1996年12月25日水曜日

『鶴見俊輔座談全10巻』(晶文社)

 

turumi.jpeg・ぼくが本を読むこと、考えること、書くことのおもしろさを知ったのは、鶴見俊輔の書いたものを読んでからだった。だからぼくのスタンスやスタイルは『限界芸術論』や『不定形の思想』にあるといってもいい。H.D.ソローやG.オーウェルに関心を持ったのも彼の書いたものがきっかけだった。それから10年以上、彼の発言や書くものにはいつでも強い関心を持ってきた。ところが、ここ10年ほどは、彼の書くものをほとんど読まなくなっていた。最後に丹念に読んだ本は、たぶん『戦後日本の大衆文化史』(岩波書店)だったと思う。


・理由は良くわからないが、読んでもあまりピンとこなくなった。それで、買っても積読ばかりだった。ところが、この座談集が刊行されはじめ、また病気で入院されたとも聞いて、久しぶりに読みたい気になった。大学の同僚の原田達さんが鶴見俊輔論を精力的に書き始めてもいた。


・この座談集は、「〜とは何だろう」というタイトルで統一されていて、〜には「家族」「思想」「文化」「戦争」「日本人」「社会」「国境」「近代」「学ぶ」「民主主義」が入っている。対談集で、発表された年代は50年代から現代までの40年以上の幅を持っている。しかし、読んでいて、発表時期をほとんど気にせずに読んでいる自分に気づかされた。ぼくにとっての鶴見俊輔はいつの間にかすれちがいはじめ、疎遠になっていたが、実は変わったのはぼくであって、彼ではないことがよくわかった気がした。一カ所だけ、引用しておこう。読んでドキッとして、ああ、ぼくもそう思うと感じた箇所だ。


・「この世はなくていいんだ。だけど、いまこの世に生きているから、この世をつぶしてしまおうとか、自分を殺してしまおう、人をみんな殺してしまおうというのではない。しかし、この世はなくてもいい。ないとすると、それは可能性の領域にもどるわけだ。で、可能性の領域にもどって全部無になるんだ。」
・もう一回、鶴見俊輔を読み直してみようか、今はそんな気にもなり始めている。

1996年11月30日土曜日

長田弘『アメリカの心の歌』岩波新書

 

osada.jpg・最初からアメリカの歌が好きだった。で、今でもアメリカの歌が好きだ。歌謡曲はほとんど聴かない。シャンソンもカンツォーネもロシア民謡も好きではない。最近はやりのワールド音楽なども、あまりぴんと来ない。クラシック音楽は子供の頃から嫌悪している。決してアメリカだけ、アメリカ人だけが好きだというわけではない。なのに音楽だけは、アメリカのものしか受け入れない。一体どうしてなのか。これは、ぼくにとっての一つの大きなテーマだ。

・『アメリカの心の歌』はそんなぼくにとってもなお、知らない音楽やミュージシャンがアメリカにいることを教えてくれた。「少年時代から非行を繰りかえし、塀の内と外を往復しながら成長」したディヴィッド・アラン・コー。ピーター・ラファージはディランが歌う『バラッド・オブ・アイラ・ヘイズ』の作者であることしか知らなかった。トム・T・ホール、マール・ハガード、ジョン・プライン、グラム・パーソンズ。誰もが本当にいい。ますますアメリカの歌が好きになってしまいそうな気がした。「アメリカは私にとって………音(サウンド)………匂い(スメル)………感触(タッチ」)(ウェイロン・ジェニングス)

・「歌というのは、つまりうたい方だ。うたい方というのは、つまり歌うたいの個性だ。個性というのは、つまりは人生に対する態度だ。そして、人生に対する態度がすなわち歌である秘密をどうにかして伝えようとしてきたのは、シンガー・ソングライターの歌だった。」
・アメリカの歌に共通した伝統。確かにそうだ。でもぼくがアメリカ音楽しか聴かない理由は、たぶんそれだけではないだろう。

1996年11月15日金曜日

Lou Reed(大阪フェスティヴァル・ホール、96/9/23)

 

・ルー・リードのコンサートを知ったのは、数日前の新聞広告だった。「当日券あり」。入らないんだろうな、と思った。最近、外国人のコンサートを大阪城ホールでやることが少なくなった。代わりに聞いたこともない日本人のミュージシャンがやっている。とはいえ、ミリオン・セラーを連発させている人気者ではあるらしい。輸入盤のCDを安売りする店が増えたとはいえ、ぼくの知っている学生たちの中で洋楽に関心を持っている者は少数派だ。60年代や70年代の音楽が好きなんていうのはかなりオタッキーな奴と思われている。

・で、開演直前に買った席は2階席の最前列。後ろにはほとんど客はいなかった。そのせいではないと思うが、ずいぶん手を抜いたコンサートだった。照明がシンプルというよりは、ほとんど変化がない。音のバランスが悪くて歌詞がほとんど聞き取れない。黒いTシャツから出た棍棒のような太い腕を動かして弾くギターはただ音が大きいばかりで声の邪魔をしているようにしか感じとれなかった。

・ひどいコンサートだな、アンディ・ウォホールの幻想やパンクに影響を与えたというカリスマ的な神話はどこへいった、とつぶやきながら聴いているうちに、あー、ルー・リードらしいなと感じはじめてきた。彼のアルバム『ベルリン』や『ニューヨーク』は明らかに、ライブ・ハウスで聴く種類の音楽だ。『ベルリン』はコンサート・ライブ盤だが、途中で赤ん坊の泣き声や幼児の「マミー」という声が入る。しかし、そんなことお構いなしに歌うルー・リードの迫力は圧倒的だ。

・せめて「クアトロ」、できれば「拾得」あたりで聴きたかった。そうすれば、もっと客席とのやりとりがあったかもしれない。だって、『ブルー・イン・ザ・フェイス』では、とぼけた顔してオシャベリしていたんだから。