2021年3月29日月曜日

斜陽の衛星放送

 東北新社のCS認可をめぐる問題で、首相と総務省とメディアのいかがわしい関係が問題になっている。ひどい話だが、政権支持率が上がったりしているから、批判する気にもならない。そもそも、放送が国の許認可によって成り立っていて、放送局と新聞社が同系列(クロスオーナーシップ)であること自体が問題なのだが、そんな疑問は話題になったこともない。

それはともかく、この事件を機に、衛星放送がインターネットに押されて斜陽化していることに、改めて気がついた。言われてみれば確かにそうだ、僕もテレビを見る時間はどんどん減って、その分、ネットを使っていることが多くなった。BSとCSは確かに多くのチャンネルがあるが、ほとんど見たいものはない。NHKの二つのチャンネル以外はもうやる気がないのではと思えるほどお粗末な番組編成になっているし、CSにも興味を持って見たいと思っているチャンネルはほとんどない。

衛星放送について、このコラムではホームページを初めてまもない頃から取り上げている。もう25年も前のことだが、ハイビジョンテレビを買ってWow wowと契約して、映画をよく見るようになったと書いてある。あるいは、MLBの中継やサッカーのワールドカップなど、一日のうちのかなりの時間をテレビを見て過ごしていたことがわかる。当時はまだ、インターネットは始まったばかりで動画などを見る段階ではなかった。

テレビ放送はアナログからデジタルに変わり、テレビ自体もブラウン管から液晶の大画面になった。今は4Kや8Kといったスーパーハイビジョンに移行中のようだ。NHKではすでにチャンネルもできているが、視聴するためにはテレビを買い直す必要がある。コロナ禍で自宅でテレビを見る機会が増えたかもしれないが、その割には、まだそれほど普及していないようだ。そもそもNHK以外には、それほど力を入れていないのである。見たことがないからわからないが、もっと高画質を見たいと思う人がどれだけいるのか疑問である。

衛星放送の魅力は映画とスポーツ番組にあったはずである。しかしその多くが、インターネットに食われてしまっている。時間に規制される衛星放送と違って、ネットでは、契約すれば、見たい時に見たい映画を見ることができる。野球にしてもサッカーにしても、見たいチームの試合を選択することができるのだから、衛星放送に勝ち目はないのである。衛星放送は衛星の寿命が尽きれば、新しく打ち上げる必要がある。インターネットにかなわないことが明白になってもまだ、新しい衛星を打ち上げてBSやCSを存続させるのだろうか。

テレビ放送は今でも地上波が主流だが、デジタル化に際して巨額の費用を費やした。一方でケーブルテレビも普及していて、ケーブルテレビ局に加入すれば、地デジも衛星放送もすべて見られるようになっている。物理的には衛星放送で地デジのチャンネルを流すことも可能だから、同じものを放送する手段が複数存在していることになる。同様のことはもちろんインターネットにも言えて、テレビと同じ番組をインターネットで同時に流すこともできるのである。

近いうちに、衛星放送はもちろん地デジだって、インターネットに押されて斜陽化する。そんな危機感は既存の放送局には強くあるはずである。NHKは実際、インターネットでの放送を計画しているし、民放も追随するだろう。そんな変容に対して、国はどんな政策を出そうとしているのか。総務省の現状を見ていると、利権や既得権に目を塞がれて、何も見ていないのではと思いたくなる。



2021年3月22日月曜日

言葉遣いがおかしいですね

 巣ごもり状態でめったに人と話をしませんから、これはあくまでテレビを見てのことです。言葉遣いがおかしいですね。もちろん最近ではなく、ずいぶん前からですが、いっそうおかしくなっているようです。丁寧に話すのがいいし、尊敬語や謙譲語をできるだけ多く使わなければいけません。そんな態度が当たり前になってきたかのようです。たとえば、誰かのおかげでもないのに「~させていただきました」などと言います。ただ「~します」とか「~しました」と言えばいいのになぜ、へりくだる必要を感じてしまうのでしょうか、と首をかしげてしまうことが多いです。

もっとも政治家が使うと、何ともいやらしく感じてしまいます。「国民の皆さまに、~していただきたいと思います」などと言われると、傲慢なくせに何を言うかと言いたくなりますし、これこそ慇懃無礼そのものだと思ってしまいます。そう、むやみにへりくだるのは、かえって相手をバカにすることにもなるのです。辞書には「言葉や態度などが丁寧すぎて、かえって無礼であるさま。あまりに丁寧すぎると、かえって嫌味で誠意が感じられなくなるさま。また、表面の態度はきわめて礼儀正しく丁寧だが、実は尊大で相手を見下げているさま。」とあります。

「上級国民」なんていうことばがよく使われるようになって、特別な待遇や扱いをされる人が目立つようになりましたし、富める者と貧しい者の差も大きくなりました。実態がそうですから、せめてことばや態度だけは上から目線を避けて、上下関係があからさまにならないようにしよう。あるいは反対や批判があろうと、自分の思うことを実行したいから、ここは頭を下げて、お願いするふりをしよう。テレビではそんな言葉遣いが毎日頻発しています。

一般人がインタビューなどで丁寧な言葉遣いをするのは、それがテレビという改まった機会だからなのかもしれません。あるいは、レポーターの丁寧な言葉遣いにあわせているだけなのでしょうか。しかし、上から目線にならないようにとか、横柄な態度に思われないようにといった気持ちが感じられることも少なくないようです。なぜこんなに言葉遣いに慎重になっているのでしょうか。

そう言えば、断定的に言うべきところで「かな」をつけることも目立っています。「かな」は自らの判断を保留して相手に問いかける時に使うものですから、相手が知らないことを伝える時には使うべきではないのですが、発言の最後に「かな」とやるのです。自信のなさは相手に不信感や疑念を与える危険性がありますが、断定して上から目線と見られるよりはまし。そんな判断が働いているのでしょう。

もう一つ気になっているのは、やっぱり最後に、「~みたいな」とつけることです。「みたいな」と言った途端に、それは仮定や比喩の話になってしまいますが、本人は、あくまで事実として話しているように受け取れるのです。ここにもやはり、発言の強さを和らげたいという意識が働いているように思えます。

人間関係やコミュニケーションについて、これほど慎重に用心深くしなければと思う時代が、かつてあっただろうかと思います。ちょっとしたことでバッシングをされたり、あからさまな誹謗中傷をされかねない。そんな不安がつきまとっているのでしょう。波風立てずに穏便に過ごせば、そんな不安も解消されるのかもしれません。しかし、人間関係はますます表層的で希薄なものになってしまいます。コロナ禍が、そんな傾向を増加させているとしたら、放っておけない傾向のように思えます。

2021年3月15日月曜日

新譜がないのはコロナのせい?

 今年になってCDを一枚も買っていない。アマゾンで検索しても、新譜がほとんど見当たらないからだ。このコラムは数年前までは一度に数枚の新譜を取り上げることが多かった。研究費で買っていた頃は年に数十枚が当たり前だったが、退職してからは吟味して買うようになった。だから、最近取り上げるのは一枚だけというのが多くなった。たった一枚だけ取り上げるというのは、話題を探すのに苦労するが、その一枚さえ見つけにくくなった。

理由はいくつかあるだろう。ずっと聞き続けてきたミュージシャンの多くは老人になって、積極的に音楽活動をしなくなっている。それに昨年からのコロナ禍だから、ツアーはもちろん、近場でのライブも控えているのだろうと思う。ジョン・プラインなどコロナで亡くなった人もいるし、感染した人もいる。怖がって引きこもっている人もいると聞く。だから、落ち着くまでは当分、新譜は出てこないのかもしれないと思う。

もっとも、音楽活動ができないのは、若い無名のミュージシャンの方が深刻なのだろう。コンサートホールはもちろん、ライブハウスも使えないし、ストリートで歌うことも難しい。表現活動の制限は、当然、収入減をもたらしている。ほかに定職を持っていない人は、音楽どころではないのかもしれない。文化活動に対する日本の政府の保証は皆無に等しいから、コロナ禍は人材にしても場にしても、文化の芽を摘み取ってしまうのではないかと心配してしまう。

僕がコンサートに行ったのは5年前のボブ・ディランだった。コロナ禍以前から足が遠のいていたが、ライブハウスにはいつ行ったかも覚えていない。ライブハウスの現状がどうなっているのかについても疎かったのだが、閉鎖されたところが多いようだ。何しろコロナ禍が問題になりはじめた時に、ライブハウスはクラスターが発生する場所として槍玉に上げられたところだったからだ。年末から感染者数が急増して、緊急事態宣言が出された時に、飲食業者には営業の自粛に伴う支援金が給付されたが、ライブハウスは映画館や劇場と同じ扱いにされて、支援金は給付されていないようだ。ライブハウスの多くは飲食を提供する場であるにもかかわらずである。

宮入恭平が主催するWebの「Tell the Truth」は、そんなライブハウスやミュージシャンが抱えるコロナ禍による影響を伝えるメディアである。昨年の4月に始められ、僕もそこに寄稿した。ライブハウスやミュージシャンの状況、音楽と政治などについていくつか掲載された後、しばらくは月一程度の掲載だったが、12月から掲載頻度が多くなった。「アフターマスーCOVID-19による東アジアのポピュラー音楽文化への影響」が連載されるようになり、Webシンポジウムの「COVID-19によるライブハウス文化への影響~現状報告」、あるいは「ポピュラー音楽と文化助成~COVID-19による影響」といったオンラインワークショップも始まった。ようやく軌道に乗りはじめたようだ。

欧米に比べて文化に対する政府や自治体の政策が貧弱なのは、コロナ禍に始まったことではない。また、政治や社会に対する批判的な言動や表現に場を閉ざす傾向も根強くある。そういったところに目を向けて、問題を指摘する必要は大事だと思う。けれどもまた同時に思うのは、そもそもポピュラー音楽の源流や、新しい流れのほとんどは、ひどい貧困や差別のなかから生まれてきたものであるということだ。奴隷としての境遇から生まれたブルーズ、移民のなかから生まれたカントリー、植民地だったジャマイカから生まれたレゲエ、イギリスの労働者階級の若者たちのなかから生まれたパンク、そしてアメリカの貧しい黒人たちから生まれたラップ等々である。

コロナ禍は環境破壊がもたらした人災で、それを指摘し、改善の主張をする動きは、若い世代を中心に世界大になっている。その中やそれに呼応するところから、新しい音楽が生まれれば、それは新しい力になるかもしれないと思う。しかし日本では、そんな動きはほとんど見られない。換骨奪胎された人畜無害の音楽など、この際駆逐されてもいいのでは、などと言いたくなる。

2021年3月8日月曜日

何ともお粗末なデジタル化

 コロナ禍で露呈した日本の現状には、驚くものが少なくない。その一つにデジタル化の遅れがある。小中高から大学が休校になってわかったのは、多くの生徒や学生がPCはもちろん、タブレットさえもっていないことや、家にWiFi環境が整っていないことだった。スマホがあればPCはいらない。こんな傾向は大学で学生に接していたときから感じていたが、リモートでの勉強が避けられなくなって、そんな問題が改めて露呈した。PCを使った教育をせめて中学生から徹底していれば、こんなことにはならなかったはずである。

我が家にも「マイナンバーカード」を申請する書類が来た。しかし、うさんくさいと思っているから、すぐに捨てた。国民についての情報を一元化しようという政策は、過去に何度も試みて失敗している。「住基ネット」がいい例だが、「マイナンバー」も、面倒なことをやらされた割に、何の役になっているのかわからないと感じてきた。それどころか、カードにすることによって、郵便局や銀行の預金までも管理するなどというから、不信感ばかりをもたされることになった。政府はカードの普及に力を注ぐようだが、使い方に納得がいかなければ、国民の抵抗はなくならないだろうと思う。

そんなデジタル化の遅れを改善するために、国は「デジタル庁」を新設するようだ。情報システムを整備して縦割り行政を改めること、あらゆるデータのデジタル化とオンライン化することなどが謳われているが、あまりに遅いし、果たしてうまくいくのか、ほんとうの目的は何かなど、疑わしいこと満載の制度である。確かに、コロナに対する台湾の対応を見れば、データや情報のデジタル化が必要なことはよくわかる。それに比べて、感染者の集計や、給付金の支給を手作業でやっている日本のお粗末さが目立つばかりだった。

デジタル化については、日本はすでに周回遅れになっている。だから急いでと言うのだが、政府の政策には一貫性がないし、国民の意識も低いままであるような気がする。たとえば日本人の多くはまだ、カードではなく現金を利用している。買い物に行けばそれはよくわかるし、カードが使えない所も多い。しかし世界的に見れば、現金を持ち歩くことをしなくなった国が増えているのである。そんな傾向にあるのに、渋沢栄一で新紙幣などとやっていること自体にデジタル化についての意識の薄さを感じてしまう。相変わらずカードではなく紙幣を使えと国が勧めているのである。

この国の政策は、やっていることがちぐはぐだから、結局何をやってもうまくいかない、デジタル化はその典型例だろう。結局役に立たなかったCOCOAに、一体いくら注ぎ込んだのか。やれる見込みのないオリンピックになぜ、観客向けのアプリを開発しようとしているのか。発注業者の中抜きをなぜ見逃しているのかなどなど、うさんくさい話は山のようにある。何しろ政府のトップがデジタル音痴で私腹を肥やすことばかりに熱心な老人ばかりだから、何をやっても結局は無駄遣いに終わるのは明白なのである。

GAFAの波はもう十分日本に押し寄せていて、僕もPCとスマホはApple、買い物の大半はAmazon、そしてGoogleでメールや検索やYouTubeや写真の管理などを行っている。コロナ禍でわかったデジタル化の遅れは、日本の将来をいっそう暗くするものだが、そんな危機意識の薄さが、その暗さをさらに増してしまっている。

2021年3月1日月曜日

ジリアン・テット『サイロ・エフェクト』(文春文庫)


silo1.jpg・サイロとは牧場などにある貯蔵庫のことだ。大きな牧場ならそれがいくつも林立している。日本でも北海道に行けば、よく見かける風景だろう。ただし、この本は酪農を扱っているのではない。大きな組織が専門化や細分化されると、それぞれが独立し、分断化して、全体としてうまく機能しなくなることを指して、「サイロ・エフェクト」と名づけているのである。
・著者のジリアン・テットはアメリカのフィナンシャル・タイムズで働くジャーナリストだが、彼女はまた文化人類学で博士号をもつ研究者でもある。そんな経歴から、人類学的なフィールド・ワークを駆使し、ピエール・ブルデューの理論や視点の持ち方を使って、高度専門化によって陥りやすい社会の罠を分析している。

・「サイロ」は日本ではなじみがないから、「たこつぼ」と言った方がわかりやすいかもしれない。同じ組織でも専門化されて細分化されれば、それぞれが分離独立して、相互のコミュニケーションや情報の共有がしにくくなる。と言うより、相互に競争意識が強くなったりすると、意図的に情報隠しが行われたりもするのである。そのような例として最初に取りあげられているのは、日本の先端性を代表する企業だった「SONY」だ。

・「SONY」は「ウォークマン」で音楽の聴き方を一変させたが、「アップル」の「iPod」の登場によって消えてしまった。カセット・テープからCD、そしてDVDと進化して、次は小型のハードディスクになることはわかっていたはずなのに、なぜ「SONY」にはデジタルの「ウォークマン」が作れなかったのか。著者が指摘するのは、巨大企業になっていくつものサイロに分極化した組織の仕組みの問題である。実は新商品は開発されていたのだが、それがいくつものサイロから相互の検証なしに複数提案され、同時に複数商品化されたのである。「iPod」に負けて売れなかったようだが、ぼくはそんな商品自体があったことすら知らなかった。

・この本では、そんな巨大企業化してサイロの林立を招いた故に衰退した企業をいくつか追っている。たとえば「マイクロソフト」やスイスの銀行である「UBS」、そしてリーマンショックを予測できなかった経済学者や規制当局などである。ここにはもちろん、巨大都市における細分化された自治組織が抱える問題もある。どんな組織でも、大きくなれば分野ごとに分割して、専門性を避けることは避けられない。その時に大事なのはできたサイロをつなぐ回路と人的・情報的な交流だが、それがおろそかになるのが自然の流れなのである。

・この本ではもちろん、そんな罠に陥らない、陥っても再建できた例も紹介している。たとえばSNSで急成長した「Facebook」は最初からサイロ化の危険を自覚していて、採用する人材を誰であろうと先ず、訓練期間を設けてたがいに顔なじみにすることをしてきた。だから部署が違っても、必要なら情報交換や相互の交流がやりやすかったというのである。またクリーブランドの病院が外科や内科といった分け方をやめて、脳や心臓、あるいは肺といった身体の部位によって再編した例も紹介している。ここでは同時に、医師や看護師と患者の関係やコミュニケーションの取り方などにも、旧来のやり方を改めることが実践されている。

・かつては世界をリードした多くの日本企業が、現在では衰退化している。だから「サイロ」の問題は「SONY」に限らないのだろうと思う。かつての栄光に囚われて、その再現ばかりを追い求めて、世界の流れや変容に気づかないし、見ようともしない。もちろんそんな特徴は、国の政府機関でも変わらない。原発、リニア、そしてオリンピック、コロナ対策等々、何をやってるんだと首をかしげ、腹立たしくなる政策が何と多いことか。

・難局を乗り越えたり、新しい流れを作りだしたりするヒントは、専門外のところに偏在している。だからそれに気づくためには、専門に囚われない目と、意外な視点や、それに基づく発想が必要だし、それを無視しない心のゆとりが望まれるが、今の日本には、そのどれもがかけているように思われる。何しろ男ばかり、老人ばかりがトップで幅をきかせつづけているのだから、これはもうどうしようもないのである。

・日本は今、国全体が一つのサイロのなかにある。政治も経済も社会もまるで閉ざされた孤島状態だ。そう言えばガラパゴスということばもあった。だから森発言に対する世界中の批判にあたふたする。コロナのワクチンが作れないのが日本の現状であることも含めて、サイロの外からの目で日本を見直す必要があるだろう。