2019年3月25日月曜日

初めてのウィリー・ネルソン

 

Willie Nelson "To All The Girls........"
"Healing Hands Of Time"
"Star Dust" "Last Man Standing"

・ウィリー・ネルソンはよく知っているミュージシャンだが、彼のCDは一枚も持っていなかった。なぜか?ちょっとポピュラー過ぎるということもあるし、これはいいと思った曲に出会わなかったのかもしれない。それに、彼に限らないがぼくはフォーク・ソングは好きだがが、カントリーはそれほどでもない。フォークに比べてカントリーは、アメリカの保守的な層が支えてきた音楽だと思っていたからだ。
・とは言え、彼はまた、フォーク・ミュージシャンとの交流が多かった人でもある。ボブ・ディランの30周年記念コンサートに出ているし、『ブロークバック マウンテン』ではディランの持ち歌でトラディッショナルの「ヒー・ワズ・ア・フレンド・オブ・マイン」を歌っていたし、アメリカの農民たちの厳しい境遇を訴えた、ディランとの共作の「ハートランド」という歌もある。また、ウッディ・ガスリーのトリビュート・アルバムにも参加している。アルバムを一枚も持っていないのは不思議だな。と今さらながらに思った。

nelson2.jpg・というわけで、ウィリー・ネルソンのアルバムをいくつか買ってみた。さて何にしようかと探して、とりあえず選んだのは女性ミュージシャンとのデュエットを集めた"To Alll The Girls......"(2013)だ。共演者はシェリル・クロウ、エミルー・ハリス、ノラ・ジョーンズ、ブランディ・カーライル、ローザンヌ・キャッシュ、ドリー・パートン等々と多彩で豪華だ。全部で18曲が収録されている。もちろんそこには、フォークとカントリーといった区別はない。ウィリー・ネルソン自作の歌も数曲あるが、フォーク、カントリー、それにロックなどもある。父と娘、あるいはおじいちゃんと孫娘が仲良くデュエットして、ほのぼのとした雰囲気が伝わってくる。こんなふうにジャンルを超えた女性ミュージシャンと一緒に歌えるということは、彼の音楽的な力はもちろん、人間性にもよるのだろうなと思った。ちなみに彼は1933年4月生まれだから、もうすぐ86歳になる。

nelson3.jpg・ウィリー・ネルソンのベスト・アルバムは何だろうか。これまで70ほどのアルバムを出している中からネットで調べて"Healing Hands Of Time"(1994)を選んだ。「ウィリー・ネルソンの掛け値なしの傑作」と題名のついたページには、彼の声が「苦労の多い人生が作り出したものである」という記述があった。どんな苦労があったのか知らないが、確かに声だけでなく顔に刻まれたしわからも、それはうかがい知ることができる。このアルバムはそんな彼の風貌や声とは違って、ストリングスを使った美しい調べになっている。そんな所が、彼に惹かれなかった理由かもしれないと思いながら聴いた。もう一枚の"Star Dust"もタイトルでわかるように、スタンダード・ナンバーを集めたものである。なじみの曲をネルソン流に歌っていて悪くはないが、イージー・リスニング過ぎて飽きてしまう。

nelson1.jpg・もっとも、自作の歌詞には文学的でいいものが少なくない。


君を失った間
時という癒やし手が働いて
やがてぼくの心の中から君が消えた
≪中略>
目を閉じて眠りにつかせるのも
時という癒やし手 "Healing Hands Of Time"

・長田弘の『アメリカの心の歌』(岩波新書)にはウィリーについての、次のような描写がある。「誰からも愛されてきただけでなく、誰からも信じられてきた。生き方はむしろ八方破れで、保守にくみしない人生は決して穏やかなものとは言えない。そうであって、つねに無垢の人、微笑の人でありつづけてきた。」改めて聴いて、そうかもしれないと思った。

nelson4.jpg・ウィリー・ネルソンはまだ現役だ。最近でも二枚のCDを出している。一つはフランク・シナトラのナンバーを集めたものだが、もう一枚は全曲彼のオリジナルで、しかも新作のようだ。その"Last Man Standing"は、はじめに戻ったようなシンプルでカントリー風のサウンドで、陽気さに溢れている。そして声もまったく変わらない。しかし、タイトルになった歌は「最後の生き残り」といった意味で、今はもういないウィリー・ジェニング、レイ・チャールズ、そしてマール・ハガードといった名前を出している。まだ仲間はいるが、次は誰になるのか、と楽しそうに歌うネルソンの境地はどんなものなのだろうか。いずれにしても、今頃になって、彼の歌に魅了されている。

2019年3月18日月曜日

ティム・インゴルド『ラインズ』(左右社)

 

・本を買うのはすぐ読むためだけではない。今すぐには読まないけど、おもしろそうな題名だから買っておこうか。こんな理由で買った本がかなりあるが、その多くはいまだに手つかずのままだったりする。目がしょぼしょぼして、長時間の読書ができなくなってきたから、読まずにそのまま積ん読されてしまうかもしれない。それではいけないなと思って、本棚を物色して、何冊かをとりだしてみた。しかし、なかなか手に取る気にならない。本を読むのが仕事だったはずなのに、読む気にならないし、読まなくてはいけないなどとも思わない。結局、読書が好きだったのではなく、職業上、仕方なく読んでいたのではないか。そんなふうに感じてしまう、今日この頃である。

lines1.jpg ・とは言え、少なくとも毎晩寝る前に寝床で読むことにはしている。読み始めるとすぐに眠気が襲ってきて、数ページも読まずに寝てしまうことが多いし、おもしろくないと思って、本棚に戻してしまう本もある。今回紹介するのは、そんな中で何とか読み続けた一冊である。『ラインズ』は題名通り「線」に注目した本である。副題は「線の文化史」、出版されたのは2014年で、特に必要ではなかったが、題名に惹かれたのだと思う。


・歩くこと、織ること、観察すること、歌うこと、物語ること、描くこと、書くこと。これらに共通しているのは何か?それはこうしたすべてが何らかのラインに沿って進行するということである。(p.17)

・こんな書き出しで始まる本書は、これだけで、いろいろな想像をかき立てられて、何が書いてあるのかという好奇心を刺激する。さらに続いて、話すことと歌うこと、あるいは話すこととと書くことの違いと繋がりときたから、眠くならずに読み進めることができた。

・点と線、そして時間は一次元のものである。それが面になると二次元になり、立体をはじめとした物理的な空間が三次元になる。点と線は三つの次元の出発点だが、人が何かを描いたり、記述したり、作りだしたりするのも点と線が出発点になる。それではそもそも「線」とは何か。定義はさまざまにできるかもしれないが、この本では「糸」と「軌跡」の違いに注目している。

・「糸」は人が作りだしたもので、織り合わせることで二次元の布になる。しかし蜘蛛の巣のように糸を作りだす生き物は他にもいるし、そもそも生き物は骨や筋肉、あるいは神経系など、さまざまな糸によって出来上がっているということもできる。一方「軌跡」は表面上に残された線状の痕跡だ。これにはもちろん、人が描いたものと自然にできあがったものがある。いずれにしても、「糸」と「軌跡」が、人が何かを作りだす出発点にあったことは間違いない。

・人が歩く。その足跡の一つひとつは「点」だが、その軌跡は「線」になる。そこを大勢の人が行き来すれば、程なくそこには「道」ができる。あるいは一人の人の存在は一つの「点」だが、子どもや孫に続くと、そこには「系譜」という流れや「線」が生まれる。この本には、そんな「点」と「線」から派生するさまざまなものが、主に人類学的材料で紹介され、検討されていく。へぇ、そうかと思わされることが少なくない。

・しかし今ひとつ賛成しかねる部分もある。この本には、オング批判という大きな狙いがあるようだ。W.オングは『声の文化と文字の文化』(藤原書店)で知られている。話すことと書くこと、そして印刷されることの間にある大きな違いを「線」の断絶として展開しているのだが、インゴルドはその線は断絶などせず繋がっているという。確かにそういう一面はあるのだと納得したが、オングが力説したかったのは話す人と聞く人、書く人と読む人、印刷物と読書に見られるコミュニケーションとしての違いと、そこに起因する人間関係や社会の変容にあったのだから、この批判は枝葉末節のことではないかと思ってしまった。

・この著者には『ライフ・オブ・ラインズ 線の生態人類学』(フィルムアート社)や『メイキング 人類学・考古学・芸術・建築』(左右社)といった近刊がある。興味を惹かれるが、目次を見ると、本書同様、多様な面に展開させる内容になっている。ぼくは「線」に関わるあれもこれもではなく、次には「歩くこと」や「道」にしぼったテーマにしたものを読んでみたいと思うようになったから、さらに買おうとは思わない。

2019年3月11日月曜日

辞める人、辞めさせられる人

 

・NHKがひどい。ニュースに関するかぎり、もう中国や北朝鮮と変わらない、国営放送そのものだ。『安倍官邸VS.NHK』(文藝春秋)を書いた元NHK記者相澤冬樹が、「大竹まことゴールデンラジオ」(文化放送)に出て、NHKが変節したポイントに、ニュース番組から大越健介を交代させ、「クローズアップ現代」から国谷裕子を降ろしたことをあげていた。2015年から16年にかけての頃で、古賀茂明が「報道ステーション」(TV朝日)、岸井成格が「ニュース23」(TBS)を辞めさせられたのもほぼ同時期だった。安倍首相がメディアに積極的に介入し始めた時で、この後も、辞めた人、辞めさせられた人、なくなった番組などは少なくなかった。ついでに言えば、最近問題になった統計不正が頻繁に行われ始めたのも、この頃からのようだ。

・安倍政権がどんなにひどいものか。テレビはそれをほとんど取りあげない。だからだろうか。政権の支持率は五割を超えたままだ。しかし、対照的に、ラジオには、キャスターやコメンテーターが日々の政治状況を強く批判する番組がいくつもあった。ぼくの家では東京のラジオは受信できないが、ネットからなら聞くことができる。TBSには「ラジオCLOUD」があり、文化放送には「ポッドキャスト」がある。さらにYouTubeにはさまざまな番組の全部や一部を聞くことができるチャンネルが数多くある。

・よく聞いている番組には「荒川強啓デイキャッチ」と「大竹まことゴールデンラジオ」がある。コメンテーターやパートナーによって聞かない日もあるが、夜にチェックするのが日課になっている。ところがその「デイキャッチ」が3月で放送を終了することになった。1995年以来24年も続いた番組で、今でも聴取率は高かったという。もちろんやめる理由は荒川本人のものではない。終わるのは「番組としての役目が終わった」ということだが、おもしろいとか役に立つと思って聞いている聴取者がたくさんいるのだから、終わってなどいないはずである。いよいよ政権の圧力がラジオにまで及んできたか。そう思わずにはいられない出来事である。

・もう一つ、よく聞いている「大竹まことゴールデンラジオ」は大竹本人の腰痛で、昨年から今年にかけては本人不在で放送されることが度々あった。荒川より若いとは言え、彼も今年70歳になる。コメンテーターにお笑い芸人を多数使っていることもあって、下ネタで笑いをとることも多いが、その話題が大竹自身の老化現象であったりするから、ぼくにも思い当たる節があって、笑いながらも、共感することが少なくない。

・ただし、政治や経済の問題については、テレビはもちろん、ラジオの他局よりも先鋭的で、一部で話題になってもメディアではあまり取りあげない人や事件を登場させることが多かった。たとえば、元文科省次官の前川喜平、TBS記者に強姦された伊藤詩織、不当逮捕され、裁判で無罪になった官僚の村木厚子等々で、他にも、大竹本人が本気で怒りをぶつけるような発言があって、これについても共感することが多いのである。体力や気力を理由に辞めたりしないようにと思うばかりである。

・この番組に限らず、ラジオにはテレビとは違って、政治問題を正面から取りあげて、批判的なコメンテーターに歯に衣着せぬ発言をさせる番組が少なくない。テレビとラジオは同じ系列下にあって、TBSは言うまでもないが、文化放送と日本放送はフジテレビである。フジテレビは産経新聞の系列で、朝日新聞とテレビ朝日、読売新聞と日本テレビ、日本経済新聞とテレビ東京など、日本ではアメリカでは禁止されている「クロスオーナーシップ」が当たり前になっている。

・系列化していれば当然、新聞とテレビは政治に対して似たようなスタンスをとる。読売新聞と日本テレビ、産経新聞とフジテレビ、朝日新聞とテレビ朝日、毎日新聞とTBSだが、ラジオの文化放送には同系列の日本放送以上に、産経やフジのスタンスとは違うものを感じている。ネットで調べると、フジサンケイグループでありながら独自色を強く出す方針があって、それは開局以降の歴史にもよるようだ。もともとはカトリック布教を目的に開局され、その後の労働争議などによる混乱時に旺文社や講談社といった出版社が参加して再建して「文化放送」という名になったようだ。だから、テレビ朝日や日本テレビとも野球やマラソン、駅伝などのスポーツ番組で連携する場合がある。

・ラジオはテレビに比べて聴取者の数が少ないし、年齢層も高いといわれている。音声だけのメディアだということもあって、その影響力はテレビの比ではないだろう。しかしそれ故に、テレビではできない放送も可能になる。そんなラジオの特性に魅力を感じて、死ぬ間際まで登場していたのが永六輔だった。そしてその姿勢を受け継いでいるのが久米宏である。彼が毎週土曜日に登場している「久米宏ラジオなんですけど」も、ぼくが欠かさずネットで聞いている番組だ。彼もまた70歳を超えていて、大竹同様、いつまで続けられるのか心配だが、本人はまだまだやる気があった荒川強啓のように、番組自体を終了させられたりしないように願うばかりだ。

2019年3月4日月曜日

なぜこんなひどい政権を支持するのか

 

・政権のひどさはとどまる所を知らないほどなのに、支持率は相変わらず五割前後にとどまっている。信じられない気がするが、そう思い始めてからもう2年も3年も経っている。その間にどれほどのスキャンダルや、行政機関の不祥事が明るみに出たことか。森友・加計問題はうやむやのままだし、文科省、財務省、厚労省、総務省と、官僚制度はがたがたになっている。これはもう犯罪だろうと言うほかはない事件が続いているのに、警察や検察はまったく動こうとしない。

・北方領土の返還交渉ではロシアに押されっぱなしだし、トランプの言うがままに武器や兵器を買わされている。米朝会談については日本は完全に蚊帳の外だ。原発の海外輸出をしきりに宣伝していたが、ヴェトナムやトルコ、そしてイギリスでも、計画が頓挫した。外交の安部を売り物に、しょっちゅう外遊をしてきたが、その成果はほとんどなかったというのが実情だろう。しかしのその間に、海外にばらまいたお金は莫大なものになっている。

・政権は国の現状を明らかにする統計資料にまで都合のいい改竄をしていたという。景気を良く見せるため、実質賃金が上がっているように思わせるため、雇用率が上がっているように見せかけるために、調査方法を変えたのではという疑いである。これは業績不振に陥った企業がする最後の悪あがきとと同じ手法である。結果は状況をさらに悪化させて倒産ということになるが、日本という国がそうならないという保証はどこにもないのである。

・株価と円は、政権の支持率を維持するために欠かせない数字だと言われてきた。しかし、それもまた操作され続けている。株価を維持するために日銀や年金機構が投入している金額もまた莫大なものである。国の借金が1000兆円を超えているというのに、日銀のどこにそんなお金があるというのだろうか。日銀は円を好き勝手に発行できるところだと勘違いしているとしか思えないのである。年金機構は国民の年金を預かっている所である。資産運用によって資金を増やすことを目的にしているとは言え、政権のために大きな損害を被る危険性もある。年金を受給される人たちがどんどん増えて、逆に、納める人たちの数は減るばかりだから、このままではいずれ破綻することは分かっている。

・沖縄で辺野古基地についての県民の考えを問う住民投票が行われた。投票率が50%を越え、その七割以上が反対の意思表示をした。しかし政権はその意思を無視する態度に出て、工事を続行している。そもそも辺野古と普天間は連動などしていなかったはずで、もうとっくに返還されていたはずのものだった。辺野古をやめれば普天間は帰らないというのは、政権の脅しに他ならないのである。もっとも、辺野古には軟弱地盤があって、難しい工事にこれから何年もかけなければならないようである。あるいはできても、滑走路が短いから、普天間はやっぱり使い続けると言われかねないのである。

・こんな状況なのに、面と向かって批判をするメディアは皆無だ。NHKは政権の宣伝機関であることを恥ずかしげもなくあからさまにするようになっている。沖縄での住民投票について、その第一報を、反対が投票者の七割ではなく、全住民の四分の一だと報じたそうだ。少なく見せるこそくなレトリックと言うほかはない。また、「平成」の次は「安」の字をなどというキャンペーンをそれとなく始めているから、独裁政権の宣伝機関とかわらない。

・官房長官の記者会見で孤軍奮闘している東京新聞の望月記者に対して、菅は嫌がらせや、まともに答えないといった態度で対応していたが、よっぽど嫌なのか、排除しようとする強行姿勢を見せた。菅の態度は傲慢だが、記者たちがその場に大勢いるのに、望月記者に加勢する者がほとんどいないというのは、ジャーナリストとは言えない態度だろう。

・でたらめな政権を批判し、ブレーキをかけるのは立法機関である国会の役目だし、犯罪性があれば警察や検察、そして司法の役割である。もちろん、第4の権力と言われるメディアも、もっと強い態度に出なければならないはずだ。それらが無力化しているから、政権を担う者たちは、やりたい放題しても、それがあからさまになっても、すこしもこまらないのである。放っておいたら日本は本当に駄目になる。そんなことがなぜ分からないのだろうか。

・多くの人はうっすらとは分かっていて不安を感じているのだと思う。しかし黙っている。見て見ぬふりをしている。あるいは、そうは悪くはならないだろうと高をくくっているのかもしれない。そうして明るい話題、派手な出来事、卑近のゴシップで不安を紛らわしている。そして、どんなにひどくても、これしか道がないと思わされている。これはひとえにメディアの責任だが、そんなにひどくはないと思いたいという読者や視聴者の責任でもある。だから、後になってだまされたなどとは言えないのである。

・結局、痛い思いをしないと分からないと言うことなのかもしれない。しかし、福島原発事故があっても、再稼働を勧めて電力の基幹であることを変えないから、少しぐらいの痛さでは分からないのかもしれない。いっそ破産でもしたらいい。そんな捨て台詞も吐きたくなる。