2007年3月26日月曜日

地図、ナビ、Google Earth

 

journal4-101-1.jpg・車用に取り外し可能なナビを買った。ふだんは走り慣れた道だから無用だが、たまに必要に感じることがあった。道路地図を持ち歩いていたのだが、老眼で見にくくなったし、地図では細部はわからない。ただし、車に備え付けるものは面倒だし、値段が高すぎる。音楽はipodで聴けるし、テレビやDVDを車でみることはない。そんな気があって以前から「Gorilla」に注目していたのだが、地図の更新をSDカードでするナビ専用のモデルを見つけて買うことにした。
・4.5インチでちょっと小さめだが、とくに見にくいという感じはない。電話番号や番地で目的地を詳細に検索することはできないが、その周辺までは確実に行けるから、後は地図を見ながらじぶんで微調整すれば問題ない。何よりいいのは、いつでも地図帳として使えることだ。
・ただし、車のなかはにぎやかになって出発までに時間がかかるようになった。まず、ipodを接続して、次にナビ、そしてETCカード。さらにはオービス探知のレーダーである。これだけにぎやかだと駐車していても目立つから、とめているときは当然、全部を取り外してダッシュボードにしまったり、持ち歩くということになる。ナビやipodほしさに窓ガラスをたたき割るなんて話がよくあるからだ。

journal4-101-2.jpg・ナビもオービス探知レーダーもGPSを利用している。だから、いま車がどこにいるかが感知されるわけだが、その精度はナビをつかって改めて驚くほど正確だった。これを記録すれば、ぼくの車での行動はすべてあきらかになる。と考えると気分のいいものではないが、足取りはETCでも記録されていて、高速道路での走行は、料金や所要時間などがネットで確認できるようになっている。まさに管理社会で、それを強制されるのではなく自らすすんで求めているということになる。
・去年の夏休みにGoogle Earthを使い始めて、パソコン上でも地図で遊ぶ機会が増えた。ぼくの住んでいるところは田舎だから、家までは確認できないが、都市部だと自分の家の屋根までわかってしまうし、駐車場に止めてある車まで確認できる。海外旅行をして出かけた都市の泊まったホテルや歩いた通りなどが立体でわかったりするし、著名な建物だと実物そっくりにできていたりするから、ついつい時間を忘れてヴァーチャルな散歩をしてしまうことになる。
・各国のスパイ衛星が地球上のあらゆる地点を監視していて、その精度はたばこ大のものまで見分けるほどだという話を聞いて驚き、ぞっとしたのは何年前だっただろうか。今は、それに近いものがネット上でだれにでも使えるようになった。ナスカの地上絵を確認したとか、アフリカのサバンナでゾウを見つけたといった楽しみ方がある一方で、悪用される危険性もまた大きいのではないかと心配してしまったりする。
・便利になること自体は悪くはないけれども、その分、かならず、プライバシーをあからさまにしたり、それが別の形で利用されたり、じぶんではよくわからないブラックボックスが増えていったりする。それを自覚せずに便利さに流れると、いざ問題が起きたときに、どうすることもできない状況においこまれたりする。ナビやETCやGoogle Earthをつかっていると、その便利さやおもしろさと同時に、それと同じだけか、それ以上の不安も感じてしまう。

・ぼくは電車にはめったに乗らないのでSuicaなどのカードは必要ない。最近、どの電車やバスでも共通して使えるPasmoができて、切符を買う面倒がなくなったようだ。銀行のキャッシュカードやクレジットカードもふくめて、カードを使った履歴はすべて記録されていて、常にその情報が流出したり悪用される危険性をもっている。携帯もそうだから、じぶんのする行動のほとんどはデーター化されて残されていることになる。icチップはこれからもいろいろに使われそうで、図書館の貸し出しカード、スーパーのポイントカードから、本などの商品にまでつけられる可能性があるようだ。
・そんなふうに見回すと、もうすでに、とんでもない管理社会が実現していることに気づかされる。街路や建物には無数の監視カメラがあり、家の中には大画面の液晶テレビ。オーウェルの「1984年」そのものだが、それは強制されたのではなく、自発的に、望んで招き入れたものである。便利さや安心や確実さを求めてできあがるシステムには、かならず、それに相応した不便さや不安や不確かさがつきまとう。その負の側面がほとんど自覚されていない。「自由は奴隷、奴隷は自由」の社会。ナビをつかっていて、ふとそんなことを考えてしまった。

2007年3月19日月曜日

K's工房の個展

 

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パートナーの個展が京都で開かれる。3/27(Tue)から4/01(Sun) で、場所は「アートステージ567」。烏丸夷川通り西入るにある元丹定米穀店の2階にある画廊だ。京都での個展は一年おきにやっているが前回までの画廊は、残念ながら店を閉めてしまった。京都から河口湖に引っ越して7年になる。最近では滅多に行くこともないから、ぼくも月末に出かけようと思っている。懐かしい顔に出会えるか、楽しみだ。

で、ここでは、予告をかねて最近の作品を紹介することにした。



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2007年3月12日月曜日

冬の肩すかし

 

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forest58-2.jpg・今年の冬はどこも暖かかったようだが、河口湖も例外ではない。例年だとやっとこの時期になって、気温が10度になるというのに、今年は1 月にも2月にも、10度を超える日が何日もあった。というより15度を超えて、もう初夏かと思わせる日も何日かあった。冬を通して地面が見えつづけた年は今年ではじめてで、何とも物足りない冬になった。もっとも植物の出だしは早くて、すでに大粒の蕗のとうが出はじめている。さっそく丸ごと天ぷらにしたが、久しぶりの苦さにやっと季節の変わり目を実感した気がした。

forest58-3.jpg・もっとも富士山の雪化粧は例年になくきれいだ。猛烈に寒かった去年は、降った雪がすぐに風で吹き飛ばされてしまって、1月に農鳥が出てしまったりしたが、今年はアイスバーンになって、厚く凍りついている。とはいえ、春が本格化してしまうと、富士山も雨ということになって、雪が消えるのは早いのかもしれない。季節はくりかえしても、一度としておなじではない。引っ越して7年目になるのに、毎年そんな感想を持ってしまう。「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」ということなんだと、つくづく思う。

forest58-4.jpg・寒くないからぼちぼち、カヤックを持ち出して湖に漕ぎ出そうかという気にもなる。そんな話をしたら、パートナーが木くずを材料にした粘土でカヤックとぼくと、おまけに犬までつくってくれた。鉛筆会社が売っている粘土で、固めると水に浮かべることができる。さっそく風呂場で遊んだが、やっぱり本物の気分にはかなわない。もっとも、犬は当分飼えそうにないから、カヤック犬は、風呂場で我慢するしかない。さあ、明日にでも行こうか、と思ったときに、家の近くで伐採した木を見つけてしまった。

forest58-5.jpg・最初はちょっとだけだと思ったのだが、近づいてみると川の土手に切り倒した木がたくさんあった。半分は水につかっていて、なかにはキノコが生えているものもある。さっそく車で出かけ、チェーンソウで切り刻んで持ち帰ることにした。川から土手の上まで放りあげたり、かついで長い距離を運んだりして1時間ほどでへたばってしまったので、次の日もその次の日も出かけてかなりの量を確保することができた。今年の使いのこしとあわせれば、来年の冬はこれで大丈夫。やれやれ。

2007年3月5日月曜日

忌野清志郎,"King","God","夢助"

 

kiyosiro1.jpg・忌野清志郎は日本人でいいと思う数少ないミュージシャンの一人だ。癌で入院というニュースを耳にしたから、またか、と思ってしまった。高田渡が死んで、がっかりしてから1年ちょっとしかたっていない。病気の様子が気になったが、年末に近くなって、元気になったというニュースを見かけるようになった。癌は再発が怖いけれど、まあ一安心。
・彼のミュージシャンとしてのキャリアは長い。もう30年以上になるはずだ。しかも、精力的に新しいアルバムを出しつづけている。ぼくが彼の歌を好きな理由は第一に、同世代で、他の名前だけのミュージシャンのように懐メロシンガーになっていないことである。フォーク・シンガーなら自分や世界の今を歌わなければ死んだも同然なのに、なにを勘違いしているのか、巨匠気取りでいる人が結構いるし、それをまた支える、ノスタルジーだけで満足するファンが多すぎる。清志郎はそんな人たちと無関係なところにいる。

・だから、彼の歌にはどれにも、明確なテーマがあり、はっきりしたメッセージがある。しかも、聴いていて、はっきりことばが聞き取れる。そんなことあたりまえすぎることだが、なにを歌っているのか聞き取れないシンガーがものすごく多い。だいたいボーカルに比べてバックの音が大きすぎる。聞き取って受け止めるほどのメッセージをもっていないのだから、わからなくてもいい、と思っているのだろうか。
・実際、歌詞を読んでも、曖昧で意味不明な歌が多すぎるのだが、学生たちはそれを聴いて、癒されるとか励まされるとかいっているから、メッセージの伝え方や受け止め方がちがうのかと思ってしまう。「〜とか」「〜みたいな」「〜かも」なんていい方を乱発するのがはやりだから、はっきりしたくないという風潮があるのかもしれない。そのくせ、”寂しい”、”つらい”、”苦しい”、"悲しい”といった直接的なことばはやたら多い。これでは歌詞とはいえないんじゃないのといいたくなってしまう。で、ぼくはそんなことばづかいにうんざりしてしまう。

kiyosiro3.jpg ・清志郎の作る歌には、しゃれた歌詞の見本がいくつもある。たとえば、「HB・2B・2H」。ちょっとHなニュアンスもあるし、どんな目にあってもへこたれないという意思表示もある。小さな子どもにもわかるし、いろいろ考えさせる深みも広がりもある。


HB あいつはHB 鉛筆野郎さ HB
HなBだぜ HB
消しゴムがやってきて ぼくらを消そうとするけれど
ぼくらには芯がある 折れたって芯がある
消されたって消えない

・ストレートな反戦歌を歌う人は、今では彼一人だといってもいい。それがわざとらしくなく歌えるところが、彼の持ち味だろう。たとえば「God」。

ゲームを楽しんでるのか 好き放題思いのままに
あいつの気まぐれだけで 人びとの未来が消えていく
あいつの名前はGOD 人間どもをつくりあげた
戦争と平和のいたちごっこ ちんけなゲームをつづけている

kiyosiro2.jpg ・もちろん、ラブソングもひと味ちがう。それはけっして若いやつらの専売特許ではない。いろいろなことを経験して、はじめてわかることもたくさんある。しかも、わけしり顔にならず、新鮮な気持ちも持ちつづける。むずかしいけど必要なこと。たとえば「毎日がブランドニューディ」

君と真夜中に話した いろんな事
75%は忘れてしまった
君と長い間過ごしたこの人生
80%以上は 覚えていないかも
Hey Hey Hey でもいいのさ
Hey Hey Hey 問題ない
君がいつもそばにいるから
毎日が楽しい

・最近の3枚のアルバムには、このほかにも納得したり、感心したり、考えさせられたりする歌詞がいくつもある。どぎつい化粧やコスチュームが売り物だけれど、伝えたいことがしっかりあって、それを同世代から若い人にまで懸命に表現している。乗ってるだけに、体の回復には慎重にと思う。喉頭癌だから、喉の酷使は禁物だろう。絞り出すように歌う発声の仕方だから、なおさら気になってしまう。