2015年1月26日月曜日

最後のピンク・フロイド?

 

  • Pink Floyd "The Endless River"

pinkfloyd1.jpg・ピンク・フロイドのアルバムはほとんど持っている。ただし、もうずいぶん長い間、めったに聴くこともなかった。たまたまアマゾンで見かけたら、最後のピンク・フロイドという説明が気になって買うことにした。
・ピンク・フロイドのアルバム・デビューは1967年だが、ヒットしたのは翌年出した『神秘』(A Sauceful of Secrets)で、それ以降「プログレッシブ・ロック」というジャンルを作り出してヒット作を連発した。2012年時点でのレコード・CDの売り上げは2億3000万枚に達している。

・僕がピンク・フロイドに興味を持ったのは70年に発表された『原子心母』(Atom Heart of Mother)からである。もう45年も経ったのかと思うが、実際によく聴いていたのは71年の『おせっかい』(Meddle)、73年の『狂気』、75年の『炎』(Wish You Are Here)、77年の『アニマルズ』(Animals)、79年の『ザ・ウォール』(The Wall)あたりまでである。

・ピンク・フロイドは、メッセージが主のフォーク・ソングや強烈なエネルギーを発散させるロックと違って、ソファーやベッドに寝転がって、瞑想状態のようにして聴く音楽を作り出した。欧米ではマリファナ等とのセットで聴かれたようだが、それなしでもドラッグ文化の一端がわかる音楽だった。

・自然や宇宙、そして人間の心をテーマにしながら、他方でテクノロジーの最先端を行く。それはまさにパソコンやネットを作り出した人たちと大きく重なる世界を作り出していた。ピンク・フロイドがもっとも精力的だった時期はまた、ジョブズに代表される「サイバー文化」の勃興期でもあったのである。

・ピンク・フロイドは1983年に発表した『ファイナル・カット』(The Final Cut)でリーダー格のロジャー・ウォーターが終結宣言をしたが、残りのメンバーがデビッド・ギルモアを中心にピンク・フロイドとして活動を続けて、裁判沙汰にもなっている。僕はそのウォーター抜きのピンク・フロイドを88年に大阪城ホールで聴いた。大きな豚がアリーナを舞う仕掛けがあって、ピンク・フロイドの世界を十分に堪能した記憶が残っている。

・ピンク・フロイドはその後も活動を続けていて何枚ものアルバムを出している。僕はもちろん、そのほとんどを持っているが、やはり印象としては薄い。ただしライブ盤はなかなかいいし、ギルモア単独のアルバムも悪くない。

・で、最後のアルバムと言われる"The Endless River"だが、新たに録音されたものではなく、2008年に死んだキーボード担当のリチャード・ライトへの追悼という意味合いがあって、彼が参加している過去の曲などを集めたもののようである。インストルメントだけの曲がほとんどで、録音された時期もまちまちのようだ。だから聴いた印象は薄いと言わざるを得ない。新しい作品と言うよりは追悼という意味合いが強いのだから、仕方がないのかもしれない。

2015年1月19日月曜日

京都「ほんやら洞」が燃えてしまった!

 

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・朝起きると、京都の「ほんやら洞が全焼」という記事。いろいろ探すと店の入り口が見るも無惨に焼けた画像や、真っ赤に燃えさかる最中の画像が見つかった。もう「うわー」ということばしか出なかった。

・僕が「ほんやら洞」に入り浸っていたのは、もう40年以上も前のことだ。「関西フォーク」や「対抗文化」の西の拠点として、いろいろな人が集まり、コンサートや詩の朗読会、あるいは政治的・社会的なテーマのミーティングなどが開かれた。2階には長年マスターを務めてきた甲斐さんの蔵書や、彼が写してきた写真、さまざまな人からの贈書や、貯められてきた資料などがあって、誰もが手にすることができた。そんなものがすべて、灰になってしまったようだ。

・ネットに載っている新聞社の記事の多くには「文化発信拠点の名物喫茶店」とか「伝説の喫茶店」といったことばが書かれている。確かにそうなのかもしれなかったと思う。ただし、それは後から尾ひれがついて「名物」や「伝説」といったことばで形容されたからで、一番にぎやかだった70年代だって、活動は店の規模同様にきわめて小さなもので、大きなイベントなどで話題になったわけではなかったように記憶している。

・とは言え、定期的におこなわれた詩の朗読会は『ほんやら洞の詩人たち』(晶文社)にまとめられたし、中山ラビや古川豪、そして豊田勇造といったミュージシャンも育った。店はベトナム反戦運動に参加していた人たちが岩国基地前に「ホビット」という名の喫茶店を作った後に、手作りされた。人を当てにせずに自分たちでやる。これが、この店のルールになった。だからまだ意識されはじめたばかりの「フェミニズム」や「環境問題」「食」等を議論する集まりの場になったし、スリーマイル島の原発事故の後には「反原発」運動の拠点にもなった。一つ一つは地味だが、今なお問われ続けている問題に、いち早く気づいて動こうとした人たちが集まる場所だった。

・ただし、そんなにぎやかさも80年代後半ぐらいから減退し、90年代以降になると、実態よりは「名物」とか「伝説」ということばで形容される場所になった。僕も京都市の郊外に引っ越してからは滅多にいかなくなったし、東京に引っ越してからはほとんどご無沙汰だった。その意味では「ほんやら洞」の役割はとっくに終わっていたと言うことができるかもしれない。けれども、マスターの甲斐さんが閉じずにずっと続けてきたのは、その歴史的な価値を考えたからで、やっぱり、無念としか言いようがない。

・最近の文化状況の貧しさにうんざりし、また危機感も持っている立場からは、つくづく一つの時代が完全に終わったことを実感させる出来事だったと思う。

2015年1月12日月曜日

今年の卒論

 

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・今年の4年生は16名で、女子が12名、男子が4名でした。女子学生の数的優位は毎年のことですが、それは卒論の中身についても言えることです。年々、学生達の卒論に対する姿勢が消極的になっていて、ここ数年、毎年のように、この「卒論集」を出すのをやめようかと思い続けてきましたが、今年は久しぶりに、やる気のある学生が多かったと思います。もっとも、そんな気になったのは、秋風が吹き始めた頃からでしたし、コピペの安直さはもちろん、それが著作権侵害にあたることさえ自覚しない学生を叱って書き直しをさせることは、例年以上に多かったと言えます。

・この「卒論集」は例年、その年の最優秀論文を巻頭においてきました。しかし今年は学籍番号順にしてあります。その理由は、印刷製本を大学の管財課に頼むために、例年とは違って版下の完成までに論文提出後1週間しかなかったことにあります。ですから、レイアウトや校正作業も、提出前からやらなければなりませんでした。もう一つの理由は、甲乙つけがたいできの論文がいくつかあって、どれを巻頭におくか決めかねたことにあります。これはうれしい悩みでしたが、飛び抜けた傑作がなかったということでもあります。

コミュニティーラジオとはなにか?……杉山晴菜
青梅の町おこし「昭和レトロとエコミュージアム」「梅の里の再生計画」…國井一生
日本人にとっての英語の位置づけ…岩松恵莉菜
女性と飲酒…………………………………藤井環妃
店と客、相互から見た現代における日本の接客…塚田 桃子
理想とわたし………………………………小俣享子
生活保護について考える………………佐々木大輔
遅刻と時間………………………………加藤美奈子
大学駅伝と駅伝強化………………………吉崎竜星
紙の本は消えるのか………………………飯田美優
日本の“恥”文化……………………………柳谷さりあ
二次創作と著作権…………………………大竹沙紀
シュルレアリスムと自動記述の実践…岡本史也
日本語の変化と若者言葉…………………西里春留
「小さな世界」で生きる若者達……………尾辻彩花

2015年1月5日月曜日

基地と原発

 

若杉冽『東京ブラックアウト』講談社

矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』集英社インターナショナル

・沖縄県民が辺野古基地建設に"No"を突きつけているのになぜ、政府は聞く耳持たない姿勢でいられるのか。国民の大多数が原発に反対しているのに、政府はなぜ再稼働を強行しようとするのか。ここ数年ずっと感じていて、昨年暮れの選挙でさらに強く思った疑問だが、正月休みに読んだ2冊の本には、その疑問に答えるヒントが書かれていた。

journal1-172-2.jpg・若杉冽の『東京ブラックアウト』は『原発ホワイトアウト』の続編である。僕はこの本をちょうど去年の正月休みに読んだ。暮れに続編が出たから今年も正月休みに読もうと買い求めた。内容は前作とは違ってずいぶん退屈だと思った。続編とは言っても、前作で起きたはずの福島に続く2度目の原発事故がテーマで、時間だけが1年後になっている。で、前半の話は、政府の中枢にいる政治家と官僚との間で練られ、仕組まれていく原発再稼働のシナリオ作りである。慣例や既得権が何より大事だと考える連中の本当に汚いやりとりが前作以上にうんざりするほど綴られている。

・話は再稼働が実施された2015年の大晦日に新潟の原発がメルトダウンを起こすところから急展開する。東京はもちろん関東一円が放射能に侵され、皇室は京都の御所に移り、政府も京都に移動する。そんな事態の中で数千万人の人たちがどうなったかは、ほとんど描かれない。この小説の視線はあくまで政治家と官僚の対応にあって、それは2度目の事故の後でも少しも変わらない。それに対して大きな役割を演じるのが平成天皇だが、にもかかわらず政治家と官僚は、原発の存続を画策する。

・陛下は誕生日に続いて正月にも、戦後70年にあたるのを機会に「満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています」と発言し、震災や原発事故の被災者に対しても「かつて住んだ土地に戻れずにいる人々や仮設住宅で厳しい冬を過ごす人々もいまだ多いことも案じられます」と思いやられた。これを精一杯の政府批判と受け止めた人は多かっただろうと思う。憲法を護持すべきという発言もたびたびおこなわれている。

journal1-172-1.jpg・矢部宏治の『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』は基地がなくならない理由を、敗戦直後に昭和天皇とマッカーサーとの間になされた交渉に見つけ出している。そこでおこなわれたのは、日本軍の解体とそれに代わるアメリカ軍の駐留、沖縄の放棄、そして日本国憲法の制定である。天皇制の存続は、日本の社会の混乱を避けることと、天皇の人間性に対するマッカーサーの信頼が大きかった。そこから戦後の日本は、国防はアメリカに任せて経済復興に邁進する道を歩むことになった。

・そして米軍の駐留は日本が国として落ち着いてもずっと70年間継続され続けてきている。その理由は、在日米軍が持つ特権を定めた「日米地位協定」が憲法の上位に置かれたものであることを日本の裁判所が認めたこと(砂川裁判)、日米安保条約が日本の希望として存続し続けてきたことにある。そもそも理想的と思われる日本国憲法は自衛隊が作られたとはいえ、米軍が駐留しつづけてこそ意味を持つものとして制定されたのである。それは日本が軍事大国となり世界の脅威にならないための防波堤だが、同時に日本にとっても経済大国として存在感を示すために欠かせないものだったのである。

・戦後70年経っても日本は被占領状態にある。本書が「基地」をなくせない理由としてあげるのは上記した理由にある。それはアメリカの意向だが、それ以上に日本の希望でもある。そう考える人たちを著者は「安保村」と名づけている。そしてその住人の意識は、「原発村」の住人とほとんど同じものである。だから、大事故を起こしてもやっぱり原発をやめられない。

・この2冊を読んで感じたのは、日本にとって独立とは何で、それはどうしたら可能かということを考える難しさだった。安保条約を破棄して米軍を撤退させれば、自衛隊を軍隊にして軍事大国を目指す動きが出てくるのは明らかだ。ドイツがEUの一員になったように、中国や韓国、そして東南アジアとの間に、共同体とはいかないまでも友好な関係を築くことが不可欠だが、それはまた簡単なことではない。そんな難問について議論を戦わす必要があるという世論はどうやったら盛り上げることができるのだろうか。ほとんど絶望的な思いに囚われたが、ほんの少しだけ未来への道と明かりを見つけた気がした。

2015年1月1日木曜日

人生下り坂最高!

 

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火野正平が自転車で全国各地を走る番組のなかで
下り坂を突っ走りながら
「人生下り坂最高!」と叫んだ時に
「そうだ!」と同調してしまいました
登りがあれば降りがある
当たり前の話ですが
自転車は降りが楽しいのです
それは山歩きをしていても同様です
そして人生だって、下り坂の方がおもしろくて楽しい
そんなことを負け惜しみではなく実感し始めてきた自分を感じます
仕事からリタイアするのはまだ数年先ですが
そろそろ準備をし始めよう
今年の目標をそんなところに決めました

思えば日本だって、そんなサイクルにあるはずです
何と言っても戦後の日本は団塊の世代と共に成長し、成熟してきたのです
であれば、さらに経済成長などではなく
下り坂をどううまく乗りこなしていくか
国の指導者にはそんな哲学が必要ではないでしょうか
ところが
10年、20年先を見通して現在の政策を考える
そんな主張をする政治家は皆無です
多額の借金を抱えた財政や処分できない放射能のゴミ
広がるばかりの貧富の格差等々……
子孫に残してしまう負債は増えるばかりです

そして、そのことを見ないようにしようとする
そんな空気が蔓延しています
戦前回帰の首相の政策と併せて
何とも行きにくい時代になったと実感しています
こんな空気はどうしたら払拭できるのか
絶望的ですが、一縷の可能性を見つけ出したいものだと思います

今年もよろしくお願いします