1998年12月31日木曜日

目次 1998年

12月

30日:目次

25日:『地球は女で回ってる』

19日:Merry X'mas

14日:梅田・HEP FIVEの観覧車

9日:Alanis Morissete "Supposed Former Infatuation Junkie",Sheryl Crow "The Globe Sessions"

2日:マビヌオリ・カヨデ・イドウ『フェラ・クティ』(晶文社)ファンキー・末吉『大陸ロック漂流記』(アミューズ・ブックス)

11月

24日:パティ・スミスとニール・ヤング

18日: 『八日目』『女と男の危機』

11日: 元気の出るメール

6日: 名神高速道路(山崎から茨木)

4日:Bob Dylan Live 1966 The Royal Albert Hall Concert

10月

21日: YES(大阪厚生年金ホール、98/10/14)

14日:栩木伸明『アイルランドのパブから』(NHKブックス)、大島豊『アイリッシュ・ミュージックの森』(青弓社)

7日:野球の後は映画

9月

23日:尾崎善之『志村正順のラジオ・デイズ』(洋泉社)沢木耕太郎『オリンピア』(集英社)

16日:東ドイツのロックについて

9日:スポーツとメディアについての外国文献

2日:ハイビジョンについて

8月

26日:Lou Reed "Perfect Night Live in London"

5日:清水諭『甲子園野球のアルケオロジー』(新評論)

7月

25日:四国・四万十川 その3

24日:四国・四万十川 その2

23日:四国・四万十川 その1

22日:"A Family Thing"

15日: 平野さんの 講義ノート

8日:Radiohead "Ok Computer" "Pablo Honey"

1日:周防正行『「Shall we dance?」アメリカを行く』(太田出版)

6月

24日:『HANA-BI』

17日: 芝山幹郎『アメリカ野球主義』(晶文社)

10日:僕らの時代の青春の記録

3日:書評ホームページ

5月

27日:『萌の朱雀』(1997) 監督:河瀬直美

20日: 『子ども観の近代』河原和枝(中公新書)

13日:Van Morrison "New York Session '67"

13日: ゼミから生まれた二つの成果

3日:常照皇寺

4月

29日:インターネットで本を買ったら........

22日:『シャイン』(1995)

15日:社会学科のスタッフが作った本です

14日:R.ブラックのWebデザインブック(Mdn) 他

8日:Art Gurfunkul (大阪サンケイホール、98/4/1)

3日:桜・さくら・サクラ

2日:レビューにメールが来はじめた

3月

24日: 『アミスタッド』(1997) 監督:S.スピルバーグ、荒このみ『黒人のアメリカ』(ちくま新書)

10日:Fiona Apple "Tidal" Meredith Brooks"blurring the edges"

4日: 上野千鶴子『発情装置』(筑摩書房)

2月

27日:北山の春

13日:『フル・モンティ』(1997)

6日:Bob Dylan "Time Out of Mind" グラミー賞「最優秀アルバム賞」

1日:D.ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』上下(新潮社)

1月

25日:世間体とゴミ

19日:『ザ・ファン』(1996) 監督:トニー・スコット、主演:ロバート・デ・ニーロ (原作)早川書房

12日:"The Bridge School Concerts"

5日:鶴見俊輔『期待と回想』上下(晶文社)

1998年12月25日金曜日

『地球は女で回ってる』

 

・ウッディ・アレンの映画は監督・主演で、彼自身の素顔を覗かせる手法がほとんどだが、最近の彼の映画ではますます、そこが強調されるようになった。ぼくは彼の映画のなかでは『アーニー・ホール』が一番気に入っているし、共演している女優も、ダイアン・キートンが好きだ。だから、ミア・ファーローが出るようになってからの映画は必ずしも熱心に見たわけではなかった。けれども、彼女との離婚騒ぎあたりからの映画はまたおもしろく見ている。
・あの歳で、あの貧弱な体で、なぜあんなに女好きでセックスにこだわるのか。ぼくはいつでもあきれながら見ているが、いっこうに収まらない欲望に振り回されてうろたえ、どもってしまう彼の姿は何とも滑稽で、また悲しい。それに「いい女を見たらいまだに裸を想像してしまう」などといい、「大統領だって、これほどではない」などとつぶやくようにちゃかしてしまうウィットがいい。彼の映画を見ていると、逆に、まだ若いくせに枯れてしまったようにふるまったり、実際そう思いこみはじめている自分の方がだらしなく思えてくるから不思議だ。
・『地球は女で回っている』ではウッディ・アレンは作家で登場する。自分の女遍歴はもちろん、親や兄弟の私生活を題材にして、すべてをさらけだしてしまう小説を書いている。だから、別れた妻たちや不倫相手が、「あの小説のあの登場人物のあの場面のあのせりふはひどいじゃないの」といって主人公を問いつめる。小説は現実そのもののようでもあり、またフィクションでもあるのだが、実際のところそれは、主人公にも見分けがつかないほどにこんがらがってしまっている。
・夫や父親としてはまるでだめだが、作家としては評価されている。放校になった大学から表彰されることになって授賞式に出かける。うれしくはないが、社会的な役割は果たさなければならないし、名声にも箔がつく。しかし、行く気にはならないから、一緒にいってくれる人を探す。で、たまたま出会った売春婦と、友人、それに今は一緒には住んでいない小学生の息子を通学途中に無理矢理誘拐してつれていくことにする。ところが、大学に着く直前で友人は心臓麻痺で死んでしまう。授賞式と葬式、それに警察が彼を誘拐犯で逮捕。ストーリーと言えるものはそれだけなのだが、途中に彼が書いた小説の登場人物たちが現れて、彼の過去を再現する。その展開のさせ方は、いつもながらおもしろい。
・ウッディ・アレンの現在の恋人は、ミア・ファーローの養女だったスン・イー・プレヴィン。父と娘が男と女の関係になる。裁判沙汰になって大きなスキャンダルとして話題になったが、彼はそんなことまで、映画作りの肥やしにしてしまう。欲望と嫉妬のどろどろした世界は一歩間違えばグロテスク劇だが、それが彼の手にかかると、ニューヨークの風景とジャズ、それに、知的な会話によって、洗練されたコミカルな世界に変身してしまう。ぼくはつくづくアメリカの大統領や日本の民主党の代表より、映画監督の方が得だと思ってしまったが、しかしやっぱり、自分をここまで素材にして表現活動をすることはできそうもない。
・ところで、ウッディ・アレンの映画は、もう一つ『ワイルドマン・ブルース』も公開中である。それに人気のアニメ『アンツ』の主人公の声もやっている。ポール・オースターの『ルル・オン・ザ・ブリッジ』や『ベルベット・ゴールドマイン』もロードショー中だ。とても全部を見に行く時間はないから、どれにしようか迷ってしまう今日この頃である。

1998年12月19日土曜日

Merry X'mas

 


  • 今年も1年、このホームページにお訪ねくださってありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。
  • 今年の4年生は相互の関係が希薄で、ゼミの最中に活発な議論などなかったのはもちろん、終了後に研究室に残る人もわずかでした。去年の喧騒状態から開放されて静かな1年でしたが、卒論の出来が心配でした。ところが、ふたを開けてみると。わりとみんないい。それぞれに、がんばっていたのだと安心しました。やれやれ。
  • 1月の授業再開までのしばらくの冬休み休暇。いつもながら何よりの楽しみです。今年は事情があって家でのんびりというわけにもいかないのです。しかし、クリスマスの夜は静かにすごそうと思っています。
  • ホームページの更新のために、本を読んで映画を見て、CDを聴いて、テレビも見て.....。これがなかなか忙しくて、まとまった仕事に取りかかれないのが悩みの種の1年でした。しかし、楽しいことをやるのが精神的な健康を保つためには一番です。みなさんよいお年をお迎えください。
  • 1998年12月14日月曜日

    梅田・HEP FIVEの観覧車



  • 以前から梅田の駅に着くとビルの屋上からニョキっと突き出た赤い観覧車が気になっていた。ぼくは高所恐怖症で高いところから下を覗くと鳥肌が立って、足がすくんでしまうが、不思議なことに乗ってみたいなという気になった。
  • で、運転がはじまったと聞いて、どうしても梅田に行きたくなった。ここのところ、入試や卒論指導などがあって土曜日にも大学に行っている。今週は卒論の提出などでまるまる一週間出ずっぱりだ。そんな忙しい日々のなかにぽっかり空いた休日。思いきって観覧車に乗るためだけに梅田に出かけた。
  • 平日だったが、それでも百人ほどの行列があって、20分ほど待った。四人相席。15分ほどの空中遊泳は何とも頼りなく、また何ともいい眺めだった。
  • 1998年12月9日水曜日

    Alanis Morissete "Supposed Former Infatuation Junkie",Sheryl Crow "The Globe Sessions"


    ・ここ数年、女性のシンガー・ソング・ライターが続出している。そのきっかけはシェリル・クロウであり、流れを確かなものにしたのはアラニス・モリセットだった。二人ともデビューの時にはグラミーの新人賞を取っている。すでに大物として扱われてはいるが、似たようなシンガーが多いから、けっしてのんびりしてはいられない。そんな二人が相次いで新しいアルバムを出した。で、両方ともなかなかいい。
    ・アラニスの歌う世界は今度も、きわめて私小説的だ。けれども、前のアルバムとはちがって、自分のことよりまわりに目が向いている。父親、母親、恋人、友達、先生......。仲違い、羨望、嫉妬、離婚、暴力、アル中、薬中.......。そこに少しでも明かりを見つけだそうとする優しい眼差し。ビデオ・クリップは地下鉄の入口などに全裸で立ちつくすといった刺激的なものだが、歌の中身はセックスについても少なくて、穏やかである。

    私たちがレストランを出るとき、ウェイターが言った。
    「グッバイ・サー、ありがとうございました。あなた達のような立派な方々に食事にきていただいて光栄です。お金も使っていただきました。本当にありがとう。」
    私はお下げ髪で、「この店買ってしまいたい」なんて言える気がしてた。
    もっとお互いにがんばろうと思っていたのに
    もっと大笑いしたかったのに
    気づいたときには、もう後戻りができなかった。
                "I was hoping"

    ・アラニスの声はしっとりしている。冷たさと暖かさが同居している感じで、いかにもカナダ人らしい気がする。それに比べてシェリル・クロウはカリフォルニアそのものかわいていて力強い。アラニスが多感でお茶目なら、シェリルは男勝りのじゃじゃ馬。実は、ぼくはどちらのタイプも好きだ。

    私たちがクレイジーだと思うの?
    座りこんでシットコムばかり読んでる、脳なしの怠け者
    状況が悪いのはわかっていても
    実際どうなってるのかはわからない
    ただブームが去るのをじっと見ているだけ
    朝食の卵が壁にぶつけられる
    で、誰もが言う。変化は空中にぶら下がってるのにって。                "Subway"

    ・シェリルの世界はアラニスよりもずっとわかりやすい。失恋するけど、くよくよしない。あんな男見返してやると鼻っ柱が強い。その分、アラニスのように素顔がかいま見えそうな気はしない。同様の違いは、二人の、人びとについての風景描写にも現れている。だから文学的な評価で言ったら文句なしにアラニスの方が勝っている。でも彼女たちはミュージシャンだから、やっぱりサウンドで判断しなければならない。で、そうなると、シェリルの歌もサウンドにマッチしてる気がして、ぼくにはどちらの雰囲気も好きで甲乙つけがたいということになってしまう。

    1998年12月2日水曜日

    マビヌオリ・カヨデ・イドウ『フェラ・クティ』(晶文社)ファンキー・末吉『大陸ロック漂流記』(アミューズ・ブックス)


    ・9月に旧東ドイツのロックについての話を聞いたせいか、アメリカやイギリス以外の国のロックに対するアンテナが芽生えてきた気がする。いや正確に言えば、復旧したと言った方がいいかもしれない。たとえばソ連や東欧の崩壊とロックの関係については、すでにティモシー・ライバックの『自由・平等・ロック』、アルテミー・トロイツキーの『ゴルバチョフはロックがお好き』(いずれも晶文社)といった本が出ているし、アジアでもタイのカラワン楽団はずいぶん前から有名だった。

    ・20世紀の後半に生まれ世界中に広まったロックは、一方ではアメリカの音楽産業による世界制覇を可能にした武器という役割を担ったが、また他方では、大きな社会変動のなかで特に若い世代の表現手段として受け入れられるという顔も見せた。ぼくは60年代以降に発生したロックの新しい流れ、つまりパンクやレゲエやラップが、60年代のロックを支えた若者たちよりは社会のなかでの下層、あるいは後進国から生まれていることに注目している。ロックが世界を変えるといった考えに与するものではないが、20世紀後半にさまざまな国で起こった社会変動とロックの関係は、注目に値するテーマだと思っている。

    ・で、実は中国については、前から気になってはいた。『北京バスターズ』という映画はおもしろかったし、そこに登場する崔健(ツイ・ジェン)が中国のロックの創始者であることは知っていた。けれども、それだけだった。今年大学院に中国人の留学生がきて、彼女が手に入れたCD、たとえば黒豹(ヘイ・バオ)や唐朝(タン・チャオ)、あるいはドゥ・ウェイなどを知って、ちょっとだけ関心が向きはじめていたのだが、ファンキー末吉の『大陸ロック漂流記』を読んで、その関心が一気に強くなった気がする。

    ・天安門事件が起こったのが1989年。「爆風スランプ」は1986年にアジア・ツアーをしているが、ファンキーは何の関心もなかったと書いている。しかし、1990年にたまたま友人にくっついていった北京で、非合法活動としてのロックに出会う。それが、後に中国を代表するロック・バンドになる黒豹だった。この本は、そんな中国人ロッカーたちとの10年近くに及ぶつきあいの物語である。

    ・爆風スランプは紅白歌合戦にも登場した売れっ子バンドである。その忙しいスケジュールの合間を縫って頻繁に中国に足を運び、時間と金をつかった理由は、一言で言えば熱いロックが生まれる状況に立ち会い、参加することへのいたたまれない衝動といったものかもしれない。実際ファンキーの爆風スランプの音楽、あるいはそれをもてはやす日本の音楽状況やファンに対する姿勢はきわめてシニカルなものである。彼は、音楽だけではなく、飲み屋やレストランまで作ってしまうほどのめり込む。

    ・もう一冊『フェラ・クティ』はアフリカのナイジェリアで音楽をとおした反体制活動をしたフェラ・クティの話である。イギリスでクラシック音楽を学んだ彼の音楽は、ロックと言うよりはジャズに近い。しかし、歌われる内容は、ボブ・マーリーに共通した白人支配者に対する直接的な攻撃である。


    なぜ今日黒人は苦しむのだろう
    なぜ今日黒人には金がないのだろう
    なぜ今日黒人は月に到達できないのだろう
    奴らがやってきて土地を取り上げ、人びとを連れ去り
    俺たちから文化を取り上げ
    俺たちに理解できない奴らの文化を押しつけた。


    ・フェラはその音楽だけではなく、積極的に反政府活動をした。自宅とその周辺をカラクタ共和国と名づけ、治外法権的なユートピアを作った。だからたびたび捜索を受け、1000人もの兵士による攻撃によって炎上もしている。1977年のことである。しかし、フェラの音楽や政治行動はますます先鋭化する。この本の作者であるマビヌオリ・カヨデ・イドウはフェラと10年間活動をともにした後、意見を異にして別れている。フェラ・クティは 1997年にエイズで死んだが、イドウによればフェラの晩年は異端を排除する宗教の教祖のような存在だったようである。

    ・フェラは欧米のアフリカ支配を批判したが、そのような意識に目覚めたのはアメリカの黒人たちの人種差別に反対する行動だった。そして中国のロックは開放政策への転換のなかで若者たちが飛びついた抵抗のための武器となった。最近では上海など大都市に住む若者たちの好む音楽はディスコで日本の小室の作るものが受けているそうである。ロックという音楽の本質がまた、かいま見えた気がした。

    1998年11月25日水曜日

    パティ・スミスとニール・ヤング

     

    ・とにかく忙しい。18日にゼミの4年生の卒論が提出された。これから、読んでコメントをつけて返し、また書き直したものを再提出。こんなやりとりが一ケ月ほどつづく。それに各種入試がはじまって、20日の論文入試の試験監督と採点にかり出された。おまけに、22-23日は関西学院大学で日本社会学会。ぼくは「文化・社会意識」の部会で司会を指名された。
    ・ こんな具合で、これから冬休みにはいるまで、週末も雑用に追われることになってしまう。毎年恒例化している胃の痛みが、早くも数日前から出はじめていて、病院に行く日もつくらなければならない。それでもホームページの更新は休みたくはない。実は、本もCDも新しいものが手元にたまって、レビューの順番を待っているのだ。
    ・そんなとき、たまたま「京都みなみ会館」でニール・ヤングとクレイジー・ホースのロード・ムービー『Year of the Horse』をやることを知った。監督はジム・ジャーミッシュ。「パティ・スミスと仲間たち展」が京都駅ビルではじまっていたから、21日に両方一緒に見に行くことにした。
    ・ 「パティ・スミスと仲間たち展」はパティ・スミスの絵とREMのマイケル・スタイプの写真が展示してあった。パティ・スミスが絵を描いていることは知らなかったが、彼女は美大の出身だから、考えてみれば何の不思議もない。どんな絵を描くのか非常に興味があった。
    ・で、見ての印象だが、額縁に納まってミュージアムに飾られているからそれらしく見えるが、ほとんどは落書きといった感じのものだった。紙もたまたま手元にあったもので、しみがついたり、しわになったり、破れたりしていた。絵の評価はぼくにはわからないが、ぼくにはそんな絵がおもしろく感じられた。鉛筆でさっと描きあげて、色を塗ったり塗らなかったり、時にはそこにことばを書き加えている。インスピレーションのおもしろさと彼女の繊細さがあらためて実感された気がした。
    ・駅ビルで昼食をとって、次は東寺近くの南会館へ。『Year of the Horse』は1997年の作品だが、中身は最近のライブと25年前のものをだぶらせる形で進行させている。間に、ニール本人やクレイジー・ホースのメンバー、それに父親へのインタビューが挟み込まれる。メンバーの死と交代など、彼らの歩んできた歴史がよくわかる。当然若くて格好よかった昔と、太って頭のはげた現在の姿が対照的になってしまう。しかし、コンサートでのパフォーマンスは相変わらず名前の通り「若い」ままだ。
    ・監督のジム・ジャーミッシュは『ストレンジャー・ザン・パラダイス』で脚光を浴び、そのあと『ダウン・バイ・ロウ』や『ミステリー・トレイン』を作った。ニール・ヤングのファンで以前にレビューで紹介した『デッド・マン』の音楽を頼んだのがきっかけで、このロード・ムービーが作られた。
    ・ぼくはこの映画をずっと見たいと思っていたが、おなじ「京都みなみ会館」で来週4日間(11/29-12/2)だけレイトショーで上映される。見に行く元気があればいいのだが......。見たい映画はそれだけではない。年末にかけてウッディ・アレンの『ワイルド・マン・ブルース』『地球は女で回ってる』、それにマイケル・スタイプが製作総指揮をした『ベルベット・ゴールドマイン』などが公開される。本当になぜこんな忙しいときにと泣きたくなってしまう。

    1998年11月18日水曜日

    『八日目』『女と男の危機』

     

    ・映画館で公開されるのはアメリカ映画ばかりだから、ついついフランス映画のことなど忘れてしまいがちだが、衛星放送をこまめにチェックすれば、最近のものを結構見ることができる。で、わりとおもしろい。
    ・『八日目』は1996年の作品で監督はジャコ・ヴァン・ドルマル。聞いたことない人だが、それは出演者についても同じだ。話は妻子が出ていってひとりぽっちになった男と、施設をぬけだしたダウン症の青年の出会いからはじまる。男は最初、母に会いたい青年をしぶしぶ車で送り届けようとする。母親はすでに死んでいることがわかると、男は頭にきて青年を置き去りにしようとするが、気になって引き返してしまう。そうすると、激しい雨の中で青年が立ちつくしたままでいる。「戻ってくると思った」と言う青年の笑い顔に男は心を開かれる。
    ・別居の原因は男の身勝手さにある。だから、妻と子どもが住む家をたずねても、妻はもちろん、子どもとて喜びはしない。せっかくここまできたのにと思うと怒りが爆発してしまうが、それこそ、男の身勝手というものである。彼は、ダウン症の青年の純真無垢さ、人を信じる心にふれながら、しだいに妻や子どもたちが去った理由に気づくようになる。で、子どもの誕生日のプレゼントに花火をたくさん買い込んで、家の前で一斉に点火させる。危うく火事になりかけるが、それで、妻や子どもの心を向けさせることに成功する。
    ・『女と男の危機』もテーマや設定がよく似ていた。1992年の作品で、監督はコリーヌ・セロー、出演はバンサン・ランドン。こちらもぼくには知らない人ばかりだった。
    ・弁護士の主人公が朝目を覚ますと妻がいない。子どもたちがバカンスに行く日なのにである。義母に任せて出勤すると、解雇通知が机の上に置いてある。上司に悪態をつき、相談に乗ってもらおうと友人を訪ね回るが、誰も彼も自分の抱える問題で手一杯で、話すら聞いてくれない。男はその冷たさを非難する。ここらあたりの会話のすさまじさは、映画を見続ける気さえなくさせるほどで、フランス人てこんなに激しかったのかとあらためて思ってしまう。
    ・酒場で隣り合わせた男がビールをおごってくれと言う。文無しの風来坊。見るからに風采が上がらないが、それに輪をかけて頭も悪そうだ。しかし、主人公が自分の話をぶつけることができたのは、彼が最初だった。ちょっと落ち着いた気分になって酒場を出ようとすると、その風来坊もついてくる。
    ・実家にかえって親に相談しようとすると、母が10歳も若い男と不倫をして家族会議の最中で、自分の話などは持ち出せない状況だった。母親は夫のため、子どものためばかりに生きてきて、自分を取り戻したくなったのだと言う。そのことばに、男は妻の家出の理由を見つけた気がした。
    ・登場人物の誰もが高慢ちきなエゴイスとばかり。ただ一人風来坊だけがちがう。その社会から取り残された人間だけがかろうじて人間性を失わないでいる。自分の生活が破綻しなければ、見向きもしない人間に救われていく。二本の映画に共通したテーマは、けっしてフランスだけの特殊な状況ではない気がした。
    ・誰もが生き残りをかけたサバイバル・ゲームのなかにいる。関わる人は誰であってもまず、自分にとって役に立つとか、ためになるとかいう、エゴイスティックな理由で選ばれる。友人、結婚相手、そして子どもや親とて例外ではない。仕事だって、いったい何をやっているのかあらためて考えたら、モラルも社会的意味もなくなっていることに気づくばかりだ。で、誰もが、そのことに気づかないふりをして、誰より自分自身をごまかしている。そのためのさまざまな破綻。実際今怖いのは経済不況よりはこっちの方だと、映画を見ながらつくづく考えさせられた。

    1998年11月11日水曜日

    元気の出るメール


  • ホームページ開設2周年の文章で「アクセス数の増加とは対照的に大学生からのメールが少なくなった」と書いたら、続けていくつかのメールがやってきた。
  • まず、以前に「書評ホームページ」をやってらした岡本真さん。彼は現在、メール マガジン"Academic Resource Guide"を編集・発行していて、ぼくの書いた「ホームページ公開2周年」をそこに再録したいということだった。
    「珈琲をもう一杯」公開2周年にあわせて著されたこのお原稿は、「広がりが同時に薄さを引き起こしているのでは」というお言葉に示されているように、見事なまでにインターネットの学術的な利用の現状を鋭く衝いているのではないかと思います(この思いは、一年前に先生が公された「ホームページ公開1年」を併読すると、一層強まります)。
  • ちょっと誉められすぎで「WWW上の学術的なリソースを紹介・批評」といった趣旨のWeb Magazineに載せてもらうのはくすぐったい感じがするが、彼の志には最初から共感しているので、もちろん承諾した。
  • 一度メールを送ってくれたことがあるHさんからも次のようなうれしい感想がきた。彼は大学4年生だが、来年から大学院でアメリカ地域(現代)研究をやることになったそうだ。
    卒論を『Bob Dylan in the 60s`』(仮題)として書いている私は、以前から先生の著作はいくつか読ませていただいていたのですが、インターネットを本格的にやるようになってから、このページは非常に参考になる部分が多いのでよく見にきています。今回は、このページの参考文献のリストを見まして、素晴らしいページだと改めて思ったので、思わずメールを書いてしまいました。今後もしばしばこのページを見にくると思います。
  • 以前に紹介したことがあるG君も久しぶりにメールをくれた。彼は同志社から中大に移ったが、テーマは同じ山田村をフィールドにしたコンピュータ文化論だ。彼は、表面ばかりで中身のお粗末なコンピュータ文化の現状について学会や大学、マスコミ等々をあげて批判していた。
    マスコミ自身がネットの世界に疎いというのは僕も感じています。富山で、山田村や県全体の情報化事業の推進を報道しているのは北日本新聞という北陸の地方紙なのですが、メールすら使えない(気軽に使える環境でない)記者がいる事に多少の驚きを覚えます。
  • その他卒論の相談が数件、それに久しぶりの卒業生からも何通か。あらためて、多くの人に読まれていることを実感した。このHPの映画の題名リストのデータを作った平川さんからは次のような近況が届いた。なかなかおもしろいことをやっている、と思ったら、ぼくまで楽しくなってきた。
    私は、いまCS実験放送のプロジェクトのスタッフになっています。これは何かと申しますと、将来的に聾唖者や失聴者にむけ、専用のCS番組を作ろうという全日本聾唖連盟の指揮のもと取り組まれているプロジェクトです。健聴者には実感しにくいことですが、聾唖の人達は映像からリアルタイムの情報を欲しています。ニュースを見ればいいじゃん、といっても彼らにとって現在の民放ニュース番組は口ぱくぱくで、どんな情報を流しているのか理解できない映像でしかないのです。とにかく字幕を、手話を充実させた番組がもとめられています。
  • 1998年11月6日金曜日

    名神高速道路(山崎から茨木)


  • 名神高速道路の京都と吹田ジャンクションの間は、いつも混んでいる区間でしたが、最近拡幅工事が完了して、ずいぶんスムーズになったようです。もっとも、どういうわけか天王山トンネル付近では事故が絶えず、そのための渋滞は相変わらずのようです。、一説によると、合戦で死んだ武士の亡霊たちの怨念のせいのようですが、もちろん、真意はわかりません
        山崎から天王山方向→
  • ぼくはその天王山近くに住んでいて、茨木市にある大学に通っていますが、幸か不幸かインターチェンジがないので、この区間はほとんど使ったことがありません。しかし、拡幅工事のために作った側道が開放されたため、混雑するR171を通らずに通勤できるようになりました。
  • この側道は所々でちょんぎれていて、そのたびに細い道をこちょこちょ走らなければなりませんが、渋滞回避の抜け道としてはなかなか便利です。まず、天王山トンネルの大阪側入口から梶原トンネルまで。この道には水無瀬川の土手道を西山に向かって走ると入れます。
  • 島本町から天王山↑

    ↑梶原トンネル大阪側、穴が四つになった。
  • 梶原トンネル手前でいったん細い旧西国街道に出なければならいのはちょっと面倒です。しかし、トンネル出口から成合までの側道は快適です。成合から一部大阪行きの一通なって、行き帰りの道を違えねばならず、ここもすこし不便です。しかし、後は奥天神から芥川、そして南平台を越えるところまでほぼ一直線。
        高槻奥天神の陸橋から成合方面→
  • 阿武山団地の南端は京都方面への一通になっていますが、側道は愛威川を越えて勝尾寺川までつづいていています。現在、川にかかる橋を建設中ですから、それができると茨木インター入口まで行けることになるでしょう。トンネルもついでに作ってくれていたら、R171のバイパスとしてずいぶん便利になったのに、などと思いますが、住宅地が隣接してますから、反対運動が必ず起こります。
        高槻奥天神の陸橋から茨木方面→
  • 実は今、山崎に大きなジャンクションが作られはじめています。中学校をかすめることもあって、町では反対運動も始まっています。何しろ、それを当てこんで、もうホテルの建設がはじまったりしているのです。地元住民としては当然、反対すべきなのかもしれませんが、しかし、ぼくの気持ちは複雑です。なぜ開通時から、ここにインターチェンジをつけなかったのか、疑問に思ってきたからです。
        南平台から→
  • ふだん、車やバイクを乗り回しているぼくとしては、道がよくなることは大歓迎です。しかし、便利になれば、それだけ交通量も増えて、すぐにまた混雑してしまう。当然環境は悪くなり、住み心地も悪化する。車に乗らない人には申し訳ない気がしますが、けれども、便利になってほしいという気持ちは抑えられそうにありません。インターチェンジができれば、通勤時間は半分になるのです。だから、やましい気持ちを抱きつつ、反対の署名にはまだ一度も応えていないのです。
      茨木インター近く、芥川に架かる橋→
  • 1998年11月4日水曜日

    Bob Dylan Live 1966 The Royal Albert Hall Concert


    ・ディランのブートレグ・シリーズの続編が出た。1966 年にロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでおこなったコンサートのライブ盤である。ぼくはディランを1965年にはじめて聴いて、それ以来のファンだが、このコンサートがもつ意味の重さを知ったのは、それから10年近くたってからのことだった。その海賊版が出ているといううわさを聞いてレコード屋を探し回ってやっと見つけたときの感激を、今でもはっきり覚えている。真っ白いジャケットにGWW(Great White Wonder)のハンコ、それに小さなThe Royal Albert Hallと曲目が書かれたコピー。確か2枚組で4000円ほどした。学生の身分ではけっして安い買い物とは言えなかった。たぶんその頃、かなりきつい肉体労働をしても、バイトでもらえる金は一日わずか2000円ほどだった。けれども、それを買うことに、ぼくは何の迷いもなかった。

    ・コンサートの海賊版は会場での隠し取りが多い。だから、当然、音は悪い。けれども、殺気だったディランのパフォーマンスから、オフィシャルなレコードとはまたちがう印象を受けることが多かった。この66年のツアーのバックはホークス(ザ・バンド)。曲の合間にしゃべるディランはろれつが回らないようで、ドラッグをやっていることがよくわかる。それが歌いはじめるとものすごい迫力の声になる。そのあまりの落差に驚き、客とのピリピリしたやりとりにドキドキする。会場から"Judas!"とヤジが飛ぶと、拍手や笑い声がおこり、ディランが"I don't believe you!"とやりかえす。そして"You are lier!"と吐き捨てるようにつづけて、最後の"Like a Rolling Stone"を歌いはじめる。ぼくはもう恍惚として涙を流さんばかりになった。もう、ディランがすべてという時期は過ぎていたが、それでも、その時の興奮は尋常ではなかった。

    ・1965年にもディランは長期のヨーロッパ・ツアーに出ている。ソロで生ギターだけだが、その時のドキュメントが"Don't Look Back"という題名でビデオ化されている。これを手にいれたのは、海賊版からさらに10年ほどたった頃。ジョーン・バエズがいつも一緒で、楽屋にはドノバンやアニマルズのメンバーが訪れたりしている。会話のやりとりはいつでも誰とでもとげとげしいが、とりわけインタビューを試みる新聞や雑誌に対しては挑発的で、敵対的だ。それにマリファナの回し飲みなどもやっている。ロイヤル・アルバート・ホールのコンサートにはビートルズの面々も聴きに来ているが、彼らにドラッグを教えたのも、このときのディランのようだ。

    ・ボブ・ディランは生ギターとハーモニカで演奏するフォーク・シンガーとしてデビューした。そのアバンギャルドな詩や独特の歌い方が主に政治や社会に自覚的な大学生に支持されて、またたく間に人気者になった。けれども、その堅苦しさにうんざりして、ディランはエレキ・ギターを手にしてロックンロールをやりはじめる。その変質にある者はとまどい、またある者は非難の声を浴びせた。1966年のヨーロッパ・ツアーはまさに、そんな騒ぎの最中におこなわれたものである。だからコンサートはどこでも罵声と歓声がいりまじる緊張したものになった。まじめなインテリの聴き手にとってはまさに「裏切りユダ」だったのである。しかし、これこそがまた、フォーク・ソングとロックンロールの出会い、あるいはディランとビートルズの融合でもあった。20世紀後半のポピュラー音楽の歴史の上で、最も重要な出来事が、このツアーのなかにはあったのである。

    ・その、伝説のコンサートが32年たってやっと、公式に発売された。今あらためて聴いてみると、当然だが、音はきわめてクリアだ。二枚組の CDの一枚目は生ギターのフォーク・ソング、そして二枚目はロックとはっきりわけられている。前に買った海賊版とは曲目が少しちがうから、海賊版はいくつかのコンサートを寄せ集めたものかもしれない。クリントン・ヘイリンの『ボブ・ディラン大百科』(CBSソニー出版)によると、観客との険悪なやりとりはどこの会場でも見られたものらしい。そして、ディランが何を言ったかによって、どこのコンサートであるかがわかるそうだ。で、最後の曲の前にやっぱり「おまえはうそつきだ」ということばを発してディランが"Like a Rolling Stone"を歌いはじめた。

    ・ファンだったことを差し引いても、やっぱりすごい時代のすごい音楽、そしてもちろんすごいミュージシャンだったなとあらためて思う。歴史としてでもいいから、若い音楽好きの人にはぜひ関心をもってもらいたいアルバムである。

    1998年10月21日水曜日

    YES(大阪厚生年金ホール、98/10/14)


  • 厚生年金ホールでコンサートを聴くときには、近くの居酒屋「もだん」で腹ごしらえをすることにしている。開場時間になってから入口に行っても、開演までの時間をゆっくり迎えることができる。そんな予定だったが、今回は雰囲気が少しちがった。ホール前の公園に4列に並べというのである。確かに長蛇の列ができている。車に気をつけろとか、列を乱すなとか、持ち物の点検をするからバッグの口をあけておけとか、バイトの係員がことこまかな指示をしている。ぼくはあほらしいから入口脇の階段に腰掛けて列の様子を眺めていた。
  • これはロック・コンサートを聴きに来た人びとの集まりなのに、どうしてみんなこんなに素直なんだろう。これではまるで朝の電車のホームやバス停じゃないか。そういう日常から離れるためにロックを聴きに来てるんじゃないの。そんなことをぶつぶつつぶやきながら、結局、階段で30分近くも座り続けた。若い人が割に多くて、"YES"もまだまだ人気があるんだなー、と思いながら場内にはいると、1階席と中2階席がいっぱいになっただけで、2階席はがらがらだった。入口でのテープやカメラの検査はそんなに厳密ではなかったから、何でこんなに時間がかかったのか不思議な気がした。わざわざ手間をかけて、無駄なことをやっただけじゃないのか。せっかくビールでいい気持ちになったのに、はじまる前にすっかりさめてしまった。
  • ぼくの席は2階席の右の袖で前にかなりつきだしているから、すぐ下にステージが見える。数日前にチケットを買ったからだが、ぼくはこんな席が好きだ。とはいえ、9000円は高すぎる。最近聴きたいコンサートが少ないし、あっても、大阪ドームでやったりするから買ったが、こんな値段にすると、ますます客は集まらなくなる。ごく一部の一瞬の大物だけがドームを満員にして、あとは2000人も集まらない。こういう状況は、けっしていいことではない。もっともっと聴きたいミュージシャンはたくさんいて、その人たちが日本に来てくれることを願っているが、現実的には逆に難しくなるばかりなのかもしれない。
  • ところで肝心のコンサートだが、すごくよかった。昔のものから最近の曲までたっぷり2時間半もやって、ステージ・パフォーマンスもサービス精神にあふれていた。ぼくはプログレは割と好きでピンク・フロイドやキング・クリムゾンなどのコンサートにも行っている。どちらもしっかりとしたサウンドでよかったが"YES"もやっぱり職人肌の音楽集団だった。中心メンバーの二人(ボーカルとギター)以外は頻繁に交代してきたようだ。ジョン・アンダーソンのかすれた高音の声は50代の半ばをすぎたとは思えないほどみずみずしい。スティーブ・ハウは生ギターをもって何曲もソロでやったが、スパニッシュ風の曲("The Clap")の時には観客が総立ちになるほどだった。
  • ぼくがプログレのコンサートに好んでいくのは、席を立って踊り出す客が少ないからだ。邪道だと思うが、ぼくはロックは腰掛けて聴くのが好きだ。特に最近は、そうでなければ行く気がしない。学生たちに言うと馬鹿にされるが、足踏みや拍手程度で十分ノッた気がする。"YES"のコンサートではフィナーレとアンコール以外は誰も立とうとしなかった。それでも、客のほとんどがノッていることは会場の雰囲気でわかった。それも、楽しい時間を過ごせた理由だった。ジョンも今日の客はすばらしいというようなことを口にして「夕焼けこやけの赤トンボ〜」を歌って観客に一緒に合唱しようと呼びかけた。
  • というわけで、9000円も高くないかと思って会場を出たのだが、ひょっとしたら、気持ちのいい雰囲気は、言われるままに整列した若い人たちの素直さが作りだしたのかもしれないななどと考えて、ちょっと複雑な思いにとらわれてしまった。 

  • 1998年10月14日水曜日

    栩木伸明『アイルランドのパブから』(NHKブックス) 大島豊『アイリッシュ・ミュージックの森』(青弓社)

     

    irish1.jpeg・今一番行ってみたいのはアイルランド。そんなふうに思わせる本を2冊読んだ。ぼくにとってのアイルランドへの関心のきっかけはもちろん、ヴァン・モリソンやU2だが、紛争の絶えないぶっそうなところだから、行きたいなどとはちょっと前まで考えもしなかった。映画の『父の名において』とかNHKのドキュメントで見る限り、のんびり旅行者が出かけるようなところではない気がしていた。

    ・イギリスのブレア首相とIRAとの間で平和協定が結ばれた。少しは安全になったのかなといった程度のものとして考えていたが2冊の本を読んで、ずいぶんちがった印象をもった。一つは栩木伸明『アイルランドのパブから』(NHKブックス)である。

    ・仲間とパブへくりだしたばあい、あるいはその場で知り合ったどうしが三、四人で飲んでいるとしよう。ぼくの目のまえのグラスが空に近くなると友人のひとりが「もう一杯やるかい」とたずねてくる。こうたずねるのがエチケットだからだ。ぼくが「イエス」と答えると、彼はほかの友人たちにも同じことをたずね、バーまで立っていき、みんなの飲み物を買ってくる。次は誰か別の人物の番だ。………結局はおごりっこを順番にしながら、誰も損も得もしないことになっているのだ。

    ・このようなパブでの儀礼を「ラウンド」と呼ぶらしい。この本の最初のところで、著者はパブで隣り合わせた老人に「アイルランドでは宗教改革も産業革命も経験しておりません。近代化はついこのあいだはじまったばかり。ダブリンは都市に見えるかもしれませんが、じっさいは巨大な村ですよ。」と言われるたと書いている。『アイルランドのパブから』は、そんな巨大な村にいくつもあるパブで出会った人びとや人間関係や音楽、そしてもちろんギネス・ビールについての本である。著者はそれを「声の文化」と呼んでいる。知らない者どうしがすぐに知り合いになって、ビールをおごりあい、いつの間にかはじまる音楽に耳を傾け、一緒に歌う。アイルランドはまさにフォーク音楽が生きている世界である。ぼくは酒に強くはないし、ことばだって不安だ。それに、人見知りが激しいから、パブで知らない人と一緒にうち解けることはできそうもない。けれども、何となくいいなーと感じてしまうのも確かだ。

    ・しかし、アイルランドは一方では辛酸をなめ続けた歴史をもった国でもある。ノルマン人やヴァイキングの侵入、イギリスによる支配、 19世紀の中頃に起こった飢饉とアメリカへの移民によって、人口が一挙に3割ほどに減ってしまうという時代も経験している。中等教育が義務教育として制度化されたのがやっと60年代になってから、そして経済的な発展が本格化するのは、初の女性大統領メアリ・ロビンソンが登場してからである。

    irish2.jpeg・もう一冊の本『アイリッシュ・ミュージックの森』には最近のアイリッシュ・ミュージックについての記述が詳しい。ぼくはそのほとんどのミュージシャンや音楽を知らないが、次のような話には思わず、うなってしまった。

    ・ 1922年にアイルランドが独立したとき、政府は独立を支える文化的支柱を必要としたが、そこで使われたのはアメリカから輸入されたSP盤の伝統音楽だった。
    ・アメリカからのSP盤がほぼ全国的に伝統音楽のかたちを統一するほどの影響を及ぼしたのは、そこに録音されていた音楽が並外れて質の高かったものであったそのほかに、まずそれがすべて善きものの源泉アメリカからの到来そのものであったためであり、二つ目には教会の弾圧によって音楽の名手はみなアメリカに行ってしまったという残った人びとの劣等感が裏書きされたからだろう。

    ・さらに、アイリッシュ・ミュージックが一層盛り上がるのは、ロックンロールの流行と、その世界でのアイルランド出身のミュージシャンたちの活躍が引き金になる。このような経過を指摘しながら、著者はアイリッシュ・ミュージックを昔ながらの様式や素材に固執した伝統音楽ではなく、むしろ時代の流れに敏感に呼応するところから再生した音楽だと言う。「周縁ゆえに、辺境ゆえに伝統は『近代』の侵攻をこうむらず、その力を温存してきた。時を得て、伝統は『近代』のシステムを逆用し、新しい存在として生まれ変わる。」

    ・ぼくはこの本で紹介されているCDがたまらなくほしくなった。またTower Recordで散財してしまいそうだ。

    1998年10月7日水曜日

    野球の後は映画

     

  • 今年の夏休みは、見るのも読むのも考えるのも書くのもメジャー・リーグばかりだった。その季節も終わると、今度はBSでおもしろい映画をやりはじめた。で、ここ二週間ほどは、毎晩のように映画を見ている。二本立て、三本立てなんて日も珍しくない。たとえば、最近見た映画でおもしろかったものをあげると、『セブンティーン』『すべてをあなたに』『フェイク』『ジャック』『バスキア』『バッド・デイズ』『エビータ』『ペレ』『私家版』『死と処女』『愛よりも非情』記憶の扉』『心の指紋』『ハーモニー』それに『理由なき反抗』や『大人はわかってくれない』なども見てしまった。もちろん、これは全部BSで放送したものばかりである。
  • これだけいっぺんに見ると、さすがにそれぞれの映画を一つずつ記憶しておくことは難しい。けれども印象に残ったものをいくつか。ちょっとでも書き留めておけば、後で思い出すことができやすくなる。今回はそんなメモのようなレビュー。
  • 『ペレ』にはマックス・フォン・シドーがでていた。スウェーデンからデンマークに少年を連れて出稼ぎにでる初老の男の話。いい暮らしができると子どもに話しながら職を探すが、やっとありついたのは農場の家畜の世話をする仕事だった。確かではないが20世紀の初め頃の話だと思う。福祉の行き届いた、世界で一番豊かだと言われる国とはとても思われない世界。一緒に働く農奴のような人たちの中には、夢をアメリカに託す者がいた。ヨーロッパからアメリカに渡っていった大勢の人たちの心が少しわかるような作品だった。
  • 特に選んだつもりはなかったのだが、青春映画が多かった。『セブンティーン』はハンガリーから父とアメリカにやってきた移民の少年の話。DJに憧れるが(the)の発音ができない。永住権をとるためにはしっかり勉強しなければならない。けれども、女の子は気になるし、ちょっと不良になってもみたい。『理由なき反抗』や『大人はわかってくれない』とどこか共通したテーマだが、それなりに現代の若者をうまく描き出していると思った。『すべてをあなたに』はトム・ハンクスが監督をした作品。田舎のロックンロールバンドが売れて一躍スターになり、仲間割れして解散するという話。たわいがないといえばそれまでだが、60年代の一風景をうまく描いていた。
  • 『愛よりも非情』はイタリアが舞台で主人公はサーカスの女拳銃使い。彼女は新聞記者と恋に落ちるが、不良たちに強姦され、その復讐に男たちを皆殺しにしてしまう。傷つきながらの逃避行。警察に包囲され、恋人に抱かれながらの死。フランチェスカ・ネリに一目惚れしてしまったせいか、見ていて腹が立つやら、可哀相になるやら、久しぶりに目が離せないほど見入ってしまった。『死と処女』はアルゼンチンの独裁政権時代に政治犯としてとらわれ、性的な拷問を受けた受けた女性が、復讐をする話。ポランスキーが監督。
  • 『記憶の扉』は『ニュー・シネマ・パラダイス』のジュゼッペ・トルナトーレの作品。雨の中を歩いていた男が検問で引っかかって警察で尋問を受ける。そのやりとりだけの話で、最後になるまで不可解なのだが、主人公が自殺した作家本人であることがわかって納得。死んだ本人に自分が誰であるかをわからせるための検問と尋問、そして旅立ち。ぼくはどういうわけか村上春樹の小説を思い浮かべた。彼の映画は小説になりにくいと思うが、こんなふうに作ったら案外おもしろいかも、という気がした。
  • それにしても、さすがに目が疲れる。深夜映画を見て、明け方ぼーっとしながら家に帰った若い頃を思い出してしまった。
  • 1998年9月23日水曜日

    尾崎善之『志村正順のラジオ・デイズ』(洋泉社)沢木耕太郎『オリンピア』(集英社)

     

    ・ひきつづき、メディアとスポーツ関連の本について、というわけでもないんだけれど、今週もまた似たような話題です。

    ・ラジオの実況中継がスポーツを大きく変えたことは、すでによく言われている。しかしこれまで、具体的な話も、理論的な展開についても、ラジオについてはそれほど豊富ではなかった。学生に聞いても、ラジオはほとんど聴かないと言う。聴いているのはお年寄りばかり。テレビその他の新しいメディアに押されて、ラジオはほとんど忘れられようとしている。そんな気がしないでもなかった。

    ・ラジオが話してと聞き手との間に直接的なコミュニケーションの世界を作りだすこと、それがしばしばきわめて親密に感じられることを指摘したのはM.マクルーハンである。彼はそのような世界の特徴を「部族的連帯」と呼んだ。このような特徴をうまく使ったのは、一方ではA.ヒトラーやF. ルーズベルトで、ラジオというメディアが情報操作に弱いことを示す好例としてよく紹介される。けれども他方では、ラジオはロックンロールやロック(FM)の登場には欠かせないメディアになったし、アメリカのプロスポーツ、特にメジャー・リーグを国民的なスポーツにするのにも大きな役割を果たした。日本では、何より大相撲、そして、オリンピック。

    ・ラジオが人びとに新しい世界を一つ提供したことはまちがいない。すぐ目の前でしゃべっているかのように感じられるアナウンサーの声が伝えてくる世界は、聴き手が想像力を働かせてはじめて再現できるものである。その現実とも空想ともつかぬ不思議な世界に対する驚き、それによってもたらされるきわめて強い興奮。これはテレビを知ってしまった者にはわからない感覚である。

    ・志村正順は昭和11年にNHKに入りスポーツ放送の主流がテレビになる東京オリンピックの頃まで、大相撲、東京六大学野球、あるいはプロ野球やオリンピックの中継で第一線の人気アナとして活躍した。スポーツ中継はあくまでジャーナリズムであるから、ニュースと同じように正確に、偏りなく、冷静に伝えなければならない。これがNHKの基本方針だが、ラジオによるスポーツ中継はけっしてそうではなかったようだ。誇張や脚色、あるいは全くの作り事が、時に聴いている者に、強い迫真力をもたらす。彼の語りの特徴はまずそんなところにあった。

    ・沢木耕太郎の『オリンピア』はベルリン・オリンピックの記録映画『民族の祭典』とその作者であるレニ・リーフェンシュタールとのやりとりから始まる。この映画の中には、実写ではない部分、わざとネガを反転させた箇所がずいぶんある。すでに90歳をすぎた作者の記憶は定かではないが、沢木はそれを、リアルに見せるための工夫だったと判断する。リアル、あるいは迫真力とは何か?たとえばベルリンで有名なのは例の「前畑がんばれ!前畑勝った!」の実況中継だが、ここにはいくつかのことばの連呼以外に何の描写もないにもかかわらず、聴いていた日本人を興奮の渦に巻き込んだという事実がある。

    ・映画『ラジオの時間』が暴いていたように、ラジオにはそれらしく聞こえさえすればいいという特徴がある。口だけ、音だけでどうにでもなる世界。今さらながらに、おもしろくて、怖いメディアだと思うが、そのような世界に浸りきるナイーブさを、残念ながら僕たちはもう持ち合わせてはいない。ここに紹介した2冊は、まさにそんな古き良き時代に思いを馳せるノスタルジックな本という感じで読んだが、ラジオのメディア的な特質は、もっともっと考えられていいテーマだとも思った。

    1998年9月16日水曜日

    東ドイツのロックについて


    ・ 9月9日から11日まで、京都のドイツ文化センターと立命館大学で旧東ドイツのポピュラー芸術をテーマにしたシンポジウムが開かれた。主に映画とデザインとロック音楽、ぼくはそのロックの講演のコメンテーターとして参加した。今回はそのことについて。
    ・ベルリンの壁崩壊にロックがある種の役割を果たしたことはよく知られている。たぶんロック音楽について考えようとすれば、それはまちがいなく一つの大きなテーマになる。けれども、その実状については、音楽そのものもふくめて、日本にはほとんど紹介されていない。ぼくも今まで東ドイツのロックは一つも聴いたことがなかった。講演者はアメリカ人で東独に留学経験をもつエドワード・ラーキーさん。彼は主に80年代の政治意識の強いロックについて、その歌詞の分析を中心に報告した。

    思うようにいかない日がある/髪も半分、ベッドの半分は空
    ラジオからは半分のボリュームで聞こえてくる:人類の半分がどこかで死んでいく
    半神が金色の子牛のまわりで踊る/世界の半分はそんなところ
    ハーフ・アンド・ハーフ、ハーフ・アンド・ハーフ
    半分になった国で、半分に切り取られた街で/身の程に半分ばかり満足している
                          City "Halb und halb"

    ・東ドイツは西側に隣接していた。特に東ベルリンは壁一枚のみだった。だからどんなに情報を統制し、行き来を規制しても、電波(主にラジオ)をとおして西から東へ何でも筒抜けになってしまう。東ドイツのロックは、そんな特殊な状況のなかで独自性を生みだした。つまり政府は、ロックを全面的に禁止することはできないから、西からのものではなく、自前のものを作ってコントロールをしようとした。政治や社会の批判は困るから、当然厳しい検閲がある。けれども、一方では、西に負けない芸術性の高い作品を奨励したりもする。ラーキーさんは主に歌詞の部分で、検閲制度が文学性を高める役割を果たしたというアイロニーを指摘した。たとえばシリー(Silly)の「サイコ」(Psycho)は、もともとは「1000の眼」(Tauscend Augen)という曲で、監視体制を批判したものだが、検閲をくぐるためにヒッチコックの映画を題材にしたかのように見せかけたのだという。

    1000の眼               サイコ
    1000の眼がマットレスの下にある    1000の憧れが私の胸を開く
    1000の眼が苔の中から突きでる     1000のナイフが私の腿をおそう
    1000の眼が皮膚と皮膚の間に入り込む  1000の教皇が墓の下でのたうち回り
    1000の眼ーはやく私を抱いて      1000の頭蓋骨が苔の中から覗いている

    ・ぼくはコメンテーターとして、その歌詞のレベルの高さに同意したし、規制が芸術を熟成させる機能の1例としても納得したが、同時にいくつかの疑問も指摘した。このような歌はいったいどんな階層の若者たちに受け入れられ、それはどの程度の割合だったのか?ラーキーさんははっきり確かめたわけではないが、インテリ層で、全体の1割程度ではないかと答えた。大半の若者たちは西側から聞こえてくる音楽に興味はもっても自国のものには関心を示さなかった。彼はそのことを残念ながら、という気持ちで話した。
    ・ロックは60年代に確立して、その時にリーダーシップをとったのはアメリカでもイギリスでもインテリ層だったが、それ以後の、たとえば「パンク」や「レゲエ」、あるいは「ラップ」などは、ほとんどが社会の最下層から生まれている。それは芸術性や文学性などという議論とは無関係なところから発生して、あらゆる階層、あらゆる国に広まるというプロセスをもっていた。そんなロックの偶発性、あるいは「限界芸術」的な側面に比べると、どうしても作り物だという感じがしてしまう。ぼくはそんな趣旨のコメントを言った。
    ・出席者の大半が旧東ドイツ、あるいはドイツ、そして美学や芸術学の専門家だったせいかもしれないが、全てのテーマが芸術性という一点で切り取られようとしていた気がする。ぼくはここに違和感をもって、芸術という視点はポピュラー文化を見る一つの物差しにすぎないのではと指摘した。たとえばロックは芸術ではなくスポーツと比較した方がよくわかるかもしれない。そんな意味のことを言ったのだが、わかってくれた人は少なかったようである。参加者のまじめさ真剣さに、へとへとに疲れてしまった。

    1998年9月9日水曜日

    スポーツとメディアについての外国文献


    ・井上俊さんと亀山佳明さんが編者になって『スポーツ文化を学ぶ人のために』という本を世界思想社から出版する計画を立てた。で、ぼくのところに、「スポーツとメディア」というお題目がまわってきた。執筆者は日本スポーツ社会学会の会員が中心で、ぼくも所属しているのだが、実は今まで一本もスポーツ論を書いたことがない。編集委員をやったりして多少申し訳ない気もあったから引き受けたが、書くあてがあるわけではなかった。

    ・話は1年前に来て、締め切りが夏休み明け。最近一番関心をもっているメジャー・リーグのことでも書こうと考えて、夏休みに入ってから文献を探しはじめた。ところが役に立ちそうな本は日本語ではほとんどない。あわてて研究室の本棚を探し、大学の図書館で検索し、あるいはAmazon comで注文し、井上さんからも1冊お借りして読み始めた。そうしたら、今年の夏は蒸し暑い。じっと寝転がっていても、体中から汗が噴き出してくる。とても本など読む状態じゃなかったが、1ケ月で一応目を通しておかなければならない。そんなわけで、今年の夏休みは、ぼくにとってはちょっとつらい日々になった。などと、ついつい愚痴っぽくなる前置きはともかくとして、読んだ本の紹介をしよう。

    ・おもしろかったのは次の2冊。どちらも、第二次大戦後に急変するアメリカのプロ・スポーツの歴史を内容にしている。最初はラジオ、そしてテレビ、そこに人種の問題とお金の話が絡まってくる。それらによってスポーツがいかに変わったか。読んでいて「へー」と思うことの連続だった。

    *Benjamin G.Reader, "In Its Own Game ; How Television has Transformed Sports", Free Press, 1984
    *Randy Roberts and James Olson "Winning is the only thing; Sports in America since 1945" The John Hopkins U.P. 1989 あと、アメリカにおける人種とスポーツをテーマにしたもの
    *Richrd Lapchick,"Five minutes to midnight; Race and sport in the 1990s, Madison Books, 1991.

    ・大金が動くアメリカのカレッジ・スポーツ、特にフットボール(NCAA)を批判したもの
    *Kenneth L. Shropshire, "Agents of opportunity; Sports agents and corruption in collegiate sports", Univercity of Pennsylvania Press, 1990.

    ・同じ著者が、サンフランシスコ、オークランド、そしてワシントンDCなどのいくつかの都市を取り上げて、野球やフットボールのチームとその本拠地の関係を扱っている
    *Kenneth L. Shropshire, "The sports franchise game; Cities pursuit of sports franchises, events,stadiums, and arena",Univercity of Pennsylvania Press, 1995.

    ・イギリスのスポーツとメディア、特にテレビとの関係を分析した次の本にはアメリカとはちがうイギリスのお国事情がはっきりあらわれている。
    *Garry Whannel, "Fields in Vision ; Television Sport and cultural Transformation", Routledge, 1992

    ・ぼくはここ数年、ロック音楽を材料に20世紀の文化的な変容を調べてきたが、スポーツについての文献を読んで、両者の間に多くの類似点があることに気がついた。考えてみれば、どちらもポピュラー文化の大きな柱であることははっきりしているのだが、スポーツについては本気で考えたことがなかったのだとあらためて実感した。

    ・で、その類似点だが、メディアとの関係が非常に強いこと、成立の基盤に生活の豊かさと余暇(余裕の時間)が必要だったこと、若者という世代の出現、そしてアメリカの黒人の存在などがあげられる。
    ・原稿はもうほとんどできたのだが、これ以上のことについては、本が出たらぜひ買って読んでほしいと思う。どうぞよろしく。

    1998年9月2日水曜日

    ハイビジョンについて

  • ちょっと前に10年間見てきたテレビの調子がおかしくなった。テレビのない生活は一日でも耐えられない。そんな気分でスーパーのカタログを見ていると、格安のハイビジョン・テレビが目玉商品として載っていた。そろそろハイビジョンもおもしろくなったかもしれない。そんな期待を込めて買うことにした。
  • まず最初に感心したのはワールド・カップ。日本の試合はBSの7チャンネルでも同時放送していたから、珍しがって画面の比較をしながら見た。画像が横長だから、当然、画面に映る範囲は広くなる。画像が鮮明だから、細かなところがわかりやすい。だからだろうか、アップの画面が比較的少ない。ぼくはあまりサッカーに詳しくないが、ボールのまわりに集まる選手の動きや陣形がよくわかって、今までとは違う見方ができた気がした。
  • 同じことは、高校野球でも感じた。今までよりもグラウンドが幅広く見える。だから、バントやダブル・プレーの守備位置がよくわかる。もちろんまだ、実験放送の段階だが、ハイビジョンはスポーツの見方をかなり変えそうだというという感想を持った。
  • テレビが放送され始めた頃は、画面は小さくモノクロだった。だから野球の中継は球を追いきれずに、訳の分からない画像を映し出すことが多かったようだ。テレビカメラも、今とは違って、1台とか2台しかなかったから、アメリカでは、人びとはテレビよりはラジオの中継の方を好んで聞いたそうだ。だから、テレビのスポーツ中継は、まず、1台のカメラで映せて、しかも迫力を感じさせるボクシングとプロレスで人気を集めることになった。そういう肉体のぶつかり合いの印象が強かったせいか、アメリカでは、その次に人気を集めたのは、アメリカン・フットボールだった。
  • 100年の歴史を持つメジャー・リーグ(MLB)が、60年代にスタートしたプロのアメリカン・フットボール(NFL)にあっという間に人気をさらわれて、70年代からすでに斜陽だといわれ続けている。そしてその原因は、何よりテレビによるところが大きい。さらに最近では、やっぱり格闘技的な魅力を強調するバスケット(NBA)がものすごい人気になっている。乱闘でもなければ接触プレーなどない野球は、考えてみればきわめて静かで単調なゲームだが、ひょっとしたらハイビジョンが、そのおもしろさを見つけだしてくれるかもしれない。そんな期待を感じた。
  • ハイビジョンで見られるのは、もちろんスポーツに限らない。たとえば、動植物、あるいは海や山、砂漠や氷河といった自然を描くドキュメント。絵画や彫刻などを詳細に映し出す番組。また衛星から日本列島を生で映し出すといった時間も毎日ある。実験放送のためか、時間をたっぷり使い、ことばよりは映像で見せようとする番組が少なくない。バラエティや歌番組のようにやかましくないから、窓から見える風景のつもりでつけっぱなしにしておくことが多くなった。
  • JR京都駅から関西空港まで「はるか」という特急が走っている。その出発から終点までを映した番組を見た。ぼくは電車に乗ると先頭に座って運転席越しに前方の風景を見ることが好きだったが、ついつい最後まで。見入ってしまった。もう一つ感激したのは、秋田県の大曲で行われた「全国花火選手権」の中継。ぼくの住んでいるところでも、花火は何度か見ることができる。しかしそれは、音のない小さなものだったり、逆に音だけしか聞こえないものだったりして、今ひとつもの足りない。その点、ハイビジョンでの花火見物は、きれいで、迫力も十分だった。もちろん首が疲れることもなかった。
  • テレビが多チャンネル化して、見る番組の選択肢が増え始めた。そしてこの傾向は、近いうちにもっともっと強まっていく。料金を払って見るテレビ番組も、当然増えるわけだが、いったい人は何を見たがっているのかを見極めるのはなかなか難しいだろう。けれども、全国ネットはされないスポーツやイベントの中継や、地道なドキュメント、あるいは、案外見ることのできない日常の風景など、おもしろい素材はいくらでもあるのではないかとも思った。
  • 1998年8月26日水曜日

    Lou Reed "Perfect Night Live in London"

     

    ・ルー・リードの新しいアルバムを聴いているうちに、ニューヨークのことを考え始めた。そうしたら、メジャー・リーグのことが気になった。今年は吉井正人がメッツに入った。だから、ヤンキースの伊良部とあわせてニューヨークからの中継を見ることが多くなった。そんな感じでスタートしたら、途中から野茂もメッツに移ってきた。で週に3回、ニューヨークからの中継を見ている。あいにく、3人ともスカッとする試合をなかなか見せてくれないが、スタジアムを通して、ニューヨークはすっかりなじみの街になってしまった。

    ・ニューヨークは変な街だ。アメリカを象徴するようでいて、ここだけがまた、アメリカではない。ヨーロッパからの移民が最初に見るのが「自由の女神」と「マンハッタン」。世界中から、そしてアメリカ国内からも、その景色を求めて大勢の人がアメリカを目指してきた。人種や文化がごちゃごちゃに入り乱れた場所。成功者と敗北者。自由と平等を基盤にした熾烈な競争が生み出す不自由と不平等。もっともアメリカらしくて、またそれだけに、他の土地とは異質になってしまう都市。

    外に出ると夜は明るい、リンカーンセンターのオペラに
    映画スターたちがリムジンで乗りつける
    撮影用のアーク灯がマンハッタンのスカイラインを照らし出し
    けれど卑しい通りでは明かりが消えている
    幼い子どもがリンカーン・トンネルのそばに立ち
    造花のバラを1ドルで売っている
    道路は39丁目まで渋滞し
    女装した売春夫が警官にひとしゃぶりどうと声をかける
                "Dirty BLVD."

    ・ウォール街は史上空前の景気に沸き立っている。さっそうと歩くビジネスマンと路上生活者、そしてドラッグ中毒の子供たち。夢に憧れてやってくる人たちは跡を絶たないが、大半は夢破れて退散するか、のたれ死ぬ。ルー・リードはそんなニューヨークの人間模様や風景を繰り返し歌う。彼は、そんなニューヨークを嫌悪しながら、なお愛し続ける。この新しいアルバムはロンドンでのライブだが、伝わってくる情景は、何よりニューヨークそのものだ。

    ・以前にアメリカに行ったときに、ぼくはノーフォークから飛行機でニューヨークに移動した。飛行機は自由の女神の真上を飛んで、マンハッタン島の摩天楼を左に見ながらシェア・スタジアムをかすめるようにしてラガーディア空港に着陸した。内野席が何層にもなっているのに外野席がほとんどない、馬蹄形をした奇妙な球場だった。実際にぼくは野球を見たのはヤンキースタジアムだったが、飛行機からのニューヨークの眺めがすばらしくて、メッツの本拠地の印象もかなり強く残っている。

    ・ぼくはニューヨークはあまり好きではない。とても住みたいとは思わない。野球ファンも辛辣というよりはせっかちに結果に反応しすぎるようだ。けれども、ルー・リードの歌を通して感じるニューヨークの哀感には、時折ふれてみたい。とはいえ、日本人メジャー・リーガー達が挫折して傷心の帰国、などといった光景だけは見たくないものだ。

    1998年8月5日水曜日

    清水諭『甲子園野球のアルケオロジー』(新評論)

     

    ・ 甲子園で毎年くりひろげられる全国高校野球大会は、一言でいえば「青春のドラマ」である。「ひたむきさ」「純真さ」「汗と涙」といった形容には、ぼくはもうかなりうんざりしているが、テレビの中継や新聞報道に関するかぎりでは、それは今でも人の心に共感をあたえる大きな要素になっているようだ。そんなドラマがどのようにして演出されるのか、それは当の高校野球の選手や注目された地元の人びとにどんな影響をおよぼすのか、あるいは、日本の高校野球のはじまりのきっかけは何で、誰が「青春のドラマ」に仕立てあげていったのか?清水諭の『高校野球のアルケオロジー』は、このような問題意識を軸に考察された好著である。
    ・清水はテレビ中継のケース・スタディとして1986年の第68回大会準決勝戦(松山商業対浦和学院)をえらんでいる。球場にもちこまれたテレビカメラはおよそ15台。それがゲームはもちろん、スタンドの応援席や試合後のインタビューなどにふりわけられる。クローズ・アップやスロー・ビデオ、あるいは過去のゲームや郷土の様子を収録したビデオを駆使した演出、そこにアナウンサーと解説者の言説、そしてフィールドやスタンドから生ずるさまざまな音が挿入される。こうして、風物詩としての「青春のドラマ」がくりかえし上演されることになる。
    ・ 毎年、甲子園でおこなわれる野球大会はもちろん現実だが、テレビや新聞をとおして人びとがうけとるイメージは、選手はもちろん、高等学校やそこにかよう生徒たち、あるいは地元の人びとの実像とはずいぶん異なっている。清水はそれを「さわやかイレブン」として有名になった徳島県の池田高校の取材によって確かめている。時間の制約などのためか、ちょっと表層的な印象を受けるが、しかし、メディアによって作られたイメージがやがて現実の姿になったと話す地元の人たちのことばや、蔦監督の、虚像につられて集まってくる扱いにくい野球少年についての話はおもしろいと思った。
    ・ 日本の野球はすでに130年に近い歴史をもっている。もちろんアメリカ人によってもちこまれたのだが、それは東京大学の前身である開成校からはじまって、旧制一高と、主に高等教育の世界で広まっていった。その過程のなかで、徐々に「遊び」が心身鍛練の「道」に変容していく。野球はやがて人気のある大学スポーツになり、早慶戦といった花形カードが生まれるが、勝負にこだわる戦いぶりや応援合戦のエスカレートに批判が起こり、「野球害悪論」が新渡戸稲造などの識者や朝日新聞社によって喧伝されるようになる。相手をペテンにかける「巾着切りの遊技」、野球選手の不作法、あるいは勉学への支障を心配する父兄の懇願。そして、もちろん野球擁護もあったが、清水はそのあたりに「青年らしさ」の物語の起源を読みとっている。
    ・ ところが、害悪論の旗振り役をしていた朝日新聞は、その数年後には全国中等学校野球大会の主催をするようになる。それは清水によれば、野球害悪論キャンペーンによって朝日新聞の購買数が急減したことへの善後策から生まれた提案だったという。そこに阪急電鉄の前身であった箕面有馬電気軌道株式会社の小林一三の企業戦略が重なりあう。「青春のドラマ」の演出は、また、きわめてビジネスライクな理由によってはじまったのである。
    ・ 高校野球にお馴染みのメッセージは「純真溌剌たる青少年」「若さと意気」「明朗闊達」「雄々しさ」「男らしさ」、そして「フェアプレー」や「地方の代表」といったものである。甲子園野球のはじまりの経緯を知ると、そこで作り上げられてきたイメージに今さらながらに空々しさ強く感じてしまうが、このようなイメージが今でも高校野球が依拠する大きな基盤であることはいうまでもない。だから、野球部員はもちろん、高校生が起こすさまざまな出来事が不祥事として取り上げられ、それがクラブの活動停止や甲子園大会への参加辞退といった結果がくりかえされることになる。
    ・ 甲子園野球について出版された本は、けっしてこれが最初のものではない。特に歴史的な経緯については類似書ですでにふれられていることも多い。しかし、現実的なテレビ中継の仕組みや池田町のケース・スタディと重ねられることで、高校野球について、いっそうはっきりした像を映し出すことに成功していると思う。けれどもまだ、アルケオロジー(考古学)してほしいところはたくさんある。たとえば、不祥事を起こして処分を受けた高校や野球部員についてのケース・スタディもほしいし、純真な高校生が数千万とか億単位の金をもらってプロ選手になってきた歴史や現状についても知りたい。
    ・ 特定のイメージを作り上げてそれを美化すれば、当然、それにそぐわないものは排除され、また批判される。そのような仕組みへの批判の目は、光の当たる部分よりはむしろ影になったところへのまなざしによって輝きを増す。このような注文は無い物ねだりかもしれないが、筆者の力量からすれば、それほど難しいことではないように思う。
    ・ 最後に、高校野球について一言。200球を越える投球数に「熱投」などというばかげた賛辞を送る習慣と、一人のエースだけを頼りに優勝を目指すような体制は、すぐにでもやめてもらいたい。将来のある選手にとって甲子園が一つの通過点にすぎないことは、野茂や伊良部によって、高校生にも自覚されはじめてきたきたのだから。(スポーツ社会学会紀要 書評)

    1998年7月25日土曜日

    四国・四万十川 その3

     


    ◆四万十川→高松(7/25)
  • 朝起きると、川は激流になっていた。昨日いっぱい泳いでいた鮎はどこに隠れているのだろうか。などと心配するが、差し迫っているのは、今日のルートをどうするかということだ。宿の人に聞くと、まだ道路が通行止めになったという連絡は入っていないという。天気予報では大雨洪水警報が高知南部に出たと言っている。今日はまっすぐ北上して四万十川の源流と四国カルストを見たい。一刻も早く出発した方がいいようだ。
  • 出発するとすぐにバイクがこけていた。おじいちゃんが小さな落石につまずいたようだ。幸いけがはしていないようなので、バイクを起こすのを手伝い、エンジンがかかるのを確かめて別れた。「道の駅・大正」から梼原川をまっすぐ439号線を北上して東津野村に向かう。川は昨日とは一変して茶色の濁流になっている。見ていると思わず飲み込まれそうな気になってくる。道は狭く、曲がりくねっている。対向車に気を使うが雨が激しくてワイパーもきかないほどになる。
  • いくら走っても同じような道が続く。正直怖かった。いつ石が落ちてくるやもしれないし、路肩がゆるんでいるかもしれない。第一、道幅がよく見えないこともあるのだ。行き止まりになったら、この道を戻らなければならないし、帰り道だってふさがれてしまう。いい歳して無茶なことやるとつくづく思った。子どもを連れて長期のドライブをずいぶんやったが、そのときは、もっと注意深かった気がする。その子どもたちも、もう一緒に行くとは言わないから、最近ではもっぱら旅行は夫婦二人だけ。のんびりというよりは、気楽さからややもすると冒険指向になったりする。
  • 2時間ほど走って、やっと小さな集落にたどり着く。窪川町への、そしてまた梼原町への分かれ道。少し道が広く、くねり方も緩やかになる。東津野村。何とか四万十川源流の町にたどり着いた。カルスト台地などをゆっくり散歩する時間も余裕もない。この雨では牧場に牛の群などといった風景もないだろう。ほとんど休むことなく北上を続ける。長くて真っ暗なトンネルを抜けると、四万十川源流地点に向かう道があったが、そこもパス。いつの間にか川が反対に流れるようになった。分水嶺を越えたのだ。この川は仁淀川に合流して高知に流れ注ぐ。
  • 仁淀村にたどり着いたのが11時過ぎ。走りはじめてから4時間弱たっていた。喫茶店でコーヒーを飲む。ほっとした。ついでに昼食もここでと思ったが、全然空腹感はない。まだ緊張状態はとれていないようだ。コーヒーは無農薬だった。そういえば、店の感じもそれなりの趣がある。中年の女性が一人でやっている。高知で出会った若い子達の雰囲気が京都や大阪とほとんど変わりがないことに興味を覚えたが、流行や時代の傾向、好みは今や時差なく日本全国に行き渡る。そんなことをボーとしながら考えた。