんなふうに考えると、ロボット検索はありがた迷惑なことのように思えてくる。実際何でも検索項目にリスト・アップされてしまうのだから、うかつに名前などは載せられないと自己規制をしてしまうこともある。消去し忘れた何年も前の講義予定についての質問が突然来たこともあって、HPのフォルダの中はいつでも整理して、用のないものは残しておかないようにしなくては、などといったプレッシャーも感じてしまったりする。
  • このようにロボット検索による訪問は、家の中に他人が断りなしに入ってきたような感覚がして僕は好きではないのだが、これがなければできなかったようなつながりも同時に認めなければいけないことがある。
  • 以前に僕のディスコグラフィーのページに載っているシンニード・オコーナーのCDを買いたいと書いたメールがフィンランドから来たことを紹介したが、最近でも別のミュージシャンのCDを売ってくれというメールがアメリカからやってきた。売る気はないから断ったが、こんなふうにしてできるつながりにはおもしろさを感じてしまう。シェリル・クロウの横浜でのコンサート・チケットが余っているから買ってもらえないかというメールもあって、買いはしなかったが、それはそれでおもしろいと思った。
  • HPとメールを公と私の関係の中で見るのはなかなか難しい問題だが、断りなしの検索ロボットの侵入や匿名のメールは、規則というよりはマナーとして自粛してほしいと思う。
  • 1999年9月21日火曜日

    『スポーツ文化を学ぶ人のために』の紹介

     井上俊・亀山佳明編著、世界思想社 

    ワールドカップやオリンピック、それにメジャーリーグやセリエAなど、関心をもたれるスポーツの多様さは驚くほどですが、そういう状況についての分析は多くはありません。しかし、スポーツについて考えることがおもしろい時代になっていることはまちがいないでしょう。この本は、そんな時代に応えた、スポーツと文化と社会について考えるための入門書です。

  • ぼくはここでも「スポーツとメディア」という題目を与えられて、MLBを中心に、新聞やラジオ、そしてテレビの関係を調べてみました。で、アメリカのプロスポーツの発展や変容がラジオとテレビ抜きには考えられないことを再確認したわけです。
  • もちろん、この本によってあらためて知ることや考えることはほかにもたくさんあるはずです。しかし、詳しく説明するスペースはありませんから、目次を載せておきます。書き手は体育学と社会学を専門にする人たちですが、難しい学術書ではありませんから、おもしろく読めるのではないでしょうか。
    序論:文化としてのスポーツ(井上俊)
    I:スポーツ文化のとらえ方
     現代スポーツの社会性(内田隆三) /ナショナリズムとスポーツ(吉見俊哉)
     スポーツとメディア(渡辺潤) /スポーツと暴力(池井望)
     スポーツする身体とドーピング(亀山佳明)
    II:現代のスポーツ文化
     スポーツとジェンダー(伊藤公雄) /スポーツ・ヒロイン(河原和枝)
     スポーツファンの文化(杉本厚夫) /スポーツと賭(小椋博)
     体育とスポーツ(松田恵示)
    III:スポーツと現代社会
     スポーツのグローバリゼーション(平井肇) /文化のなかのスポーツ(黄順姫)
     ポストモダンのスポーツ(L.トンプソン) /スポーツと開発・環境問題
     スポーツと福祉社会(藤田紀昭)
    IV:スポーツ文化研究の方法と成果  理論的アプローチ(菊幸一)
     実証的アプローチ(清水諭)
  • なお、もっと詳しい紹介や質問、あるいは感想については、直接出版者にお訪ねください。
  • 1999年9月15日水曜日

    田家秀樹『読むJ-POP』徳間書店

     

    ・僕は日本のポピュラー音楽はほとんど聴かない。特に最近はそうだ。だから、Grayが20万人集めたとか、誰それがドームをいっぱいにしたとかいわれても、何のことやらさっぱりという感じでいる。もちろん何人かの気になるミュージシャンはいて、その人たちのCDは買ったりしているが、はっきり言って、聴くにたえるものがほとんどないと思っている。それが、最近「J-POP」なることばをがよく使われ、佐藤良明の本が話題になりはじめた。いったい「J-POP」とは何か?

    ・国産のポピュラー音楽はずっと、洋楽と区別して「和製ポップス」と呼ばれてきた。「ポップス」は「ポップ」の複数形だが、これは和製英語で、日本以外では使われない。なぜ日本人が複数形にして使ったのか。いきさつはわからないが、POPが意味するものとはちょっと違うという気持ちがあったのかもしれない。実際、ビートルズから派生したGS(グループ・サウンド)にしても、フォークやロックから転じた「ニュー・ミュージック」にしても、基本的には何かのコピーで、よく言えば日本風のアレンジをしたものだが、要するにほとんどは模造品にすぎなかった。どんなサウンドが流行しても、はやる音楽をつくるのはその都度数人の売れっ子作曲家や作詞家、あるいはアレンジャーで、生まれるというよりはつくられる音楽と印象が強かった。

    ・ポップスからSをとってJをつける。それはもう一つの亜流品という自己卑下的な位置づけからオリジナリティのある日本のポップになったという自信の表明なのかもしれない。何しろ、日本の音楽産業の規模はアメリカに次いで世界第二位であり、人気ミュージシャンがコンサートをやれば、ドームを何日も満員にするほどなのだから、そんな意識の変化も理解できないことではない。しかし、その中身はどうなのだろうか.....。

    ・田家秀樹の『読むJ-POP』は戦後から現在までの日本の流行歌を丁寧におった内容の本である。読んでいて気づいたことは、ある年代まではほとんど意識的に聴いたことはなくてもその歌を知っているということ。もう一つは、ほとんど著者と僕が同世代であること、住んでいた場所もおなじ、というよりは、同じ中学の2年先輩だったことだ。当然、10代の心像風景は大きく重なりあっているし、その後の時代についても共有できる経験は少なくない。にもかかわらずそれから後、つまり20代の後半あたりからは、二人の関心は大きくずれはじめる。著者の関心は日本の音楽に向き、僕は洋楽ばかりになるのだが、そのちがいは何で、どこから来たのだろうか?

    ・ひとつは著者が東京にいつづけて雑誌の編集やラジオの放送作家、あるいは音楽評論家といった仕事をしてきたことにあるのだろう。仕事柄、否応なしに新しいミュージシャンやタレントに関心を向けざるを得なかったはずだ。僕は京都に移って大学院に進み、研究者になった。音楽には興味を持ち続けたが、その対象は流行や売れ筋というよりは自分の気持ちや意識にしたがって選ばれたものだった。

    ・誰でも、30歳に近くなればテレビやラジオに出るタレントやアイドルには関心がなくなる。若者の意識とはずれてくる。80年代以降の日本の音楽に僕が疎いのはそこが原因かもしれない。けれども、僕は同時に洋楽の新しい音楽的な流れにはずっと興味を持ってきた。新しく生まれてくるものには、それなりの社会的は意見が感じられたからだ。そこから見ると、アイドル・ブームやバンド・ブームなどには、レコード会社や芸能プロダクション、そして何よりテレビの仕掛けを嗅ぎ取らざるを得なかったし、CMやドラマの主題歌がヒットするといった構造と、誰もがそれに乗ってしまうといった腰の弱さも気に入らなかった。ちょうど政治が永田町の町内ゲームであるように、日本の音楽の流れも結局のところ、東京のメディアの周辺でつくられている。関西に住んでいると、そんな構図がよく見えるような気がした。

    ・とはいえ、やっぱり歌は世につれ、世は歌につれといった一面も、もちろんある。『読むJ-POP』はそれを個人の私的生活歴、たとえば離婚と主夫生活などといった話を織り込みながら書き進んでいる。単なる戦後の歌謡曲史ではなく読めたのは、そんな著者のスタンスのせいなのかもしれない。おかげで、後追いにはなるが、J-POPなる音楽を聴き直してみようかという気も、ちょっぴりわきあがってきた。

    1999年9月1日水曜日

    河口湖で過ごした夏休み



  • 来年の3月から住む河口湖の家で、夏休みの間だけ生活をした。気温はめったに30度をこえないし、朝晩は肌寒い感じさえする、とても過ごしやすいところだった。別荘での避暑生活というのがどういうものかをはじめて経験した。ただ、しばらく過ごしては京都や東京に行くことをくり返したから、その時に感じた暑さはまた、経験したことのないすさまじいものだった。何しろひどいときには気温差が10度もあって、すぐにでももどりたくなってしまった。

  • お客さんもずいぶん訪ねてきた。東経大の学生、追手門学院大学の卒業生、元同僚、友人・知人たち、両親、弟と義兄のそれぞれの家族、高校生の息子とその友達。最後は追手門のゼミ合宿。家は赤松林のなかにあって、庭には大きなブナ(?)の木が2本ある。その葉が生い茂って日光を遮っているから、バルコニーでの読書は気持ちがいい。夕方からは毎日焚き火で、枯れ枝はいくらでもあった。


  • その焚き火だが、火の前では、ちょっと気分が変わって、おもしろい話ができて、夜が更けるのも忘れるほどだった。シャンパンにワイン、それにビール。煙で燻された干物や肉やトウモロコシはうっすら薫製の香りと味がしたから、飲んで食べて喋って笑っての毎晩だった。

  • もちろん引っ越し前だから、不便のところもたくさんあった。新聞は毎朝コンビニまで自転車で買いに行ったし、調達した古い14インチのテレビは見えるチャンネルが限られていた。メールもAOLは山梨県には接続ポイントがなくて八王子に繋がねばならなかった。しかし、当たり前だが、新聞もテレビもインターネットも、どうしても必要なものだというわけではかならずしもない。そんなことを久しぶりに感じた。

  • そのかわりに味わったのはきわめて健康的な生活。朝は日の出とともに目を覚まして、散歩や時には長いサイクリング。河口湖1周も1時間半もあればできた。週末は別だが、周辺には、ほとんど信号のない道路、急な山坂道がたくさんある。車はもちろんだが、ついついバイクを走らせたくなってしまう。そんなわけで、仕事をする気になったわけではないが、午前中の時間の長さをあらためて実感した。実際に引っ越しをして、日常生活が始まったらどうなるかわからないが、「ライフスタイル」を変えて人生の転機にしたいという思いは実現しそうな気がした。

  • 残念ながら来年の春までは、めったに来られそうにないから、秋や冬を味わうのは1年後ということになる。周囲の人たちは、冬の寒さを考えると住む気にはならないと言う。そうかもしれないが、それもまたいいじゃないかと、僕はたかをくくっている。居間には薪と灯油のストーブが並んでいて、家の中では真冬でもTシャツで過ごせるのだから。
  • 1999年8月25日水曜日

    郭英男(Difang)Cicle of Life

     


    difang1.jpeg・何年か前にテレビで聴いて気になった歌があった。米が不作で外米を強制的に食べさせられた年があって、その翌年に「ニュースステーション」が米作の特集をした。その時のテーマ曲。誰の歌かわからず探しようもなかったのだが、同じテレビ朝日の「車窓」という番組が台湾の鉄道をやったときに偶然聴くことができた。
    ・その歌を歌うのは郭英男、台湾先住民の一部族「アミス」に属し、そこに伝わる伝承歌を歌い継ぐ人である。手に入れたCDには確かに聞き覚えのある曲が入っていた。「老人飲酒歌」という題名で、長老が集まって豊年祭の儀式をはじめる前に歌う歌と説明されている。郭英男は1921年生まれというから現在78歳、まさに「アミス」の長老である。
    ・僕はテレビではじめて聴いたときに、歌っているのは沖縄の喜納昌吉ではないかと思った。もちろん彼が出したアルバムには見つからなかったが、あらためて郭英男のCDを聴いて沖縄の音楽との共通性を感じた。声の肌理(きめ)、節回し、残念ながらアレンジは妙にイージー・リスニング風だが、それでも、あらためて、その地理的な近さを確認した。


    difang2.jpeg 彼らが台湾に上陸したのは既に1万年以上も前のことである。南方より彼らを運んだはずの黒潮はフィリピン東方に発しほぼ5ノットの速さで台湾、そして日本列島にそって北上する。………このような先住民のなかで、もっとも歌と踊りに秀でた部族がDifangたちアミスである。

    ・文字を持たないアミスにとって、部族の歴史や知恵、生きる世界を物語り、伝承するのは歌である。収録されている歌にはそれぞれ「訪問歌」「階層歌」「恋愛歌」「労働歌」「悲しみの歌」「タニシ拾いの歌」「契りの歌」「友人歌」「収穫の歌」「老人飲酒歌」といった名前がついていて、部族の人びとにとっては単なる歌以上の意味をもっているものである。言葉のわからない僕には理解しようがないが、サウンドとして聞こえてくるものには、なじみ深さと新鮮さが混在した印象をもった。
    ・沖縄、アイヌ、ハワイ、あるいはポリネシア、そしてもちろんフィリピンやマレーシアやインドネシア。そんな太平洋の島々を黒潮に乗って移動した人びとの歌。それはたぶん僕の血のなかにも流れているはずのもの。テレビではじめて聴いたときにもった関心はたぶん、そこから来たものなのだろう。
    ・なお、郭英男のホームページもあるので、関心のある人は彼の写真をクリックして訪れてほしいと思う。

    1999年8月18日水曜日

    Woodstock Live 99

     

    ・「ウッドストック99’」をWowow で見た。7月23日から3日間、ニューヨーク郊外の空軍基地ローマで開催されたものだが、Wowowがそのほとんどを8月7日から12日にかけて放送した。ぼくはもちろんすべてにつきあったわけではないが、おおよその雰囲気はわかった。新聞では、火をつけて暴徒と化した聴衆に、30年前の「愛の祭典」との落差を見るものが多かったが、いかにもとってつけたような解釈だと思った。
    ・そもそも「ウッドストック99’」はどんな趣旨で催されたのか。たとえば、30年前に登場したミュージシャンがほとんど出ていなかったし、このコンサートに政治や社会に関する何らかのメッセージが掲げられたわけでもなかった。夏には恒例になった大野外コンサートのなかでも、とりわけ規模が大きいもの。ぼくは最初からそんなつもりで開催の話を聞いたし、実際にコンサートの模様を見ても、出演者にも聴衆にも、それ以上の思い入れがあったようには見えなかった。何しろ、演じる者も聴く者も、その大半はウッドストック以後に生まれた人たちばかりなのだから、何かつながりをつけようとすること自体が不自然なのだ。

    ・見ていて特に目立ったのが「裸」。ステージから遠く離れたところにいくつもの小さなステージ(?)があって、そこに乗った女の子が男たちにそそのかされてブラジャーをはずし、パンティを脱ぎ、場合によっては足を広げてお尻を振る。ストリップ・ショウそのものの光景があって、テレビではモザイクつきだが、その様子を頻繁に映していた。裸になっているのはそればかりではない。ステージに近いところでは、女の子が男の子に肩車をされて、やっぱりブラジャーをはずしている。群衆の上を滑るクラウド・サーフィンをする男の子や女の子たちも上半身はほとんど裸で、女の子はどさくさに紛れてオッパイをつかまれたりしている。「レッド・ホット・チリ・ペッパーズ」のメンバーは一人素っ裸で登場し、時折ギターの脇からオチンチンを見せていたが、そんな彼も見るに見かねたのか「オッパイが近くに見えるからって勝手にさわるな!女の象徴なんだからもっと大切にしろ!」といったことを言っていて、ぼくは笑ってしまった。彼らのパフォーマンスの途中から、焚き火が手に負えなくなって消防車が出動ということになったが、主催者が落ち着くようにアナウンスした後で「レッド・ホット・チリ・ペッパーズ」がやったアンコール曲は「ファイアー」だった。これでは、火は消えるはずはない。

    ・この30年のあいだにロックのサウンドはずいぶん変わったが、それ以上にメディアなどのテクノロジーの革新はめざましい。何しろ、アメリカでのコンサートがほとんど時間差なしに、しかもその全体を見ることができるのだから。ずいぶん手軽になったが、それだけ、感激も、思い入れもなくなった。ただあるのは、その気になって楽しむこと。サウンドシステムの進化は言うまでもないが、場内には大きなテレビモニターがあって、ステージの様子は遠く離れた人にも手に取るように分かる。カメラが聴衆に向けられると、彼や彼女たちは「クラウド・サーフィン」や「肩車」をしてパフォーマンスをする。その呼び物が「オッパイ」の露出というわけである。
    ・30年前のフェスティバルに出演したミュージシャンが聴衆の印象を聞かれて、「明るくて、元気だし、未来があると思った」と答えていた。ずいぶんおめでたい感想である。「コンサート」という場だから、誰もが明るく楽しく振る舞っている。「状況」をそれなりに楽しむすべは最近の若い人たちの得意技である。だからといって、彼や彼女が未来を明るいものと感じているとは言えない。むしろ、日常の不安やストレスを忘れるために、つかの間だけでもスカッとするためにロックで盛り上がる。その落差こそ、30年前にはなかった感覚のように思った。

    ・8月21日に岐阜県で「フォーク・ジャンボリー」が開かれるそうである。日本のウッドストック「中津川フォーク・ジャンボリー」の再現で、こちらは当時の出演者が主体のようだ。どこかのTVが中継してくれたら見ると思うが、懐メロ大会だけにはしてほしくないなと心配している。「ノスタルジー」以外に伝えるものがないのなら、ぼくには張り切ったオッパイの方がまだ見ていて楽しい気がするからだ。

    1999年8月11日水曜日

    F.キットラー『グラモフォン・フィルム・タイプライター』筑摩書房

     

    ・ 久しぶりに読み応えのある本に出会った。450頁で5800円。値段もいいが重みもある。けれども僕は、この本をもって新幹線を2往復した。それほど読みたい気にさせた本だった。

    ・『グラモフォン・フィルム・タイプライター』、つまりこの本はレコードと映画とタイプライターについての本である。レコードと映画はともかく、タイプライターは今までほとんど注目されることはなかったから、本を見つけたときには新鮮な感じがした。

    ・ワープロが日本で使われはじめたとき、手書き文字の良さと比較した批判や、鉛筆やペンで紙に書くこととはまったくちがうやり方に、文体はもちろん、思考の仕方までかわってしまうと危惧する意見が多く出た。字が下手で筆圧が強い僕には、そんな話は耳にも入らなかったし、文語体の硬い文章がなくなれば、もっともっと読みやすい文章が現れるだろうと思った。

    ・この本を読むと、そんな議論が一世紀も前にタイプライターの登場とともに行われていたことがわかる。書くことを独占していた男たちの多くは、この新しい道具になじむことには消極的で、キイボードに慣れた女性たちが秘書などとして職を得るきっかけになったようだ。一世紀という時間を経て、日本ではパソコンが同じような仕事内容の変化をもたらしている。パソコンとは何より「タイプ文化」なのであった。


    何とも皮肉な話だが、基本的には男性ばかりであった19世紀の帳簿係、事務員、作家の助手たちが、苦しい訓練を経て修行した彼らの手書き文字にあまりに誇りを抱いていたので、レミントンの侵略を七年の間うかうかと見過ごしてしまった。


    ・おもしろい話は他にもたくさんある。目の悪かったニーチェが1882年にタイプライターで詩を書いたこと、89年に出版されたコナン・ドイルの『アイデンティティの事件』では、シャーロック・フォームズがタイプライターのトリックを見破っていることなど。あるいは、精神分析学をはじめた S.フロイトが明らかにした「無意識」が、フォノグラフに出会うことで発見されたという話などは、まさに、目から鱗という感じで読んでしまった。


    精神分析家は、自分の耳にいわば魔法をかけて、それをあらかじめ技術的な道具にかえておかなければならない。他者の無意識がもたらす情報をふたたび抑圧したり、選別してしまったりしかねない。………そうした患者たちを見る医師はだが、理解しようとすることによってこの無意味を何らかの意味に戻してしまってはいけない。


    ・フォノグラフは音をそのまま記録する。決して取捨選択したり、意味づけたりはしない。フロイトは1895年にいち早く電話を診療所に置いたそうだ。他人の心を解釈なしにそのまま表出させること、フロイトはそのような方法の可能性を電話にも見つけている。「無意識の振動は電話のような装置によってしか、これを伝えることができない。」彼はその無意識のありかを心ではなく「心的装置」と呼んだ。


    ・ビートルズのレコードはアビー・ロードにあるEMIのスタジオで作られたが、その装置はドイツ軍から没収した磁気テープをもとに作られたテープレコーダーだった。そのほか、ヒトラーが演説のために作らせた音響システムとロックコンサートでのそれとの類似性、あるいは、ハイファイ・システムと戦闘機や潜水艦の関係などなど......。メディアの世紀が世界大戦の世紀であったこともまた、この本は確認させてくれる。

    1999年8月4日水曜日

    富田英典・藤村正之編『みんなぼっちの世界』恒星社厚生閣

     

    ・「みんなぼっち」とは聞き慣れないことばだ。この本を手にしての第一印象はそんな感じだったが、どんな意味だろうかと、ちょっと興味も持った。


    じめじめした人間関係は嫌いだけど、ひとりぼっちになるのも嫌だ。ありのままの自分でいいという思いと、得体の知れない他人とつきあう際の不安との間の葛藤を処理するのが、<みんなぼっち>という形式だと言えよう。


    ・最近の若い世代の人たちの自己感覚、人間関係の特徴である。確かにそうだ。たとえば、僕がつきあう学生たちの中には、放っておけば、たがいに親しくなる努力をしない。しないと言うよりは、どうしていいかわからないように見える人たちが目立つ。意見を言ったり議論をしたりするのも苦手のようだ。号令をかけたり、強制したりしなければ、いつまでも<ひとりぼっち>のままでいる。

    ・ところが他方で、彼らは、頻繁に携帯電話でどこかの誰かと連絡を取り合っている。HPの掲示板なども好きだし、コンパなど場を設定すれば、盛り上げるように努力する。ここでは<みんな>になることに賢明なのだ。<ひとりぼっち>でいることと<みんな>であることのジレンマ。それは今にはじまった自己感覚や人間関係の特徴ではないが、その性格には確かに今までとは違うわかりにくいものがある。

    ・<ひとりぼっち>になることは、自分が自分であることの確認のために欠かせない。他人とは違う私、つまり「アイデンティティ」の獲得には、それを遮る他者を乗り越えること、あるいは逃げることが必要になる。<ひとりぼっち>には単に物理的に一人になることばかりでなく、他人との違いを公言することも含まれる。

    ・けれども、現代の若者には、自分を遮る他者はいない。物わかりのいい親、少ない兄弟姉妹。親戚や近所の口うるさいおばさんや、怖いおじさんの消滅。限りなく広く浅くなる友達づきあい。「困難をバネにアイデンティティを獲得する方法」が閉ざされていれば、関心の中心は自然と排他的な形で自分自身へ向かうことになる。けれども、他者の評価のない自己確認はまた、きわめてうつろなものにしかならないから、関心の矛先はまた、他人にも向かわざるを得なくなる。そこで………。


    自分の生き方が危うい均衡の上にかろうじて成り立っていることがわかっている時、しばしば人は、なおさら強固にその部分を防衛しようとする。現代の若者たちにも、他者への強い関心をもち、かつ自分の生き方が不確かであるからこそ、互いのあいだにプライバシーを保護するための距離を厳格に取ろうとするのではないだろうか。

    ・この本には、親しい友達づきあいのような情緒的人間関係(第一次的)と公的な場での役割的人間関係(第二次的)のあいだに、いわば 1.5次空間と呼ばれるような関係が指摘されている。それはパソコン通信やテレクラ、ダイヤルQ2といったメディアによって成り立つ場だが、携帯もふくめて、現実に顔をつきあわす場、あるいはその場の脚色、そしてメディアによるつながりが、それぞれどういう特徴を持つのか考える上で面白い視点だと思った。

    ・賛成できる視点をもう一つ。「アイデンティティ」というと他人とは違う確固としたもの、個性的なものと考えがちだが、その形成期である「青年期」を「19世紀から20世紀初頭にかけて生成し、20世紀後半に終焉をむかえている現象形態」とするところ。21世紀には人はどんな自己感覚と人間関係を基盤に生きていくのだろうか?僕は強い自己主張に慣れた世代の一人だから、そんな想像はおもしろくもあり、また恐ろしくもあるように感じる。

    1999年7月28日水曜日

    メールを通じて届いたミニコミなど


  • 最近安直な相談をしてくるメールが相次いでいる。たとえば、レポートの課題について、どんな本を読んだらいいのかわからない、といったもの。これは文面から授業を聞いていないことがありありで、受け取った方としては、それこそ「ムカ」ついてしまう。もちろんどこの誰かも書いてない。HPがこんな学生を助ける道具になってはかなわないから、僕は返事を出さないことにしている。本当は叱ってやりたいところだが、よその学校の生徒をそんなところまで面倒見る気はない。
  • これほどひどくはないにしても、とにかく、ごくごく初歩的な相談が多い。図書館でちょっと調べたらわかること、大きな本屋さんの棚をひとめぐりしたら見つかりそうなことを、恥ずかしげもなく聞いてくる。この人たちには、受け取る者がどう思うか想像する力がないのだろうか。まったく失礼な話だが、たぶん、そんなふうに指摘されてもピンと来ないに違いない。
  • もちろん、楽しくなるメールもある。
  • 一つはアラニス・モリセットのHPを作っている吉本さんから。HPに載せた僕のコンサート・レビューを読んでメールをくれたのである。彼女のHPのタイトルは「Alanis World」。一見したら、彼女がどれだけアラニスを好きかということがよくわかる。興味のある人にはぜひ訪ねてほしいと思う。あと、トム・ウェイツのレビューを読んで、本を紹介してくれた人もいたし、『ピンク・フロイド 幻燈の迷宮』(八幡書店)の著者である今井壮之助さんから、文献リストの中に入れて下さいというメールをいただいた。こういうメールがもっとあるといいなと思う。
  • もう一つは『雨 花 石』(yu-hua-shi)というミニコミを出版している竹本さんから。ミニコミには個人や小集団のメディアとして長い歴史があって、僕はそれをテーマに調べたり考えたりしたことがある。60年代や70年代のにぎやかさを頂点にして衰退し、ホームページの出現によってその役割を終えたようにも感じていたが、今でも、その有効性を評価して作っている人がいることをあらためて知らされた。
  • 『雨 花 石』は投稿誌のようだ。月間で11号まで出ている。年間購読料は3000円だが、5000円に値上げするようだ。カラーのページもあって、内容も盛りだくさん。商業雑誌と違ってミニコミには広告収入はほとんど期待できないから、けっして高くはないと思う。今月号の特集は「どんなふうになってたい?!」
    27さいで再び学生になった。なんでそうなったかは自分でもよくわからないが、とにかくそうなった。授業料や生活費をかせぎ出しつつ授業に出る。授業ではギャルたちと机を並べる。ギャルたちの笑いさざめく声………。ギャルは素敵だ!!
  • 僕が所属する学部でも今年から大学院を新設した。何人もの社会人が入学してきたが、僕のところにも、高校の先生が一人勉強に来ている。先生の仕事がすんでからの学生生活。しんどそうだが、楽しそうだ。現役の学生よりもはるかに勉強もして、生き生きした感じがする。「どんなふうになりたいか」という気持ちは、若い人だけの専売特許ではない。
  • 投稿には長いものも短いものもある。「爬虫類観察日記」「走りの遺伝子」(バイク乗りのツーリング劇場)「朝日池総合農場」(大地を感じる農場のページ)「飛行機写真家日記」「予備校教師で悪かったな」。活字に手書き、マンガやイラスト、写真等々………。その多様さと登場人物の多さから、このミニコミが人びとのつながりやコミュニケーションの場になっていることがよくわかる。
  • この雑誌にはHPの日記や掲示板、あるいはチャットのような雰囲気が感じられる。HPのような雑誌なら、HPの方が簡単で安上がりなのにと思ってしまうが、竹本さんはデジタルではなくアナログの雑誌が持つ魅力を信じている。『雨 花 石』を手にすると、そんな気持ちが伝わってくる気がする。関心のある人は掲示板によるやりとりも行われているようだから、訪問したらいいと思う。
  • 1999年7月22日木曜日

    Soul Flower Union "Ghost Hits93-96" ,"asyl ching dong" "marginal moon"


    sfu1.jpeg・Soul Flower Union(SFU)というバンドの存在は、去年京都の大学で「ポピュラー音楽とメディア」をテーマに講義をしたときに、学生から教えられた。講義の後で、僕が話題にしたU2のコンサートに高校生の時に行きましたとか、京大の西部講堂の話などをしたが、彼はレポートにSFUを日本で最高のロック・バンドだと書いた。僕はその学生のレポートに興味を持って、ぜひ聴いてみたいと思った。
    ・忙しくて忘れていたが、数ヶ月前に梅田のTower Recordに行った折りに思い出して探してみるとCDが何枚も出ていて、どれを買ったらいいのか迷ってしまった。で、とりあえずはBEST盤など3枚を買うことにした。
    ・聴いての第一印象は喜納昌吉によく似ているなという感じ、それにチンドン屋と民謡と、明治の演歌、ちょっとアイリッシュの雰囲気もあって、雑然としてると思った。しかし、言葉を聞いているとなかなかおもしろい。最近流行の横文字混じりでほとんど無意味な歌詞の歌とは違うなと感じた。『満月の夕』とか『復興節』などには、阪神大震災を連想させることばがあって、特に気になった。


    sfu3.jpeg 風が吹く 港の方から 焼けあとを包むようにおどす風
    悲しくてすべてを笑う 乾く冬の夕
    ヤサホーヤ うたがきこえる 眠らずに朝まで踊る
    ヤサホーヤ 焚火を囲む 吐く息の白さが踊る
    解き放て いのちで笑え 満月の夕

    ・『ソウル・フラワー・ユニオン、国境を動揺させるロックンロール』(東琢磨編、ブルース・インターアクションズ)には、彼らが神戸の被災地を回ってコンサートをやるようになった経緯やその様子が詳しく書かれている。それを読むと、彼らが依って立つ場所や作るサウンドの意味がよくわかる。

    sfu2.jpeg というのも彼らが頻繁に演奏することになった特に被害が深刻な長田などの地域は、神戸の中でも沖縄出身者、在日コリアンなどが多く住むメルティング・ポットだった。そこに住む人々の故郷を思う気持ちを演奏でくんでいこうとするうちに、楽器の編成にも音楽性にも現場のリアリティを反映する形でさまざまな民族性がミックスされたのである。p.22

    ・ミックスされたのは民族性だけではない。ロックは現在でも基本的には若者の音楽だが、被災地で聴くのはお年寄りや子供たち。当然昔懐かしい曲や、童謡がリクエストされる。彼らを励ますためには自分たちの音楽の自己主張ではなく、聴きたいものをやらなければならないから、回を重ねるごとに SFUの音楽は変化をせざるを得なかった。

    sfu4.jpeg・SFUは「ニューエスト・モデル」と「メスカリン・ドライブ」という二つのバンドが合体してできた。しかし、神戸の被災地を回る際にメンバーの都合や楽器編成の必要などで、「SFモノノケ・サミット」として活動し、CDも作っている。そのような緩やかなまとまりがまた、サウンドの土台になっている。
    ・バンドのリーダー的存在である中川敬は音楽のテーマをについて「日本人である自分たちにとって地に足のついた音楽とは何か」と言う。それは、日常を生きる人々の集まりから生まれる。世代も出身地も民族も違う人々が雑多に行き交うストリート、SFUのロックはそこからエネルギーをもらい方向性を与えられた音楽に他ならない。彼らにとっての日本のロックは、閉塞した世界に安住するJポップとは違って、日本にこだわりながら、異質なものとの交流や影響の可能性に開かれている。