1997年8月26日火曜日

ぼくの夏休み 白川郷、五箇山

 以前は、夏休みというと長期の旅行をしたものだが、ここ数年は、ほとんどどこにも出かけないでいる。理由の第一は、子どもが大きくなったことだ。クラブ活動が忙しくて時間がとれないのだが、本音は親と一緒にどこかへ行くのが嫌なのだ。で、親たちだけで一泊のキャンプ旅行に行った。実はテントを広げるのは2年ぶりである。ルートは名神を小牧で降りて、高山、白川郷か五箇山あたりでキャンプして、翌日、日本海へ抜け、富山か金沢から北陸道で帰るというもの。 結構いろんなところへ行って慣れているつもりだが、高速道路を離れてからの道は時間がかかる。朝5時半に京都を出て、小牧インターまでは2時間、そこから高山までが3時間、オークビレッジで昼食をとって、白川郷までがさらに2時間、そして五箇山のキャンプ場についたらもう4時に近かった。時間から言えば、高山に着く頃には、高速だけなら東京まで行ってしまっているし、夕方には仙台あたりまで行けているかもしれない。
今さらながらに遠いと思ったが、キャンプ場に並ぶ車のナンバープレートを見て驚いた。多摩、名古屋、いわき(福島)とバラバラなのである。しかし、五箇山には名古屋は京都よりも近いし、東京だって松本まで中央道を使って高山に抜ければ、時間的にはほとんど変わらない。あるいは福島だって、北陸道に出れば、後は数時間の行程である。一泊ではちょっと強行だが、二泊なら十分ゆとりをもった日程になる。高速道路が整備されてくると、こんな集まり方ができるのだと、あらためて感心してしまった。もっとも現在、岐阜から高岡までの東海北陸自動車道が建設中である。これができると、一泊だけのキャンプでも、もっと遠くからやってくることができるようになる。
白川郷や五箇山の合掌作りの家はほとんどが、みやげ物屋や食べ物屋、あるいは民宿だった。ダムに沈むはずの家を移築してまとめたのだから、考えてみれば当たり前だが、山間の一軒家というイメージからはほど遠い感じがした。その人工的な集落には、大きな駐車場があって観光バスが何台も停まっていた。実は僕たちが停まったキャンプ場にも移築された合掌作りの家がたくさんあって、宿舎や陶芸などの教室、あるいはトイレとして利用されていた。公営の施設だから、このかやぶき屋根の家の宿泊費は2000円、ちなみにキャンプ場の使用料は一人250円だった。
道路が整備されれば大勢の人がやってくる。そのための投資の大きさは日本中どこへ行っても感じる。言うまでもなく補助金行政の結果だが、ただ道や建物があればいいというものではない。白川郷や五箇山は世界遺産・合掌作りの村がうたい文句である。次の日に富山に抜ける途中には和紙の里や木工の村があった。利賀村は芸術(演劇)村だし、山田村は全戸にマックがある電脳村である。ホームページも出していて、8月には全国各地から大学生が集まってイベントが開催されたようだ(URL=http://www/yamada-mura)。小さな村がその特色をだそうと一生懸命に知恵を絞っている。そんな様子が道々よくわかった。 僕らがキャンプに行くのは、ふだんとはちがう、自然に近い場所や歴史のある空間、あるいは非日常的な時間を求めるからだ。けれども、長い時間は使えないし、労力も節約したい。食料の調達などは便利なほうがいいし、トイレや炊事場などの設備はきれいにこしたことはない。木や土や紙、演劇、祭り、情報ネットワーク...........。そんな特色があって、手軽にふれられれば、なお結構。しかし、どこにでもあるようなものや、とってつけたようなちゃちなものでは満足できない。そんな横着でわがまま者たちをどうやって呼び込むか。交通と情報が便利になれば、それだけ特色を出して、なおかつ持続させるのはむずかしい。一泊だけの短い旅行だったが、そんなことを強く感じた。

1997年8月17日日曜日

ミッシェル・シオン『映画にとって音とは何か』(勁草書房)

 

・映画に音があるというのは当たり前だが、しかし、初期の頃の映画に音がなかったのもまた事実だ。『戦艦ポチョムキン』のビデオにはピアノの伴奏がついているが、これがいかにもとってつけたようで、ボリュームを絞って見たほうがずっと自然な感じがする。もっとも、映画の上映は初期の頃から、伴奏つきというのが一般的だったようだ。

・映画と音、これは考えてみれば、ずいぶんおもしろいテーマだが、そんなテーマを真面目に考えている本を見つけた。もっとも新刊本ではない。ミッシェル・シオンの『映画にとって音とは何か』は1985年に書かれていて、翻訳されたのは93年だ。

・この本を読んで「へー」と思った所がいくつかある。一つは、映画に音がなぜ必要だったかという疑問。シネマトグラフがはじまったとき、音楽はすでにそこにあった。それは映写機の騒音がうるさかったからだという説があるそうだ。音を消すために別の音を必要とした。ありそうなことである。しかし、もっとそれらしい理由は他にある。音のない世界では人びとが不安にかられたからである。それはちょうど暗闇にいると口笛が吹きたくなる心境に似ているという。

・サイレントがトーキーになると、音はあらかじめ作品の一部として組み込まれるようになる。しかし、一体音はどこから聞こえるのだろうか?もちろんスピーカーからだが、映画製作者の狙いはそうではない。音はスクリーンの特定の場所から聞こえてくる。例えば、声はスクリーンにいる人の口からだし、音楽は映っている楽器からだ。そして観客もそのように聞くことにすぐ慣れた。

・ドルビーのマルチサウンドでは音は四方八方からやってくる。宇宙船の音が後ろからして、やがてスクリーンに腹の部分が大写しされはじめる。そして彼方に飛び去っていく。音はそれに合わせて、スクリーンの背後に消えていく。ハイパーリアルなサウンドというわけだが、そんなことができない時代でも、観客はそのように聞いていた。ちょうど芝居のちゃちなセットや小道具を、あたかも本物であるかのように了解してくれるように。シオンは宇宙船のリアリティといっても、真空の宇宙では、実際には音はしないはずだという。映画は最初から、本当のことではなく、本当らしいと人びとが感じることを再現してくれるメディアだった。

・シオンは映画館で聞かれる音には三つの世界があるという。一つはスクリーンに映っている世界からの音。それから、スクリーンのフレームの中にはないが、その外にあると想像できる世界からの音。例えば誰かの声がして、やがてその人物がスクリーンに現れるといったような場合。音はもちろん、このフレームの内と外を自由に行き来して、それがかえってスクリーンの世界に奥行きを与えることにもなる。三つ目はスクリーンのフレームの内にも外にも存在しないはずの音。それは自然には存在しないが、スクリーンには不可欠の音楽である。状況や人物の感情などを代弁し、あるいは強調させる音。シオンはそれを、聞こえていても聴かれてはならない音楽であると言う。自然の世界に音楽はない、しかし映画には、意識されることはないが聞こえてくる音楽がある。不自然な話だが、そうであってはじめて自然になる。考えてみれば、映画は不思議な世界である。

・シオンはしかし、音楽がより深い意味を持つのは、それが場面や登場人物に対して無関心である場合だという。例えば、空に輝く星を見て、人はそこにロマンチックな思いを抱くが、星にとってはそんなことはどうでもいい。けれども、たとえそうだとしても、人は、やっぱり星を自分とのつながりや関係のなかでみたいと思うし、実際そのように考え、感じとる。この、星のような音楽こそが、映画音楽の真髄なのだというのである。確かにそんな気もする。映画の世界はあくまで、人間の目や耳や観念を通して描かれ、認識される世界なのである。

・けれども、そうでもないぞ、と思う映画もある。最近の映画にはロック音楽がよく使われる。それは星のように、こちらから思いを馳せるものではなく、向こうからやってきて、否応なしに耳から侵入して鼓膜をふるわせ、頭蓋骨を振動させる。例えば「トレインスポッティング」、あるいは「ブルー・イン・ザ・フェイス」(どちらもレビューで紹介済み)。ジム・ジャーミシュやヴィム・ヴェンダースの映画にもこの種の音楽がよく使われる。よく聞こえてきて、聴かれることをあからさまに主張する音楽。しかも、この音楽がなければ、映画に描かれる世界自体が成立しにくくなってしまう。一体この音は何なのだろうか?それは、この本には書かれていない、新しい疑問である。

1997年8月5日火曜日

The Wall Flowers "Bringing Down The Horse"

 

・今年のグラミー賞の授賞式でボブ・ディランの息子をはじめて見た。名前をジェイコブ・ディランという。まだあどけなさが残るが父親によく似ている。その後しばらくして、彼のことを書いた新聞記事を読んだ。偉大な父の後を追いかけて同じミュージシャンになった。そのしんどさが記事のテーマだった。コンサートで客から、親父の歌をやれとよく言われるという。最初は反撥したけど、最近ではそれもしかたがないと思ってリクエストに応えたりする。そんな内容だった。かわいそうだな、と思ったが、別に誰が強制したのでもない、ジェイコブが自分で選んだ道なのだから、やっぱりしかたがないか、と考え直した。

・父親の跡を継ぐ、というのは芸人の世界では珍しくはない。日本にもいっぱいいるし、歌舞伎役者などはそれが当たり前になっている。けれども、それは芸が才能ではなくて育った環境やチャンスの得やすさで何とかなる世界にかぎられる。実力だけが頼りの世界では、二世はなかなか親を越えられないし、一人前にもなりにくい。ジョン・レノンの息子のジュリアンはヒットを数曲出したが、最近ではほとんど名前を聞かなくなってしまった。ジェイコブはどうなのかな、彼がどんな歌を歌っているのかより、そんなことが気になってしまった。実は僕の息子たちも、そろそろ自分が将来何をするのか決める年頃なのである。だから他人事ではないのだ。

・で、The Wall Flowersの "Bringing Down The Horse"だが、これがなかなかいい。もっとも、洋盤を買ったから、歌詞はわからない。あくまでサウンドと声にかぎった話である。声は父親にというよりはダイアー・ストレイツのマーク・ノップラーに似ている。もっともノップラーはディランに声と歌い方が似ていることが注目されるきっかけになったのだが.......。あるいはスプリングスティーンにどこやら似ていなくもない。いずれにしても、僕には親しみの持てる声とサウンドである。学生に聞くと、メジャーとは言えないがいい線いってるという。ディランのことなどほとんど知らない彼らがそういうのだから、きっとそれなりの魅力があるのだろう。才能だってあるのかもしれない。できれば一発で終わるのではなくて、次々とアルバムを出してほしい。などと、僕の気分はすっかりディランに代わって父親になってしまっている。

・ロックは若者の音楽として生まれ、ずっとそのように扱われてきた。けれども、ミュージシャンの中にはすでに還暦を越えた人もいる。ディランもたぶんもうすぐだ。アメリカ人だから赤いちゃんちゃんこは着ないだろうが、そういう歳になったことにはかわりはない。そしてジュニアたちが活躍する時代になった。親子や家族での共演、それはなかなかほほえましい光景だが、ロックって何なのかな、とあらためて考えざるをえない材料にもなる。そういえば、ディランは病気で入院中とも聞いている。文字どおりの歴史と伝説の中の人になってしまうのだろうか。

1997年8月3日日曜日

トレイン・スポッティング』

 

  • 春先から気になる映画だったが、見るチャンスがなかった。評判はいろいろ耳に入ってきた。だからどうしても見たいと思った。柳原君は『CLIP』に「エジンバラだろうと大阪だろうと関係ない。今を生きる僕たちにはどうしようもない、逃れられないもの」と書いた。一体それは何だろう?で、本とCDを買った。
  • 本は決して読みやすくはなかった。ディテールはおもしろいのだが、ストーリーがうまくつかめない。ドラッグとセックス、酒場でのケンカ、友人たちとの悪ふざけ、盗み、そしてAIDSと中毒。クソや小便。何かをしたいがやることが見つからない。何者かになりたいのだが、それが良くわからないし、第一チャンスがまるでない。そんな閉塞状況。けれども、それなら、今にはじまった話じゃない。僕が10代の頃だって出口のない袋小路の世界だと言われていたのだから。ジェームズ・ディーン以来、青春映画におなじみのテーマ。
  • もちろん、読むときにはサウンドトラックのCDを聴いた。イギー・ポップ、ブライアン・イーノ、ルー・リード.........なじみの人たちが多い。はじめて聴いたサウンドをふくめて、決して悪くはない。けれども、どうしても本の世界と重ならない。ジャケットには「マーク・レントンは我らの時代のヒーロー。親父には想像もつかないエジンバラの下腹部の話」と書いてある。つかみどころがない、何とも言えないもどかしさ。これはもう早く映画を見るしかないと思った。
  • で、7月の末にやっと見た。京都の「祇園会館」で2本立て、もう一本は『バスケット・ボール・ダイアリー』だった。ニューヨークの高校に通うバスケット・ボールの人気選手がドラッグ中毒になる話。退学、ドラッグへののめり込み、盗み、禁ヤクと禁断症状、少年院送り、そして更正。事実をもとにしたそうで、主人公は、この自伝的小説をきっかけに小説家になりロック・ミュージシャンにもなったという。へー、聴いてみようかなと思ったが、名前を忘れてしまった。ニューヨークにはそんな話はいくらでもあるんだろうな、という気持ちにはなったが、映画としてはきわめて平凡。つまりシリアスなトーンで最後がハッピー・エンド。ちょっと前にWowowで見た『Kids』の方がずっとショックだった。
  • 映画を映画館で続けて2本見るのは久しぶりのこと。おまけに外は暑かったのに、中はクーラーのききすぎで風邪をひきそうに寒い。休憩に温かい珈琲を一杯。映画は家で見るにかぎるなどとぶつぶつ言っていると、「生活、仕事、経歴、家族を選べ!大きなテレビ、洗濯機、コンパクト・ディスク・プレイヤー............だけどなぜ、そんなものを欲しがるんだ?」といった文字がスクリーンに現れ、イギー・ポップの「ラスト・フォー・ライフ」が流れる。本には、そんなことばはなかったんじゃないか、と思ったが、映像とサウンドの組み合わせが妙に気持ちがいい。
  • 座薬のドラッグの場面は本を読んだときもおもしろかった。しかし、映画ではそこが誇張されて、しかもイーノが使われているのには驚いてしまった。少女との出会いとセックス、ドラッグ・パーティ、AIDSによる友だちの死。仲間と共謀したヤクの密売。それで転がり込んだ大金。それをレントンが持ち逃げする。そこでまた「生活、仕事........................」という文字。手にした金で新しく生活をやり直そうというところで終わりになる。きわめてわかりやすい。
  • 見終わったときに、やっぱり、映画は映画だなと思った。読みにくかったけど、本の方がもっといろんな世界を描き出そうとしていた。で、本をもう一度読み直すことにした。そうしたら、映画では端折られてしまったシーンやことばは少なくなかったが、映画の方が簡潔でよかったかな、と考えるようになった。何より、コミカルなタッチとサウンドが抜群だった。
  • で、柳原君のいう時代感覚だが、青年期に感じる世界の閉塞状況が、時間を経るにつれ、ますますしたたかになっていくということかな、と思ったが、それでは外から見てる研究者の態度だと言われてしまうかもしれない。