1999年4月28日水曜日

Alanis Morissete (大阪城ホール、99/4/19)


・大阪城ホールはスティング以来だから5年ぶりぐらいだろうか。一部の超大物(?)を別にすれば、行ってみたいコンサートはほとんど2000人以下の場所でしかやらなくなった。
・たとえばこの欄でも取り上げているルー・リード、パティ・スミス、Yes、そしてボブ・ディラン。その誰もが、会場を一杯にすることができなかった。他方で大阪ドームといったばかでかいイレモノができて、そのチケットがすぐに売り切れたりする。フェスティバルや厚生年金でやるのは舞台との距離が短くて音もいいから、ぼくには好ましい。そして大阪城ホールまでなら許されると思っているが、ドームが音楽を聴く場であるとは全然思えない。話題性や有名性の一点で二極分化してきた傾向とコマーシャリズムの行き過ぎは、ぼくにとっては気分がいいものではない。

・ というわけで、ひさびさの大阪城ホールだが、コンサートは15分ほど遅れてはじまった。待ちくたびれたわけでもないのだろうが、途端にアリーナはもちろん、ぼくのいたスタンド席まで立ち上がった。「うわー、やばい」と思ったが、座ったままで聞き続けた。2時間もたちっぱなしで聴いたのではぎっくり腰が再発してしまう。人の谷間からのぞき込むのは面倒だが、どうせ舞台のアラニスは豆粒ぐらいにしか見えないから、ぼくは会場全体をきょろきょろ見回して客の生態を観察することにした。

・立つのは踊りたいからなのだろう、と思ったのだが、大半はただ突っ立っている。理由のわからない行動だと気になった。そんな人たちがスタンド席でも半数以上。体を揺らして踊っているのが2割、ぼくのように座っているのが3割ほど。アラニスの歌は何より歌詞の良さにある。だからじっくり聴きたい人が多いだろうと思っていた。しかし、舞台のアラニスは飛び跳ねたり、くるくる回ったりと忙しい。その元気に応えるように踊っている人が2割で、それはそれで自然な感じがした。ぼくの前の席の女の子二人はアラニスに負けないほど元気だった。で、ぼくの目は思わずその娘たちのお尻の動きを追いかけてしまった。

・けれども、やっぱり立ちんぼうの5割も気にかかった。踊るわけでもなく、座るわけでもない。その中途半端さは、時折座りかけてはまた立ち上がるといった行動で、さらにいっそう顕著になる。もっと体を動かしたいのにできないのか、それともまわりが立ったから何となく立って、まわりが座らないからそのままでいるほかなかったのか。あるいはアラニスに対する儀礼なのか。理由がわからなければ、何とも言えないが、ご苦労さんだなと思った。そんな観察にも飽きて、ぼくは後半を最後列の空き席に移動して聴いた。アラニスの姿はもっと小さくなったが、歌に集中することはできた。

・話は横道にそれてしまったが、最後に肝心のコンサートの話。彼女のパフォーマンスは1時間ちょっとでサヨナラになったが、その後3回もアンコールに応えて5-6曲を歌い、客の反応の良さに満足しているようだった。よく動き回って、ギターやハーモニカまでやって見せた。2枚のアルバムにおさめられた曲のほとんどが歌われた。イントロにインド風のサウンドを使って、CDとは異なる雰囲気を作りだそうともしていた。精一杯の演出とパフォーマンスだったと思った。が、それだけに、物足りなさも感じた。たぶん彼女はあと10年ぐらいたったら、もっともっと味のあるライブをやるだろう。しかしこれは、誰より同世代のミュージシャンに関心をもつぼくだけの印象なのかもしれない。

・6月にNHKのBSで東京でのライブが放映されるようだ。それが早くからわかっていたら、聴きに行かなかったのにと思った。コンサートはミュージシャンと聴衆の相互作用だから、そこに違和感を感じてしまっては、やっぱり、楽しい時間を共有することはできない。1枚のCDで気に入ったからといって、うかつにその気になってはいけない。これからは、気をつけてチケットを買おう。そんな教訓を持ったコンサートだった。 (1999.04.28)

1999年4月20日火曜日

M.コステロ、D.F.ウォーレス『ラップという現象』(白水社)ジョン・サベージ『イギリス「族」物語』(毎日新聞社)

 

・音楽と若者の風俗の変遷は、50年代のアメリカ以来、ずっとくり返されている現象だ。今はなんといってもラップとヒップ・ホップ。発信源はニューヨークのハーレムだが、音楽にかぎっていえば、ここ数年はグラミー賞を総なめするような勢いで、日本でも、ちょっとそんな雰囲気を感じさせる宇多田ヒカルが奇妙なほど受けている。理由は日本人離れしたリズム感とかつての演歌の女王・藤圭子の娘であることらしい。

・『ラップという現象』は1990年に出版されている。翻訳が出たのは去年(98)だから、そこには10年近いタイム・ラグがある。しかしそれだけに、まだまだマイナーな音楽だったラップがもっていた魅力や毒についての記述があって、ぼくはとてもおもしろいと思った。たとえば、次のような文章。


「たとえ僕らの外側の世界のできごとではあっても、僕らに十分感じとれる生身の人間の生きざまの真剣な表現」
「シリアスなハード・ラップを通過することで、白人市民も鬱積し破裂せんとするアメリカの都市内奥部のコミュニティが直面する、生/死の苦悶をダイレクトに知ることができる。」


・ラップは「黒人のあいだで完結した、白人にとって<他者>である音楽」として生まれ、存在し続けてきた。それは何よりアメリカが人種によって分離されてきた国だから生じた特徴で、「公民権運動」の過程で強く批判されたところだが、この本の著者たちは、ラップがパワーをもった音楽になりえたのは、黒人たちがその「円環」のなかに閉ざ」されてきたからだという。

・ラップは基本的には、早口でまくし立てることば(しゃべる歌詞)とサンプリングによって作られたリズムで成りたっている。セックス描写、金やモノに対する欲望、そして白人攻撃......。そのあまりに露骨なことばに白人たちは嫌悪感をもつが、同時に、そのリズムにはからだを反応させてしてしまう。怖さや気持ち悪さの感情を持ちながら、同時に窓の外からのぞき込みたい衝動に駆られるできごと。

・若い黒人たちにとってもラップは単に自己表現の音楽というだけではない。それは何より金や名声を得るための手段である。だから誰もが、メジャーのレコード会社と契約し、マスコミに取り上げられ、人種の垣根を越えて、自分の歌がアメリカ中や世界中でヒットすることを夢見ている。光の当たった「ポップ」の世界を否定しながら同時に、「ポップ」の舞台に登場することを目指す音楽。

・ラップにまつわる「アンビバレント」な要素はまだまだある。たとえば、きわめて単純で無骨にすら思える歌詞とデジタル技術を駆使した音づくりなど。それは何よりラップが90年代になってポップの1ジャンルとして確立していった理由の一つだが、同時にポップの歴史の中ではまた、それぞれの特徴に見られる「アンビバレント」な側面というのが、新しい現象が生まれたときには必ず見られた大きな特徴でもあった。たとえば、50年代に登場した黒人の R&Bとそれを模倣した白人のロックンロール、あるいは60年代のロック、そして70年代のパンクやレゲエ。

・もう一冊『イギリス「族」物語』は、60年代から70年代にかけてイギリスに登場した若者のサブカルチャー、たとえば、「テディ・ボーイ」「モッズ」「ロッカーズ」「スキンヘッズ」「グラム」、そして「パンク」などを取り上げている。上野俊哉が解説で書いているように「戦後のイギリスにおけるサブカルチャーのスタイル、風俗、身ぶり、儀礼的な慣習行為の細部」を丹念に追った本であることはまちがいない。しかし、読んでいて、S.フリスや D.ヘブディジが必ず問題にする「階級」という視点がないのがもの足りなかった。これでは、風俗の詳細はわかってもそれぞれの関係の社会的背景は見えてこない。

・学生とつきあっていると今のはもちろん、時折、60年代や70年代の若者のサブカルチャーに関心をもつ学生が現れる。で、その理由を聞くと、というより問いつめると、結局好みの問題として逃げられてしまうことが多い。ぼくはそんなときに、単にサウンドやファッションだけでなく、自分が生きている社会との状況の違いまで理解してほしいと思ってしまうが、そのために役に立つ本はまだまだ豊富だとはいえない。(1999.4.20)

1999年4月13日火曜日

職場が変わったことへの反応など

 

  • 4月から職場が変わったので、ずいぶんメールのやりとりがあった。一つはお叱り。これにはただただ「ごめんなさい」と謝るしかなかった。とりわけ追手門学院大学社会学科の1年生と2年生。「入門社会学」や「基礎演習」、それに「コミュニケーション論」を履修していた学生。大学を変わるのを直接話したのは3年生のゼミの学生だけだったから、4月になって気づいた人も多かったようだ。「先生のゼミに行こうと思って追手門に来たのに」などと言われると、あらためて、彼や彼女たちを裏切ってしまったのだなと、反省してしまった。
  • 同様のメールは学外からもあった。高校や予備校の先生で、このホームページやいくつかの新聞記事から生徒達に追手門の社会学科を推薦したのに、突然いなくなったのでは、文句を言われてしまう、という内容のものだった。予備校が「偏差値ではない大学選びを」と言い、別冊宝島が『学問の鉄人』という特集をした。それに合わせていくつかの新聞が研究室訪問といった連載をした。そんな場で紹介され、ぼくのHPに訪れる人の数も1週間に500人を越えるようになっていた。
  • 大学がどんなところで、どんな先生がいて、何を勉強し、経験できるのか。ぼくはそんなことを直接、受験生や高校の先生に発信することを意図してHPを作りはじめた。インターネットの高校への浸透度は、まだまだ低いものだが、ほとんどの高校生が自由に使えるようになるのにそれほどの時間はかからないはずで、その時になってあわてて対応しようとしても、間に合わない。そんな見通しがあった。反応を実感することはほとんどなかったが、職場の変更が、このHPの影響力を表面化させることになった。しかも、「予告もなしに突然いなくなったのでは困る」という言い訳のできない文面で.......。何とも複雑な気持ちに襲われた。移籍をHPで予告することはできないし、また、HPを理由もなしに終了させることもできなかった。
  • インターネットやHPがこんなにポピュラーにならなければ、たぶんこんなケースは起こらなかっただろう。それぞれに閉じられた組織や集団に所属する者が直接コミュニケーションをする。それは、立場やさまざまな垣根をいとも簡単に乗り越える。そのおもしろさや可能性に夢中になれば、当然、それゆえに生じる問題からも無関係ではいられない。
  • ただ、言い訳になるかもしれないが、その気になれば、HPやメールによって関係は持続できるわけだし、直接会うよりもっと有効なコミュニケーションができる。そんなことを実感させるメールのやりとりも出来はじめている。講義を聞いていた顔もわからない学生から「先生、梅田で〜という映画を見ました」といったメールが届くと、ぼくは何はさておき、うれしくなってすぐ返事を書いてしまう。卒論の相談だって遠慮なくしてくれたらいいなと思う。けれども、追手門にはいい先生がたくさんいるから、そのうちにぼくがいたことなど気にする学生はいなくなってしまうにちがいない。それはそれで、ほっとするような、またちょっと寂しい気になる予測だが......。もっとも、東経大の学生からもメールが来はじめていて、それはそれで楽しいから、忘れてしまうのはぼくの方が早いのかもしれないが、そんなことはしてはいけないと戒めている。
  • シニード・オコーナーのCDを欲しがったフィンランドの青年に「ぼくのを譲ってもいい」と書いたら、待ちきれなくてインターネットで探して手に入れたという返事が来た。忘れていたわけではなかったが、忙しかったし、見つからなかったから3ケ月もほったらかしにしてしまった。悪いことをしたけど、とにかく手に入れることができてよかった。
  • もうひとつペルーのリマ大学で「カラオケ」を卒論のテーマにしている学生から、日本での歴史についての文献をたずねるメールが来た。南米からははじめてで女性だったから、何とかしてあげようとも思ったが、あてがなかったのでこれは粟谷君にふることにした。