2008年11月24日月曜日

謝罪と責任


・相変わらず、不祥事が起きるとトップが並んで頭を下げる光景が頻発している。半ば儀礼化していて、もうやるのが当たり前になっているのだが、ニュースを見ていてこれほどうんざりすることもない。で、最近の大学生の大麻事件でも、大学のトップが同じように謝るのを見て、これは他人事ではないと思うようになった。

・大学は学生の生活まで指導するところではない、と僕は思っている。大学生はたとえ未成年でも一人前の大人として扱う。大学で教えるようになってから一貫して、そういう姿勢で学生とつきあってきた。このような態度は、おそらく、教員の大多数のものだと思う。ということは、学生が不祥事を起こしたからと言って、それがよほど凶悪なものでない限りは、大学自体が謝罪することなど考えられないことだったはずである。ところがどこの大学でも、テレビカメラを前にペコペコ頭を下げて、「お騒がせして申しわけありません」などとやっている。

・そこには、大学という場、そこでの教育方針、そして学生という立場に対する姿勢など全く考えていない、ただただ、社会に対する謝罪の態度しか感じられない。要するに、大学についた悪評判とそれによる受験生の減少だけが怖いと表明しているに過ぎないのである。もちろん、評判に敏感にならざるを得ない風潮が大学にはある。受験生が減って、どこでも、自分の大学が魅力的であることをPRするのに懸命である。高校生に体験授業やオープン・キャンパス、あるいは父兄や高校の教員に対する説明会などが年間を通してある。せっかく努力してPRしているのに、不祥事が公になったのでは台無しで、それに対応するには、何より謝罪ということなのだと思う。しかし、それで大学と言えるのか、と言いたくなってしまう。

・就職難の時期が続いたせいか入学時から就職のことばかり考える学生が増えた。実際に3年生の夏休みを過ぎると学生たちは就職活動に懸命になって、勉強がお留守になりがちになる。だから卒論に対する態度もいい加減で、いくら言っても本気にならない学生が目立つようになった。当然、大学っていったい何なんだと改めて考えてしまうことも多くなった。もちろん、学生にあたったってしょうがない。1,2年生の頃は好き勝手な服装や髪型をしてきても、3年生の終わり頃になると紺のスーツ姿で現れたりする。そういう傾向が「空気」のように感じられて、レールをはみ出してはいけないという意識が、強迫観念のように強くなった。だから、自分なりの興味や関心に向けるべき時間やエネルギーを無駄と感じるのも当然なのである。大学は、人生の道筋から一時横道にそれて、自分のことや社会のことを見つめなおす時間であってこそ意味がある。僕はいまでもそう思っているから、学生の意識にはますます違和感をもってしまう。

・ところで、大麻だが、そもそも、マスコミがヒステリックに強調するように、そんなに悪いものなのだろうか。だったらなぜ、欧米ではせいぜい交通違反程度の罰金刑で処理しているのだろうか。もっと強い麻薬への入り口になるといった理由がよく聞かれる。しかし、酒を飲んだら誰もがアル中になるわけではないし、タバコを吸ったら誰もが癌になるわけでもない。なぜ、大麻だけが、一度経験したら誰もが麻薬中毒に至るとなるのだろうか。あるいは、酒酔い運転で人を引き殺した話は頻発していても、大麻を吸ってひき逃げをしたという話は聞いたことがない。いくら罰金を増額しても酔っぱらい運転がなくならない現状を見ると、禁止すべきはまずアルコールと言いたくなる。それができないのは、酒を飲む人の数が極めて多いことやアルコール産業の規模が巨大であるせいで、大麻よりアルコールが安全であるからでは決してないはずである。

・大麻事件の報道には、悪というレッテルとイメージで「コード化」し、その真偽を問わせないという雰囲気がある。だから発覚すれば、その罪だけでなく、退学や失職といった処分が当然のように伴うことになる。大げさではなく、それで人生が台無しになってしまうわけで、そういう社会の仕組みをきちっと認識させることや、そのおかしさに批判的な視点を持たせることこそ、大学で学生たちに知ってもらいたいことだと思う。安易な謝罪は責任の所在や事の本質をうやむやにするばかりで、何の解決策にもならない。「責任」はまず自覚するものであって、他人から脅し文句のようにぶつけられるものではないはずである。

2008年11月17日月曜日

テレビの調子がおかしい


・いま見ているテレビはビクターのハイビジョンだ。98年に買ったからちょうど10年になる。その画面が、暗くなって見えにくくなる時がある。もう寿命かと思うが、悪いのはアナログ波だけで、BS放送はきれいに見える。見ているテレビはブラウン管だが、いまはもうどこに行ってもブラウン管のテレビなど売っていない。薄型の液晶かプラズマで、その勝負も液晶が勝ちそうな気配らしい。調子が悪くなって量販店で何台ものテレビを見比べたが、もうひとつ気に入らない。妙にツルツルテカテカした画像で、まるで深みがない。薄いのはもちろん結構だが、あまり買いかえる気にならなかった。

・見ているテレビを買った時には、まだハイビジョンは実験放送の段階だった。地上波に比べてずいぶんきれいな画像に驚いた。そのことは10年前にこの欄のコラムにも書いている。ワールドカップのフランス大会や野球の中継を見て、スポーツの見方がずいぶん変わるのではないか、等と書いている。そのハイビジョンがアナログからデジタルになり、BS放送が多チャンネル化したから、地上波の映りが悪いところに引っ越しても、ほとんど不便を感じなかった。むしろ、地上波のバラエティ化にうんざりするばかりで、BSの地味だがじっくり撮った旅行や自然観察等々の番組をずいぶん興味深く見るようになった。大体テレビは暇つぶしやながらで見るものと思っていたのだが、BSを見るようになって、その認識は一変した。

・その10年前のコラムには、やはり10年見たテレビが壊れて買いかえたと書いてあった。テレビを10年ごとに買いかえてきたとしたら、現在見ているテレビは4台目で、その寿命もぼちぼち尽きかけているということになる。最初に買ったのは狭いひとり暮らしのアパートに見合う、モノクロの14 インチだった。で、2台目からカラーになり、3台目に画面が大きくなって、4台目がハイビジョンになった。さらに、ハイビジョンのデジタル放送開始後にチューナを買ったが、別のコラムには、その時はじめてみたのがニューヨークの貿易センタービルへの旅客機の衝突だったと書いてある。

・テレビはすでに地上波もデジタル化していて、アナログ放送は11年に終わる予定のようだ。だから、いま見ているテレビの修理も、アナログ放送が終わるまでのためということになる。地デジは難視聴地域で見えないことがわかっているから、この際、ケーブルテレビにするという選択肢もある。実は家のまわりの木が成長して、今年は新緑の頃から、BS放送が見えにくくなっていた。木にからみついた蔦や葛の蔓を切って、何とかしのいだが、来年の春には、大きな枝を切らなければならない。もちろん業者に頼むから、それはそれで面倒なことだ。インターネットのブロードバンド化とあわせて、ケーブルを引くいい機会なのだが今一つ決めかねている。

・民放各局の経営が悪化している。世界的な不況が長続きすれば、状況はますます悪くなるだろう。しようもない番組ばかりを垂れ流してきたのだから飽きられるのは当たり前だし、ネットにお金も時間も吸いとられているから、このまま衰退、とは言わないまでも、弱化するのは避けられないと思う。ちょっと前に、ゴールデンタイムの視聴率でNHKが一位を久しぶりにとったというニュースを目にした。夕飯を食べ、その後横になって居眠りしながら見ているのは、僕の場合にも地上波は、ほとんどNHKだった。この時間、NHKはニュース番組を中心に放送している。それにあやかろうとするのか、民放も、ニュースやドキュメント番組に力を入れるようだ。この種の番組は、メインのキャスター次第だが、一体そんな人材がいるのだろうかと思う。筑紫哲也の死が、ジャーナリズムとしてのテレビの終焉を感じさせたから、何とも皮肉な巡り合わせのように思った。

2008年11月9日日曜日

続・新譜あれこれ


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・ディランの海賊版シリーズもこれが8作目で、録音されたのは1989年以降だ。アルバムタイトルは "Tell Tale Signs" 。2006年のものまで入っているから、これで終わりなのかなと思う。2枚組みで27曲も入っている。古い歌もいくつかあるが、ほとんどは同時期に発売されてきたもので、アルバムでの歌い方やアレンジと大きくかわるものは少ない。その意味では、海賊版のおもしろさは、この時期まで来るとほとんど薄れてしまっていると言える。とは言え、長年のファンとしては、これはこれでなかなかいいと感じてしまう。もうすぐ70歳になるはずで、彼の全然衰えない創作意欲やイマジネーションにはおそれいるばかりだ。

mason.jpg・デイブ・メイソンが新しいアルバムを出した。26年ぶりだという。タイトルは"26Letters〜12Notes"。そういえば、彼のアルバムはトラフィックのものもふくめてレコードでしか持っていない。ということは当然、ぼくも20年近く、彼の声やギターを耳にしなかったということになる。そのしわがれた独特の声やギターに心地よさを感じていた時のことを思いかえすと、青年時代の僕の姿が浮かんでくる。それはメイソンも一緒で、アルバムには若い頃から最近までのさまざまな写真が載っている。その小さな一枚一枚を見ると、この間もずっと彼が歌いつづけてきたことがわかる。別にスポットライトがあたらなくたって歌は歌える。そんなことを言っているように僕には聞こえてくる。

souther2.jpg ・サウザーをじっくり聴いたのは、5月のコラムで書いたように、つい最近のことで、その出たばかりのベストアルバムに写っている顔をイメージしていたのだが、これも久しぶりの新曲ばかりのアルバム "If The World Is You" では、まったく別人の老人になっていた。スタジオ・レコーディングとしては25年ぶりのようだ。
・中に、大阪を題材にしたジャズふうの曲で語るように歌う歌がある。"Brown(Osaka Story)"。夜中にひとりで酒を飲んでいる。薄暗い十三だ。そこでひとりの女と出会う。彼女の車に乗って町を離れるといった話のようだ。「おーきに」「ごめんなせい」「そうですか」と、いくつか日本語も入る。彼の経験談なのかな、と思った。

browne3.jpg・ジャケットを見てびっくりは、ジャクソン・ブラウンの方が強烈だ。ライブ版のジャケットの顔とは全然違うから、別の誰かの顔なのかと思ったが、中をあけるとサングラスをはずした写真が載っている。白髭を蓄えた初老のブラウンだ。もっとも、声は昔と変わらないし、曲風にも格別の変化があるわけではない。昔ながらの、いつもどおりの彼の歌が聞こえてきた。
・アルバム・タイトルは"Time The Conqueror"、何事も結局は、時が解決したり、奪い去ったりする。自分の夢と重ねあわせて、それとは無関係に流れる時間の確実さや、それ故の冷たさや暖かさをテーマにしている。

emmylou1.jpg ・エミルー・ハリスの"All I Intended To Be"のジャケットにも、冬枯れの林を歩く白髪の彼女が写っている。彼女は強烈なメッセージを発するわけでもないし、個性ゆたかというわけでもない。ただ、アメリカのカントリーやフォークソングの良さを持っていて、それが一貫して変わらない。その良さはまた、誰と一緒でも変わらないから、いろいろなミュージシャンとデュエットする。僕が彼女を初めて知ったのは、ザ・バンドの解散コンサート版の"The Last Walts"だった。その可憐さに一目惚れしたのだが、歳をとっても、その雰囲気は変わらない。マドンナやシェリル・クロウとはまるで違うが、それはそれで、得難い個性なのだと思う。

bruce1.jpg ・スプリングスティーンの "Magic" は去年出たアルバムだ。ダブリンでのコンサート版の評判がいいのでそちらを先に買おうと思ったが、やっぱり新しいものを聴いてみようと、こちらを手に入れた。Eストリート・バンドをバックにしていて、悪くはない。ただ、歌と同様アルバムの写真が昔とあまり変わらないところに、虚像としての彼を見てしまう。それはもちろん、ここにあげた他の人たちの老けようと比較しての感想だ。
・アメリカ大統領選挙ではスプリングスティーンはオバマにずいぶん肩入れしていたようだ。ブッシュの8年はアメリカはもちろん世界にとっても最悪で、僕は21世紀になって最悪の犯罪者はブッシュだと思っている。だからこそ、オバマにあれほどの人気が集まったのだが、ミュージシャンも俳優も、名の出た人は誰もが明確に、どちらを指示するかを表明していて、中には積極的に選挙活動に参加する人も少なくない。音楽でもアートでも演劇でも、何かを表現する人には欠かせない姿勢だと思うが、そこもまた日本人にはほとんど見つけられないところだ。

2008年11月3日月曜日

田舎暮らしの2冊の本

 

丸山健二『田舎暮らしに殺されない法』朝日新聞社
色川大吉『猫の手くらぶ物語』山梨日々新聞社

・田舎暮らしを初めて10年近くになる。あっという間の気がするし、ずいぶん経ったと思うこともある。このコラムに書いてきたように、おもしろいこともあったし面倒なことや辛いこともあった。で、これからもずっと、ここに住みつづけようと考えている。
・テレビで紹介される田舎暮らし(カントリー・ライフ)には、いいことばかりが描きだされる。特に、定年後の新しい生活といった時には、取れたての野菜でバーベキューとかバルコニーで珈琲やワインといったシーンがかならずはいる。それはたしかに誰もが最初にやりたがることで、それなりに満たされた気になることだが、あくまでたまにの話しで、しょっちゅうだったらすぐに飽きてしまう。そこは、定住するのと別荘としてつかう違いだといってもいい。

forest71-1.jpg・そんな日常と非日常の違いをよく見定めないで、田舎でのセカンドライフを夢一杯ではじめると、途中で挫折することが多いだろう。丸山健二の『田舎暮らしに殺されない法』には、田舎暮らしの怖さ、危うさ、イメージと現実、夢と実体のずれが事細かに、しかも身も蓋もないほど辛辣に書かれている。
・もちろん、書かれていることには、自分でも思いあたることが多いし、周囲の話しとして聞くこともたくさんある。だから決して誇張ではなく、実際にあったこと、ありそうなことばかりで、読んでいて、思わずげらげら笑ってしまったり、ふんふんとうなずいたりして、一気に読んでしまった。当然、なかには自分のことを言われているようなところもあって、耳が痛いと感じたり、ちょっとむかっとするところもあった。都市から田舎への移住を考えている人には必読の書で、これを読んで夢やイメージが壊れてがっかりするようなら、計画は見直した方がいいのかもしれないと思った。

・田舎暮らしはとにかく不便だ。近くにコンビニはないし、ケータイは繋がりにくいし、テレビの難視聴地域だったりする。自然以外にはなにもないところでは、やりたいことは自分で見つける必要があるし、それを持続させるのには、よほどのやりがいと我慢する気持が不可欠になる。地元の人は決してやさしくないし、突きあおうとすれば、理解に苦しむ風習や都会とは違った人間関係の仕方を受けいれなければならない。人家が密集していないということは、それだけ不用心だということで、町中以上に戸締まりや見知らぬ人の訪問には警戒する必要も出てくる。『田舎暮らしに殺されない法』には、たとえば、次のようなアドバイスがある。えー、と思うが、もし狙われたらと心配なら、このくらいの用心は必要なのかもしれない。もっとも、それは町中で暮らしていても一緒だろう。


大きくてこわそうな犬を飼う
家の造りを強固に(特に寝室の窓に鉄格子、ドアに内側からの錠前)
合法的な武器を用意(手製の槍)

forest71-2.jpg ・もう一冊は、都会から田舎に移り住んだ老人たちがつくる、ほのぼのとした助け合いクラブの話だ。著者は僕が勤める大学の看板教授だった人で、退職後に癌を告知されて、八ヶ岳でのひとり暮らしを決心したという。ここでの暮らしが功を奏して、癌は進行せずに元気に暮らしているようだ。
・「猫の手くらぶ」に参加する人たちは全員が都会からの移住者で、インテリで、自立心が強く、それなりに裕福な人たちだ。だからひとり暮らしの身ではあっても、むやみに人に頼ろうとはしない。困った時に気兼ねなく助けをお願いするが、そのために必要なのは、何より、お互いに重荷と感じないような距離感だという。もちろん、そのためには、楽しいことも適度におこなわれるが、山歩き、スキーなどと、およそ老人たちらしくない。
・読んでいて、あまりにうまくいきすぎて一種のユートピア物語のように感じたが、たぶん、嘘や虚構はないのだと思う。選りすぐりのメンバーがつくる特上のコミュニティ。80歳をすぎてもこんなふうにしてひとり暮らしができる場所をつくるのは田舎はもちろん、都会でだってむずかしい。
・2冊の本の内容は両極端だが、読みとった教訓は一緒だ。都会から田舎への移住は、自立心と持続力、それに、適度な距離で助け合える人びとのネットワークが欠かせないということだ。これからもずっと住みつづけるために、肝に銘じたい教えだと思った。