2021年1月25日月曜日

露骨な情報操作

 YouTubeで知人の講演会を見つけた。天笠啓祐さんの「感染症利権と新型コロナワクチンの危険性」である。彼は環境問題などを中心に活動するフリーのジャーナリストだが、もう半世紀近く前に『技術と人間』という雑誌の編集者をしていて、僕はその雑誌で「ミニコミ時評」を担当していた。その時評を1981年に『生きるためのメディア図鑑』としてまとめたが、時評をやめた後は年賀状のやり取りぐらいのつきあいしかなかった。ただし、彼は反原発や遺伝子組み換えの危険性を訴えて多数の本を出していて、気になる人ではあった。

この講演は2時間にもなるもので、多くの問題が指摘されているが、そこで目から鱗と感じたのは、新型コロナワクチンが遺伝子操作によって作られたものであるから、それを身体に注入すれば、体内で遺伝子組み換えが行われてしまうという指摘だった。遺伝子組み換えの食品は危険性があるから食べないよう気をつけているが、ワクチンを注入したら、自分自身の遺伝子が組み換えられてしまう。それを聞いたら、もう絶対ワクチンは拒否しよう。そんな気になった。

もっとも人間の遺伝子の4割がウィルス由来だとする指摘もある。だから新コロナの遺伝子を入れてもいいではないかという意見もあるだろう。しかし、自然に感染するのと人工的に行うのとでは、やっぱり違うだろうと思う。そもそも、この講演を見るまでは、そんな問題は全く指摘されていなかった。アメリカとは違って日本では、遺伝子組み換え食品に対してはかなり敏感に反応してきたのに、コロナのワクチンには無反応というのは、一体どうしてなのだろうか。感染を防ぐことを第一に考えて、国やメディアが情報操作をしているのではと疑いたくなった。

東京オリンピックがいよいよ中止という方向に動きはじめた。菅首相は方針演説で相変わらず、コロナに打ち勝った証として開催するといったことを寝言のように繰り返しているが、面と向かって批判するメディアは現れなかった。世論調査で8割が中止や延期と言っているにもかかわらずである。それが海外のメディアが中止と言いはじめてやっと、話題にしはじめた。そもそも、協賛すれば批判しにくくなるのはわかっていたはずなのに、新聞やテレビのメディアはなぜ、こぞってオリンピックの協賛団体になったのか。その理由が、利権や横並び、あるいは忖度であるのは明らかだろう。

首相や官房長官などの記者会見の質問が、一人一問に制限されている。だからまともに答えなくても、追加の質問ができないから、突っ込んだやり取りがまるでない。そもそも質問は事前に伝えることになっているから、どう答えるかはわかっている。政治家と記者が共謀して下手な芝居をしているのである。そんなふうにして隠された情報がどれだけあるのか。時折週刊誌が暴露記事を書くが、多くの新聞が無視をし、検察も動かないから、いつの間にかうやむやになってしまう。

世の中で起きていることのなかで、ニュースにならないものが一体どれほどあるのか。もちろん、うさんくさいものが一杯だが、ネットで大事なものをキャッチすることをますます必要に感じている。

2021年1月18日月曜日

斉藤幸平『人新世の「資本論」』(集英社新書)他

 「人新世」は「じんしんせい」と読む。"Anthropocene"の訳で、地球に人類が登場し、地質や生態系、そして大気などに影響を及ぼし始めた以後の時代の呼び名である。古くは農耕革命以降をさすが、産業革命以後や、20世紀の後半以降をさす場合もある。地球環境の劇的変動は20世紀後半以後のことだから、ここに注目して取りざたされることが多いことばであるようだ。

saito1.jpg 『人新世の「資本論」』は、この20世紀の後半から深刻になりはじめた環境問題、とりわけ二酸化炭素による温暖化を食い止める策として、資本主義そのものを捨てることを主張し、その理論的根拠としてマルクスの資本論を読み直したものである。著者の斉藤幸平はまだ若い研究者だが、一読して、優れた人がでてきたものだと感心した。

資本主義はイギリスにおける「囲い込み運動」に端を発し、産業革命によって本格化した経済の仕組みである。つまり、羊を飼う農場を作るために地主に追い出された小作農が、都市に移り住んで工場などの労働者になったところから出発したものである。そこには本質的に、労働力を安価なものにすることで、資本を蓄積するという仕組みがあった。マルクスの資本論は、その資本家による労働者からの搾取を批判し、労働者の抵抗や運動のバイブルになった。ソ連や中国などのマルクス主義に基づく国が生まれたし、労働者の権利や福祉を重視する国もできた。

20世紀の後半は、先進国では貧富の格差が縮まることを政策的な目標にして、経済的、物質的な豊かさと福祉制度が行き渡ることをめざした。しかし、国家の財政がうまくいかなくなり、グローバリズムや新自由主義的な考えが幅を利かすようになると、資本主義は、一部の資本家を際限なく豊かにし、莫大な数の貧民を作るようになった。また大量のモノの生産と廃棄、資源の浪費、人やモノの移動、海や大気の汚染、そして排出されたCO2がもたらす温暖化等々ももたらした。このままではそう遠くない未来に、地球は人間をはじめ、生物が生きにくい世界になることが明らかになった。この本で説かれる現状分析は、決して新しいものではないが、うまく整理されていて説得力がある。

斉藤は、この危機を乗り越える方策は、マルクスに帰って資本主義を捨てることしかないと言う。資本主義は本質的に人を強欲にして、資本を独り占めにさせようとするものだから、いくら成長しても、すべての人が豊かで幸福な人生を過ごすことなどできないシステムである。21世紀になって、その本性が露骨に現れてきた。しかも、成長し続けなけれ生き残れない資本主義には、地球環境の危機を乗り越える術も、姿勢もないのである。著者が主張するこの危機を乗り越えるための方策は、「コモン」から新しい「コミュニズム」へという道である。

saito2.jpg 『未来への大分岐』は、著者と考えを共有する人たち三人との対談をまとめたものである。アントニオ・ネグリとの共著『帝国』(以文社)で知られるマイケル・ハートは、社会的富を民主的に共有して管理する「コモン」から出発して新しい「コミュニズム」に至る道を提唱する。『なぜ世界は存在しないのか』(講談社)の著者であるマルクス・ガブリエルは、「ポスト真実」や「フェイク」で混乱する世界に「新実在論」を掲げて注目されている哲学者である。そしてポール・メイソンは、『ポストキャピタリズム』(東洋経済新報社)で、デジタル技術が資本主義を凋落させて、より自由で平等な社会をもたらす可能性がある反面、デジタル封建主義を作り出す危険性を指摘する。

この本を読むと、現在が未来に作り出される世界の分岐点にいることがよくわかる。そこでさまざまな可能性に触れ、そこに向かう動きが既に起きていることも指摘されている。ちょっと安心したくなる気にもなるが、しかし、そうなるにはまた、大きな障害が無数に存在していることにも気づいてしまう。マルクスの有名な「大洪水よ、我が亡き後に来たれ」は、現在の「今だけ、金だけ、自分だけ」という風潮を予見するものだが、また人間の本質に根ざした変わらない特徴のようにも思われる。だからこその「脱資本主義」だが、一体どこから、どんなふうにして、その動きが起こるのだろうか。何より日本では、他の先進国で若者たちを中心に動きはじめた格差や人種差別や温暖化などについて、あまりに無関心すぎるのである。

2021年1月11日月曜日

Jackson Browne, "Downhill from Everywhere"

 それにしても、興味のある新しいCDが見つからない。何度も書いているが、新しいミュージシャンを見つけるアンテナがないせいである。だからどうしても、おなじみの人たちのニュー・アルバムを探すことになるが、それも極めて少ないのだ。当然、このコラムを書く材料探しに苦労している。もちろん、コロナ禍のせいでもあるだろう。実際にジョン・プラインが亡くなっているし、感染したミュージシャンもいる。僕と同世代以上の人たちは高齢者だから、今は家に閉じこもって密かにしているのだろうか。だとすると、コロナ禍がおさまったら、ニュー・アルバムの続出が期待できるのかもしれない。いずれにしても、亡くなったりしないようにと願うばかりである。

jacksonbrowne2.jpg で、探していたらジャクソン・ブラウンの新しいCDを見つけた。しかし、アルバムだと勝手に思い込んで注文したら、たった2曲のシングル盤だった。それにしては高いな、と思ったが、これしかないから紹介することにした。リリースされたのは4月で、その時に彼自身がコロナに感染したことも明らかにした。予定では10月に出すアルバムの先行トラックだったようだが、新しいアルバムはまだ出ていない。なぜ2曲だけ先行したかについて、「ローリングストーン誌」で、「コロナ禍で先行きが不透明で見通しが立たない今だからこそ、公開したのだ」と言っている。

"Downhill from Everywhere"は海に流れ込む、プラスチックその他の人間が捨てたゴミを歌ったものである。ゴミは学校から、病院から、ショッピングモールから等々、あらゆるところから流れ下る。歌詞の大半はその「~から」を列挙したものになっている。引力に従って行き着く先である海を、私たちはどこまで自分のこととして考えているのだろうか。私たちが生きていくのに、海がいかに大切かということを。プラスチックは海に流れ下ることで細かく粉砕される。それを魚が食べて、また人間に返ってくる。この歌はドキュメンタリーの"The Story of Plastic"でも使われている。

もう一曲の"A Little Soon To Say"は、今の状況に対する自分の戸惑いを歌っている。地平線の向こうが見えない、明かりに照らされた道の向こうが見たいんだけど、とつぶやき、すぐに決断しなければならないのに、情報があまりに少なすぎる、とつづく。今の病を乗り越える道を照らしたいし、できると思いたいが、そう言うにはまだ早すぎる。

ジャクソン・ブラウン自身が感染したコロナ禍は、この曲が発表された後も猛威を振るっていて、なおこれからも拡大し続けるだろう。アメリカではトランプ大統領が敗北したが、分断の大きさはますます深刻なものになっている。そのことを憂い、悩み、希望を見つけ出したいと考える。そんな彼の姿勢は極めて明快だ。新しいアルバムが楽しみだが、リリースはいつになるのだろうか。

このコラムではボブ・ディラン、ブルース・スプリング・スティーンと続けて取り上げてきた。ジャケットの顔写真を見る限り、もうすっかり老け込んで、じいさんになったなと思う。けれども、歌っている姿勢や、そこに込められたメッセージには、若い頃から一貫した態度と、確かな視線がある。僕ももちろん、彼ら同様に老け込んで、ジジイになっているが、心の老け込みはしないよう、心がけたいと思っている。 

 

2021年1月4日月曜日

静かな正月と新しい本




forest172-1.jpg
                              家から30分弱の急登でこの景色。いつ来ても誰もいない。絶景独り占め。

forest172-2.jpg 寒波襲来とコロナ禍で、正月はどこにも行かずに過ごしている。もちろん訪れる人も誰もいない。例年なら東京に出かけてホテルに泊まり、孫や親に会ったり、初詣をしたのだが、今年は東京に行くことなど、もってのほかになってしまった。代わりに息子ファミリーが来ることになっていたのだが、感染者の急増で、それもやめになった。小さい孫がストーブに触れないようにと柵を買ったのだが、無用になってしまった。柵をつけると薪をくべたり、鍋を乗せたりするのが面倒だから、また来る日まで押し入れにしまっておくことにした。

とは言え、寒波襲来前は比較的暖かかったから、自転車に乗り、裏山にも登った。ハアハアと息をし、寒さに鼻水をすすりながら、結構がんばった。さて一月はどうなるか。来年に使う薪がないので、付近の枯れ木や倒木を拾っているが、とても足りない。原木の調達出来ましたという連絡を、首を長くして待っているところだ。雪が降って積もったら春になってしまうし、その時にもまだ手に入らなかったら、いよいよ困ってしまう。

communication1.jpg 10年ぶりに改訂した『コミュニケーション・スタディーズ』(世界思想社)ができ上がった。毎年、大学の教科書として使ってもらい、なおこれからも使われるだろうというので、著者の人たちにがんばってもらった。前半の理論的な部分の変更はわずかだったが、応用編の文化やメディアに関するところは、この10年の間に変えなければならないところが多かった。今ではもう当たり前だが、スマホやSNSは10年前にはやっと産声をあげたところだったのである。それらがもたらした変容には、調べていて、今さらながらに驚かされてしまった。

あるいはLGBTなどということばと性別や婚姻形態に関する問題もここ数年に盛り上がったものだし、貧富の格差やグローバリズムの進展と、それがもたらした問題なども検討して追加しなければならなかった。それに加えて、改訂作業を始めた頃から世界中を混乱させたコロナ禍である。人間関係の基本である対人接触を避けることが必要になったから、これはまさに「コミュニケーション」の問題だった。これが一過性のもので終息するのか、それとも、大きな変更を伴うものなのか。それはまだ不確かな問題だから、どこまで触れたらいいのか大いに悩んでしまった。

日本人にとって「コミュニケーション」能力とは、人とうまくつきあう術を意味している。特に最近では、この傾向がさらに強くなっている。しかし「コミュニケーション」にはディベートのように競う要素もあって、そのためには「アイデンティティ」、つまり自分自身をしっかり自覚することが必要だし、「コミュニケーション」を成立させる基盤になる「コミュニティ」も必要である。だから「アイデンティティ」と「コミュニティ」の意識が欠如した「コミュニケーション」が、今、一番問題にすべきところなのである。そのことは前書から強調してきたことだが、「忖度」「や自粛」など、この傾向がますます強くなってしまっているのが現状だ。

欧米では、人種差別や格差、そして気候変動をもたらす環境問題に自覚的なZ世代の登場が話題になっている。1960年代以来の、政治に自覚的な世代の登場だと言われている。ところが日本では、その同世代が極めて内向きで、政治には無関心で、協調性や同調性に敏感だと指摘されている。それはまさに「アイデンティティ」と「コミュニティ」の自覚が薄いところで「コミュニケーション」をしていることの結果なのだと思う。この本を教科書として読むことで、少しでも、そのことに自覚してもらえたらと願っている。