2003年3月31日月曜日

 

久しぶりの京都

dasman1.jpeg・3月が中旬すぎても、まだ大学に行く予定がある。だからいつまでたっても春休みにならない。そうしているうちに卒業式。今年は「日本スポーツ社会学会」(岡山大学22-23日)が卒業式と重なったから、それもキャンセル。どこにも出かけずに新学期、と思っていたが、急に思い立って京都に出かけた。パートナーが19日から23日まで個展を開いたのだ。


・河口湖から関西方面に行くルートはいくつかあるが、今回はバスで三島まで行って、そこから新幹線。朝7時前に家を出て11時半には京都に着いたから4時間半。接続がよく三島では「ひかり」に乗れたせいだが、意外に早くついて驚いた。
dasman2.jpeg・ 京都は去年の「関西社会学会」以来だから10カ月ぶり。河口湖では夜、雪が舞ってあたりは薄っすらの銀世界、車のフロントガラスも凍りついていた。駅前に車を停めてバスに乗ると客は誰もいない。山中湖、篭坂峠まではまだまだ冬の景色。富士山もきれいに真っ白だ。御殿場から三島に着くと少し春の様子。新幹線の車窓から見ていると、その春がだんだんはっきりしていくのがわかった。
・京都駅について地下鉄に乗り換え、御池で降りると階段の上から若い坊さんが3人降りてきた。「あー京都だ」と早くも実感。御池通りには新しい地下鉄が開通している。地上に出ると、高い建物が増えたように感じたが、御池通りの巨木の街路樹がなくなって、空も目立つ。木は工事が終わったら原状回復すると聞いていたのに、植えてあるのは苗木のちょっと大きいような貧弱な木。広い御池通りには何とも貧相だ。


dasman3.jpeg・個展をしている画廊は烏丸御池よりちょっと北西に歩いたところにある。古い町並みにイタリアやフランス料理のレストラン、ケーキ屋さんにカフェ。前回に個展をしたのは5年ほど前だが、そのあいだにも雰囲気は少しだけ変わっている。画廊に着くとさっそく懐かしい顔に再開。大学時代の友人、隣人だった古書店の主人、ゼミの卒業生とその子どもたち。井上摩耶子さん、世界思想社の中川さん、追手門の城野さん、それに息子たちとそのガール・フレンド………。23日は最終日だが、それ以前にも100人以上懐かしい人たちが訪れている。パートナーの話では、ここで久しぶりに顔を合わせて懐かしがっていた人たちもいたようだ。10日ほど前に身延山のお墓で切った桜の枝が花を咲かせている。京都よりも一足早い開花で、画廊の中はいっそうの春。


dasman4.jpeg・夕方に片づけをして作品をすべて車に詰め込む。来るときは助手席まで段ボールを置いたが、帰りは僕の座席も確保しなければならない。来た人たちにはずいぶんたくさん作品を買ってもらったのだが、持って来すぎたのか、やっぱり工夫しないと車にはおさまりきらない。何度も出し入れをやりなおしてやっと完了。打ち上げは三条河原町まで出て居酒屋にはいった。総勢10人ほど。
・翌日は朝7時にホテルをチェックアウトして、京都市内を車で回る。銀閣寺のワールド・コーヒーで朝食。ここはよく友だちと待ち合わせ場所に使ったところだが、建物も新築して様変わり。しかし懐かしい店や建物もそのままにある。同志社大学の学生会館が消えて工事中、京大病院は昔の面影はまったくない。変わったところ、変わらないところ、懐かしかったり、残念だったり、驚いたり。清水や山科で陶芸の土や釉薬などを買って名神に乗る。


・中央高速とちがって大型トラックが多い。それに年度末のせいか工事で渋滞続きでいつものようにはすいすいと行かなかった。春霞でぼんやりして景色もはっきりしない。あくびばかりして夕方河口湖着。

2003年3月24日月曜日

やれやれ、今度は松井か………


・野球のシーズン到来。今年も野茂でMLB。と楽しみにしているところだが、テレビも新聞も、連日「松井、マツイ、Matsui!?」である。さすがのイチローも今年は影が薄い。メディアの新しもん好きや現金さに今さらあきれるわけでもないが、やっぱり文句はつけて記録にとどめておきたい。何しろ日々の記録係を自負するマスコミは、また、恐ろしいほどの健忘症で、自分のしたこと、話したこと、書いたこと、映したことに知らん顔して、すぐに違うことを主張しかねないからだ。

・NHKは今年MLBの試合を300以上中継する。もちろん松井中心で、残りの大半はイチロー、あとは選手の成績次第のようだ。その中継試合の増加をPRするために、一日に何度も「今日の松井は〜」とニュースで伝えている。試合に出ない日は練習風景とインタビュー。ほかの選手が活躍してもちょっと触れるか、まったく無視という状態が続いている。イラク情勢や株価の動向、それに大きな事故や事件といった緊迫した話のあとに、「松井が寝違えた」などと聞かされると、ずっこけて、ちょっといい加減にしろよと言いたくなってしまう。

・NHKにとって幸いなことに、松井の調子はいい。このままでいけばレギュラーはもちろん、打順もクリーン・アップになりそうだ。しかし、松井以上にイチローの調子もいい。野茂も開幕投手になりそうだし、同僚の石井もローテーションは確実だ。新庄もがんばっているし、去年マイナーで苦労した田口もメジャーに残れそうだ。大家は今やモントリオールのエースである。そんな選手達の活躍は、今年もテレビでは軽視されてしまうのだろうか。
・野茂はあと2勝でメジャー100勝になる。これがどれほどすごい記録であるか、それを話題にするテレビや新聞はほとんどない。彼は徹底していて、シーズンオフになって帰ってきたときも、キャンプインで出かけるときも、全然報道されなかった。マスコミに連絡しなかったせいだと思うが、たまに出るインタビューも相変わらず、というより意識してさらにぶっきらぼーになっている。「マスコミなんか関係ない。ただ自分は野球をやるだけ。」という姿勢がいっそう強くなっている気がする。

・その数少ない野茂のニュースの中で驚き、また感心したのは、彼が私費を投じてアマチュアのチームをつくったことだ。企業がリストラ対策でノンプロのチームを手放している。野球をやりたい人たちはプロ野球に行けなければ、高校や大学を卒業した時点でプレイヤーをあきらめなければならない。そんな状況の厳しさが、野球を先細りにしてしまう。野茂はそんな危惧を前から強く感じていて、アメリカの独立リーグのチーム・オーナーにもなっている。

・こんなニュースと「松井、マツイ、Matsui!?」を比較すると、野球の将来を真剣に考えているかいないかがいっそうはっきりする。マスコミには将来も過去も関係なく今、おいしいところをつまみ食い。そんな無責任な姿勢があまりに露骨だし、そいうことに対する反省がみじんもない。NHKはたしか、野茂が作るノンプロ・チームのニュースを報道しなかった。これは公共放送の姿勢としてはいかがなものだろうか。

・日本人がMLBにこんなに関心をもつようになり、多くの選手が高い契約金や年俸でプレイできるようになったのは誰のおかげなのか。難しい状況や厳しい批判をこえて道を切りひらいた野茂が今年も健在で、ドジャースのエースとして100勝を数えようとしている。そのことに対して僕は興味津々だが、それ以上に彼の人間性に崇高さを感じて尊敬してしまう。だからなおさらだが、そのことに関心をむけないメディアやスポーツ・ジャーナリストをぼくはますます軽蔑するばかりだ。NHKは野茂が投げつづけるかぎりは、彼の試合は全て中継すると宣言して当然の恩義や義務があるだろう。

・日経新聞のHPが今年海外でもっとも活躍する選手の投票をやっている。1位はもちろんダントツで野茂だ。これはネットを使うMLBファンが圧倒的に野茂好きであることを示しているが、それは何より、インターネットの普及と野茂の活躍が時期を同じくしたためだと思う。ちなみにYahooがやった松井の成績を予測する投票では「新庄並み」が一番多かった。ネット・ユーザーはマスコミとは違ってクールで辛辣だ。

・シーズンが始まって野茂の投げる試合をライブで中継しなければ、NHKにはまちがいなく、そんなファンから抗議のメールが殺到するだろう。NHKにとってはやっかいなことだが、インターネットにはもっと怖い敵が現れはじめている。今年から年間の契約をして好きなチームの試合をネット観戦できるようになったことだ。画像がテレビ並みというわけにはいかないし日本語でもないから、一気に契約者が増えるということはないかもしれない。けれども、数年後にはテレビなどあてにしなくてすむ状況がきっと実現する。

・目先のことばかりにとらわれていると自分の足場が崩れはじめていることにも気づかない。土台をしっかり見つめなければ、一見にぎやかに見えてもしょせんは砂上の楼閣。それは日本のプロ野球でもノンプロでも同じ構造だし、テレビだって新聞だって例外ではないように思う。

・P.S.
・開幕近くなったら、野茂に注目する記事や番組が出始めてきた。NHKも開幕特集の2時間番組で最後に野茂のインタビューを持ってきた。あとにつづいたプレイヤーのことをパイオニアの野茂が語る。そういう狙いだったようだが、やっぱり「松井」で1時間以上。開幕投手に決まった4月1日朝のゲームは生中継してくれるのだろうか。投げ合うのは「ランディ・ジョンソン」。最初からこんな試合があるとは、今からドキドキだが、NHKには放送要求のメールを出さなければならないのかなー………。 (2003.03.04)

2003年3月10日月曜日

忘れた頃の大雪、さあ、除雪機だ!

 


forest23-1.jpeg・12月から2月にかけて何度も雪に悩まされた。もう雪かきにうんざりして除雪機を買ったのだが、とたんに春めいた陽気になって、使うのは次の冬までおあずけか、と諦めはじめていた。桜の開花時期も発表されて、今年も例年になく早そうだ。宝の持ち腐れにならないよう、手入れだけでもしておこうか………。


・と思っていたら、突然の雪。天気予報では降りはじめだけ雪で、後は雨になるはずだった。ところが、朝起きたら30cmも積もっていて、雨に変わる気配はない。これは早くしなければもっともっと積もってしまう。そう思ったとたんに、何となく浮き浮きした気になってきた。実は仕事疲れでここのところ胃が痛いし、数日前から偏頭痛にも悩まされていた。そんなことは気にもせず、防寒の支度をして庭に飛び出した。


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forest23-8.jpeg・家のまわりは後回しにして、まずは車の周囲と前の道路。それから進入路をずっと100mほど。春先の雪はべたっとして重い。だから除雪機も今ひとつ勢いがない。よくスタックするし、雪も思ったほど飛ばない。一度でアスファルトが見えるというわけにいかないから、同じところを2回も3回も除雪することになる。それでも雪かきとは比較にならないほどの仕事。これでもう町のブルドーザーが来るのを待ってイライラすることもない。

・ところで、偏頭痛だが、「あなた、頭痛はどうしたの?」とパートナーに言われるまで、すっかり忘れていた。「痛くないよ。それより、腹減った!!」。ケラケラと笑われてしまったが、僕にとっては何よりのリハビリだった。あー、楽しかった。 
 

心と肉体の関係について

 
・三浦雅士『考える身体』NTT出版
・下條信輔『意識とは何か』(講談社新書)『サブリミナル・マインド』(中公新書)
・アントニオ・R・ダマシオ『生存する脳』(講談社)


・茂木健一郎『心を生みだす脳のシステム』NHKブックス
三浦雅士の『考える身体』は舞踏をテーマにした身体論だが、身体感覚のもつ意味に注目して、そこから知識、知性、あるいは理性を問い直すといった内容になっている。たとえば芝居や踊り、またロック・コンサートに集まる人たちは狭い場所にからだを寄せ合うようにぎっしり詰め込まれたりする。しかし、それは必ずしも居心地の悪さをともなうわけではない。むしろ、そのような接触が、見ず知らずの人間同士に連帯感を持たせたりする。しかもパフォーマンスへの共感には、それが大きな役割を演じることになる。それは、「感動」がそもそも身体的なものであるからだ、と彼は言う。「それは嵐のように、突風のように襲ってくるのである。鼓動が高まり、背筋が青ざめる。文字通り打ちのめされるのである。」で、理屈は後から考えられる。


たとえばことばは考えるために欠かせない道具だが、それ以前に話し、聞くための道具でもある。で、それは頭でではなく、からだにしみこませるようにしておぼえていく。体得である。発生(発達)的にみれば、人が頭や心でしていることのほとんどは、まずからだから始まっている。楽器を弾く、絵を描く、自転車に乗る、ボールを投げる、蹴る………。しかし人間はまた、その身体を精神とは区別して、意識的にコントロールできるもの、すべきものであると理解するようになった。


近代の知は社会科学も人文科学もそれを前提にして発達したし、身体や感性に訴えるスポーツや芸術(音楽・美術)も同様だった。音楽は座して、耳を澄ませ、意識を集中して聴くものであり、美術は静かに凝視して味わうもの。コンサートや美術館でおなじみのものだ。スポーツだって冷静さやスポーツマンシップが何より尊ばれた。その意識や心や精神の偏重からからだをどう再発見していくか。三浦雅士はその解き口を最新の脳科学や認知心理学に見つけている。


下條信輔 の『意識とは何か』を読むと、「私」という意識が脳のどこかにあるのでもなく、もちろん霊魂のような神秘的なものでもなく、脳の各部と身体のあらゆる部分の関係、その相互作用の中にあるものだということがわかる。

脳は孤立した存在ではなく、身体を支配し、逆に身体に支配されます。この身体は一方で脳の出先機関であるとともに、その基礎でもあり、さらに脳にとっての環境の重要な一部を構成します。このように脳は(したがって心も)世界と連動し合い、反響し合い、取り込み合う存在なのです。(5頁)
・環境に対してからだが何かを感覚し、反応して行動する。それが情報として記憶される。蓄積された記憶(来歴)は意味のもとに整理される。記憶の場は第一に脳だが、しかし、「知覚のように身体に染みついた反射的知性や、身体反応をともなう情動表出、身体の生理的特徴」といったものもある。また、このように蓄積された記憶は、そのほとんどが意識されないものでもある。心や精神、あるいは理性は、この意識できる部分で自覚されがちだが、しかし、「私」という存在の自覚は、実際には広大で深遠、無意識の部分との複雑な関係の中に現れる。最近の脳科学や認知心理学は、その仕組みを解明しようとするところまできているようだ。


類似したテーマの本を何冊か読んだ。聞き慣れないことばが次々と出てきて読みすすむのが大変だった。たとえば脳の各部分の名前などは、何度も図にもどって確認しないとわからない。たとえばこんな文章。

脳の後頭葉には、視覚野がある。側頭葉の上側には聴覚野があるが、特に左の聴覚野は、ウェルニッケ野と呼ばれ、言葉の意味を処理する部位だと言われている。頭頂葉には、体性感覚(触、痛、温度、など皮膚の表面の感覚と、筋覚、関節覚などの深部感覚)を処理する領域があり、また、空間知覚や、ボディ・イメージを司る領域がある。これらの領域に嗅覚、味覚を処理する領野を加えて、「感覚野」と総称する。(茂木健一郎『心を生みだす脳のシステム』23頁)
けれどもまた、読み慣れると、おもしろい発想の概念にも興味をもった。たとえば脳の活動はドーパミンとかアドレナリンといった化学物質によるもののほかに、「ニューロン」と呼ばれる電気信号によっておこなわれるものがある。その「ニューロン」の働きには「相手がある行為をするのを見た時に、自分の脳の中であたかも自分が同じ行為をしているかのようなニューロン活動」があって、これを茂木は「ミラーニューロン」と呼んでいる。それは新たな行動の学習や、他者の心的状態を推定するのに役立つという。「人のふり見て我がふりなおせ」が脳のメカニズムとして説明されている。あるいは社会学でいう「他者の役割取得」にも近い。 


またアントニオ・R・ダマシオが『生存する脳』のなかで取り上げている「『あたかも』装置」もおもしろい。それは「「情動的」身体状態を身体で表現しないで、脳の中にその身体状態の不鮮明なイメージをつくる」はたらきである。つまり私たちは身体そのものをはバイパスして、あたかもは身体がはたらいているかのように感覚するというのだ。それは時間やエネルギーを節約し、脳の内側だけでつくりあげるヴァーチャルな世界(脳-身体-環境)である。


このあたりまで読んでくると、「私」という意識の存在がいったいどんなものか、おぼろげながらに見えてくるような気になる。このような視点と社会学的な「自我論」「対人関係論」を重ね合わせて「感情の社会学」を考えてみる。おもしろいけれど、はるかなる道。

2003年3月3日月曜日

Steave Earle "Jerusalem"

 

・スティーブ・アールは地味なカントリー・ミュージシャンだが、新しいアルバムでは、ずいぶん思いきったメッセージを送りだしている。アルバムのタイトルは「イェルサレム」。同名の曲が最後におさめられている。収録曲には、ほかにも「アメリカV.6.0 われわれにできる最善のこと」「共謀理論」「なんて単純なヤツなんだ」「真実」と、題名だけでも、その姿勢がはっきりわかるものが多い。疑問を投げかけ、批判しているのはもちろん、最近のアメリカ(人)の態度や感情である。


earle1.jpeg 朝起きると悪いニュースばかり
殺人兵器がキリストの地を徘徊している
しかし、テレビは、いつもこんな感じだという
そして誰も何もしないし何も言わない、と
それを聞いて、呆然とした
で、我にかえって自分の心に聞いてみた "Jerusalem"

・スティーブ・アールは1955年生まれで、ヴェトナム戦争の時代に少年期を過ごした。今までそれほどメッセージ色の強い歌を歌ってきたわけではないが、最近の状況から、アメリカに対する矛盾した思いを強く感じているようだ。で、『イェルサレム』である。
・邪悪な国をやっつけなければ、危険が戸口まで来てしまう。だからアメリカからはるか彼方の地に55000人(今回は20万人)もの兵隊を送るのだ。それに同調できないものは反愛国者。彼はそんな空気に強い違和感や孤独感を持っている。アメリカの意図は間違っていて、その歴史にも多くの人が目をつむって知らぬ振りをしている。アメリカが好きであればこそ、そうではいけないのだと彼は歌う。カントリーはアメリカ人の心の歌で、彼はそれを10代の頃からずっと歌い続けている。そのような共感と愛着が、今のアメリカの世論や時代感覚とぶつかり合う。スティーブ・アールの低音のだみ声には、そんな苦悩が強く感じられる。

earle2.jpeg おれは正真正銘のアメリカン・ボーイ MTVで育った
ソーダ・ポップの広告にはそんな子供がたくさん登場する
だが、おれはそんな誰とも違う
薄暗がりに灯りを探しはじめた
で、モハメッドのことばがはじめて
意味のあるものにきこえてきた
彼に平和を "John Walker's Blues"

・このアルバムはアメリカでは放送禁止になったようだ。それを聞いて僕は、ヴェトナム戦争時にヒットしたバリー・マクガイアーの「イブ・オブ・ディストラクション」を思い出した。どちらも、正義を掲げて狂気に走るアメリカの状況を素直に批判した歌、という点で共通している。もっとも、「イブ・オブ・ディストラクション」は放送禁止にもかかわらず大ヒットしたが、「イェルサレム」はあまり話題になっていない。これは、シンガーの話題性の問題なのか。それとも、戦争に批判する人たちの量の違いなのか。
・ヨーロッパはもちろん、アメリカでもイラク攻撃に反対する人たちのデモがニュースになっている。アメリカでも反対する人は多いはずだが、たとえば坂本龍一の次のようなことばを耳にすると、ヴェトナム反戦の声とは性質がかなり違うのだという感じもする。「僕が懸念しているのは、デモする人も、かたや何の疑いもなく政府の方針に従う人も、論理ではなく情で動いていることです。イラクで核弾頭が見つかったり、新たなテロが起こったりしたら、一挙に戦争賛成に回る可能性がある。これが怖い。」
・アメリカは移民による新しい国だが、その新しさは、先住民を追放し、抹殺してできたものでもある。それがアメリカ人の心に原罪として取り憑いていると指摘する人がいる。アメリカはそれを反省し、償いの気持を持とうとするが、自分の存在を脅かすものが現れると、また、ヒステリックにその掃討に走ってしまう。潜在化した原罪が呼び起こす反復強迫。
・なぜ、今、イラクを攻撃しなければならないのか。アメリカ人以外の人たちには、その理由ははっきりしない。しかし、はっきりしないのはアメリカ人とて同じなのではないか。なのに攻撃はますます現実化している。その怖さにアメリカ人自らが気づくこと。スティーブ・アールの歌がもっとアメリカ人の耳に届くといいと思う。