2018年12月31日月曜日

目次 2018年

12月

24日:John Prine "The Tree of Forgiveness"

17日:A.R. ホックシールド『壁の向こうの住人たち』

10日:紅葉と暖冬

03日:『ボヘミアン・ラプソディー』

11月

26日:自動車を巡る騒動について

19日:米国の中間選挙について

12日:最後のジョーン・バエズ

05日:マイケル・ムーア『華氏119』

10月

29日:見田宗介『現代社会はどこに向かうか』(岩波新書)

22日:戸隠・鏡池

15日:栗と薪

08日:沖縄と原発

01日:大谷君で久しぶりのMLB 三昧

9月

24日:言葉づかいが気になります

17日:フレッド・ピアス『外来種は本当に悪者か?』

10日:夏の終わりに

03日:何より駄目な日本

8月

27日:ボキャヒン、高音、わざとらしさ

20日:Chavera Vargas

13日:オリンピックはやっぱりやめましょう

06日:白神山地

7月

30日:佐々木裕一『ソーシャルメディア四半世紀』

23日:暑い!暑い!

16日:あからさますぎる情報操作

09日:ひどい政権をいつまで野放しにするのか

02日:<続>ジャック・ロンドンを読んでいる

6月

25日:ロジャー・ウォーターズとスティング

18日:自転車、車、山歩き

11日:寄る年波

04日:スポーツにまつわる不可解なこと

5月

28日:最近見た映画

21日:ジャック・ロンドンを読んでいる

14日:CDではなくYouTubeで

07日:千客万来のゴールデンウィーク

4月

30日:母の日記

23日:薄汚い政権の末路

16日:大谷の活躍にびっくり!

09日:司馬遼太郎『空海の風景』

02日:やっと春

3月

26日:退任記念号が出ました

19日:車と音楽

12日:政権が倒れない不思議

05日:「そうですね」に違和感

2月

26日:四国遍路その2

19日:四国遍路中です

12日:厳冬の日々

05日:記憶と記録、カズオ・イシグロの世界

1月

29日:日本発のアフリカと南米の音楽

22日:先生卒業

15日:『カズオ・イシグロをさがして』

08日:今年の卒論

01日:Happy New Year !!

 

 

 

2018年12月24日月曜日

John Prine "The Tree of Forgiveness"

 

prine3.jpg・ジョン・プラインはもう70歳を過ぎている。"The Tree of Forgiveness"のジャケットには、ご覧のように禿げあがって頬のたるんだ彼の顔が大写しになっている。裏は長年使ってぼろぼろになったギターだから、知らない人ならとても買う気にはならないだろう。実はぼくも買うかどうか迷った。何しろ彼は下のデビュー・アルバムのジャケットのように、格好いい好青年だったのである。しかし、昔からなじみがあって、あまり歳の違わないミュージシャンは、やっぱり買うべきだ。何しろ、引退したり、死んでしまったりする人がたくさんいるのだから、現役のうちはつきあわねばと思った。そう言えば、ぼくが持っているプラインのアルバムは、昨年出た"For better or Worse"を除けば、70年代のものばかりだった。

prine4.jpg・ジョン・プラインは1971年にデビューしている。しかしぼくが彼を知ったのはベット・ミドラーが歌ってヒットさせた「ヘロー・イン・ゼア」の作者であることを知った時からで、もうレコードがCDに変わってからだった。「ヘロー・イン・ゼア」が子どもを育て、年老いた夫婦を歌ったものであるように、彼の作る歌にはどれも物語があり、ベトナム戦争に反対するなどメッセージ性も強かった。ギター一本であまりバックもつけずに淡々と歌う曲を、ぼくは通勤途中の車の中で良く聴いた。

・"The Tree of Forgiveness"には、この名のついた曲はない。「寛容の木」とか「ご勘弁、あるいは、ごめんなさいの木」といった意味だろうが、これは「ぼくが天国に着く時」というアルバムの最後に収められた曲の中に出てくるナイトクラブの名前である。彼はそこで神様と握手をして、ギターを持ってロックンロールをやる。酒を飲み、かわいい娘とキスをし、ショウ・ビジネスを始める。そんな歌である。どの歌も主人公は老人になった彼自身で、先だった仲間を歌い、妻に限りない愛を求めたりする。多くの歌は共作で、フィル・スペクターなんていう懐かしい名前もある。バックでコーラスするのはパートナーのフィオナ・プラインの他にブランディ・カーライルなどがいる。


・つねに自然体。一人の自由な姿勢をくずさない。そして、時代の気温を親しい旋律にとどめて、ひとの体温をもつ言葉をもった歌をつくる。ほんとうに大事なものは何でもないものだ。かざらない日常の言いまわしで、なかなか言葉にならないものを歌にする。(長田弘『アメリカの心の歌』岩波新書)

・だから、今の自分の素顔を正面から写し出す。ディランもスプリングスティーンも一目置く希有なフォークシンガーだが、だからこそ格好もつけず、驕りもせず、隠しもしない。こういう人が元気でいるのは、アメリカにとって数少ない一つの光明と言える。もちろんぼくも、こうありたいものだとつくづく思った。

2018年12月17日月曜日

A.R.ホックシールド『壁の向こうの住人たち』(岩波書店)

 

hockschild1.jpg・A.R.ホックシールドは『管理される心』(世界思想社)の著者である。「感情労働」という概念を使って、主に接客サービスを仕事にする人たちが、外見だけの「表層演技」をするだけでなく、心のこもった「深層演技」を求められることに注目したものである。日本では「真心サービス」などと言われて、当たり前にする態度のように思われてきた。しかし、顔なじみならともかく、一見さんばかりの客に「真心」を持って接していたら、自分の心そのものが病んでしまう。そんな現代の病理に光を当て、原因を突きとめ対処する道具として、「感情労働」や「深層演技」はきわめて有効なものになった。「真心」を持って接する仕事は、介護や看護といった職種の中で、今後ますます必要になるものである。それだけに、ただ単に心を込めればいいとして片づけてはいけない問題だと思う。

・ホックシールドの研究スタイルは、インタビューを基本にしたものである。『管理される心』では主にフライト・アテンダントを被験者にしていたが、『壁の向こうの住人たち』でも、その内容の大部分は聞き書きされたものである。

hockschild2.jpg・壁の向こうの人たちとは、ホックシールドとは考えの違う、アメリカの右派、とりわけ「ティー・パーティ」と呼ばれ、トランプ大統領誕生に力を発揮したグループである。U.C.バークレーに所属して、リベラルであることを自認する彼女からすれば、とんでもない考え方をする人たちだが、その考えを一方的に批判するのではなく、一体なぜ、何を根拠にそんな考え方をするのかを突きとめようとした。そのためにフィールドに選んだのはジャズの町ニューオリンズで知られるルイジアナ州である。

・ルイジアナ州は綿花や大豆、サトウキビ、それに牛などを生産する農業州であるが、同時に石油や天然ガスの埋蔵量が豊富で、その油井やガス田、あるいは精製業が経済的な基盤にもなっている場所である。しかし、州の財政は厳しく政府からの多額の補助金をうけている。最近では度々巨大なハリケーンに襲われたし、メキシコ湾の油田から原油が大量に流出する事故も起きた。

・ルイジアナはアメリカの中でも貧しい州だが、ここに住んで「ティー・パーティ」を支持する人たちは、援助を含めて連邦政府の介入を批判する。石油その他の産業による海や川や土地の汚染が顕著なのにもかかわらず、環境保護運動にも反対する。直接被害を受けている人たちも、その加害者である企業の告訴はもちろん、非難することもない。そういった企業は、何より雇用を創り出してくれるものだからだ。当然、石油の消費に批判が向けられる「温暖化」も信用しない。失業率が高くて、失業保険や生活保護を受ける人も多いのだが、そういった人たちへの批判も手厳しい。

・リベラルの立場からはきわめて矛盾の多い態度だが、ホックシールドはその考えの根拠になるものを「ディープ・ストーリー」として描き出した。アメリカは自由や夢を求めて移り住んできた人たちによってできた国だ。そんな人たちが列を作って並び、勤勉さやフェアな競争によって上に、先に進もうとしてきた。多くは敬虔なクリスチャンで、開拓民やカウボーイの伝統を今でも大事なものとしている。

・だから、平等意識の高まりによって自分の前に割り込んでくる人たちには我慢がならない。黒人や遅れてやってきた移民、難民、そして女性やLGBTを公言し始めた人たちだ。もちろん、彼や彼女たちは差別意識を公言したりはしない。そうではなく、政府が決めた法律によって、自分たちが不当に列の後ろに追いやられてしまっていることに腹を立てているのである。アメリカ初の黒人大統領の登場が「ティー・パーティ」の人たちに強い危機感を抱かせたことはもちろんだし、次が初の女性大統領ではたまらないと思ったこともうなづける。だからこそ、トランプに光明を見出し、飛びついたのである。

・「ディープ・ストーリー」」は、リベラルから無知蒙昧なレッド・ネックと馬鹿にされ、経済的にも文化的にも「異邦人」のような扱いを受けていると感じてきた人たちが共有する物語である。トランプは、そんな自分たちこそ、本来のアメリカ人なのだという思いに火をつけた。ホックシールドはトランプを支持する何人もの人たちと長時間つきあって話を聞くことで、彼や彼女たちを理解し、壁を透明なものする努力をしてきて、そこから、壁そのものに穴を空けるにはどうしたらいいかを考えている。壁は強固で崩れそうにないが、ホックシールド自身が取った態度のなかにこそ、その突破口があるように思った。

2018年12月10日月曜日

紅葉と暖冬

 

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forest154-2.jpg・今年の冬は暖かい。紅葉は色が鮮やかでなかったが、いつまでも落ちずに残っていた。だから、紅葉見物の観光客がにぎやかで、自転車で出かけるのを面倒にも感じた。撮るのに夢中で道のまん中に出て来たりするから、スピードを落として注意しなければならなかった。もっとも去年は12月になると零下になる日が続いて、自転車にもほとんど乗らなかったから、今年の方がずっと走っている。頑張っても少しも減量できなかったが、御飯の量を減らしたら、順調に体重が減り始めた。さて、この冬はあと何回走れるだろうか

forest154-3.jpg・もちろん、薪割りもせっせとやっている。ただし、暖冬で燃やす薪の量が少ないから、薪を積む場所ができない。もう一回原木を運んでもらうのだが、暖冬が続いて消費量が少なければ、少し減らしてもいいかもしれない。最低気温が5度以上だと、薪ストーブでは暑すぎて、寝苦しいほどになってしまう。この週末に初めて零下になったが、この調子で寒くなるのだろうか。切って割る量が少なくなるのは楽で結構だが、冬らしくないのは今ひとつおもしろくない。寒ければ寒いで文句を言い、暖ければ暖かいで物足りないと言う。勝手だなと、我ながら思う。

forest154-4.jpg・パートナーが積極的になったので、山歩きも始めた。10月の末に紅葉台に登ってから、毎週水曜日におにぎりを持って、富士山の大室山、都留アルプス、山中湖大平山、そして精進湖パノラマ台と歩いてきた。4km、5kmと頑張ってきて、コースタイムの倍かかっていたのが、1.5倍で歩けるようにもなった。さすがに足腰が痛くて音を上げるようになったが、暖冬のままだったら、これからも続けようと思っている。何しろ、しばらく行っていない海外旅行を早く再開したいと思っているから、体力的にも大丈夫だと、自信をつけてもらわなければならないのだ。

forest154-5.jpg・アメリカのポートランドに住む友人のKさんが、一人でごらんのような大きなリュックを担いでやってきた。2週間であちこち旅行をして、最後のところで我が家に1泊した。ぼくと同い年だが元気いっぱいで、手料理で歓迎してにぎやかに話した。パンプキン・プディングを久しぶりに作ったのだが、レシピ通りだとカボチャより卵の味が勝ってしまうので、量を三倍にして、裏ごしも念入りにした。御得意のかき揚げ天ぷらも、最近では蕎麦粉と白身で揚げている。粉の量が少なくなって、さくさく感があるから、小麦粉よりはずっとおいしい。彼女はそのどちらも「おいしい、おいしい」と言って食べてくれた。

・ 来年は海外旅行を再開して、まずはポートランドに行こう。そんな約束をしてお別れした。シアトルで大谷も見たいからいつにしようか。そんな楽しみが増えて、今から待ち遠しくなった。

2018年12月3日月曜日

『ボヘミアン・ラプソディー』

 

queen1.jpg・『華氏119』を見た時に『ボヘミアン・ラプソディー』の予告編をやった。なぜ、今「クイーン」かと思ったが、見たい気にもなった。で、勤労感謝の日に出かけると満席でびっくりしてしまった。何しろこれまで見た映画はどれも、数人の客しかいなかったからだ。祭日とは言え、わけが分からないと思ってネットで調べると、大ヒット中だという。30年も前に活躍したロック・バンドだが、若い人たちにも人気のようだ。なぜ、と思ったら、上映中に一緒に歌ったり足踏みや手拍子を叩く、新しい見方が魅力なのだと朝日新聞の天声人語に書いてあった。天声人語で話題にするぐらいだから、社会現象化しているのかもしれないと思った。

・出直して平日の昼に見たのだが、それでも客席の半分ほどが埋まっていて、ヒットしていることはよくわかった。ただし、客席は最初から最後まで静かなままだったから、一緒に歌ったり足踏みや手拍子をすることはできなかった。年配の人が多かったかもしれないし、やってもいいという許しがなかったせいかもしれない。ひさしぶりにクイーンの歌を聴き直し、YouTubeでもチェックしていたのだが、自分から率先してやる勇気はなかった。

・呼び物は、アフリカの飢餓救済に多くのミュージシャンが立ち上がった「ライブエイド」でのパフォーマンスの再現で、歌や楽器の弾き方はもちろん、コスチュームや舞台上での動きまでもそっくりそのままに演じていることだった。サッカーで有名なロンドンのウェンブリー・スタジアムを観客で一杯にしたのも同じだった。そこで「ボヘミアン・ラプソディー」や「ウィー・アー・ザ・チャンピオン」、「レイディオ・ガガ」、あるいは「ウィー・ウィル・ロック・ユー」などをたっぷりやったから、観客が参加したのはこの場面だったのかもしれない。

・しかし、物語そのものはフレディ・マーキュリーを中心に、バンドの誕生から、彼がエイズで亡くなるまでを割とシリアスに追ったものだった。フレディはインド系イギリス人で、アフリカで生まれ、少年時代をインドの寄宿制の学校で過ごした後にイギリスに移住している。両親はゾロアスター教の信者だった。厳格な家庭で育ち、学校も技術専門学校やアート・スクールに通ったが、「クイーン」でデビューしてからは、奇抜なスタイルや奇行が目立ち、女性と結婚したが、自分がゲイであることに気づいて、悩み、苦悩することもあった。

・「クイーン」は結束の固い「ファミリー」のようなバンドだったが、それぞれに幸せな家庭を持つメンバーとの間には齟齬が生まれ、孤独を感じることもあった。そんな折にソロとして契約する話が持ちかけられ、バンドを抜ける宣言もして、メンバーとは絶縁状態になった。そして、自分がエイズに感染したことに気づくことになる。まさに波瀾万丈の人生で、移民と人種、エイズやLGBTなど、現在の大問題の多くを抱えながら突っ走った生き方への共鳴も、ヒットの要因なのかなと思った。

・ところでぼくは「クイーン」を好きだったわけではない。同時代にはイギリスでも「U2」やスティング、マーク・ノップラーなどのほうに魅力を感じていた。コスチュームやパフォーマンス、あるいはビデオ・クリップを重視したところに反発を持ったりもした。それを批判したマーク・ノップラーの「マネー・フォー・ナッシング」に共感したりもしていたからだ。ただし、10年ほど前にロンドンで、たまたまミュージカルの「ウィー・ウィル・ロック・ユー」を見て、いい歌があるなと思って、ベスト盤のCDを買ったりもした。ずい分遅くなってから好きになったバンドで、こんな例がたくさんあることを、あらためて実感した。

2018年11月26日月曜日

自動車を巡る騒動について

 

・ぼくはスバルに乗るようになって、もう30年近くになります。レガシー・ワゴンに一目惚れして以来、現在で6台目です。途中、パートナーと一台ずつの時期もありましたが、今は昨年の暮れに買ったアウトバックに乗っています。ちょうど購入時にスバルの検査不正というニュースがありました。それは改善されたはずでしたが、相変わらず不正が行われていたようで、新聞ではずい分大きく取りあげられてます。

・スバリスト(スバルファン)を自任する者としては当然、けしからんという氣持ちが強いですが、そもそも完成車を最後に検査する必要性の方に、より疑問を感じていました。何しろ検査を義務づけているのは国内販売だけで、輸出車には行われていないのです。ですから必要性の薄れてきた検査をいつまでも義務づけている国土交通省にこそ、批判の矛先を向けるべきなのですが、そんなことを指摘するメディアはほとんどありません。

・合わせていくつかのリコールも発表されましたから、今スバルは踏んだり蹴ったりの状態です。リコールはどこの会社からも出ていて、特にスバルに限ったことではないのですが、売り上げはずい分落ち込んでいるようです。マイナーな車だからこそ好きになったぼくとしては、運転途中で出会うことが少ないことを好ましく思っていますが、社運が傾いたのでは困ります。スバルはこれまでにもくり返し経営危機に陥って、そのたびに不安な気持ちにさせられてきました。

・自動車会社は日本の輸出を支える基幹産業です。その中の三菱自動車は経営危機によって一昨年に日産自動車傘下になりましたが、その日産も1999年の経営危機の際にフランスのルノー傘下に入っています。この3社は「ルノー・日産・三菱アライアンス」と名乗って、それぞれ独自の車種を作り続けていますが、その世界販売台数は1061万台で世界2位になっています。ちなみに1位はフォルクスワーゲン、3位はトヨタでした。

・世界第2位の巨大自動車メーカーである「ルノー・日産・三菱アライアンス」の代表取締役を務めるカルロスー・ゴーンが金融商品取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載)容疑で東京地検特捜部に逮捕されました。役員報酬を50億円過小に記載した罪で、他にも会社の資金を私的に利用したことが上げられています。もちろんメディアは大騒ぎでしたが、ツイッターでは早くから、これほど大騒ぎするほどのことではないとか、日本の政治状況から目をそらすためのスピン(情報操作)ではないかといった発言や、森加計その他の政治家の問題には手をこまねいて何もしなかった東京地検に対する批判が多く見受けられました。

・一体なぜ今、ゴーンが逮捕されたのか。ルノーが日産・三菱の吸収合併に動いていて、日産がそれに抵抗する手段としてゴーン失脚を画策したのだといったことも言われています。実際、ゴーンは日産の取締役会によって会長と代表取締役を解任されました。ルノーはフランスの国営企業だった時代もあり、現在も政府が2割近い株を所有していますから、ことはフランスと日本の国同士の問題に発展しそうです。

・ゴーンが毎年20億円もの報酬を得ていたことに、今さらながら驚く人が多いようです。しかしグローバル企業のトップとしては当たり前の額のようです。日本のトップは一桁違う額のようですが、ぼくとしては、どれほど行政手腕が高かろうと、これほどの金額をもらう価値があるはずはないと考えます。それは各種スポーツのスター級の選手が手にする年俸にも言えることです。他方では暮らすこともできない低賃金で働く人が世界中で増えているという実情もあるわけですから、その不公平さや理不尽さにこそ目を向けるべきではないかと思いました。

・しかし、そもそもそんなに稼いでいったい何に使おうというのでしょうか。どんなに優れていても、金額を聞いたら金の亡者にしか思えなくなる。権力の亡者も含めて、そんな感覚を失いたくないものだと思います。どれほど仕事に対する責任や能力が違おうと、報酬が1000倍も1万倍も違うというのは、絶対に間違っています。安価な労働力を増やすために入管法を変えようとしていることと合わせて考えるべき問題でしょう。

2018年11月19日月曜日

米国の中間選挙について

 ・アメリカの中間選挙は四年ごとの大統領選の間に行われる。いつもさほどの関心もなく見過ごしてきたが、今度は違った。日本のメディアが事前から盛んに報道していたせいもあるが、トランプ批判の票が増えて欲しいという気持ちも強かった。何しろ彼の掲げる政策や、ツイッターでの発言に、世界中が混乱させられてきているからだ。ただし、報道機関の世論調査では、下院は民主党が増えて過半数を占めるが、上院は共和党が勝つだろうというものだった。

・アメリカの議会は上下両院に分かれていて、上院の定数は100議席で任期は6年、人口に関係なく各州二人ずつで、2年おきに三分の一ずつ改選をする。他方下院は定数435議席で、各州の人口比に応じて区割りが行われ、2年ごとに全員が改選される。人口の少ない7州では定数1で、カリフォルニア州は53と、地域差が大きいが、配分は10年に一度の国勢調査に基づいている。

・アメリカの議会について改めて調べてみて、日本との違いに気づかされた。まず、人口比からいって日本の議員の数が多すぎるという点だ。上院の100に比べて参議院は242だが、上院のように各都道府県を一律で2にすれば、定数は92になる。参議院無用論もあるが、少なくても数を減らして独自性を持たせるぐらいは必要だと思った。また下院については、選挙区の区割りが各州に任されているのも衆議院とは違っている。10年ごとに行われる区割りの調整について権限を持つのは州知事であって、下院ではない。自分のことは自分では決められないのだから、日本でも国会ではなく知事に任せたらいいと思った。

・前置きが長すぎたが、選挙の結果は事前の予測通り上院が共和党で下院が民主党の勝利だった。もっともすべての議席が未だに確定していないし、勝ったと言っても共和党は51議席で過半数をわずか1つ超えているに過ぎない。しかも今回の改選35議席のうち、共和党は9議席だけで、勝ったのも同じ9議席だったのである。確定していない3議席を除いて、共和党は9勝23敗で民主党に負けている、トランプが宣言した大勝利や、多くのメディアが言う勝利や善戦は、単に過半数を保った点に注目したに過ぎないのである。

・他方で下院は民主党の圧勝と言えるものである。ここでもまだ議席数は確定していないが、民主と共和はそれぞれ225対201で、民主党は議席を32増やしている。しかもその内訳は、女性が100名を超えたこと、イスラム教徒や先住民、そしてソマリア難民などが初めて含まれていることなど、きわめて多様な新しい顔ぶれになっている。マイケル・ムーアが『華氏119』で取りあげた候補者の多くが当選したことをみても、トランプ批判の票がずい分多かったことは間違いない。とりわけ目立つのは女性や若者の投票率が増えて、その多くが民主党に票を投じたことだろう。

・そこには、前回の大統領選の予備選挙で善戦したバーニー・サンダースの影響が強いと言われている。トランプがつぶそうとしているオバマ・ケア(医療保険)を維持し、さらに充実させようと訴えたし、トランプの移民政策にも強く反対し、また州立大学の授業料の無償化などを主張した。これでは共和党と民主党の対立が激化し、さらに民主党内でも分裂が起こるだろうなどと言われている。トランプがますます強硬になって、アメリカの政治がさらに混迷すると危惧する人も多い。しかし、大事なのは、トランプが突き進めようとする政策に待ったをかける勢力が増えたという点にこそある。そのための対立なら、むしろ歓迎すべきことだろうと思う。

・こんな感想を持ちながら、日本の現状に目を向けると、ほとんど同類の安部首相に対して、なぜもっと強い批判が起こらないのかという疑問である。森加計問題は税金の私的な流用だし、防衛費の増加はトランプの言いなりで買わされた兵器のためだし、消費税を上げるのは大企業への税金を減らしたり、金持ちに対する優遇税制のためである。こんな政策は将来に大きな影響をもたらすから、若い人ほど関心をもって反対すべきなのに、知らん顔を決め込んでいる。日本とは何の関係もないハロウィンで浮かれている場合ではないはずである。

2018年11月12日月曜日

最後のジョーン・バエズ

 

"Whistle Down The Wind"
"75TH BIRTHDAY CELEBRATION"

baez2.jpg・ジョーン・バエズが引退するというニュースを見つけた。おそらく最後になるアルバムを出して、今ツアー中だという。アルバムのタイトルは"Whistle down the wind"で、トム・ウェイツの持ち歌だ。ずっと暮らしてきた土地から出ようと思う気持ちと、離れることへの恐れを歌ったもので、今の彼女の心境をあらわしているのかと思った。

・このアルバムに収められている歌に彼女の自作はない。そう、バエズはシンガー・ソング・ライターではなく、彼女の心に触れた歌を世に広める役割をしてきた人だった。その典型はボブ・ディランの歌だろう。実際、もっとも有名とされる「風に吹かれて」も「時代は変わる」も、ディランではなくバエズの歌の方がずっとポピュラーだった。もちろん、「ドナドナ」のような埋もれてしまっていた伝承歌に光も当ててきて、多くのヒット曲を創り出してきた。そんなふうにして、半世紀以上もの間、ずっと歌い続けてきて、引退をするのだという。77歳になって、望むような声が出なくなったことが理由のようだ。

・アルバムを聴いていると、確かに、声がかすれている。しかし、以前のような澄んだ高音よりは魅力的に聞こえた。ぼくは彼女のアルバムは一枚ももっていなかった。それは彼女の歌のほとんどが誰かのカバーだということと、誰の歌であっても、綺麗な歌に変えてしまうことに反感すら感じてしまっていたからだった。

baez1.jpg・アマゾンには他に2年前に出た75歳の誕生日に行われたコンサートのライブ盤があって、多くのゲストが出ているから一緒に購入した。ジャクソン・ブラウン、エミルー・ハリス、ポール・サイモン、ジュディ・コリンズの他にダミアン・ライスなどの若いミュージシャンも登場している。客席にはハリー・ベラフォンテなどもいたようだ。ここでも彼女の歌うのは参加した人の歌はもちろん、ディランなどのカバーや伝承歌だった。自分に歌が作れないことに悩み、嫉妬したこともあったのだろうが、彼女は他の人にはできない大事な役割をはたしてきた。一緒についているDVDを見ながら、そんなことを思った。

・ジョーン・バエズはヴェトナム戦争や黒人差別に反対して歌い、行動もしてきた。その姿勢はずっと一貫していて、最近でも「LGBT」や「#me too」、あるいは貧富の格差の広がりなどについて発言している。ピート・シーガーに憧れて歌い始めたのだが、その歩いた道程もまた、シーガーに重なるものだった。オバマが大統領に就任した時、シーガーはワシントンに集まった人たちの前で歌ったが、その時彼は89歳だった。彼女は現在、最後のコンサート・ツアーをやっていて、その姿はYouTubeで見ても元気のようだ。おそらくこれからも、機会があれば出てきて歌うことがあるのではないかと思う。

・75歳の誕生日ということで検索したらジョニ・ミッチェルの誕生日を祝うコンサートがロサンジェルスで今月の6日と7日に開かれたというニュースを見つけた。モルジェロンズ病という難病を患っている。最近は公の場にも登場しているようで、このコンサートにも顔を出したのかもしれない。ここでもクリス・クリスファーソン、ジェームズ・テイラー、エミルー・ハリス、そしてノラ・ジョーンズなどが出ている。ミュージシャンの繋がりの強さを感じたが、そこにはまた、昔懐かしさではなく、政治や社会に抗議して立ち向かう姿勢も健在だ。その姿勢やスタイルがまた、トランプを批判する若い人たちに受け継がれている。フォークソングが持つ大事な一面だと、改めて思った。

2018年11月5日月曜日

マイケル・ムーア『華氏119』

 

fahrenheit119.jpg・マイケル・ムーアの『華氏119』はトランプ批判をメッセージにしたドキュメンタリーである。題名は『華氏911』に似ているが、続編というわけではない。しかし、前作がJ.W.ブッシュの大統領再選を阻止することを狙いに作られたものだから、トランプを糾弾し、上下両院選挙にぶつけた今回の内容は、続編といってもいいものになっている。いつもながら彼の作る映画は攻撃的で、音のすさまじさもあって、見ていて圧倒されるほどだった。

・アメリカ国民はなぜ、トランプのような人間を大統領に選んでしまったのか。大統領選ではそんな疑問を感じたし、就任後に彼が実行した政策や、常軌を逸した言動には、驚きや怒り、そして不安を抱かされ続けてきた。この映画には、そんな疑問に応えるヒントがあり、怒りや不安を増幅させるような恐ろしさがあり、また、それを食い止める可能性が盛り込まれていた。

・そもそもトランプはなぜ、大統領選に立候補したのか。それはなかば冗談の遊びだったかもしれないのに、予想以上に反響があり、集まった支持者の数に驚き、いい気持ちになって本気になってしまった。しかも言いたい放題に既存の価値観を批判すれば、支持者はますます増えてくる。他の多くの候補者は、きれい事を並べても、裏では利権と結びついているから、トランプの攻撃には耐えられない。そんな感じで共和党の候補にのし上がった。意外というのは大統領選でも例外ではなく、開票序盤でも、クリントン陣営は楽勝ムードだった。

・きれい事を並べても、実態は利権や既得権と繋がっている。それは民主党の候補になったクリントンも一緒だし、オバマ大統領も例外ではなかった。かつては自動車産業の町として栄えたフリントが、水道水に含まれた鉛の害に見舞われた。経費削減のために水源を汚染のひどいフリント川に変えたためだった。住民は大統領に訴えたが、オバマはその水を飲むふりをして安全宣言をした。フリント出身のムーアがオバマに向ける批判は強烈だ。

・表と裏が違うのは政治家に限らない。クリントンは選挙期間中にメールや政治資金を問題にして批判されたが、その批判の先頭に立った著名なジャーナリストの多くが、「ミーツー」以降に性差別やセクハラで訴えられている。これではタテマエとしての「正しさ」はホンネにかなわないというものだ。もっとも、権力や金とは縁遠かったサンダースが格差の拡大や差別の蔓延を批判して、クリントンに拮抗する支持を集めもした。ひょっとすると大統領選はトランプとサンダースという両極端の候補者で争われたかもしれなかったが、民主党大会では票数では劣るクリントンを支持する州が続出するといった不正が行われた。

・こんなひどい話を次々と見せられると憂鬱になるばかりだが、アメリカには何とか状況を変えようと立ち上がる人たちが数多くいる。既存の政治家に代わって上下両院や地方議会の選挙に立候補して、その人達を支援する動きも強まっている。ムーアが何より注目して期待を寄せるのは、学校内での銃乱射による無差別殺人事件に遭い、銃社会のおぞましさを糾弾した高校生達の存在だ。彼や彼女たちが主宰したワシントンでの銃規制要求デモには数十万人が集まって、その多くは未成年の高校生達だった。

・この映画ではトランプはヒトラーに重ねられている。彼が強調するのは、独裁者を生むのは人びとが諦めた時だという点だ。だからこそ政治の素人や女性が多く民主党から立候補した今回の選挙に期待をする。あるいは銃規制を要求する高校生に未来を託している。それは確かに希望の持てる光明だが、残念ながら日本にはそんな兆しも見られない。

2018年10月29日月曜日

見田宗介『現代社会はどこに向かうか』(岩波新書)

 

mita.jpg・見田宗介はぼくにとって、学生時代から重要な人だった。真木悠介という名前で書いたものも含めて、ほとんどのものを読んできた。当然、ぼくがこれまでに考えたことや書いたものの中に、大きく影響したと思う。ところが、すでに80歳を超えているのに、『現代社会はどこに向かうか』というタイトルの新刊本が出た。退職と同時に研究者も「やめた!」と宣言したぼくとは違って、彼は生涯研究者であり続けている。まったく頭が下がる思いでこの本を読んだ。

・現代社会は一体、どこに向かおうとしているのか。最近の世界や日本の情勢からして、ぼくには悲観的なイメージしか浮かばない。しかし本書は違っている。この本によれば、現代は古代ギリシャから始まった巨大な曲がり角に変わる、第二の曲がり角にさしかかった時代である。第一の曲がり角以降二千数百年に渡って展開されてきたのは「貨幣経済」と「都市の原理」である。

貨幣経済と都市の原理と、合理化され普遍化された精神の力をもって、人間は地の果てまでも自然を征服し、増殖と繁栄の限りを尽くしこの惑星の環境容量と資源容量の限界にまで到達する。人間はどこかで方向を転換しなければ、環境という側面からも資源という側面からも、破滅が待っているだけである。(pp.ii-iii)

・社会学では「近代」を挟んで、それ以前を「前近代」、現代社会を「脱近代」として捉えるのが一般的だった。それが本書でははるかに長いレンジで捉えられている。それだけ、人類にとって現代が、大きな変化に遭遇した時代だという認識なのだと思う。その二千数百年ぶりに訪れた曲がり角の違いは、一言で言えば、世界の「無限」から「有限」への変化である。

・「世界」が有限であることがわかった人類は、未来をどう描いて実践していくべきなのだろうか。高度に産業化した社会はもうこれ以上の成長が望めないし、また望む必要もなくなっている。すでに高原に辿り着いた人間は、それを停滞として捉えるのではなく、競争ではなく交響、自然の開発ではなく交感を軸にした新しい社会を創造しなければならない。なるほど、そうだなと思った。有限な資源を使い尽くす前に、循環・再生型に変換しなければならないことは自明の理だし、環境問題についても、温暖化を食い止めることは喫緊の課題になっている。しかし政府は相変わらず経済成長の必要性を主張するし、利益や富を巡る争いはグローバルな規模で熾烈だ。

・競争ではなく交響、自然の開発ではなく交感。この可能性を著者は日本とヨーロッパ、そしてアメリカの青年達に特徴的な意識変化の中に見ている。さまざまな統計資料をもとにしながら注目するのは、「幸福度の増進」と「脱物質主義」、「寛容と他者の尊重」、そして「共存としての仕事」である。確かにこのような傾向は、最近の若者に見られるものである。しかしそれが、世界の政治や経済を動かす大きな力になるには、一体どれほどの時間がかかるのかと思うし、大きなうねりを起こす主役になるはずの若者はどこもおとなしい。

・他方で、グローバリズムの反動や、ヨーロッパやアメリカに押し寄せる移民などに対する内向きの動きなどが、国家主義的思想を強め、独裁的な指導者を支持する傾向にある。LGBTや障害者について改善されてきた人権意識にも、それを逆方向に戻そうとする動きもある。社会が大きく分断されて、互いの諍いが激しさを増してもいる。トランプ、習、プーチン、エルドアン、そして安部といったリーダーは、このような傾向を煽るだけである。

・もっとも「第二の曲がり角」は始まったばかりである。おそらくその流れが見えてくるのに数十年、数百年かかるのだろうし、実現するのは千年先かも知れない。その前に人類が絶滅してしまうことにリアリティを感じてしまうが、あるべき姿はこうだという「理想」は、捨ててはいけないと思う。

2018年10月22日月曜日

戸隠・鏡池

 

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・毎年10月中旬にはパートナーの誕生日を記念して一泊旅行に出かけることにしている。去年は宇奈月温泉に泊まって黒部峡谷に行ったし、一昨年は栂池から白馬を眺めてきた。で、今年は戸隠に行った。紅葉は河口湖ではまだ早いが、海抜1000mを超える場所なら始まっているかもと出かけたが、6、7分といったところだった。鏡池から眺めた戸隠山は所々雲に隠れていたが、切り立った崖の下に広がる紅葉は鮮やかだった。池にはさざ波が立っていたから逆さ戸隠ははっきりしなかったが、なかなかの風景だと思った。池を30分ほどで一回りした。

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photo82-7.jpg ・池の畔にあるどんぐりハウスで信州づくしの蕎麦ガレットを食べた。信州サーモンに鶏肉、チーズやキノコがはいったガレットはちょっと高かった(2000円)が、おいしかった。蕎麦ガレットはフランスのカンペールで初めて食べたが、以来、家でも時々作るメニューである。蕎麦粉は小麦粉とは違って独特の食感がある。フライパンで薄く焼くとぷつぷつと穴が空く。最近では、天ぷらにも小麦ではなく蕎麦粉を使うようになった。
・平日にもかかわらず多くの人が来ていた。週末はマイカー禁止で、シャトルバスが動くようだ。こんな景色は誰もいないところで見てみたい。そう思うのは誰も一緒だろう。しかし、そういうわけにはいかない。特に紅葉の季節では。

photo82-8.jpg ・宿は長野駅前のホテルだった。もう何年も電車に乗っていないから、駅が珍しい。中を歩き回るとみやげ屋だけでなく、いろいろの店があって、ショッピング・センターのようだった。新幹線が通っていて北陸の金沢まで繋がった。それらしい賑わいだったが、そのために信越線は分断されて、第三セクターのしなの鉄道などになっている。朝の道路は通勤の車で大渋滞だったから、電車で通う人がどのくらいいるのか心配になった。
・夕食はホテルではなく、近くの居酒屋に行った。街中に泊まった時にはこれに限る。そんな思いを改めて確認した。

2018年10月15日月曜日

栗と薪

 

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・台風が次々やってきて雨の日が続いたが、9月の末に珍しく秋晴れの日があった。これは逃してはいけないと、以前から行ってみようと思っていた伊豆の西海岸にある恋人岬や黄金崎に出かけた。黄金崎には奇岩が並び、そこに台風が近いことを感じさせる大波が打ち寄せていた。馬に見えるその名も「馬ロック」の口から、くり返し白い波が吹き出してくる。しばらく眺めていても飽きない光景だった。歩いて暑かったからと食べたわさびのソフトクリームは、舌がひりひりするほど辛かった。

forest153-1.jpg・秋といえば栗。毎年恒例だが、今年は豊作だった。自転車で河口湖から西湖に登る坂道の途中にある秘密の栗の木を、ほとんど独り占めしているのだが、今年はほかにも誰かが取った形跡があった。それでも自転車を漕いで三回、栗拾いに出かけた。取った栗はすぐに皮をむいて、水につけた後に渋皮を取る。全部で数百個もある栗をむくのは大変だが、いつかは終わるといいながら、全部向いて冷蔵庫で冷凍にした。もちろん、栗御飯も何度かやって、秋の味覚を楽しんだ。サンマも二回食べたし、筋子も二度買ってイクラどんぶりにしたから、秋らしい食事を味わうことができた。

forest153-3.jpg・孫が通う保育所で運動会があるというので朝早く出て東京に向かった。孫に会う時にはシュークリームを作ることにしている。今回は、カスタードとは別に、栗のあんこもつめた。というのも、最初のシューが膨らまなくてビスケットになってしまったからだ。おいしそうに大きなシュークリームを食べる孫の顔を見ると、作りがいがある。次会う時は、久しぶりにパンプキン・プディングを作ろうと思っている。
・肝心の運動会だが、2歳児になると、ちゃんと遊戯もするし、かけっこもする。1歳児は突っ立ったままだったり、泣き出してしまったりするが、2歳児は違う。3歳児なると、走るのも本気でたくましい。ひとつ違うとこんなにも成長するのかと、改めて感心した。会場には当然だが、子どもよりは両親や祖父・祖母の方がずっと多かった。

forest153-4.jpg・注文していた原木が届いた。去年と違って今回の木は細身のものが多い。チェーンソウで切るのも斧で割るのも楽だと思う。年内にはすべてを割って、もう一回原木を注文しなければならない。そして、雪がつもる前に全部を割り終えるつもりだ。毎年、いくつまでできるかと思いながら精出しているが、自転車もまだまだ衰えていないから、もうしばらくは続けられると思っている。来年早々70歳になるが、どちらも80歳までは現役でいたいものだ。

2018年10月8日月曜日

沖縄と原発

 

・沖縄知事選でデニー玉城氏が勝った。久しぶりの朗報で、8万票という大差がついたのは驚きだった。それにしても自公の選挙の仕方は猛烈で、しかもえげつないほど汚いものだった。建設などの業界を締めつけて投票を強制させる。根拠のないデマを流す。最大の争点である辺野古は隠しておいて、知事には権限のない携帯料金の値下げを訴える。官房長官や人気者の小泉進次郎をはじめとして、自公の国会議員を大勢送り込む等々………。にもかかわらずの大差の負けだから、政権や与党のショックはさぞかし大きかっただろうと思う。

・前回の知事選も含めて沖縄県民は二度続いて辺野古基地の建設に「ノー」を突きつけた。その意思表示はきわめて重いものだと思う。安部首相は「残念だ」とか「真摯に受け止める」とは言ったけれども、辺野古については何も話さなかった。民意を無視する不遜な態度だが、ニューヨーク・タイムズは、民意に応えて沖縄の米軍基地を縮小すべきだと主張した。日本の新聞には、これほど明確に意見を出したところはなかったようだ。

・安部が三期目の首相になった。あと3年続くのかと思うと暗澹たる思いだが、沖縄での敗北や、自民党総裁選挙での党員票の少なさなどから、終わりの始まりだという声も聞こえてきた。改造内閣も全員が日本会議の会員で、主要ポストは変えずに、大臣待機組を抜擢というお粗末なものだった。女は片山さつき一人で、甘利や下村といった汚職問題で逃げ回っていた連中が党の要職に就いた。世論なんか気にしないといった態度があからさまで、その驕りようは救いがないほどである。改造内閣の支持率が下がるのも当たり前のことである。

・四国の伊方原発の再稼働について、広島高裁が去年の12月に出した仮処分決定を取り消して、再稼働を認めた。仮処分の理由だった阿蘇カルデラの破局的噴火は社会通念上想定する必要がないという理由だった。いつ起こるかわからない噴火などは気にする必要はないとする判断で、地震や噴火がいつでも、いつどこで起こるかわからないものであることを無視したひどい判決だった。熊本の地震も、今年あった大阪や北海道の地震も、予知情報では、ほとんど起こらないはずのものだったのにである。

・その北海道では、地震によって全道が一時停電した。電源の中心を担っていた巨大な発電所が地震によって壊れたためだったが、原発が稼働していれば全電源喪失にはならなかっただろうという意見が多く出た。しかし、動いていなかったからこそ、原発に支障が出なかったと言えるわけだし、もし震源が原発にもっと近い所だったら福島の再現になりかねなかったかもしれないのである。太陽光や風力を使った分散型の電源システムに舵を切っていれば、という反省にしなければならない事故だったはずである。

・山梨県では来年1月に知事選挙が行われる。現職の後藤知事は前回自公と民主の推薦を受けて当選したが、次の選挙では自公は推薦しない方向で動いている。何をやったのか、やらなかったのかわからない地味な知事だから、違う人が出てもいいとは思うのだが、現知事は続けたいようだし、自民はもっと自民色の強い候補を立てたいと考えているようだ。ただし、山梨県連は長いこと分裂状態が続いていて、今回もまたもめている。

・ただその中で、選挙公約として富士山にケーブルカーを作ることを目玉にして立候補を狙っている人がいる。この計画はずい分昔から出されているもので、目新しくはないが、反対運動も強くて実現してこなかったものだ。そもそも活火山である富士山にケーブルカーを作るなどという発想は3.11や御嶽山の噴火、そして最近の地震や東南海地震の危険性が叫ばれる状況の中で、その事を無視したひどいものである。

・富士山周辺は世界遺産になってから観光客が激増している。富士登山客もすでに限界に達するほどになっている。その上ケーブルカーができれば、富士山にはもっと多くの観光客がやってくることになる。自然環境の破壊はもちろん、もし噴火が起これば、その観光客をどうやって避難させるか。そんなことをまったく考えない、利益や選挙ばかりを考えた計画だと思う。何しろ東南海地震が起こる確率は30年以内に70%だというのである。地震が起これば富士山も噴火するというのは、江戸時代に起きた宝永噴火が証明済みである。

・目先のこと、自分のことばかり考えて、将来のこと、社会のことには目をつぶる。都合の悪いことは隠したり、嘘でごまかしたりする。何から何まで、こんな傾向で溢れている。その元凶が現政権であることは言うまでもない。早くつぶれて欲しいとつくづく思う。

2018年10月1日月曜日

大谷君で久しぶりのMLB三昧

 

・NHKが中継した今年のメジャー・リーグは、ほとんどが大谷翔平だった。特に期待をしていたわけではなかったが、開幕早々の活躍にすっかり魅了されて、その後現在まで、中継した試合のほとんどを見てきた。投げて打って走る。そのどれもが一流だから、アメリカでも大きな話題になった。野茂にはじまり、イチローや松井が活躍してきたが、今までメジャー・リーグでプレイした日本人選手のなかで、投げても打っても走っても、最高のプレイヤーであることは間違いないと思った。

・もっとも、6月には右肘の靱帯を損傷して、1ヶ月試合に出られなかったし、3ヶ月ぶりに登板した試合で再度靱帯を損傷するという事態になった。もうすぐトミー・ジョン手術をするそうだから、ピッチャーとしては来シーズンも投げられないから二刀流はしばらくお預けになってしまう。まだ24歳で、これから10年以上プレイすることを考えれば、焦らずにしっかり直して欲しいと思う。何しろこんなに才能のある選手は、日本のプロ野球の歴史で初めてで、もう出ないかも知れないからだ。

・彼の今年の成績は投手としては10試合に先発して51イニングを投げ、4勝2敗、防御率3.31で三振を63取っている。また打者としては、104試合に出場して、打率.285でホームランを22本打ち、61の打点をあげた。盗塁も10個で、俊足を飛ばして2塁打にしたことも何度もあった。日本人離れした体格とは言え、キン肉マンのような選手たちから見ると彼はスリムである。しかし、その打球速度はトップ・クラスで、センター方向に打つホームランが、大きな魅力のひとつになった。

・大谷が所属するエンジェルスは、彼の活躍に牽引されて、アメリカン・リーグの首位争いをしていたが、怪我で欠場してからは失速して、早々とプレイオフ出場の見込みがなくなった。そこには故障した選手が大谷以外に何人もいたという理由もあった。7月末には正捕手や二塁手を放出し、不振の選手を解雇して、若手中心のチームになったから、勝てない試合を見ることが多かった。何よりリリーフ陣はお粗末で、勝っている試合を逆転されることが何度もあった。

・だから見ていてうんざりすることが多かったが、マイナーから抜擢された選手が徐々に力をつけていく様子も目の当たりにした。中には28歳でやっとメジャーに上がれたキャッチャーなどもいて、マイナーに落とされないよう必死にプレイする様子は、これまであまり気にとめることがない光景だった。何しろ後半戦はレギュラーの半数が新人で占められるほどだったのである。

・そんなふうに、久しぶりにメジャー・リーグの試合につきあったが、熾烈な争いをするチームの試合はそっちのけで、エンジェルスばかり中継するNHKの姿勢はどうかとも思った。故障したダルビッシュは別にして、田中投手が投げるヤンキースの試合を中継することはあっても、前田が投げるドジャースの試合はほとんど無視された。日本人選手が出なくても、見たい試合、選手はいくらでもいるのにである。MLBを中継してもう20年以上になるのに、日本人選手ばかり追いかける姿勢は相も変わらずである。

・去年のメジャー・リーグでは青木宣親選手が気になった。ヒューストン・アストロズに所属して.280前後の打率を残していたのに、トロント・ブルージェイズにトレードされ、すぐにまた解雇されて、最後はニューヨーク・メッツに拾われた。彼の出る試合の中継はほとんどなかったから、ぼくはもっぱらネットで彼の出る試合を追いかけた。今年彼はヤクルト・スワローズに復帰して、.330に近い打率を残している。.280と.330。これがメジャーと日本の差なのかと改めて認識した。

・とは言えメジャー・リーグはフライ・ボール全盛で、ヒットよりはホームランを打つ選手がもてはやされていて、三割打者は減っている。イチローの出現によってスモール・ベースボールが見直された時期があったが、ボンズやマクガイヤーやソーサが打ちまくった時代に逆戻りしたようだ。ぼくはもちろん、そんな傾向は大味な気がして好きではない。

2018年9月24日月曜日

言葉づかいが気になります

 

・日常生活でもですが、特にテレビを見ていて、言葉づかいが気になることが多くなりました。要するに、バカ丁寧と思われる話し方が、当たり前化しているのです。たとえば、テレビ番組に始めて出たタレントが「出させていただきました」というのは理解できるが、誰もがそんな言い方をします。それに影響されたのか、ゼミで学生が発表する前に、「発表させていただきます」と言ったりして、「いただきますはいらない、発表しますでいい」と言ったことも何度かありました。

・日本人の人間関係は上下を基本にすると言われてきました。言いたいことを言おうと思ったら、下手に出て相手の気分を害さないようにする。そんな態度は今に始まったことではありません。しかし、最近では、対等な立場の中にも、丁寧であることが望まれるかのような空気が漂っています。へりくだらなければ上から目線と思われるのではないかと恐れているのかも知れません。しかし、こんな言葉づかいをしているかぎりは、関係は少しも深まらないのではないかと思います。

・ぼくは、必要以上に丁寧な言葉づかいで話す人は信用しないことにしています。何か下心があるのではと疑りたくなるからです。こちらが客で、何とか買わせようとする店員やセールスマンはその好例でしょう。電話での売り込みには辟易としていますから、最近ではベルが鳴ると、ボタンを押して電話に「迷惑電話防止のため、お名前を名乗って下さい」と言わせることにしています。それで切る場合がほとんどですが、逆に、知人からの場合は、説明をして納得してもらうことも少なくありません。

・他方で、ネットでの見ず知らずの人に対する誹謗中傷や、ひどい言葉づかいも気になります。ヘイトな書きこみを躊躇せずにやったりする人も、現実の人間関係の中では、やっぱりバカ丁寧な言葉づかいをしているのではないでしょうか。その使い分けこそが、最近の言葉づかいに関わる最大の問題なのではないでしょうか。あるいは、店員や駅員に暴言を吐き暴力まで振るう人が増えたといった話も良く耳にします。自分が上であることがはっきりしている、とたんにそんな態度に出るというのも、同じことだと思います。

・気に入らないと言えば、政治家の発言の仕方です。「国民の皆様にご理解していただけるよう、丁寧にご説明申し上げます」などと言いながら、何の説明もしないのです。丁寧な言葉づかいさえすれば、中身の説明は丁寧でなくてもいい。都合の悪いことはすべて隠し通して、白を切る。国の政治を司る人たちがこんな態度ですから、国民全体に広まるのは仕方がないのかも知れません。

・ぼくはどんな人に対しても、対等であることを基本にしてきました。それは、高校や大学で習った先生などに、そんな態度で接してくれた人が何人もいたせいだと思います。目上であっても「〜さん」と名字ではなく名前で呼ぶ。そんな言い方を若い人からされるのは、距離が縮まった証拠と思ったものでした。しかし世の中の風潮は、それとは真逆に進行しているようです。

・もっとも、テレビですっかり定着してしまった感がある、知らない人に向かってタレントがする「おとうさん」「おかあさん」という呼びかけには、相変わらず抵抗があります。「おじさん」「おばさん」「おじいさん」「おばあさん」ではなく、なぜ「おとうさん」「おかあさん」なのでしょうか。結婚しているのかどうか、子どもがいるのかどうかわからない見ず知らずの人に、よく使えるなと思うのですが、そんなことをどこまで意識しているのか、と思います。

・妙に丁寧だったり、気安かったりすることに強い違和感を持つのはぼくだけなのかもしれません。しかし人間関係の親密さに応じた距離の取り方、それに伴う言葉づかいが壊れかけている。そんな印象を強く感じる今日この頃です。

2018年9月17日月曜日

フレッド・ピアス『外来種は本当に悪者か?』(草思社)

 

thenewwild.jpg・外来種は動物にしても植物にしても、在来種を駆逐して生態系を壊してしまう。だから、外来種は何であれ、駆除することが望ましい。そんな考えが一般的だろう。日本では、人間に害のある蜘蛛や蚊などが見つかった時に大騒ぎをする程度だが、きわめて厳密に入国を阻止したり、駆除を行っている国もある。たとえばニュージーランドでは、空港で靴の底を洗わされた経験があって、驚いたけれども違和感も持った。牛や馬、それに羊を持ち込んで、農業国として成り立っているんだし、何より最大の侵略者は人間ではないのか。あまりの厳格さに、そんな疑問を感じたからだ。

・フレッド・ピアスの『外来種は本当に悪者か?』は、そんな疑問に明快な答えを与える好著である。世界中の生態系に大きくて急速な変化が生まれるようになったのは、コロンブス以降の話である。それでアメリカやアフリカ、オーストラリアなどの大陸に大きな変化がもたらされた。都市が出来、道路や鉄道で繋がれ、鉱物資源が掘られ、農地が開墾されて、大地は大きく変容し、大気や気候までが変わってしまった。温暖化の影響が如実に表れているから、地球環境をこれ以上悪化させないために努力することが、喫緊の課題であることは間違いない。

・けれどもこの本を読むと、外来種を悪者扱いすることが、事実とは異なるイデオロギーであることがよくわかる。ナポレオンが流されたセントヘレナ島近くにあるアサシン島は緑に溢れた島である。しかし、この島はもともと植物の生えていない島で、緑で覆われるようになったのは、人間がさまざまな植物を持ち込んで植林をしたからだという。あるいはアマゾン川流域のジャングルは手つかずの原生林だと言われるが、そこには人間が作った畑などの遺跡が多数あって、それがなくなったのは、スペインやポルトガルが侵略した後だというのである。つまり、現在のジャングルには数百年の歴史しかないのである。

・あるいはアフリカのジャングルもまた、ヨーロッパ列強が争って植民地化する前には、多様な部族が住んで、家畜を飼い農業を営む土地が多くあったようだ。そして、アメリカ大陸同様アフリカでも、ヨーロッパ人が持ち込んだ雑菌によって、多くの人や家畜が病死してしまったという。中でもひどかったのはヨーロッパから持ち込まれた牛が持っていた牛疫ウィルスによって、アフリカ在来の牛が全滅したことだった。牛や人がいなくなった牧草地がジャングル化するのにそれほどの時間は必要ではなかった。そして植民地にしたヨーロッパの国々は、再生したジャングルを動植物の保護を理由に国立公園化し、人々が住むことや家畜を放つことを禁じた。だから、ライオンや象が生きるアフリカの地は残された自然などではないのである。

・アマゾンやアフリカがそうであるように、現在の地球には手つかずの自然などはどこにもない。この本が主張しているのはこの点である。生態系と言っても、それは決して安定したものではなく、常に変化し続けている。人間が介在して変えてきたことは間違いないが、それはまた、人類の長い歴史の中で絶えず行われてきたことでもある。人類はアフリカで生まれて、数万年の時間を経て世界中に広がった。その過程で変容した環境や生態系は決して小さくはない。近代化の過程で意に反して繁茂し、人間には役に立たないと思われている外来種が悪玉化され、そのすべてが駆除されるべきであるかのように主張されてきた。それは「優生思想」に通じるし、最近の移民や難民を排斥する動きにも繋がっている。

・この本の原題は"The New Wild"である。「自然」や「野生」という概念を新しく定義し直すべきという意味でこのタイトルがつけられている。在来種の保護と外来種の駆除に躍起になるのではなく、その混在をできるだけ自然に任せる。その意味で、現在の地球環境では、都市こそが適しているという。あるいは農業放棄地、工場跡地、そしてチェルノブイリやビキニ環礁といった放射能に汚染された所でも、動植物の生態はにぎやかだという。生態系は壊れやすいかも知れないが、すぐに形を変えて復活する。自然の力はたくましい。ただしそれが人間にとって、好ましいかどうかはまったく別の問題である。

・現代の人間が地球環境に与えてきた影響は、人類を始めとしてさまざまな生物の生存を脅かすかもしれない。しかし、自然は必ず生き延びる。環境の変化に対応できるように進化したり、新しい生命が誕生したりするからだ。たとえ人類が滅びても、地球上にはまた、多様な生物が繁栄する。それならそれでいいのかも知れない。そんな読後感を持った。

2018年9月10日月曜日

夏の終わりに

 

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forest152-2.jpg・猛暑に台風、今年の夏は河口湖でも暑かったし、台風では大雨が降り、風も強かった。風が吹けば、家の周囲の木は大揺れになる。枝が屋根にドスンと落ちるが、今度の台風では、大木が幹ごと折れるのではと心配になった。幸い、そういうことはなかったが、積んである薪が、二度の台風で二度とも崩れた。雨を吸って滑りやすくなったのと風で見事に崩れたが、放ってはおけないので、すぐに積み直した。濡れた薪は重いし、台風一過でやたらに蒸し暑い。蚊にも襲われながらの汗だくの作業だった。やれやれ。しかし、台風シーズンはこれからだから、こんなことがまだあるのかも知れない。

・我が家にはエアコンはない。必要なほど暑くはならなかったからだが、今年は欲しいと思う日が何日もあった。町では役場にも学校にもエアコンはない。しかし、今年の夏は例年に比べて平均気温が二度以上も上昇したから、学校からエアコンをつけるようにするそうだ。我が家はどうするか。来年も同じように暑かったら、つけることにしようか。そんなふうに思っている。

forest152-3.jpg・こんなふうだったから、我が家でもいつもと違うことがいろいろあった。毎年夏に収穫する楽しみだったミョウガは、葉っぱが見事に成長したから、さぞかしたくさん収穫できるだろうと楽しみにしていたのだが、まったくの不作だった。いつもなら葉が茶色くなるまで取れるのに、今年はまだ青々しているうちから、ミョウガが出なくなった。
・かご脱け取りの蛾眉鳥が朝夕うるさいほどに鳴くのは数年前からだが、今年は今まで聞いたことがないミンミンゼミの鳴き声が聞こえるようになった。温暖化の影響で生き物の生態にも確実に変化が出始めている。そんなことを如実に感じた。

forest152-4.jpg・観光客の多さも例年以上で、湖畔でキャンプする人たちもごった返すほどだった。車はもちろん自転車も多いから、のんびり走るというわけにはいかなかったし、暑いのと雨が多いのとで、7月は自転車を自重する日が多かった。カヤックもなるべく早い時間にと何度か出かけたが、早朝からかなりの人手だった。
・そんな喧噪も、9月になったらだいぶおさまった。終末や連休を除けば、誰もいない湖畔をサイクリングすることができる。ただし、紅葉が始まれば、また平日でも団体客で賑わうだろう。

・今年の夏は、日本列島も散々だった。北大阪の地震、四国、中国地方の集中豪雨、猛烈な風と豪雨を伴う台風の連発、そして北海道の地震だ。しかし今年の夏だけが特別だとは思えない。地震はいつどこで起きても不思議はないし、天候の変化は異常ではなく、常態化してもいる。大きな被害はなかった我が家でも、気温の上昇などは毎年のことになっている。

2018年9月3日月曜日

何より駄目な日本

 

・テレビは相変わらず、日本のここがすごいといった話題を取りあげているが、ニュースと言えば、ここも駄目、あそこも駄目といったものばかりだ。政治や経済、そしてスポーツや芸能といった文化の面でも、この国のひどさ加減が露呈している。中でもひどいと思ったのは、官公庁や自治体の障害者雇用水増し問題だ。

・日本では「身体障害者雇用促進法」として1960年に制定されたから、すでに60年近い歴史がある。この法律は87年には知的障害者も適用対象になり、2006年には精神障害者も対象になった。事業主に一定の割合で障害者を雇用する義務を課したもので、違反すれば罰金を払わなければならず、民間企業には厳しく適用されてきた経緯がある。ところが今回発覚したのは、国の行政機関や自治体で、決められた割合を障害者ではない人で埋め合わせてごまかしてきたというものだった。しかも、ごまかしは最近始めたものではなく、長期間にわたるものだったようだ。

・障害者を雇うためには働く環境をバリアフリーなどにしなければならない。どんな仕事なら働いてもらえるか、時間はどうか、補助はどの程度必要かなど、受け入れる事業所は対応しなければならない。行政は民間企業などに対して、かなり厳密に監督をしてきたのに、自分のところは適当にごまかしてきたのであるからその罪は重いと言わざるをえない。

・森友加計問題に際して各省庁は、証拠となる記録を隠したり、改竄したりして、そのひどさが明らかになっている。しかもセクハラ、パワハラ、賄賂、裏口入学などと言った不祥事も続発していて、そのひどさ加減は驚くばかりだが、責任を取ってやめた大臣が一人もいないというのもおかしな話である。首相を始め閣僚達には、責任を取る気はまったくないのだが、それを批判したり、抗議する声も強くならない。

・隠蔽や改竄は経済界でも頻発している。これまで問題になった企業名も、いちいち覚えていられないほどだ。ぼくはスバルの車を愛用するスバリストだから、検査態勢の不備やデータ改竄のニュースにはがっかりした。しかし、同じようなことはほかの自動車メーカーでもやっていて、慣行になっていたようだ。技術や品質管理の良さは日本が何より自慢にすることだったはずだが、もうメイド・イン・ジャパンだから信頼できるとは言えなくなってしまった感がある。

・スポーツ界の不祥事についてはすでにこのコラムでも取りあげた。アメフトや相撲、あるいはサッカーの日本代表にまつわるものだったが、その後でもレスリングやボクシング、そして体操などと続出している。各団体の体質の古くささや閉鎖性、あるいはワンマンさといったことが指摘されているが、犠牲になるのはいつでも若い現役の選手である。しかもその若い選手が沈黙するのではなく、公の場できちんというべきことを主張しているから、権力を握って好き勝手をやってきた年寄りの醜さが目立つばかりである。

・自民党の総裁選挙に立候補をした石破茂が、その公約に「正直と公正」をあげた。安倍政権が不正直で不公正であることは自明の理だから、あまりに素直すぎて笑ってしまったが、それを個人攻撃だからやめろと言った議員がいたようだ。安倍本人も石破との論争を避けて逃げ回っているが、これまでやってきたことにやましさを感じてというのではないだろう。自覚があればとっくに辞めているはずだからである。嘘を平気でくり返す性格は、もうサイコパスと診断してもいいほどなのだから。

・現在の日本にはプチ安部がたくさんいる。それが組織を牛耳って好き放題をやっている。下に仕える人たちは、逆らうことなど出来ずに渋々従うのみだ。自分は、自分が所属する組織は「正直で公正か」。そう問いかけて、そうだと応えることが出来る人がどれだけいるのか。出来そうもないから、他人も批判しない。そんな空気が蔓延しているように思う。

2018年8月27日月曜日

ボキャヒン、高音、わざとらしさ


・夜の地上波はバラエティ番組ばかりで見る気もしない。よくもまあ、お粗末な番組を毎日毎日やっているものだとあきれるばかりだ。ちょっとおもしろそうなテーマだと思っても、見始めた時にひな壇にお笑いタレントが並んでいれば、もう駄目だと思ってチャンネルを変えてしまう、最近ではNHKでも似たような構成のものが目立つ。だからどうしても、見るのはBSということになるのだが、バラエティ形式の侵入はBSの番組でも顕著で、見たいものがどんどん減っていってしまっている。

・たとえば田中陽希が、今年は日本三百名山一筆書きをやっている。数ヶ月おきにその行程をたどる番組があるのだが、なぜ途中で、トレッキングなどやりそうもない女の子達が出てきて、わいわいやるのかわからない。以前は田部井淳子などが出ていたのだが、亡くなってから山歩きの専門家を出すこともなくなった。
・ほかにもトレッキング番組はよく見ているのだが、歩くのが若いタレントの場合には、途中でうんざりしてやめてしまうことが少なくない。ガイドに頼りきりで無知丸出しのうえ、発することばと言えば「すごーい」の連発だったりする。草花や動物を見かけても「かわいい」しか出て来ないし、「やばい」なんてことばも使われたりするからだ。「ボキャヒン」はすでに死語かもしれないが、このことばがよく使われた頃より、もっとひどくなっている。

・それは旅番組でも変わらない。いくら仕事とは言え、出かけるのなら、事前に予習をして、ちょっとでも予備知識を持って行けよと言いたくなることが少なくない。知らないから驚く。そこでおきまりのことばが出てくる。しかもテンションが上がって高音になるから、やかましいだけになる。うんざりするのは、そこにわざとらしさが丸見えになったりする場合だ。そうなったらもう、続けてみる気がしなくなる。
・もちろん、出てくるタレントのすべてがそうだというわけではない。自分でもトレッキングをしたり、旅に出かけたりしている人もいて、その落差が激しいから、この種の番組を見る時には、出演者が誰かを調べてからにするようになった。

・テレビを見ていてもうひとつ気になるのは、女子アナに高音で話す人が多いことである。甲高い声でしゃべられるのは聞きづらいものだが、ほかの視聴者は気にならないのかと不思議に感じることが少なくない。もちろん甲高くなるのは、緊張していたりするからということもある。新人アナは同時に表情も硬いから、これは経験不足と聞き流すこともあるが、いつまで経っても高音が直らないと、そのニュース番組はもう見たくないということになる。そんな人は天気予報をする人にも多い。高音はアナや予報士には向かないという基準がないのだろうか。

・NHKBSでやっている「クール・ジャパン」は、日本で生活している外国人が日本や日本人について、自らの経験にもとづきながらクールかクールでないかを議論しあう番組である。その中で、日本人の若い女の子達の声が高いことが話題になった。高い方がかわいらしく聞こえるからだと言って、それは子供っぽさの演技だが、自分の国ではばかにされるだけだという批判をしている人がいた。まったくその通り、とぼくは思わず声を出してしまった。

・かわいらしく振る舞うこと。これは今、テレビに出るタレントや女子アナばかりでなく、若い女達が共通に意識していることなのではないかと思う。だから知っていても知らないふりをする方がいい。予備知識など持っていない方がいい。教養などは必要ない。その方が、見ている人や相手は喜ぶに違いない。それをコミュニケーション力だと思っている人が増えたのだとすれば、とんでもない誤解で、こんな風潮は困ったものでしかない。

2018年8月20日月曜日

Chavera Vargas

 

"Macorina"
"Las 20 Grandes de Chavera Vargas"

julieta.jpg・『ジュリエッタ』はアリス・マンローの短編をヒントにしたペドロ・アルモドバルの作品だ。結婚して女の子が生まれたが、夫の浮気や、それを叱責したことが原因になった、海での夫の遭難死などがあり、その事が理由でまた娘が家出をしてしまう。それらをひきずりながら人生を送り、娘との再会を願う女の物語だった。ちょっと深刻でわかりにくかったけれど、スペイン人の監督らしく、色合いが鮮やかで、シーンが美しかった。この監督の作品をほかには何も見ていなかったし、特に興味があったわけでもなかったが、主人公が旅行に出かけるカバンの中に坂本龍一の本かCDが入っているのを見つけたりして見始めて、結局、最後まで見た。で、最後に聞こえてきた歌に聞き覚えがあった。年老いた女性の声で、すぐに『サン・パトリシオ』に入っていたことに気がついた。

journal1-134-3.jpg ・『サン・パトリシオ』はこのコラムで以前に少しだけ紹介したことがある。ライ・クーダーとチーフタンズの共作で、メキシコとアメリカにまたがる地域で集めた歌でできている。サン・パトリシオは1836年にメキシコとテキサスとの間で戦闘が行われた地でもある。アイルランドやスペインのガルシアとバスク、そしてポルトガルなどから移り住んできた人たちが持ちこんで、歌い継いできた音楽だから、メキシコだけでなく、フラメンコやケルト、カントリー、そしてファドなどを感じさせる不思議な作品だった。その中でひときわ際立っていたのがチャベーラ・ヴァルガスの歌う「月の光」で、しわがれた声で、時々息が継げずに途絶えたりするのが印象的だった。

chavera2.jpg ・チャベーラ・バルガスは1919年にコスタリカにで生まれたメキシコ人で2012年に亡くなっている。メキシコを代表する歌い手でアメリカやヨーロッパでもよく知られているようだ。脊髄性小児麻痺を患いながらストリートで歌い始め、30歳を過ぎてからプロ歌手になった。50年代から70年代にかけては数多くのアルバムを作り、海外にも積極的に公演をして廻ったが、70年代の後半にアルコール中毒を理由に活動を休止した。しかし、酒を断って90年代に復活している。その時すでに70歳を越えていたが、亡くなる直前までステージに立っていて、『サンパトリシオ』で歌ったのは死ぬ2年前だった。手に入れた『マコリーナ』は復活後の94年から96年にかけて作られたものである。

chavera1.jpg ・もう一枚の『Las 20 Grandes de Chavera Vargas』を含めて、彼女の歌を聴いて感じるのは、にぎやかで明るいイメージのあるメキシコ音楽ではなく、ポルトガルのファドのような愛惜に満ちた世界である。だから当然、日本の演歌にも通じている。日本人の心の歌といわれる演歌は、古賀政男以降のもので、その源流は、彼が弾いたマンドリンとファドにあるのだから。残念ながら、彼女が歌っている歌の歌詞はスペイン語だからわからない。
・チャベーラは80歳を過ぎてから、レスビアンであることをカムアウトしている。その相手であった画家のフリーダ・カーロを主人公にした『フリーダ』では、自ら登場して「La Llorona(The Weeping Woman)」を歌っている。50年代には男装で歌う異端の歌手として、先ず注目されたようだ。たんなるおばあちゃん歌手ではなかったんだ、と改めて聴き直している。

2018年8月13日月曜日

オリンピックはやっぱりやめましょう

 

・猛暑の中で行わなければならないオリンピックのために、2年限定でサマータイムを導入しようといった計画が出ています。2時間早起きしたって焼け石に水だと思いますから、策を講じたことを示したいだけなのではと勘ぐりたくなります。そのために変えなければならない事柄を考えると、たかがオリンピックのために、何を考えているのでしょうか。オリンピックが終わったらまた元に戻すというのですから、ご都合主義もいい加減にしろと言いたくなります。10月にとは言わないまでも、酷暑を理由に1ヶ月ずらして欲しいとIOCに言えばいいだけの話だと思うのですが、政権には、そんな気はまったくなさそうです。東京の夏は温暖で過ごしやすいなんて嘘をついたから、今さら言いだせないのでしょうか。

・大会中のボランティアについても、おかしな提案がいくつも出されています。ボランティアとは自発的にすることであって、ただで働くことを意味しないのですが、無給であるだけでなく、食事も交通費も宿泊費も自腹でというのですから、必要な人数を確保するのが難しいのは、わかりきったことでした。ところが文科省は大学や専門学校の学生の参加を促すために、授業や試験日程の繰り上げや祝日授業の実施を言い出しています。5月のゴールデンウィークに授業をやるなどと、いち早く対応した大学も出始めました。これでは参加を強制するようなものですから、「ボランティア」といったことばは使えないことになります。

・大学の授業は文科省の強い指導で年間30回を必ずやらなければならなくなりました。さまざまな理由で休講をすることが当たり前に認められていたのですが、今では休講したら必ず補講をすることが義務づけられています。ところがオリンピックに限っては、授業回数に読みかえても良いなどと言い出すのですから、開いた口がふさがらない話だと思いました。その文科省は入試疑惑や受託収賄容疑などが次々問題になって批判の的になっています。ひどい所だと思いますが、他方で森加計問題でリークが相次いだことに対する政権の報復だといった指摘も出されています。

・テレビのニュースは連日トップニュースで、命に関わる危険な暑さだと警鐘を鳴らしています。日中にスポーツなどもってのほかだと思いますが、高校野球では相変わらず熱戦、熱闘、そして感動などといって煽っています。視聴率や部数を気にしてのことだと思いますが、オリンピックも甲子園も、新聞やテレビはほとんど暑さを問題にしていません。メディアの多くはオリンピックを協賛する立場にいますから、開催を危惧するような問題提起は出来ないのでしょう。

olympic4.jpg・中でも、オリンピックに一番関わっているのは電通だと言われています。『電通巨大利権』(サイゾー)の著者である本間龍によれば、「招致活動からロゴの選定、スポンサーの獲得、放映中のテレビ・ラジオのCM等の広告宣伝活動、全国で開催される五輪関係行事、五輪本番での管理・進行・演出等、文字通り全部に電通が1社独占で介在」しているのです。招致活動における嘘の指南(福島原発はアンダーコントロールや東京の夏は温暖)やIOC委員への賄賂疑惑、ロゴ選定のいかがわしさや盗作問題、スポンサーの獲得(4000億円と言われているが詳細は非公開)、そして10万人のただ働きに文科省に圧力等々、この会社がオリンピックについてやってきたことには、うさんくさいことが多すぎるのです。

・電通は安倍首相や政権の演出にも深くかかわっていて、憲法改悪の国民投票が現実化する際にも、テレビや新聞等でのキャンペーン活動を任されていると聞いています。金に糸目をつけずに嘘八百のテレビCMを流されたら、投票が賛成多数になる危険性は十分にあるのです。広告料はメディアにとってのどから手が出るほど欲しいものですから、中身がどうであろうと、平気で垂れ流すことでしょう。

・オリンピックはすでにスポーツの祭典などではありません。巨額な金が動く巨大イベントで、「オリンピック憲章」に書かれていることとは似ても似つかないものに変質しています。政権は招致理由に経済効果を上げましたが、無理がたたって、開催後には経済不況がやってくると指摘する経済学者も少なくありません。オリンピックを間近に見たいなどといったナイーブな発想で期待していると、猛暑以上に恐ろしいことがやってくるかもしれません。今からでも、やっぱりやめましょう、といった声を上げる必要があると思います。大会を返上した場合の違約金は1000億円だそうです。高いと思われるかも知れませんが、役に立つかどうかわからない「イージス・アショア」1基にも満たないのです。


2018年8月6日月曜日

白神山地

 

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photo81-2.jpg・去年の鳥海山、月山、蔵王に続いて、今年は白神山地に出かけた。関越道から日本海を北上するルートは去年と同じで、一泊目は鳥海山の麓の象潟にした。途中鶴岡のクラゲ水族館で一休み。平日なのに大勢の人で、年間100万人を超える入館者があるという。鳥海ブルーラインを走って上まで行ったが、去年より残雪が少ない気がした。宿からは日本海に沈む夕日が鮮やかに見えた。翌日はさらに北上して十二湖まで。早めに着いたので、いくつかの湖を散策した。温度はたいしたことなかったが湿気がすごくて汗びっしょりになった。このあたりの名称は十二湖だが、実際には大小合わせて33もあるようだ。

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・三日目は白神山地に向けて白神ラインを走る予定だったが、通行止めなので岩木山をぐるっと回るルートになった。岩木山の有料道路はヘアピンカーブが69もあって8合目まで上がったが、上は霧がかかって何も見えなかった。白神山地は広大なブナ林が有名で、世界遺産にもなっている。道路も未舗装で車が泥だらけになったが、その割に、どこにでもあるブナ林しか見ることが出来なかった。テントと食料を持って、何日も歩き回ってこそ、そのすごさに触れることが出来るのだと改めて思った。

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・四日目の朝は宿から岩木山がよく見えた。晴れていれば頂上から北海道まで見えるようだ。この日は弘前から仙台まで走った。弘前は城下町で落ちついた感じだった。ねぷた祭りが始まっているのだが、山車の場所はわからなかった。下道を走って大館まで行き、そこから東北道までの山道を走ると尾去沢の銅山跡があった。坑道見学が出来たので入ると中は13度で肌寒いほどだった。ここは銅だけでなく金もたくさん取れたようだ。歴史も古く奈良の東大寺の金箔に使われたそうだ。鹿角から高速に乗って仙台までひとっ走り。七夕祭りで賑わう町は渋滞がひどくて、宿までずい分時間がかかった。

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・五日目は仙台から河口湖まで。途中三度ほど休憩して、東北道、圏央道、中央道を一気に走った。金曜日なのに道路は混んでいて、SAもPAも一杯だった。去年もそうだが、もっとゆっくり予定を組むべきだったと改めて思った。

2018年7月30日月曜日

佐々木裕一『ソーシャルメディア四半世紀』(日本経済新聞社)

 

socialmedia.jpg・四半世紀は25年だから厳密には、この本が分析対象にするのは1993年から2018年までということになる。しかし1993年はブラウザのモザイクや、そこにホームページなどを作成するHTML1.0が公開されたばかりの年である。だからもちろん「ソーシャルメディア」といったことばも存在しなかった。一般に使われるようになったのは2006年だと言われている。
・実際本書が扱う「ソーシャルメディア」は2001年からで、5年刻みで五部構成になっている。500ページを超える大著で、主にビジネスとして成立することを目指したユーザー・サイトについて、その設立者や運営者にインタビューをしながら、長い時間をかけてまとめたものである。25年ではなく18年ほどだが、インターネットとそれに関連する世界の急速な変容が整理された好著だと思う。

・ぼくがインターネットに接したのは1995年で、大学の研究室からだった。電子メールという新しい通信手段を使い、ネットスケープ(ブラウザー)によって国内はもちろん世界中のサイトを訪ね歩いた時の驚きや興奮は、今でも良く覚えている。サイトを探す時に使う検索エンジンはYahooで、できたばかりのAmazonで洋書を購入するようになった。書店を通すのとは段違いに早く、低額だったから、一時は研究費の多くを洋書に費やすほどだった。海外のサイトでものを買ったり、ニュースに直接アクセスするという経験は、それほどに新鮮なものだった。
・またHTMLを覚えて、1997年からこのサイトを作り始めた。もう21年になるが週一回の更新を一回も休まず続けている。始めて数年経つと一日100前後のアクセスがあり、その数は多少の増減はあったが、今でもほとんど変わらない。1999年に勤務校を変えたが、そこから数えてアクセス数はもうすぐ78万になる。単純に割ると1年のアクセス数はおよそ4000ということになる。増えもしないが減りもしない。見捨てられるのはさみしいが、やたら増えすぎても対処できなくなる。だからぼくはこの数に安心し、満足している。

・この新しい通信手段にどんな新しい世界が作り出せるか。そしてどうしたらビジネスとして成り立つか。インターネットの四半世紀は、そういう夢や野望を持った人たちの戦場という一面も持っている。万単位の人を集めるために考えられた一つが、ユーザーに積極的な参加を求めるものだった。アクセス数が増えれば、そこに広告を載せることが可能になる。あるいは参加者に課金することも出来るようになる。しかし、対処すべき課題は魅力的なサイトにしてアクセス数を増やすことだけではない。インターネットはただで利用できるメディアだという通念を、どうしたら変えることが出来るか。広告の内容とアクセス者のマッチングはどうしたら可能か。ビジネスサイトの創設者や運営者は、絶えず、このような難問と取り組むことになった。

・この本に登場するのは商品や店について、消費者どうしの情報交換の場を提供した「カカクコム」や化粧品の口コミサイトの「@cosme」、「食べログ」、質問と応答の場である「はてな」、電子掲示板の「2ちゃんねる」、ネットワーキング・サービスの「mixi」「GREE」「LINE」、そしてオンラインやソーシャル・ゲームを提供する場等々である。この中には年商が数百億円になったものも少なくない。あるいは「LINE」や「メルカリ」のように、公開した株価が総額で1000億円を超えるといった規模になっているものもある。

・ここにはもちろん、インターネットを支えるインフラの進歩や変化もあった。「ブロードバンド」が普及したのは2000年代で、それによって動画などの大容量のデータがやりとりできるようになった。2010年代になると、ネット利用にスマートフォンが加わり、パソコン以外で大量の人がアクセスするようになった。それに合わせて広告の仕方も代わり、またその規模も飛躍的に拡大した。

・いつでもどこでもスマホでネット。今はもうこういう時代になっている。「思想を持ったスモールメディア」(第一部)が「ユーザーサイト・アズ・ビッグ・ビジネス」(第二部)になり、「ユーザーサイトの黄金期」(第三部)を迎え、「メディアから仕組みへの助走」(第四部)を始めるようになった。世界中の人が多様な使い方や接触の仕方をすることを可能にしたメディアが、いくつかの巨大な企業によってコントロールされ、アクセスする人たちの自発的な行動から、簡単で便利な受け身的なそれに変わってきた。

・実はこの本の著者は、大学で同僚だった人である、広告やネットビジネスが専門領域だったから、ビジネスにも広告にも批判的で無関心だったぼくは、どんな研究をしているのか、ほとんど知らなかった。実際この本でも、ネットビジネスの可能性を追求する人たちに対するたくさんのインタビューについては、こういう人たちがネットを変容させてしまったんだと思いながら読んだ。何しろぼくはインターネットは今でも、「思想を持ったスモールメディア」であるべきだと思って実践しているのである。

・もっとも著者の佐々木さんは、大学では教務主任などの激職を長期間やり、学部の運営を支えてきた人である。こういった職に就くと研究自体を忘れてしまう人が多いのだが、彼は研究者としての自分の仕事を続け、大著をものにした。この本を贈られ、手にして読み始めた時に感じたのは、校務に負けずに頑張った、その努力や熱意に対する敬服の念だった。ご苦労様、そしてこれからもいい仕事を。

2018年7月23日月曜日

暑い!暑い!

 

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forest151-2.jpg・連日の猛暑。河口湖でも30度を超える日が続いている。夜になってもあまり下がらないから、窓を開け放して寝ている。こんな経験は引っ越して以来なかったことである。ここ数年、暑さがどんどん厳しくなっているから、もはや異常気象などとは言えないだろう。暑くなる前の豪雨と合わせて、今までとは違う気象状態になったことを自覚すべきだと思う。集中豪雨の被害だって、毎年、どこかで大きな被害が出ているのだから。

・そんな陽気のせいか、我が家では例年になく早く、ヤマユリが咲き始めた。繁茂する雑草の中に、白い大きな花がいくつも咲いて、ユリ独特のにおいが、あたりに香っている。以前は猿の群れが来て、花を食べていたが、去年から、猿の群れをほとんど見かけなくなった。桑の実や栗を食べに来て悩まされることが年中行事だったが、来なければ来ないで寂しい気にもなる。駆除されたのかも知れない。

・1週間ほど雨が降り続いて自転車に乗れなかったので、暑いとはいえ、毎朝自転車に乗るようにした。25、6度だから走れば風が涼しいが、走っている途中はもちろん、帰ってからも、ボトル1本ほどの水を飲んだ。ハンモックに揺られて体の火照りを冷まそうと思っても、いつまで経っても汗がひかなかった。疲れも取れないし、いつまでも高温が続くから、しばらく乗るのを控えた。

・河口湖でこんな様子だから、40度近い気温が続いているところでは、外に出ることすら避けたくなるだろうと思う。気温が体温を超えているのだから、仕事はもちろん、日常生活だって満足にはおくれないだろう。実際、毎日何千人もの熱中症患者が救急搬送されて、すでに何十人も亡くなったようだ。もう問答無用の暑さになってしまっているのに、この時期になると決まって、学校にエアコンをといった意見が蒸し返される。あるいは、気温を考慮せずに校外での活動をして、生徒が熱中症になった事例が、毎日のように報じられている。

・びっくりするのはそういったニュースと並べて、“熱戦”などといって甲子園野球の予選を報じていることだ。選手にも観客にも熱中症が多発しているのに、やめたらとか、夜にやったらといった声はほとんど聞こえてこない。2年後のオリンピックが猛暑の中で行われることについて、日程の変更などを言い出す人も多くない。海外からはすでに開催を危惧する記事も出ているから、参加を見合わせるような動きが出るかも知れない。

・状況を自分で判断して対応を考える。そんなことが出来ない人が多いのだなとつくづく思う。先月の大阪北部地震は通勤通学時だったが、引き返さずにそのまま会社や学校に行った人が多かった。最近の猛暑の中でも、決まったことだからとやめない人が多いようだ。何より、政治家などのリーダー役を担う人たちの中に、そんな気質が蔓延している。何しろ原発事故があって、とんでもない被害が出たのに、まだやめようとしないのだから、この国はもう救いがたい所まで来てしまっているのではと思ってしまう。