2003年4月28日月曜日

病気と病い 

・アーサー・W・フランク『からだの知恵に聴く』日本教文社
・ロバート・F・マーフィー『ボディ・サイレント』新宿書房
・アーサー・クラインマン『病いの語り』誠心書房

 半世紀以上も生きてくると、からだの具合がいつでも万全だというわけにはいかない。たとえば、今は50肩で右腕が十分に動かないし、腰の調子も不安定だ。胃の薬も欠かせない。痛い、重苦しい、むかつく、だるい………。どれも不快だが、こんな感覚が日常化すると、それとうまくつきあう術もわかってくる。


ところが医者に相談すると、食生活は?酒は、タバコは?睡眠、ストレスは?運動はしてますか?と、決まったことを聞いてきて、決まったアドバイスをしてくれる。「病気」にはかならず原因があって、それを治療する方法も、大概、確立されている。胃カメラ、血液検査、尿検査、CTスキャン、超音波………、で注射や薬を処方してくれて、不摂生や意志の弱さを戒めるというわけだ。


もちろん、医者の言うことは逐一ごもっともで、反論できることはほとんどない。けれどもいつでも、聞きたいこと、あるいは聞いてほしいこととはちょっと違うんだけどな、という気持を感じてしまう。教師というのは人に教えることはあっても、人からの教えを素直に受け止めない。このような気持は、そんな職業病と根っからのへそ曲がりのせいかもしれない。からだの調子が悪くなると、そんな反省の気持も出て、医者の忠告を思い出したりするが、回復すればすぐに忘れてしまう。


アーサー・W・フランクの『からだの知恵に聴く』はみずからの病気(心臓発作と癌)の経験を素材にした社会学である。ここで問われているのは、痛みや苦しみ、あるいは不安や焦りといった感情として経験される、自らの病いについてであり、それとはずれる医療や医学、医者や看護士との関係である。

・身体への治療は人に対してなされるべきことのごく一部にすぎない。私のからだがダウンしたときに起きたことは、からだだけではなく、私の生にも起きていたのだ。
・体験とはそれを生きるべきものであって、支配すべきものではない。からだは自分自身によっても支配されるべきではない。からだは人生の手段であり、媒体である。私はからだの中で、からだを通して生きるのだ。心とからだを切り離すべきではないし、からだを物ととらえるべきでもない。『からだの知恵に聴く』15頁

・医学は病気をからだの変調や不全としてとらえる。だから医者が立ち向かうのは病気、つまり病んだ身体であって、その症状を示す患者そのものではない。患者にとって特別の経験も医者や看護士にとっては日常的な仕事の一例でしかない。その感覚の落差が医療行為のなかではほとんど無視されてきた。もちろん、医者も看護士も毎日数十、数百人の患者に対面するから、その一人一人の心の中まで思いはかっていたのでは、仕事になりはしない。もちろん、町医者とは互いによく知っている関係をつくることができる。けれども、病気の正確な診断は、大きな病院に行かなければはっきりしないことが多い。病気と医療行為のあいだには、そんな根本的な断絶がある。


・ロバート・F・マーフィーはアマゾンをフィールドにする文化人類学者だが、やっぱり脊髄癌におかされた自分の経験を記録したものだ。病気になるとはどういうことか、他者の態度はどう変わるか、所属する集団の扱いは、そして死と闘い、それを受け容れることとは………。彼は病いによって身体に障害をもつことは「からだのあり方であると同時に、社会的アイデンティティのあり方」でもあるという。自らの経験や実感に基づく分析であるだけに、とても説得力がある。もちろんそれは『からだの知恵に聴く』にも言えることだ。


・アーサー・クラインマンの『病いの語り』は、前記した2冊とは違って、病いに冒された者の経験、その内的世界や周囲の人々との関係、そしてもちろん医療行為について、ひとつの研究領域として分析しようとしたものである。彼は医療が診断する「疾患」(desease)とは区別して、患者固有の体験を「病い」(illness)と呼んで区別する。その「病い」にとって大事なのは患者やその身近な人間たちが語る物語である。

・病いの語りは、その患者が語り、重要な他者が語り直す物語であり、患うことに特徴的なできごとや、その長期にわたる経過を首尾一貫したものにする。病いの語りを構成する筋書きや中心的なメタファーや、あるいは表現上の工夫は、経験を意味のある方法で整理し、それらの意味を効果的に伝達するための文化的、個人的モデルからひき出されるものである。『病いの語り』61頁
・「病い」とは単に身体的な変調に限定されるものではなく、それを経験する人の感情の起伏や、人生を通した意味づけ、周囲の人たちとの関係の変容に注目する視点である。医学のおかげで寿命が延びて、その分、病院の世話になったり、そこで死を迎える人が増えた。そのことで問題になるのは、病気そのものではなく、それを経験する人の心。これは医学にとってというよりは人間論や人間関係論にとっての新しい課題なのだと思う。

2003年4月21日月曜日

春になったから………

 

forest20-2.jpeg・長ーい冬がやっと終わった。何しろわが家では11月の初めから薪ストーブを使いはじめたから、暖房の期間は5カ月半、ほぼ半年になった。例年よりは半月から1月長い。おかげで、予定した薪は全部使い切って、来年用に蓄積しはじめたものまで燃やすことになった。これだから、倒木集めと薪割りは余裕を持ってやっておかなければならない。地元の人たちは、連休明けまでは安心できないと言うから、まだまだストーブを使うかもしれない。
・去年の11月に見つけた倒木は、冬のあいだにすべて、切って割って薪にした。ちょうど家のまわりに積み上げる量で、これで次の冬もだいたいいける。それでも、倒木を置いてあった場所が空になると、何となく不安というか寂しくなる。で、また出かけたついでにあちこちをきょろきょろ。この冬は雪が多かったから、倒れたり割れたりした木はかなりある。見通しは悪くない。
・そんなふうに思っていたら、さらにいい知らせがあった。高校の同級生が山中湖で「マナ・ハウス」というペンションをやっている。不況でどこも客足はのびないようだが、彼のところはがんばっていて、最近、隣のペンションを購入してビジネスを拡大した。改築して周囲の木を伐採したときいたから、さっそくもらいに行くことにした。山中湖までは片道25kmほどある。トラックを借りようかと思ったが、とりあえずはランカスターで積めるだけもらってきた。

forest24-1.jpeg・春休みだったから、次の日も行こうと思ったのだが、1日目で持病のぎっくり腰になった。さらに数日後には季節はずれの大雪。4月にはいっての25cmは十数年ぶりのようだ。で、ガソリンも抜いてお役ご免のはずの除雪機を動かすことになった。そんなふうにしているうちに新学期が始まってしまい、いまだに行っていない。5月になると草が生い茂って倒木は隠れてしまうし、カビが生えたり腐り始めたりする。連休はペンションが忙しくなって迷惑だから、なんとかその前に行かなければと考えているが、なかなかその時が来ない。
・もちろん、ウィークデーで大学に行かない日はあるのだが、先週からベランダの改修工事をはじめてしまった。ベランダの板や手すりがだいぶ腐り始めていて、前から気になっていた。急に暖かくなりはじめて、ベランダでちょっと読書でも、と椅子に座ったら、ぼろぼろの手すりが目に入った。もらってきたばかりの木に、ちょうどいい太さのものがある。そんなふうに思いはじめたら、決断するより先に、本は置いて、鋸と金槌を取りに行ってしまったのだ。腐った木を壊しはじめたら、もう後戻りはできない。

forest24-2.jpeg・DIYの店に行って板を買い1日か2日で仕上げるつもりだったのだが、点検すると床下の支えの板も腐っている。かなり大がかりなことになって、すでに4日も5日もかかってしまっている。もちろん仕事があるから、飛び飛びにしかできない。でこの週末に一気に仕上げることにした。出来映えはなかなかいい。腰や肩と相談しながらの日曜大工。けっして体にいいわけではないが、心のレフレッシュにはもってこいだ。何しろ大学では、先週の学部教授会が5時間、今週の全学教授会も5時間半で、退屈や、イライラ。ストレスがかなりたまっていたのだ。
・最後に周囲の春の様子をすこしだけ。蕗の薹はもう終わったがたらの芽がもう少したてば食べられるようになる。ここ数日の高温で、庭の桜が一気に満開になった。片栗の花は今年は8つ。去年の倍に増えた。この分で行って来年さらに倍になると、数年後には庭に群生するようになるかもしれない。パートナーはさっそくその周辺に入らないように低い柵を張り巡らした。白樺も葉をつけはじめ、あたりが茶色から緑色に変わりはじめている。もう少しするとライラックや三つ葉ツツジも咲き始める。河口湖の春は突然のようにやってくるが、今年はそれが一層はっきりしているようだ。

2003年4月14日月曜日

Juchrera"Herveit"

 

・今回紹介するCDはゼミの卒業生の楠見君が作ったものだ。彼は僕が東経大に移って最初にもったゼミの学生で、リーダー的な存在だった。ロックで卒論を書くと積極的に勉強したし、発表もした。移籍したばかりで慣れない僕にとっては貴重な学生だった。卒論のテーマは「ウェールズ音楽論」。イギリスのなかで唯一見落とされていて、音楽不毛の地のように誤解されているが、決してそうではないということを力説する内容だった。


・楠見君は卒業後も仕事のかたわら音楽活動を続け、その近況報告をこのHPの掲示板に書き込んだり、メールを送ってきたりした。前回報告した溝口君のように、忘れた頃に連絡してくる人は少なくないが、定期的に連絡をくれるのはわずかだ。最近ではイラク戦争に反対するデモを事前に書き込んでくれた。「仕事はやってるの?」と心配すると、「しっかりやってます」という返事。最近では珍しい(?)、素直な好青年である。その彼が自作のCDを出した。タイトルは『HERVEIT』、バンド名は「Juchrera」。どちらも造語のようである。


・聴いてみるとなかなかいい。何より音がきれいだ。ピアノやバイオリンなども入っていて映画のサウンドトラックのような感じ。スタジオを借りたり何人もの人に演奏を頼んだりして大変だったろうと思ったが、同封された手紙では「全部自宅で作成」と書いてある。CDのラベルが厚いせいか、車のオーディオでは出し入れの時に引っかかってしまう。ぎゅっと差し込んだり、出にくいのを引っ張り出す。いかにも手作りの感じだし、本人も「庭の自家製野菜」のような作品だと言うが、中身はなかなか。八百屋さんで売っているのと同じぐらいいい出来だと思った。


朝の光のなかに Toyland
迷い込んでいる 道は遠いな
「今ここにある暇」がどこにある
朝の光に問いかけてなくなった
辞書を参照 言葉得ましょう
無意味の検証「意味がない」でしょう
感情 誕生だが 不感症
だからあべこべ 故に消えてなくなった
同世代など どうせないんだろうと
申さないだろう この世代だと
この世界では その視界では
全てあれこれ それ消えてなくなった
曖昧な愛 曖昧な愛(IMINATOIN)

・ことばもおもしろい。何より日本語でしっかり歌っているのがいい。最近聞こえてくる日本人の歌は日本語と英語が混じって意味不明なんていうのばかりだから、新鮮な感じがする。こんなCDが自宅で作れてしまうというのはすごいと思うが、今は演奏にも録音にもアマとプロの垣根はないのかもしれない。そういえば今年のゼミの卒論には、インディーズ人気という最近の傾向に注目してまとめたのがあった。メジャーのレコード会社が不作でヒット曲が出ない状況のなかで、インディーズ・レーベルが人気を得ている。そんな内容で、僕はそこで取り上げられているミュージシャンやアルバムをほとんど知らなかったが、楠見君のアルバムを聴くと、そんな状況も理解できるような気がした。

・とはいえ、このアルバムが大ヒットするかもしれないなどと無責任な予測を擦るわけではない。メジャーの目にとまったかぎられた人たちだけがすくい取られてスターに仕立て上げられていく。そんなシステムが機能しなくなることは音楽産業にとってはいいことではないかもしれないが、音楽状況としては悪くないのでないか。そんな希望を感じさせてくれただけで十分意味のあるアルバムだということだ。
・なお、このアルバムや楠見君に関心のある方は、ぜひ彼のHPを訪ねて、メールを出してあげてください。

2003年4月7日月曜日

ドイツからの便り

  つい最近、懐かしい人からメールが飛び込んできた。タイトルは「お久しぶりです。同志社の院でお世話になったMです」。M君は10年ほど前に同志社の大学院で非常勤をしたときに受講した人で、勉強熱心ではなかったが、おもしろいパーソナリティの学生だった。何年か留年して退学したはずだが、その後の消息はわからなかった。その彼からのメールはドイツから。なぜドイツにいるのか、何をしているのか、といった説明などはなく、米英軍のイラク侵攻について、ドイツでの関心の高さと日本から届くメールの能天気さの対照に驚き、腹を立てるという内容のものだった。

でもね、昨日とか、涙出てきたんですよ。日本からくるメールとか見てて。ぼくらって「インベーダー」でしょ?………自分らのオカズが一品減るのがイヤで人殺しを「支 持」した。あのね、日本から「花見がどうの」とかメールが来たり、新聞社のサイトで「松井がどうの」ってのを見てたりすると、「本当は戦争なんか起こってない」と思うほうが自然なんですよ。ありえへん。
ご立腹はごもっともだが、日本でも各地でデモが起きている。戦争に反対する人の声はあちこちから聞こえてくる。もちろん、国としてブッシュの戦争に反対するドイツとは空気が違うのは確かだろう。ドイツにはユダヤ人もいれば、アラブ人もいる。自分の問題として考えざるを得ない状況で、その日本との落差は大きいはずだ。大学生の反応はどうか、という質問があったから、僕の掲示板に書き込んで、直接反応を確かめたらどうかと、ちょっと冷たい返事をした。


もちろん、日本人の多くは、この戦争がとんでもない愚行であると感じているはずだ。第一に侵攻を正当化する理由がない。「独裁者フセインからイラク人を解放する」などという理由が根拠のないものであることは、イラク国民の反応を見れば一目瞭然だ。国外に逃げる人がいない。逆に国外から戻ってくる人たちが多いという。空爆のなかでサッカーの試合をしている。商店街も店を開け始めた。こんなニュースを耳にすると、それでもバクダッドに攻め込もうとするブッシュの姿勢が正気の沙汰ではないように思えてくる。500万人の人が生活する大都市でゲリラ戦が起こったら、いったいどれほどの人が死ぬか。その地獄図を想像すると空恐ろしい気になる。
ブッシュは、イラクが大量殺戮の破壊兵器を隠し持っているから攻撃するのだという。しかし、アメリカがこの戦争ですでに使った兵器は、いったいどれほどの量になるのだろうか。ほとんど反撃らしいこともできない国に攻め込むのは、侵略以外の何ものでもないだろう。フセインを始末した後にはアメリカ主導の暫定政権を作るのだという。アメリカの意のままになる傀儡政権で、どの国にも、国連にも口出しはさせないという姿勢だ。 


アカデミー賞の授賞式で「ニセの大統領選挙で選ばれたニセの大統領が、インチキな理由をタテに戦争を起こしている。その恥を知れ!」といったメッセージをした人がいた。まったくそのとおりで、インチキ大統領に世界を滅茶苦茶にされたらかなわないと思う。M君の熱いメールには、「まあ、ちょっと落ちついて」と水を差すような返事を書いたが、僕もアフガニスタン侵攻の時からブッシュとアメリカの姿勢には腹が立っているし、本当に怖いのはイラクでも北朝鮮でもなくアメリカなのだと感じている。

「来年、再来年」とかが普通に来ると思えるの?それがすっごく不思議。
「終わりの始まり」やんねえ?
そのとおり。だからM君が言うように、この戦争は「許せへん!」とも思う。アメリカのエゴ、ブッシュの横暴。北朝鮮が脅威だからアメリカを支持するというのは日本のエゴだが、支持するから危険が増すのだということもできるだろう。「終わりの始まり」。文字どおり「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」だ。


けれどもまた、僕の気持ちは、そう言ってすっきりできるわけではない。彼が嘆くように、僕はイラクの様子と同じように野茂のメジャー・リーグに関心があって、戦争の報道以上に熱心に追いかけてしまっている。何しろ、野茂は開幕ゲームでランディ・ジョンソンに投げ勝って、完封をしたのだ。テレビも新聞も「松井!」でうんざりだが、M君から見れば、僕の態度だって目くそ鼻くそだろう。言うまでもないが、その野球はアメリカで行われていて、ゲームの開始前には国歌、7回には「ゴッド・ブレス・アメリカ」をやって愛国心に訴えるから、その度に、水を差されるし、野球を楽しみ、愛国心の高揚に応えるアメリカ人を目の当たりにするのも複雑な気持ちを感じさせる。


世界が終われば、自分の世界も終わる。だから、今は日常のプライベートな関心を離れて、世界に目を向けるべき時なのかもしれない。けれどもまた、この戦争に反対するとしたら、その理由は、自分の小さな日常を壊されたくないからだとも言える。アホなインチキ大統領にぼくの世界を滅茶苦茶にされたらかなわない。一人の人間が強く主張できるのは、このことをおいてほかにはないはずだし、死の危険にさらされているイラクの人たちが一番強く訴えるのも、何よりそこにあるはずだ。「なぜアメリカに、自分の生活や命を奪われなければならないのか。」その切実な訴えに動揺しながら、なお複雑な思いにもじもじしている自分がいる。