1997年1月31日金曜日

室謙二『インターネット生活術』(晶文社)クリフォード・ストール『インターネットはからっぽの洞窟』(草思社)

 

・ぼくはインターネットで遊びはじめてからまだ1年もたっていない。おもしろすぎて、ずいぶん時間とエネルギーを使った。で、もっと早くやりたかったと思うし、また、こんなことにかまけていてはいけないという気にもなっている。すごいものができたなと言えるし、目新しいオモチャにすぎないとも感じる。要するに、判断しかねているのである。
・室謙二は1982年か83年からパソコン通信をはじめたそうである。アメリカに住んでいて、インターネットとのつきあいももうかなりになるようだ。ベ平連の活動家として、『思想の科学』の編集者として、また『旅の仕方』『アジア人の自画像』『踊る地平線』(すべて晶文社)といった本を書いた人として、そして、ワープロやパソコンの先達として、ぼくにはずっと気になる存在であり続けている。その彼が、インターネットについての本を出した。文章の大半は『朝日パソコン』に連載していたものだが、ぼくはこの雑誌をほとんど買ったことがなかった。マック・ユーザーにとってはあまり役に立たないからである。

・だから、はじめて読んだのだが、おもしろかった。何より、パソコンが作り出す世界に強い興味を感じ、ともかく手を出してみようとする気持ちや行動の仕方に共感を覚えた。日本とアメリカをしょっちゅう行き来して、その比較をするという書き方がリアリティをいっそう感じさせる効果を果たしてもいる。もちろん、商業主義の波に洗われる状態や手放しの肯定には懐疑的だし、自分をふくめて奇妙な世界に囚われはじめている現在の世相を相対化する仕方も嫌みがない。そんな、おもしろいけど、胡散臭いこともたくさんあるんだよ、というスタンスが気に入った。
・『インターネット生活術』につづいて、クリフォード・ストールの『インターネットはからっぽの洞窟』を読んだ。彼は木星などを観察する天文学者だが、コンピュータには古くから精通していて、アメリカの政府や大学のコンピュータに侵入するハッカーを追跡した記録『カッコウはコンピュータに卵を産む』(草思社)の作者でもある。ぼくは『カッコウ.....』をまるでスパイ小説のようにわくわくしながら読んだ。だから、新しい本が出たことを知ってすぐに買ったのである。

・で、読んだ感想はというと、ちょっと複雑である。インターネットが世間で宣伝されているほどには、しっかりとしたネットワークではないこと、誰にとっても必要不可欠なものではないことの指摘はきわめて具体的で説得力もあった。たとえば、天文学者である彼は望遠鏡を覗いて星をつぶさに見ることが何より大事なのに、最近の大学生はコンピュータにばかり向かわされていて星を見る時間が持てないでいるといった指摘は、学生の話ではなく、ぼく自身の経験として同感できることである。実際、ぼくのコンピュータに使う時間は、読書に費やす時間を削り取ったものだが、今では、モニターを見る間に、本を開いている状態だからだ。
・彼はコンピュータはオリジナルなものは何一つ経験させてくれないし、道具としてもあくまで二次的なものだと言う。だから彼は、生きた現実にふれることを第一にしなければならないことをくりかえし主張する。ヴァーチャル・リアリティを第一の現実として感じる風潮のおかしさ、危険を力説する。ぼくも確かにそうだと思う。けれども、また、そうなったら、人間は、社会は、一体どうなるんだろうな、ということについて見てみたいものだという好奇心も持ってしまう。

・そもそも、現実って何?自然て何なんだろう?コンピュータが自分の思惑を離れてとてつもない様相を呈しはじめている。ストールはコンピュータ・ネットワークの開発に携わった者が持つ責任から、現状を強く批判する姿勢をとったのだろう。それはよくわかる。でも、ぼくは動き始めた世界の様子ともっと戯れてみたいし、つぶさに観察してみたいと思う。同じ草思社から出ているJ.C.ハーツの『インターネット中毒者の告白』も、そんな意味でおもしろく読んだ一冊である。

1997年1月15日水曜日

Patti Smith(大阪厚生年金ホール、97/1/14)


・パティ・スミスの最初のアルバム『ホーシズ』はアメリカ人の友人から結婚祝いにもらったものだった。だから、もう20年も前になる。白いシャツを着たまるで少年のようなパティに奇妙な、そして新鮮な印象を持った。その後も彼女が出すアルバムはすぐに買って聞いてきた。けれども、1988年の『ドリーム・オブ・ライフ』を最後に彼女の新しい歌は聴けなくなった。子供が産まれて子育てに専念する。そんな噂に、思わず「へぇー」と驚いてしまった。何しろ彼女はアメリカン・パンクの女王だったのだから。

・それが、去年復活して『パティ・スミス・ゴーン・アゲイン』を出した。R.E.M.のニュー・アルバムでも一曲歌っていて、ぼくは、何かうれしくなってしまった。だから、コンサートの知らせを聞いてすぐにチケットを手に入れた。楽しみで、久しぶりに首が長くなる思いがした。
・客の入りはやっぱり1階席がかろうじて埋まる程度。しかし、低くボリュームのある彼女の声は良かった。何よりバックの音が抑えられているのがいい。何しろ、ライブに来ると大音響に心臓の鼓動が乱されそうになることがたびたびなのだから。客たちは最初からたちはじめたが、彼女がノセることよりはメッセージを伝えようとしたためか、たったり座ったりの中途半端でとまどっているふうにも見えた。もちろんぼくには好都合だ。もうロックは静かに聴きたい年頃なのだ。

・「ブラック・オイル」がどうのこうのという話をして、聴いたことのない歌を歌いだした。「フィッシャーマン」「肌を真っ黒に汚した女たち」「海が怒っている」といったことばがところどころ聞き取れる。日本海のタンカー座礁のことを歌っているのだ。「若い人たちはなぜ、何もしないの?」。たぶん即興の歌だったのだろう。ほとんどメロディはなく、強いビートにあわせて、まくしたてるように歌った。魔女のような、巫女のような雰囲気を持った彼女が歌うと、妙に説得力がある。だけどやっと体を揺らせるリズムになって喜んでいる若い子たちには、ちゃんと伝わっているのだろうか。コンサートにいてもこんなことを考えてしまうのは、やっぱり教師の習性なのだろうか。

・途中で間違えてはにかんだ顔。「エクスキューズ・ミー」。最近夫を亡くしたりして、彼女は決して幸福そうではないようだ。けれど、ピリピリとした若い頃とはちがって、ずいぶんゆとりのあるパフォーマンスが印象的だった。年をとってロックをやり続けるのはいいもんだな。そんなことを感じながら、ぼくは最後までシートに座って聴き続けた。来月はボブ・ディランとマリアンヌ・フェイスフルのコンサートに行く予定だ。もちろん昔を思い出すために会いたいわけではない。彼や彼女たちの今を知りたいのだ。