2016年3月28日月曜日

本棚ができた

 

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・本棚が何とか完成した。作り始めてから1ヶ月、夏休み中にと思っていたのに,作り始めたら止められなくなった。性分といえばそれまでだが、大変というよりは楽しかった。忘れないようにかかった費用やかけた時間を記録しておくことにした。
・使った材木は「ラジアタパイン集成材」で3x6(90x180cm)が33枚。1枚4500円、背中に貼ったベニヤ板とあわせると15万円ほどだった。塗料のワトコオイルが7リットルで2万円弱で釘やネジ、あるいは留め金、木工セメダインなどをあわせると18万円ほどでできたことになる。

photo75-2.jpg・すでに書いたように、『清く正しい本棚作り』を参考にして、右のような図面を書いた。60cm幅で2m50cm前後の高さの2段組を5台。これを1セットにして4組作ることを目標にした。材木はたまたま近くのホームセンターで見つけたもので、3x6の大きさの板をカットしてもらうのに何枚もの図面を作った。できるだけ無駄がないようにと工夫をして、1セットが8枚でできると計算した。 


photo75-3.jpg・最初はまず1セット分を買って,カットをしてもらい、それを1週間ほどで完成させた。思った以上にうまくできたからと、またホームセンターに行って、在庫のほとんどだった15枚を買った。これで3セットは作れることになった。その作成に10日ほどかかって,春休みはこれで終わりかと思ったが、塗料を買いに行くと、また材木が山積みになっていて、続けて作ってしまおうということになった。 


・結局1ヶ月ほどで4セットができて、余った板でCD用と階段の上がり口に置く変形の本棚も作った。90cm幅だと棚板がたわむ心配があるから真ん中に支え板を置いて,棚板も左右半分ずつ別々につけることにした。作り方に慣れてくると,複雑な形に挑戦したくなる。何とかできた時にふと考えた。これなら60cm幅でなく120cm幅と180cm幅で作れば,側板がだいぶ少なくて済んだ。ただし、180cmx180cmでは、組み立てにずいぶん苦労するし、2階に上げることもできなくなる。

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・で、書斎の本棚はほぼ本で埋まった。後は寝室の本棚で、研究室の本を運んでくることになる。これでもたぶん全部は無理だから、欲しい人にあげたり、処分したりしなければならないだろう。そもそももうほとんどは読まない本ばかりだから、売るなり捨てるなりしてもいいのだが、本に囲まれないと安心できないのだからしょうがない。

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2016年3月21日月曜日

高校生の政治意識

・衆参同日選挙が真実味をおびてきた。18歳に選挙権が引き下げられて、高校生も国政に参加をする。その権利を行使するための判断材料は多様で、日本の将来を左右することばかりだから,若い人たちにとっては切実なはずだ。考えなければいけないことはたくさんあるし,そのために調べたり勉強したりすることも多い。友だち同士で,クラスで、あるいは外に出て議論をしたり,行動したりすることが投票に必要なことは明らかだろう

・ところが文科省は高校生の学外での政治活動に制限を加えるような通達を出したし、それに応える県の教育委員会も出始めた。たとえば愛媛県の教育委員会は、県立高校すべてに高校生の学外での政治活動を届け出ることを校則として定めて義務づけることを決めた。勉学に支障が出ないようにというのが表向きの理由だが、高校生の政治意識の高まりを危惧した処置であることは明らかだ。このような動きは今後も続出するだろうと思う。

・実際、「戦争法案」が国会で成立した時には大学生の「SEALD's」に呼応して高校生の「T-ns SOWL」が結成されて,各地でデモが行われた。文科省は18歳選挙権に伴って、政治活動容認という通達も出していて、「違法、暴力的になる可能性の高い活動」「学業や生活に支障がある場合」に限って制限や禁止としている。しかし、この基準は曖昧だから、高校生の政治活動が高まりを抑える理由に使われることはありうる。

・文科省の通達は校内での政治活動については、「授業や生徒会活動、部活動などを利用」を禁止しているし、「放課後や学校構内での活動」を制限している。あるいは「教員の個人的な主義主張を述べない」「特定の事柄を強調しすぎたり、一面的な見解を配慮なく取り上げたりしないよう留意」とも断っている。一見もっともらしいが,他方で高校で使う教科書に政府の見解を盛り込むようにといった要求もして、教科書の検定を行っている。あるいは国旗の掲揚や君が代の斉唱を義務化する動きも顕著だ。

・高校生が授業や課外活動の中で,政治について考えたり,議論をしたり,行動することは,本来禁止されてはいけないことである。それどころか、高校はもちろん、中学や小学校でも、政治意識というよりは、自分の考えをも持つことや,それをもとに議論することはきわめて大事なことのはずだ。しかし、日本の教育制度の中では、そのような授業はまったく設けられてこなかった。政治に無関心という傾向は、そうなるよう仕向けてきた教育の問題なのである。

・だからだろう。大学生が何によらず,自分の意見を持たない、持っていても主張しようとしない、他人の意見に反対しようとしないという態度は、十年一日変わらない傾向である。しかし、それは最近ますます強まってきたように感じられる。ゼミを活性化するには、意見を持つことの必要性や、学生個々を覆っているバリアを壊すことからはじめなければならないのだが、これは至難の業で、諦めてしまうこともしばしばあった。

・他方で「コミュニケーション力」やグローバル化に対応した「語学力」の養成が緊急のこととして叫ばれている。しかし、自己主張や議論を伴わない「コミュニケーション力」は単なる迎合の技でしかないし、「語学力」だって意味はない。そもそも英語は戦うための言語だから、話し聞く力以前に、自己表現や議論の能力をつけなければいけないのだが、そこがまったく理解されていないのである。

・選挙権が18歳に引き下げられ、もうすぐ国政選挙が行われる。国の政治は自分の生活や人生を大きく左右する問題だという意識を大学生はもちろん,高校生が自覚できるいい機会になると思う。それを公権力で歪めてはいけないのである。

2016年3月14日月曜日

ホームレスと難民

・もう言い飽きたが、テレビがおもしろくない。ニュースぐらいしか見ない地デジも、スポーツ選手の覚醒剤やら、タレントの解散騒動や不倫といった話題を大きく取り上げて呆れている。BSも最近は見たいものがない日が結構あって、テレビの前で寝転がってはいても、iPadでゲームなんてことが多くなった。ところが珍しく、iPadを脇に置いて夢中になって見た番組があった。

・「マネーの狂わせた世界で 金融工学者の苦悩と挑戦」は、進行する格差の中で急増したホームレスの人たちを救済するために,慈善ではなく投資として活動する人たちに注目したものである。「金融工学」は聞き慣れない分野だが、マネーを株や為替に投資して私腹を肥やすのではなく、本当に必要な貧困層に向けるための方策を考え,実行することを目的にするようだ。登場した人たちからはしきりに「ソーシャル・インパクト」(社会的投資)ということばが話されて,これも初耳の考えだった。

・ホームレスは失業し家を失った人たちだ。だから彼や彼女たちの職を作れば、家も借りられるし、衰退し荒れた街も活性化する。それ自体は新しい試みではないが、政府や自治体ではなく、投資家を募って資金を集めて行うことが新しい。投資はもちろん,慈善ではなく利益を目的にするというのである。いかにもアメリカ的な発想だが、登場したのは韓国系アメリカ人だった。彼は同様の投資をギリシャでもやり始めているようだった。

・番組が終わった後のニュースでは、大津地裁が高浜原発の運転差し止めを決定したことが報じられた。NHKには珍しく、野球賭博より先だった。で、続いた番組は、「ジャック・アタリが語る 混迷ヨーロッパはどうなるのか?」で、僕は彼のファンだから、これも興味をもって見た。彼はフランスのミッテラン政権時のブレーンで、EU統合に尽力した人だが、哲学者で,おもしろい本を何冊も書いている。

・NHKの記者が「EUへの難民の急増とその対応への苦慮」について質問すると、アタリは100万人でもEU全体の0.2%、150万人でも0.3%にすぎないと言った。この程度の難民をEUは引き受けることができるはずだというのである。言われてみれば確かにその通りだと思った。若い層の人たちの流入は短期的には混乱を生じさせても,長期的には高齢化を抑える助けになる。

・アタリは日本が抱える最大の問題として,高齢化と少子化をあげていた。若い層を増やすにはどうしたらいいか。彼が言ったわけではないが、EUを少しでも見習って、難民や移民を引き受ければいい。0.2%なら20万人、0.3%なら30万人になる。実際内閣府が毎年20万人の移民を引き受ければ、日本の人口減少は解消されるという試算を出している。

・しかし、現在の日本の人口に占める在留外国人の数は200万人に過ぎない。すでに他民族化しているEUにとっての0.2%とは,まったく意味あいが異なってくる。日本人が日本は多民族国家になってもいいと思うには、超えなければいけない社会的、心理的な高い壁がいくつもあるからである。

・アタリは2006年に『21世紀の歴史』という予言的な本を書いている。日本では2008年に出版されていて、ぼくはこの欄で次のように書いた。


・21世紀の前半はますます悲惨なものになる。市場の力が国家を超え、国単位では制御できなくなる。近視眼的な見方しかできない市場では、資源や食料、あるいは水や空気を巡る統制のきかない奪い合いが起こり、紛争や破綻の火種が世界中に発生する。で、そのままでは当然、世界は破滅ということになるのだが、そこまで行ってやっと、何とかしようという大きな動きが起こるという筋書きになっている。

・アタリが希望を託すのは、社会的な公正や環境の改善を目的としたビジネスである。この「ソーシャル・ビジネス」はすでに開発途上国では多くの実績が上げられている。先に取り上げた「金融工学」や「ソーシャル・インパクト」といった発想が21世紀の歴史を好転させることができるかどうか。僕はもう生きてはいないが、将来に向けた一縷の希望であることは間違いないと思った。

2016年3月7日月曜日

室井尚『文系学部解体』角川新書

 

muroi1.jpg・大学が大学でなくなりかけている。その崩壊過程を目の当たりにしている者にとって、『文系学部解体』はまさに身につまされる内容である。しかし、著者の大学は国立だから、その窮状は数倍もきつい。
・この本が書かれるきっかけになったのは、昨年6月に文部科学省が全国の国立大学に出した「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」という通達だった。内容は多岐にわたっているが、とりわけ大きな話題になり、筆者の所属する教員養成系学部に関係したのは、「文系学部の見直し」という項目である。

・大学は日本が直面している少子化や経済状況などに対応して、文系学部を理系学部のような「技術革新」などの目に見える成果が期待できるものに変える必要がある。このような趣旨のもとに、とりわけ教員養成系学部の廃止や大幅な改組をもとめ、文系と理系が一緒になったような学部を奨励しているのである。しかし、教員養成系学部の改組はすでに何年も前から行われてきていていて、筆者が所属する横浜国立大学の教育人間科学部はその名前の通り、教員養成を目的にしない「人間科学系」を設けて、特徴のあるカリキュラムを作り出している。人気もあり、ユニークな人材を送り出してもいるようだ。

・ところが今回の通達では、そのような実績に関係なく、廃止という要請が届いたのである。要請であれば拒否すればいいのだが、そうすると運営交付金を削減されてしまう。この通達は事実上の強制なのである。うまくいっているところも、いってないところも教員養成系は一律廃止して、理系を増やそうという文科省の政策に、筆者が所属する学部は存亡の危機に直面しているのである。

・私立大学には、これほど強い文科省の締めつけはない。しかし、大学の実態を7年おきに詳細に報告し、公表することを義務づけた「自己点検・自己評価」や、年間の授業計画を詳細に書くことを求められる「シラバス」の作成など、一様にやらなければならないことが増えている。あるいは年間の授業数を30回にし、これを厳しく実行することも求められるようになった。拒否しにくいのは、素直に従わなければ交付金を削減するという脅しが露骨にともなわれているからである。

・大学の教員は同時に研究者である。というよりは研究者としての地位を確保するために、大学で教育に従事していると言ってもよかった。大学の教員の採用は業績によるもので、小中高の先生のように免許が必要であるわけではない。これは現在でも変わらない。しかし今、実際には、そのウェイトが研究者よりは教員に移動していて、それが当たり前だという空気になっている。しかも、学部の大幅な改編やカリキュラムの変更などに忙殺されることも多い。ところが他方で、研究業績も点数化されるようになって、内容よりは引用件数や英語論文が求められたりするから、やりたいテーマをやりたい手法でというわけにはいかなくなってもいる。

・大学の文系学部、とりわけ文学部や社会学は特に何の役に立つかを考えてこなかった領域である。学生たちに提供されるのは、自由な時間と、そこで自由に思索にふけり、また行動するための知識や思考方法で、教員は研究者として作り上げた「世界」を、学生に披露するのが、主な役目だった。それらはすぐに役に立つかどうかはわからない。しかし、今の世界や自分の置かれた位置を客観的に、あるいは独自の視点で認識し、将来の自分や社会のあり方を考えるためには欠かせない、知識や技法であったのは間違いない。

・大学は就職に必要だから行く。学生のそのような意識に対して、大学も就職に役立つカリキュラムを増やしてきた。しかし筆者は最近の学生に対して「自分の頭で考え、自分のやりたいことを決める。もしくはさまざまなチャレンジに挑戦してみる」学生の少なさや、そういったことがやりたくてもできない現状を指摘している。彼はそれでもなお、大学の存在価値を「自由な知」に求め、そのための努力を続けることを明言している。僕はもうほとんど諦めているから、その熱意に敬服してしまった。