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2024年4月29日月曜日

地震対応に見るこの国のお粗末さ

 



taiwan14.jpg台湾の花蓮で4月3日にマグニチュード7.7の大きな地震があった。ビルが傾いたりして被害の大きさが報道された。僕は2012年に台湾一周旅行をして、花蓮にも数日滞在し、太魯閣峡谷に出かけている。海でできた分厚い石灰岩が大理石に変成し、隆起した後に、長い年月をかけて雨によって削られた場所で、何千万年という時間が作り出した絶景だった。ところがこの地震で一番人的被害が多かったのがこの地域で、がけ崩れで埋まった人やトンネルに取り残された人、あるいは交通遮断で孤立した人たちなどが多数いたのである。一度行ってその景観に圧倒されただけに、その峡谷が崩壊したらと考えただけで恐ろしくなった。

しかし、もっと驚いたのは花蓮で避難所を設置する様子で、それほど時間が経っていないのに、体育館にずらっと個室が並んでいたのである。まだ被災者がほとんどいないのに食べ物や衣料など、必要なものも整えられているという報道だった。日本では正月に能登の地震があって、相変わらずの体育館に雑魚寝の様子が伝えられていたから、その違いに驚かされた。

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花蓮は最近でも2018年と22年に大きな地震に見舞われていて、その度に大きな被害を受けている。だから地震に対する備えが出来ていたのだろう。報道では、台湾の災害対応は1999年の地震以後に日本から学んだということだった。花蓮では2018年の地震でうまく対応できなかったことを反省して、必要なものの備蓄を整え、人々の訓練も行われてきたと報じられた。傾いたビルの撤去がすぐに始まったことにも感心させられた。花蓮では23日にも大きな余震があってビルが傾くなどの被害があった。おそらくまた迅速な対応をしているのだと思う。

ところが日本では能登地震から4ヶ月が過ぎようとしているのに、未だに避難所生活をしている人がいる。家が住める状態だとしても、上下水道が普及していないところが多いようだ。仮設住宅の建設もほとんど進んでいないのである。倒壊した建物や、破損したクルマがそのままに取り残された光景を見ると、4ヶ月も経っているのに、いったい何をしているんだろうと怒りたくなる。

もっともテレビは、そんな普及の遅さを批判的に伝えたりはしない。水道が使えないのにレストランやカフェを営業しているなどといった事例を美談のようにして紹介するものが多いのである。政府や県の対応のまずさ、というよりはやる気のなさが目立つのに、強く批判するメディアがほとんどないという現状には呆れるばかりである。ネットでフリーのジャーナリストの現地報告を何度か聞いたが、能登の人たちがまさに棄民状態に置かれたままであることを一様に話していた。被災した人たちの政府や自治体、そしてメディアに対する不信感はかなりのものようだ。政治もダメだがジャーナリズムもダメ。この国のお粗末さは、いったいどこまでひどくなるのだろうかと空恐ろしくなる。


2024年4月15日月曜日

エドワード・E.サイード 『オスロからイラクへ』『遠い場所の記憶 自伝』みすず書房

 

ハマスのイスラエル襲撃以来、パレスチナのガザ地区攻撃が半年も続いている。すでに3万人以上の死者が出て、建物の半数以上が破壊され、人口の7割以上が難民となり、食糧危機の中にあるという。ハマスによってイスラエルにも多くの死者が出て、人質にもとられているとは言え、これほどの仕打ちをするのはなぜなのか。そんな疑問を感じてサイードの本を読み直すことにした。

said1.jpg エドワード・E.サイードは『オリエンタリズム』や『文化と帝国主義』などで知られている。そして、パレスチナ人であることから、イスラエルとパレスチナの関係については両者に対して鋭い批判を繰り返してきた。『オスロからイラクへ』は、彼の死の直前まで書かれたものである。それを読むと、現在のような事態が、これまでに何度となく繰り返されてきたことがよくわかる。このアラブ系の新聞に連載された記事は1990年代から始まっているが、この本に記載されているのは2000年9月から2003年7月までである。

題名にある「オスロ」は、1993年にノルウェイの仲介で締結された「オスロ合意」を指している。「イラク」は2001年9月に起きた「アメリカ同時テロ事件」と、その後に敵視されて攻撃され、フセイン政権が倒されたことである。「オスロ合意」はイスラエルの建国以来続いていた紛争の終結をめざして、イスラエルを国家、パレスチナを自治政府として相互が認めることに合意したものだった。この功績を讚えてパレスチナのアラファト議長、イスラエルのラビン首相、ペレス外相にノーベル平和賞が授与されたが、紛争はそれ以後も続いた。サイードはこの合意を強く批判した。イスラエルは建国以来、パレスチナの領土を占領し、住居を破壊し、それに抵抗する人たちを殺傷してきたが、アラファトがそれを不問に付したからだった。

そんなイスラエルの横暴に対して、パレスチナは2000年9月に2度目の「インティファーダ(民衆蜂起)」を行った。この本はまさに、そこから始まっていて、イスラエルの過剰な報復を非難し、また「インティファーダ」の愚かさを批判している。アメリカで同時多発テロが起こると、イスラエルはパレスチナを同類と見て、いっそうの攻撃をするようになる。白血病を患って闘病中であるにもかかわらず、それに対するサイードの論調は激しさを増していく。サイードの批判の矛先は、イスラエルの後ろ盾になっているアメリカ政府と、パレスチナの現状を無視したアメリカのメディアにも向けられている。しかし、彼の声は、アラブ系の雑誌であるために、アメリカにもヨーロッパにも届かない。

said2.jpg サイードはパレスチナ人でエルサレムに生まれているが、実業家として成功した父のもとで、エジプトやレバノンで少年期を過ごしている。父親がアメリカ国籍を取得したために、エドワードもアメリカ国籍となり、エジプトのアメリカン・スクールに通って、プリンストン大学に進学し、ハーバードで博士号を取得している。『遠い場所の記憶』はそんな少年時代から大学を卒業するまでのことを、主に父母との関係や親戚家族との暮らしを中心に語られている。豊かなパレスチナ人の家庭で成長し、イスラエルの建国を少年期に体験して、アメリカ人として大人になった。そんな複雑な成り立ちを辿りながら、絶えず見据えているのは「パレスチナ」の地と、そこに暮らし、悲惨な目に遭い続けている人びとのことである。

この2冊を通してサイードが思い描き、力説し続けているのは、ユダヤ人とパレスチナ人が共生しあって作る一つの国家である。それは夢物語だと批判され続けるが、それ以外には解決の道がないことも事実だろう。サイードが亡くなってからすでに四半世紀が過ぎて、また同じ殺戮が繰り返されている。もう絶望しかない状況だが、それでも、サイードが生きていたら、「共生」にしか未来の光がないことを繰り返すだろう。そんなふうに思いながら読んだ。

2024年1月29日月曜日

災害対応のお粗末さに想うこと

 

能登の地震から一ヶ月近くが過ぎました。真冬の季節の中、未だに一万人以上の人たちが体育館などの避難所で過ごしているようです。生活していた土地を離れて金沢などに二次避難する人が増えているようですが、土地や近隣の人たちから離れることを拒否する人も多いようです。高齢者ばかりの小さな集落が多いという特徴が、今後の復興にも大きな影響を持つかもしれません。誰もいなくなった集落が廃墟になっていく。それが現実にならないよう願うばかりです。

能登半島には一昨年の10月に出かけました。主に海岸沿いの道を先端の狼煙灯台まで行きましたが、黒い屋根瓦の家が点在する風景が印象的でした、ところが地震によって倒壊した家のほとんどがまた黒瓦の家だったようです。いかにも重そうな感じがしましたし、地震に備えた補強もしていなかった家がほとんどだったようです。能登の地震はすでに何年も前から群発していて、大きな地震も数回ありました。その時に倒壊した家もあったわけですから、なぜ、その後に対応しなかったのかと、行政の怠慢を非難したくなりました。実際大きな地震が起きる危険性があることは、以前から指摘されていたことなのです。

新幹線が金沢まで延伸されて、金沢をはじめ能登も観光客で賑わっていました。風光明媚で温泉もあり、食材も豊かな土地ですから、観光客の増加を目指す気持ちはわかります。しかし今回の被害の大きさやその特徴を見ると、しっかり対応しておけば、もっと小さなものにできたのではと思いました。経済重視の政治の無策がまた露呈したわけですが、復興に全力投入するために万博は中止という声は、少なくとも政治家からは聞こえてきません。停止中だったために大きな被害をかろうじて免れた原発についても、相変わらず見直す動きは起こらないようです。自分の懐を肥やす以外に能のない政治家をのさばらしておいた結果というほかはないでしょう。

東日本大震災以来、熊本や能登と大きな地震に見舞われてきました。これからも大きな地震の危険があると言われている地域はいくつもあります。それに対して対策をという声は聞こえてきますが、今回の対応を見ていると、何度被災しても何も変わらないことが多すぎるという印象を持ちました。一番は被災者が体育館で雑魚寝をしているという相変わらずの風景でした。体育館などに敷き詰めるように作られた段ボール製の仮設小屋やベッドなどがあるようですが、なぜ備えておかないのでしょうか。各自治体が全国的に備えておけば、被災地にすぐに提供できるはずですから、避難所の風景はずい分違ったものになるはずです。

大きな地震には停電と断水がつきものです。暖房ができない、トイレが使えない、そしてもちろん風呂にも入れない。そうならないために何を用意しておいたらいいのか。地震大国の日本ですから、このような備えについてのノウハウがもうとっくに出来上がっていていいはずです。必要なものを全国的な規模で分散的に備蓄しておいて、災害が起きたらそれをどういう手段で被災地に運ぶかを考えておく。そんな備えがなぜできないのでしょうか。用もない兵器を爆買いしたり、隣国を敵視して有事を煽る前に、やらなければいけないことが山積みのはずなのです。


2024年1月22日月曜日

中村文則『列』(講談社)

 
中村文則については、毎日新聞に月一で連載している「書斎のつぶやき」という名のコラムで知っていた。時事的な問題について分かりやすい文章で、彼の発言には共感できることが多かった。小説家で、芥川賞を取っているし、新潮新人賞や野間文芸新人賞、大江健三郎賞の他に、英語に翻訳されて、アメリカでも賞を取っている。読んで見たいと思って、さて何を選ぼうか迷っていたら『列』という新作が発表されて、話題にもなっているという記事を目にした。「列」とはタイトルだけでも面白そうだ。そう思ってアマゾンで手に入れた。

retu1.jpg 列に並んでいる主人公には、それが何のための列なのかわからない。それでもそこから外れるわけにはいかないと思っている。その列はほとんど前に進まないから、いらいらしたり、不満を漏らしたりする人もいる。身体を左右に揺らす動きを、気になると後ろから注意されてムッとするが、そこからやり取りが始まったり、前にいる女性と親しくなったりもする。まったく進まないと諦めて列を離れる人がいて一歩進むと、それが無上の喜びのように感じられたりもするのである。

主人公はニホンザルの生態を研究していて、大学では非常勤講師の肩書きである。いつかはあっと驚くような論文を書きたいと思っているのだが、観察している猿からそんなヒントを得ることはほとんどない。だからいつまで経っても、大学のポストを得られないでいる。で彼の助手のようにして一緒に調査をしていた大学院生の若者が、自分も応募していたポストを得たり、以前につきあっていた彼女といい仲になっていたりということになる。

読んでいくうちに「列」とは「序列」のことなのだと気づくようになる。実際私たちは、物心ついた時から「序列」を意識させられるようになる。勉強や運動の能力はもちろん、親の収入や社会的地位などが’、自分を評価する尺度になっている。そしてその意識を外れて生きることはなかなか難しい。何しろ人間が「序列」の中で生きる生き物であることは、社会学でも基本的な特徴だとされているのである。

僕が若い頃に流行ったことばに「ドロップ・アウト」がある。「列」を意識して立身出世のために努力することなどばからしい。僕が社会学に興味を持った理由には、そんな「列」に囚われる人間の特徴に対する疑問もあった。けれども、僕もやっぱり、この分野で生きていくには評価される論文を書いて、どこかの大学のポストにつかなければ、という競走の「列」に巻き込まれることになった。しかも、長い間非常勤がつづいたから、主人公の気持ちは痛いほどわかった。


主人公は結局最後まで列に並んでいた。先が見えず、最後尾も見えない列に、地面に「楽しくあれ」と書いて並んでいる。何とも切ない気になるが、これが確かに現実なのだとも思った。そんなにがんばらなくたって楽しく生きる仕方はないものか。豊かな社会になったはずなのに、ますます、「列」に囚われるようになった社会はやっぱりおかしい。退職して少しだけ「列」から自由になって、つくづく感じることである。

2023年12月25日月曜日

運転免許証更新の認知テストを受けた

 

75歳を過ぎると運転免許証の更新には、高齢者講習だけでなく、認知症テストが義務化されている。このテストを受け、高齢者講習に行った後で、やっと免許証の更新手続きに行けるのだから、何とも手間のかかる話である。老人にこんな手間をかけさせるのは、いやなら運転を止めなさいと言っているのと同じではないか。そんな文句を言いながら、認知症テストに出向いた。費用は1500円で、この後の講習にも7000円がかかる。もちろん免許証の更新にも費用がかかるから、出費という面でも決して少なくない額である。
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テストの形式は3種類だった。暗記力を試すために16枚のイラストを見せて、その後でどれだけ覚えているかを問うものが一番大きな問題で、後は今日が何年何月何日で、今何時何分かを問うもの、それに1から9の数字を並べた乱数表の数字二つに印をつけろというものだった。配点は記憶力が80点で「何年~」を問うものが20点。乱数表は点とは関係なかったから、暗記したことを忘れさせる魂胆だったのだろう。

僕はあらかじめYouTubeで予習をしていたから、85点から90点ぐらいを取った。周囲を見渡すと、4つや5つしか埋まっていない人もいたが、受けた全員が合格した。合格点は36点で、「年月~」が20点だから、記憶力は16点取ればいいのである。しかも「年月~」については事前確認もしたのである。各自の点数については教えてくれなかったから、どこまで厳密に採点したのか怪しいな、という気になった。

そもそも、自動車を運転するためになぜ、イラストを16枚も一気に覚える必要があるのか。僕にはまったくわからない。しかも、16枚中4枚を覚えていれば合格というのだから、老人をバカにするのもいい加減にしろと言いたくなった。高齢になれば事故を起こす危険性が増えるからというのであれば、もっと適切な検査があるはずなのである。それに認知能力の衰えを知る必要は運転にかぎらないから、どこの自治体でもやっている高齢者の健康診断の中に組み込めばいいのである。

運転免許証の更新には以前からうさんくさいところがあった。「安全協会」にお金を納めることを誰もが素直にやっているが、僕は最初に強制的に払わされて以後、一度も払っていない。以前は名前などの記入を和文タイプでやる費用と一緒だったから、免許証に手書きで記入したこともあった。そもそも集めた金が何に使われているのかが不確かで、批判をされるようになってやっと、払わなくてもいやな顔をされなくなったのである。その意味で、高齢者の認知テストは、教習所の収入増を狙ったもので、どうせ政治家が介入していることだろうと疑いたくなった。

今回、高齢者の免許証更新には他にもハードルがあることに気がついた。信号無視や横断歩道での停止といった比較的軽度の違反でも、試験場での運転技術の検査が義務づけられているのである。うっかりで捕まったら、さらに厄介なことになる。自分で運転しなければ生活できないところに住んでいて、クルマに乗ることはまだまだ必要だから、それを肝に銘じた経験だった。

2023年12月11日月曜日

加藤裕康編著『メディアと若者文化』(新泉社)

 

journal1-246.jpg 「メディアと若者文化」というタイトルは何とも懐かしい感じがする。そう言えばずっと昔に、こんなテーマで論文を書いたことがあったなと、改めて思った。1970年代から80年代にかけての頃だが、自分が若者とは言えない歳になった頃には「若者文化」には興味がなくなっていた。

この本の編著者である加藤裕康さんは、僕が勤めていた大学院で博士号を取得している。ゲームセンターに置かれたノートブックをもとに、そこに集まる人たちについて分析した『ゲームセンター文化論』は橋下峰雄賞(現代風俗研究会)をとって、高い評価を受けた。そんな彼から、この本が贈られてきたのである。

僕にとって「若者文化」は何より社会に対して批判的なもので、メディアとは関係なしに生まれるものだった。それがメディアに取り上げられ、社会的に注目をされると、徐々にその精気を失っていく。典型的にはロック音楽があげられる。そんな意識が根底にあるから、日本における70年代の「しらけ世代」とか80年代の「新人類」、そして90年代以降の「オタク」などには批判的で、次第に関心を薄れさせていった。当然、現在の若者文化などについてはまったく無関心で、そんなものがいまだに存在しているとも思わなかった。

「若者」は第二次大戦後に注目された世代で、政治的、社会的、そしてもちろん文化的に世界をリードする存在として見られてきた。それが徐々に力を失っていく。この本ではそんな「若者論」の系譜が、加藤さんによって、明治時代にさかのぼって、「青年」といったことばとの関係を含めて語られている。そう言えば大学院の授業で取り上げたことがあるな、といった文献やキーワードが並んでいて、何とも懐かしい気になった。

若者文化がメディアとの距離を縮め、やがてメディアから発信されるものになったのは80年代から90年代にかけての頃からだった。「新人類」とブランド・ファッション、「オタク」とアニメがその典型だろう。しかし、2000年代に入ると、メディアは携帯、そしてスマホに移っていき、若者文化もそこから生まれるようになる。あーなるほどそうだな、と思いながら、彼の分析を読んだ。

で、現在の若者文化だが、この本で取り上げられているのは、「自撮りと女性をめぐるメディア研究」や「『マンガを語る若者』の消長」そして「パブリック・ビューイング」に参加する若者の語りに<にわか>を見る、といったテーマである。知らないことばかりだったから面白く読んだが、現在の若者文化とは、そんなものでしかないのかという感じもした。そう言えば、この本には「語られる『若者』は存在するのか」という章もある。そこで指摘されているのは。「若者」に対して語られる、たとえば保守化といった特徴や、それに向けた批判が、この世代に特化したものではなく、全世代や社会全体に現れたものだということである。

そう言った意味で、この本を読んで感じたのは、それで「若者」はいなくなったし、「文化」も生まれなくなったということだった。あるいは、かつては「文化」を作り出す上で強力だったマス・メディアが、スマホやネットの前に白旗を掲げたということでもあった。

2023年12月4日月曜日

近所のベランダ修復を頼まれて

 

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forest196-2.jpg 隣人は横浜に住んでいて、年に数回しかやってこない。もう高齢だから、売却やレンタルなども考えたようだが、やっぱり残しておこうと思ったようだった。それで、ここ数年気にかかっていたベランダを何とかしたいと思ったのだが、気心の知れた大工さんが引退して、信頼して頼めるところがない。ということで、僕になおしてくれないかと頼みに来た。家のメインテナンスを自分でやっていることを知っていたからだ。現状はご覧の通りで、どうしようか迷ったが、元通りの修復ではなく、なおせる範囲でということで引き受けた。

forest196-3.jpg とりあえずは腐ったところを取り除くことから始まった。そうすると、大丈夫だろうと思ったところも腐っていて、これは困ったと悩むことになった。ベランダは西から北にかけてぐるっと回り込めるようになっていたが、ほとんどなおす必要のない北側を独立させて、柵をつけて塞いでペンキを塗った。この後をどうするかをあれこれ考え、ホームセンターに材木などを買いに出かけた。そうすると、値段が倍ほどに上がったと聞いて驚いてしまった。

forest196-4.jpg 必要な材木をカットしてもらい、いざ始めて見るとなかなか難しい。釘を打った後で間違いに気づいたり。そろえて切ったはずなのに、長短が出てしまったりと悪戦苦闘の連続だった。まずは階段を作ったのだが、組み立てて見ると、踏み板が前下がりになっている。で、直すと今度はわずかに斜めになってしまった。まあ、素人仕事だからと許してもらうことにして、少し狭くなるベランダ作りに取り掛かった。

forest196-5.jpg いらなくなった柱の土台を移動して階段の下に置き、横木を補強して、その上に板を打ちつける。それができたらペンキ塗り。やっと形が見えはじめたが、ここまでで10日ほどかかった。と言うのも、作業は午後の2時間だけと決めていたからだ。これぐらいでないと、毎日はできないし、3時を過ぎると寒くなる。お隣さんは途中で一度やってきたが、出来上がりを見るのは来春になってからなのである。急ぐ必要は何もなかったのだ。

forest196.jpg 最後は手すりをつけたのだが、ここでも失敗続きで、手すりの高さを合わせたはずなのに、微妙に隙間ができてしまっている。薄板を一枚かませてごまかしたりして何とか形をつくって、最後はペンキ塗り。我ながらなかなかいいと自己満足。気軽に引き受けてしまったが、何とかでき上がってホッとした。春に来たらきっと喜ぶだろうと思う。もちろん、この仕事には謝礼をいただいている。久しぶりの副収入だが、それだけに、いい加減にはできないと気が引き締まった半月だった。

2023年11月27日月曜日

NHKのBSが一つ減ると言わないのはなぜ?

 

NHKのBSが12月から一つ減る。つまり「プレミアム」と名がついた3チャンネルがなくなるのだ。しかし、なぜそうなるのかという理由をNHKはまったく言わないし、減って申し訳ないなどとも言わない。数カ月前からしつこく繰り返しているのは、「BSが変わります!」とあたかもサービスが向上するかのようなメッセージである。3チャンネルの人気番組を1チャンネルに移すから、当然、番組数は減る。しかし移動する番組については予告をしても、消えてしまう番組については何も言わない。

他方でNHKは4K放送の宣伝も繰り返している。4Kを見るにはどうしたらいいか。この同じ説明を毎日数回放送しているのである。しかし、両者の関係については何の説明もない。12月が近づくにつれて、あまりにしつこく放送するから、もう腹が立ってきて、実際はどうなっているのかを書いておいた方がいいと思うようになった。

BS放送のチャンネルを二つ持っていたのはNHKだけである。NHKは地上波も二つ持っているが、これは公共放送の特権として許されている。しかし、4Kや8Kといった新しいチャンネルができ、試験的放送の期間が終わって本放送になるとNHKのチャンネルが増えてしまう。それは不公平だから、代わりにBSを一つ減らそうというのが実情なのである。

これはもちろん、NHKの自発的な変更ではなく、総務省からの命令なのである。だから、チャンネルが減ることで不便をかけたり、4Kを見るために新しいテレビやアンテナなどの負担をかけるのは申し訳ないなどとは決して言わないし、言えないのである。これは政府に忖度をした詭弁にほかならない。このことにかぎらず、こんな言い方、論法があまりに多いから、NHKは何の後ろめたさも感じていないのだろう。しかし、こんな言い方が当たり前になってはいけないと思う。

そもそも、BS放送で見たい番組を作っているのはNHKだけで、民放は地上波の再放送かテレビ・ショッピングばかりでほとんどやる気がないのである。僕は地上波の番組にはほとんど興味がなくNHKのBSぐらいしか見るものはなかったから、テレビはますます見なくなるだろうと思っている。もちろん4Kが見えるテレビに買い替えたりする気はまったくない。パソコンでネットを見る時間が増えるだけである。だからだろうか、NHKはネットでも見られるように準備を進めている。そうなるともちろん、視聴料も取るようになるのだろう。しかし、とんでもない話だ。

こんなふうに、最近謝るべきところで屁理屈をこねたり、別の話題にすり替える論法が目立っている。慇懃無礼な丁寧すぎることばが気になることとあわせて、正直に、正確に話すという当たり前のやり方ができないのは困ったものだと思う。NHKがそのお先棒担ぎをしているのだから、もうめちゃくちゃだという他はないのである。

2023年11月20日月曜日

批判する気も失せたけれど

 

日本はもう壊れていると思ってから久しいけれど、それがますますひどくなっている。一度劣化しはじめると止まらない。その見本のような光景は、どたばた喜劇のようで面白い気もするが、それが私たちの生活や未来に関わってくるから、もう絶望的な思いに囚われてしまう。

大阪万博がどうしようもない状況に陥っている。中止の声が高まっているが、国も大阪府・市もやめる気はないようだ。で、予算ばかりが膨らんでいく。東京オリンピックの二の舞いだが、そのずさんさは、オリンピック以上のようだ。そのオリンピックだって、いったいいくらのお金がかかって、どこにどう使われたのか、事後の検証はまったくなされていない。やりっぱなしで後は知らんという態度である。

大阪万博の会場はゴミの埋め立て地で、軟弱で地盤沈下が激しいから高い建物は造れない。そんなところを会場にしようというのがそもそもの間違いなのだが、お構いなしに決めたのが維新の松井や橋下が安倍を口説いた酒の席だったと言われている。しかも本当の目的はカジノをメインにしたIRの設置だったのである。事前の入念なチェックもなしに決めてしまう。そんなところは他にもたくさんある。沖縄の辺野古基地や原発などで、どれも中止という決断ができないでいる。

アベノミクスは沈滞する日本の経済を活性化させるというふれこみで行われたが、その結果は惨憺たるものである。経済はますます落ち込み、国の借金が激増し、円安が加速化して、収入は増えないのに物価ばかりが上がっている。経済大国といわれた日本で、毎日の食事に窮する人がたくさんいるなどという現状をいったい誰が予測できただろうか。介護保険もがたがたになってきているから、将来に対する不安を感じる人も多いだろう。日本はすでに、貧しい国になっているのである。

健康保険証をマイナカードと一体化させるとしたが普及率は10%にも満たないようだ。デジタル化は避けられない世の趨勢だが、国のやり方はお粗末の限りだ。デジタル化は何であれ、アナログを残した形式で普及すべきだが、今までの無策を棚に上げて遅れを取り戻そうとするから混乱するのである。住基ネットなどの失敗がまるで生きていないのが何ともお粗末なのである。

賃金は上がらないのに、物価は高騰し続けている。しかもインボイスその他で、増税が進んでいる。すでに五公五民と言われて、収入の半分が徴収されているのに、国はさらに税を納めさせようとしている。「増税メガネ」などと言われて慌てて減税を打ち出しても、岸田の人気は下がるばかりである。欧米なら暴動が起きてもおかしくない状態だが、誰もがおとなしいのはどうしてなのだろうか。

こうした現状をしっかり調査して国民に伝えるのがメディアの一番の仕事だが、そんなことを社是にしているメディアはほとんどない。政治家や経済界に忖度ばかりして、何も言わない態度である。しかもジャニーズの問題で明らかになったように、テレビは芸能プロダクションにまで忖度し続けてきたのである。それにしても吉本興業や宝塚など、芸能界も壊れているようだ。

と書いてきたら、もう止まらなくなった。しかし虚しくなるばかりだから、このぐらいにしておくことにしよう。

2023年11月13日月曜日

4 Non Blonds "Bigger, Better, Faster, M"

 
YouTubeには見聞きした傾向にあわせて並べる機能がある。あるいは、一つ見ると、類似のものが続く機能もある。レディ・ガガのライブをクリックした。曲目は"What's Up?"で、聴いたことがあるいい歌だと思った。それが終わると次に同じ曲で、ピンクやドリー・バートンのライブになって、その後、4 Non Blondsという名のバンドになった。知らなかったから調べると、この歌を作ったバンドで、歌っているのはリンダ・ペリーという名前だった。今度は4 Non Blondsやリンダ・ペリーで検索すると、騒がしいのが多かったが、いくつかいい歌もあった。で、Amazonで買うことにした。

4nonblonds.jpg" 見つかったのは、4 Non Blondsでは1枚だけで、発売されたのは1992年だから、もう30年も前である。"What's Up?"は「どう?」「どうしたの?」といった意味だが、歌の中には出てこない。代わりにくり返し歌われているのは "What's going on?" で、どちらも同じような意味である。調べて見ると、同名の歌がすでにあるから"What's going on?"ではなく、"What's Up?"にしたとあった。

4 Non Blondsはブロンドでない4人という意味で、女三人、男一人の編成だ。女ばかりでやりたかったようだが、いいミュージシャンがいなかったとあった。そんな姿勢と同様、歌詞も男中心の社会を批判する内容だった。「目標に向かって希望の丘を登ろうとしたが、世界が男で成り立っていることがすぐわかった」とあって、こんな社会ってどうなんだ?と繰り返す。リンダ・ペリーの声はハスキーがかってボリュームがあるから、説得力は十分という感じだった。このアルバムのタイトルになっている曲はない。「より大きく、より良く、より早いM(男?」という意味だろうか。

rindaperry.jpg" 4 Non Blondsはこの1枚だけで解散したが、リンダ・ペリーは歌い続けていて、1枚だけアルバムを出している。女の立場からの社会批判という姿勢は一貫していて、収められた歌の中には、他のミュージシャンに提供されたものもあったようだ。実際彼女は、プロデューサーとして何人もの女のミュージシャンをデビューさせてもいるし、ジャニス・イアンやアリシア・キーズ、それにピンクなどとも共作したり、アルバムの製作に関わったりもしているようだ。

彼女はデビュー時から自分がレスビアンであることを公言して活動してきた。活動の拠点がサンフランシスコだということもあって、LGBTの運動を支え、リードする役割もこなしてきたようだ。1965年生まれだから、もうすぐ60歳になる。しかし、最近も歌っていて、その迫力は衰えていない。

2023年10月30日月曜日

グレン・H・エルダー・Jr.『大恐慌の子どもたち』 (明石書店)

 

journal1-245.jpg 1920年代に未曾有の好景気を味わったアメリカは、1929年に大恐慌に陥った。その不況の嵐は世界中に及んで人々を苦しめたが、この本は子どもたちに注目して、その不況の時代だけではなく、それ以後の人生において、大恐慌の経験がどのように影響したかを辿ったものである。とは言え、最近出版された新しいものではない。最初の刊行は1974年で、日本語に訳されたのは86年である。その改訂版(完全版)であある本書には「その後」という章が追加されている。

監訳者の川浦康至さんは勤務していた大学の同僚で、一緒に退職したのだが、彼からはすでにパトリシア・ウォレス著『新版インターネットの心理学』 (NTT出版)もいただいている。このコラムでも紹介済みだが、そこで退職した後にほとんど何もしていない僕とは違って、しっかり仕事をしていると書いたが、また同じことを書かねばならなくなった。改訂版とは言え、何しろこの本は500ページ近い大著なのである。ご苦労様としか言いようがない。贈っていただいたのだから、せめて読んで紹介ぐらいはしなければ、申し訳ないというものである。

著者のグレン・H・エルダー・Jr.は1934年生まれだから、大恐慌を経験していない。その彼が大恐慌を経験した子どもたちに関心を持ったのは、博士課程在学中に図書館で見つけた資料と、その後に、それを作成したカリフォルニア大学バークリー校にポストを得たことだった。資料はポーランド移民の調査研究で有名なW.I.トマスが中心になって、大学近くのオークランドでおこなった調査だった。エルダーは当時の被調査者に再度面接し、第二次大戦やその後の経験を含めた聞き取りをして、『大恐慌の子どもたち』 にまとめた。改訂版にはさらにその25年後におこなった再調査が追加されている。

調査に協力したのは1920年から21年にかけてアメリカに生まれ、オークランドに住んでいた167人で、ほぼ男女同数の子どもたちだった。驚くのは、その後の調査にもほとんどの人たちが協力をしていて、100人を超える人たちの人生(ライフコース)聞き取っていることである。オークランドは湾をはさんで対岸にサンフランシスコがあり、北には大学町のバークリーがある。南はシリコンバレーとして70年代以降に急発展した街がある。ここにはパートナーの友人が住んでいて、数日滞在したことがある。湾に面した街の中では地味で寂れた感じがした。

大恐慌はオークランドに住む人たちの暮らしを大きく変えた。調査は、中間層と労働者層に分け、さらに影響の大きさによって二つに分けている。そこで、少年少女たちに訪れた生活の上での変化と、それによる心理的な影響について分析している。それが30年代後半の景気の回復や高等教育の有無、そして第二次世界大戦における兵役の経験へと繋がっていくのである。大学に行ったのか行かなかったのか、どんな職業についたのか、結婚と子どものいる家庭での暮らし方はどんなだったのか。そんな聞き取りが、一般的な調査や研究と比較されて分析されていく。

僕は浮気者だから、その時々に興味を持った対象をつまみ食いのようにして分析してまとめてきた。量的・質的調査もほとんどせずに、社会学や哲学の理論を援用して分析をするといった似非科学的な手法だった。だから、一つのテーマを聞き取りといった手法で追い続けるこの著者とこの本とは対照的な位置にいて、すごいな、と思いながら読んだ。自分にはできないが、研究とは、こういうふうにしてやるべきものだという見本であることを再認識した。

2023年10月16日月曜日

ジャニーズ騒動その後

 

ジャニーズ事務所についての問題が混迷を極めている。メディアもスポンサー企業も、今まで知らぬふりを決め込んできたのに、ジャニー喜多川による性犯罪が白日の下に晒されはじめた途端に、ジャニーズ事務所との決別を言い始めた。メディアもスポンサー企業もぐるじゃないかと疑われることを恐れての自己保身だと言わざるを得ない。

そんなふうに思っていたら,『日刊ゲンダイ』に興味深い記事があった。「ジャニーズ事務所のメディア支配…出発点はメリーによる弟ジャニーの『病』隠し」と題された記事で、そこにはジャニーの病を知っていた姉のメリーが、その病がまた、魅力的なアイドルを嗅ぎ出す特殊な才能であることに早くから気づいていたと書いてあった。そんなふうに見つけた少年たちを次々アイドルにして急成長した「ジャニーズ事務所」は、実質的な経営を姉のメリーが取り仕切ってきたというのである。

この記事を読んで、僕はトリフを見つけ出す犬のことを連想した。獲物がトリフだったらもちろん,罪はないが、相手が少年で,それが性的欲望をかなえる対象だったのだから、発覚すれば当然、大問題になる。姉のメリーにとって、弟のジャニーの性癖を野放しにすることと、それを徹底的に隠すことが、事務所の存亡にとって一番の課題になったのである。

「ジャニーズ事務所」から排出されたタレントが、やがてテレビの視聴率を左右するほどの力を持つようになると、ジャニーの性癖やその被害者のことを知っていても、テレビもスポンサー企業も、そのことを不問に付しつづけた。それは「週刊文春」がそのことを記事に書き,「ジャニーズ事務所」が訴えた裁判で、文春が勝ってジャニーの性犯罪が認められた時も、テレビはもちろん,大手の新聞も,そのことをほとんど取り上げなかった。

.ジャニーから性的被害を受けた少年は数百人に及ぶという。それ自体何ともおぞましいことで、僕は「ジャニーズ事務所」は別組織として出直すのではなく,即刻解散すべきだと思う。所属タレントたちはそれぞれ別の会社に所属すればいいのである。しかし,同じくらい重要なのは、テレビや新聞が罪深さを自覚して、反省することだと思う。そもそもこの事件はイギリスのBBCが明るみに出してやっと動き出したことなのである。

もう一つ,気になっていてうまく理解できないのは、ジャニーが性的欲望の対象にした少年たちが、アイドル・スターとして人気を博するようになっていったという事実である。そのスターたちに憧れ,ファンになった多くは少女たちだった。彼女たちにとっても、惹きつけられる要因は性的欲望だったのだろうか。そんな疑問は、そもそも日本に特殊に発展した「アイドル」という現象全般に繋がっていく。アニメが世界を席巻したことを含めて,極めて特殊日本的な特徴のように思う。それを読み解くのは、やっぱり「かわいい論」再考になるのだろうか。もう少し若かったらやって見たかったテーマだと思う。


2023年6月5日月曜日

なぜ政権支持率が上がるのか

岸田内閣の支持率が上がって不支持を上回ったという。およそ信じられないことだが、さもありなんとも思う。G7のサミットでは広島の原爆資料館を案内する岸田首相や、ウクライナからやってきたゼレンスキー大統領が大きく報道されて、会議が成功裡に終わったかのように世論操作されたからだ。サミットに反対する人たちの抗議行動があって、それが機動隊によって暴力的に抑えられたのに、メディアではほとんどふれられなかった。海外のメディアに報じられたことがネットで話題になったが、新聞もテレビもまったくの無視だった。

国内の緊急的な問題があって出席できないかもと言われていたバイデン米大統領は,今回も米軍基地から日本に入った。岩国基地から広島へである。日本を独立した国と思っていないからこそできる行為だが、この点についてもほとんど批判は聞こえてこなかった。もうそれが当たり前になったかのような振る舞いだが、屈辱的なことに違いはないのである。

サミットで自信を持った岸田首相については、首相補佐官にしているバカ息子が大学の友達を官邸に呼んで、大臣就任式に使う赤絨毯の階段でふざけて遊んだ様子が文春に暴露された。さすがに息子は更迭されたが、それでもたいした批判は起こらないから、首相自身は知らん顔を貫いている。自ら親族を呼んで忘年会をしたのにである。ぼんくらが傲慢になったら,これほど恐ろしいことはないだろう。

マイナンバー・カードについても不祥事が相次いでいる。行政機関や企業によるマイナンバーの紛失や漏えい、住民票の誤発行、あるいは悪用等々である。そのカードと健康保険証が一体化されて,医療機関ではすでにカードでの提出が行われていて、来年には健康保険証がなくなるという。任意のカードになぜ一体化できるのか。正当化できないことなのにごり押しして平然としているのはどうしてなのだろうか。そのカードに所有している金融機関の口座をすべて紐付けするといったニュースもやってきた。国民の財産すべてを国が管理するというのだから、独裁国家以外の何ものでもない。そんなひどい法案が国会で強行採決された。

ふざけた制度の改悪はほかにもある。介護保険制度について要介護1と2をはずして3だけにするようだ、しかも1割負担を2割にするという。それは富裕層限定だというが、その基準が年収280万円以上だというから呆れてしまう。制度があってもほとんどの人が使えないようにして、家庭で何とかしろというのである。言うまでもないが,メディアはそのことも批判どころかほとんど報じもしない。

収入は増えないのに物価は上がる。軍事費だけが倍増して、健康保険や介護保険といった社会制度が崩壊しはじめている。借金財政は破綻しかねない状況で、それを避けるために消費税をさらにあげようともしている。原発は60年を超えて、さらに使い続けるという。こんなひどい状況なのにどういうわけか株価はバブル期並に上がっている。もうめちゃくちゃだと思うが、選挙をすればやっぱり自民党が勝つようだ。

2023年5月22日月曜日

ルー・リードとビロード革命

rreed&havel.jpg" NHKのBSで「ロックが壊した冷戦の壁」という番組を見た。デビッド・ボウイ、ルー・リード、そしてニナ・ハーゲンを取り上げていたが、ルー・リードとチェコ・スロバキアの関係にふれた部分に興味を持った。共産党政権が倒れた後に大統領になったヴァーツラフ・ハヴェルとルー・リードの関係については、リードの伝記を読んで知っていたはずだが、そのほとんどは忘れてしまっていた。

velvet.jpg" ハヴェルが中心になって共産党政権に抵抗し,打倒した運動は「ビロード革命」と呼ばれているが、それはルー・リードのバンド名である「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」に由来する。ただし、ルー・リードが直接、その革命に関わったというのではない。ハヴェルがニューヨークで手に入れたレコードをチェコに持ち帰ったことで、それが大きな影響力を持ったということだった。共産党政権下ではロック音楽は厳しく弾圧された。リードの作る歌は決して政治的なメッセージを持つものではないが、何より「自由」であることをテーマにする。そのことがハヴェルの心に響き、チェコの若いミュージシャンたちに共鳴した。

ハヴェルが大統領に就任した直後の1990年4月に,ルー・リードはプラハを訪れている。この番組にはなかったが,彼の伝記によれば、最初は躊躇していたのに、「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」の曲を忠実に再現するバンドの演奏を聴いた後に,リード自らステージに上がって歌ったとある。番組では、ホワイトハウスに招待されたハヴェルがルー・リードの出席と演奏を求め,クリントン大統領の前で歌った様子が映されていた。ホワイトハウスはおよそ,ルー・リードには似合わないが、ハヴェルにとってはどうしても一緒にいてほしい人だったようである。

「私が大統領になったのはルー・リードがいたからだ」。このようなことばを公言する人がチェコスロバキアの大統領になった。ハヴェルは政治家ではなく劇作家だったから、共産党政権下からの変容がどれほどのものだったかと、今さらながらに思った。そのハヴェルはチェコスロバキアがチェコとスロバキアに分離した後も、チェコの大統領を2003年まで務めている。2011年に亡くなっているが,ルー・リードもまた2013年に亡くなった。ベルリンの壁前でコンサートをしたデビッド・ボウイ、東ドイツで弾圧に屈せず,抗議の歌を歌ったニナ・ハーゲンとは対照的なハヴェルとリードの関係に、僕は音楽の持つ力を強く感じた。

2023年4月3日月曜日

『プラン75』

 



plan75.jpg" 75歳を過ぎたら10万円と引き換えに死を選べる。『プラン75』は高齢化社会を是正するために国が考え出した制度だ。失業して身寄りがない主人公が最後に選択するのだが、見ていて何も救いがない、憂鬱になるだけの映画だった。

そもそも、こんな姨捨山そのものの制度が何の反対もなく合法化されるのだろうか。見る前から、そんな疑問を感じていたが、窓口で業務をしたり、プランに入った老人のケアをする職員たちが何の疑問もなく仕事をする姿に違和感を持った。彼や彼女たちも次第に疑問を持ちはじめるのだが、最初から思わなければおかしいはずである。

主人公(倍賞美津子)が最後に夕日を眺めるところで映画は終わって、プランを中止したことを暗示させるのだが、それで何か救われた気になるわけでもなかった。いったいこの映画は何が言いたいのだろうと、首をかしげたが、すぐ後に、「老人は集団自決をすべき」といった暴言を吐いたテレビのコメンテーターがいて、批判されたりもして、そういう空気があるのかと、改めて思った。

もっとも、今の日本の状況は政治的にも経済的にも、そして社会的にもひどいことになっているのに、デモ一つ起こらないし、メディアはどれも何一つ本気になって批判していない。収入が上がらないのに税金などでその半分が召し上げられ、五公五民などと言われている。破綻してもおかしくない借金財政なのに、防衛予算だけが突出して増えている。子供の出産数がどんどん減って、少子化を食い止めるのはもう無理になっているのに、今さら口先だけの「異次元の政策」などと言い出している。

であれば、近い将来に「プラン75」のような制度ができてもおかしくない世の中になるのかもしれない。そんなふうにも思いたくなった。何しろいつの間にか国の防衛が大事だということになって、「新しい戦前」などと言われはじめているのである。「国のために年寄りは早く死ね」といった思いが空気となって漂い始めているのだろうか。この映画はそれに警鐘を鳴らしたのかもしれない。そう思えば、納得できないこともないが、それではダメなんだと言うメッセージがなければ、やっぱり映画としてはダメなんだと感じた。

2023年2月13日月曜日

棄民政策がまかり通っている

 

コロナ禍に襲われて3年が過ぎました。今は第8波で、感染者数も死者数も段違いに多いのですが、政府の態度は、もう終息したかのようです。5月にはインフルエンザと同じ5類にするという方針が出されました。確かに若くて健康な人にとっては、風邪の一種ぐらいで済んでいるようです。けれども高齢者や疾患を持っている人にとって、重症化や死の危険がある感染症であることにはかわりはないのです。このような現状を見た時に思うのは、この国は社会の役に立たない弱者や高齢者は切り捨ててもいいという方針を暗黙の了解事項にしたのではという懸念です。

現在の日本は超高齢化社会で、2021年の平均寿命は女が世界1位の87.57歳、男は81.47歳で3位です。.コロナの影響で2020年より下がったようですが、2022年度はもっと下がるでしょうし、23年度にはさらに下がるのは明白です。何より第8波で死んだ人の大半は高齢者で、老人ホームなどでの集団感染が多かったと言われています。それを大変なことだと考えないのは、政府が健康保険や年金の制度を破綻させないためには良いことだと思っているからだと言われても仕方がないことでしょう。

それは公にはされない棄民政策ですが、別の事柄で同じような発想を公言する政治家や官僚が後を絶たないのも事実です。同性婚は生産性がないと言った政治家が役職を解かれましたが、今度は首相秘書官が同性婚は気持ちが悪いとオフレコ発言をして更迭されました。岸田首相は同性婚の法制化には消極的ですが、今回の発言が海外で問題視されたことに慌てて、広島サミットまでに法制化しようかなどと言い出しています。何しろサミットに出席する国で同性婚を認めていないのは日本だけですから、議題に挙げられたら、世界の恥さらしになってしまうのです。

物価高騰を受けて、賃金を上げることが喫緊の課題になっています。しかし、そこでも4割にもなった非正規雇用の人たちは後回しにされています。一体時給が1000円に満たない収入で、どうやって暮らしていけと言うのでしょうか。これでは若い人たちが結婚などできないし、子供も作れないと思うのは当然でしょう。出生数の大幅な減少を受けて、慌てて子供の養育費などを考えても、もう手遅れという他はないのです。

人口減少に対応して雇った外国人労働者に対する扱いもひどいものだと言えるでしょう。あくまで一時的で、定住されたり、子供を作られたりしては困る。そんな身勝手なルールがまかり通っています。「技能実習制度」というのは、現実には認められていない非熟練労働をやらせるための隠れ蓑で、単純労働では、何の技能も身につかないのが実態です。それに苦情を言ったり逃げたりすれば、強制送還というのですから、人として扱わないと言われても仕方がないでしょう。

こんなふうに、今の日本には暗黙の「棄民政策」が溢れていますが、他方で権力者たちの私利私欲を求める行動が見過ごされてもいます。国会議員は一体いつから殿様になって、世襲が当たり前になったのでしょうか。最近の首相の多くは2世、3世議員ですし、その子どもたちが、当たり前のように後継だと言われています。ひどい国になったものだとつくづく思います。若い人たちはこんな国を見限って海外に出たらいいし、外国の人には見向きもされなくなったらいい。ほとほとあきれて、そんなことも言いたくなりました。

2023年1月2日月曜日

アメリカ製ポンコツ兵器爆買いの愚挙

 

選挙時の政策にはまったくなかった防衛予算GDP比2%が決定しました。なぜ今必要なのか、何に使うのか、財源はどうするのかといった議論もないままにです。ウクライナの危機や台湾有事、あるいは北朝鮮の頻繁なミサイル発射などが理由のようです。世論調査では半数以上の人が支持しているというから驚くばかりです。しかし、日本の財政状況から見て、防衛費を倍増させるのは愚挙だと思います。さらに、仮に日本を守るためには防衛費をもっと使う必要があると考えても、その予算の使い方には、唖然とするしかありません。

tomahawk1.jpg" 2027年度までに400発以上を購入し、配備するトマホークには2000億円以上かかると言われていいます。もちろん最新鋭タイプですが、この兵器は40年以上前に開発されたもので、マッハ1程度のスピードしか出ないしろものです。旅客機よりちょっと速い程度ですから、撃ってもすべて撃ち落とされてしまうでしょう。おそらく、これがいいと検討して決めたのではなく、アメリカからこれにしろと言われているようです。

そういう兵器は他にもたくさんあります。たとえばイージス・アショアは迎撃ミサイル発射装置ですが、秋田と山口に設置することをやめたにもかかわらず、船に乗せるとして購入されました。もちろんそのための船などありませんから、新しく作ると言うことになります。しかしイージス艦をすでに配備しているのになぜ、こんなものが必要なのかといった説明はありません。一度買うと言ったのだからやめられないとアメリカに釘を刺されているのでしょう。ちなみにこれにかかる費用もまた2000億円以上のようです。

globalhawk1.jpg" 無人偵察機のグローバルホークはすでに3機契約済みですが、アメリカ軍では退役した旧式のようです。1機200億円以上で、維持管理費に毎年100億円かかり、関わるのはアメリカから派遣された人だけと言うことです。なぜ最新鋭機ではなく旧式なのか。これもまたアメリカからこれでなければダメと言われているのでしょう。海上では使えないものですから無用の長物以外の何ものでもありません。

F35.jpg" 欠陥機の大量購入と言えば、オスプレイが悪名高いですが、政府はこれもすでに十数機を配備済みです。これも1機200億円以上ですから、総額では2000億円を超えています。
戦闘機のF35はすでに27機配備されていますが、最終的には147機にする予定です。しかしこれも欠陥機として指摘されていて、すでに訓練飛行中に墜落するという事故がありました。契約時は総額6.2兆円と言われましたが、円安や値上げでもっと費用がかかるのは確実でしょう。

なぜ、このような兵器をアメリカから購入するのでしょう。それは防衛省からの要求ではなく、安倍元首相がアメリカの言いなりで決めたものが大半だからです。で、これらにかかる費用が現実的になって、防衛費を増額しなければならなくなったというわけです。そもそも防衛費の増額要求は安倍元首相の口から「台湾有事は日本有事」ということばにあわせて出てきたものでした。それを岸田首相は実行しているわけですが、意気地のないダメ首相ですから、アメリカに見直してくれと交渉できないのだと思います。

日本の政府は、経済的に落ち込むばかりなのに防衛費だけを突出させようとしています。仮想的は中国や北朝鮮でしょうが、中国は最大の貿易相手国ですから、敵対してはいけないのです。日本の食料自給率は30%台ですから、中国からの輸入が途絶えれば、途端に食料難に陥ってしまうのです。その他にも、中国製の品物をどれだけ買っているか。ちょっと考えれば、誰でも分かることなのです。それに中国の軍事力は圧倒的で、とても日本が太刀打ちできるレベルではないのです。「新しい戦前の始まり」と言うタモリのことばに、強く納得してしまいました。


2022年12月5日月曜日

円安とインバウンド

 

アメリカのポートランドに住む知人一家が3年ぶりに我が家に来た。日本でやるべきことがあったのだが、コロナにかかわる規制が緩んでやっと実現できたのだった。僕らはワクチンを打っていないので、どうしようか迷ったのだが、歓迎することにした。総勢4人が我が家に泊まって、にぎやかに過ごした。最初はマスクをしてと思ったが、それもすぐにやめてしまった。今のところ、症状は出ていないから大丈夫だったのではないかと思っている。

いろいろ話をしたが、彼らにとっての驚きは、物価の安さだった。何しろ円は去年まで110円前後で推移していたのに、今年になって急激に円安になって、一時は150円にもなったのである。3年前に来た時に比べて、2割以上も安くなっている。彼らにとっては何でも安くて大助かりだが、日本人にとっては輸入品の価格が高騰して、さまざまなものが値上がりしはじめていて大変なことになっている。しかも物価の上昇は、これからさらにひどくなると言われているのである。

日本の物価はここ20年、あるいは30年ほとんど上がってこなかったが、日本人の収入は逆に減り続けてきた。正規の勤め人は、それなりに定期昇給があったが、非正規が4割にもなって、貯蓄がほとんどなく、生活に困窮している人が増えている。食事も満足にできない子どものいる家庭もあって、民間の援助が盛んに行われているが、国はほとんど手当てをしていないのである。

他方で裕福な人もいて、国はその人たちに旅行を勧める支援を復活させてもいる。「Go to トラベル、イート、イベント、ショッピング」などといったおかしな和製英語の話などもしたが、政治のお粗末さは、ことば以上のおかしさなのである。おかげで紅葉の季節には、河口湖には大勢の人が訪れて、外出を控えるほどだった。

知人たちが久しぶりに日本に来たように、海外からの旅行者も増えていて、河口湖でも目立つようになった。しかし主流は欧米からの人たちで、コロナ前に目立った中国を始めとしたアジアからの人はまだ少ないようである。何より団体で押しかける中国人の姿が見当たらないが、これはゼロコロナ政策で、旅行が制限されているためのようである。他方で韓国からの旅行者は復活しているようだが、多くは九州などの西日本に来ているから、関東ではあまり目立たない。

コロナが収まったわけでもないのに、インバウンド復活を積極的に支援する国の政策はどうかと思う。円安を生かしてなどと言うが、そもそも円安を是正するためにどうするかを考えないことのほうが問題なのである。輸出立国として成長した日本が、今、輸入超過の赤字国に転落している。インバウンドで補っても焼け石に水にしかならないことなのに、これしか方策がないのだから、もうお先真っ暗な現状なのである。

2022年11月21日月曜日

ツーブロック禁止って何?

 

haircut1.jpg"朝新聞を読んでいたら、「ツーブロック禁止 必要?」という見出しの記事を見つけました。「うん? ツーブロックって何?」と思って記事を読んでいくと、最近はやりの髪形で、もみ上げと耳のまわりを刈り上げるカットだと言うことがわかりました。そう言えば最近の若者の髪形は刈り上げが普通で、カットの仕方もいろいろであることは気づいていました。男の髪形が極めてバラエティに富んでいるのは、MLBの選手で見慣れていました。スキンヘッドに肩まで伸びた長髪、モヒカン刈りやデッドロック、三つ編み、そして長く伸ばしたヒゲなど、やりすぎだろうと言いたくなる選手が少なくないのです。

twoblock1.jpg"・それに比べたら「ツーブロック」などはおとなしいものですが、日本ではそれを禁止する高校が多数あって、問題化していると言うのです。そう言えば、これまでにも校則のおかしさについてはいろいろ指摘されていて、髪の毛は黒、靴下は白、女子生徒のスカート丈など事細かに決められているのです。そもそも中高生は制服が当たり前といった規則が健在なのが不思議ですが、それをさらに細かく規制しているのは、一体何のためなのか疑問に感じます。

僕は都立高校に通いましたが、制服ではなく私服でした。ロック音楽やヒッピーが流行った時代で、僕も長髪にしていましたが、教師に叱られることはありませんでした。都立高校の中には、今でも制服なしで髪形にも規制がないところがあるようです。この記事には都立高校の先生の意見もあって、制服が大人の価値観の強制であって、「(生徒に)自分たちで考えて行動してもらうということが原点です」という意見が紹介されていました。

制服は、それが軍隊から始まったことからわかるように、統率を取りやすくするために考案されたものでした。その有効性が認められると、次に工場労働で働く人や学校に採用されましたが、それはあくまで管理する側にとってのものでした。集団にとっては個々の個性を認めることは管理を難しくします。しかし、教育の場は、軍隊とは違って、生徒がそれぞれ自らの個性を見つけ、それを伸ばす機会でもあるのです。「ツーブロック」のようなほんの少しの工夫すら認めたくないという発想には、個性を育てると言った考えがまるでないことが明らかです。

そのことはおそらく、自分で考え、行動するといった生徒の内面的な成長に対する無関心にも繋がっているはずです。と言うよりは、生徒に勝手に考え、行動されたらかなわないとする発想が強いと言えるでしょう。たとえば、「CNN.co.jp」の記事に、今回の中間選挙で「若い有権者がいなければ、米民主党は大敗していた」という記事がありました。アメリカの多くの学校には制服などはなく、選挙についても授業で積極的に議論することをカリキュラムに入れています。銃規制の必要性やLGBTQの権利にも自覚的な若者層にとって、保守反動回帰を主張するトランプは反対すべき相手です。この記事では45歳を境目にして、それ以下は民主党で、高齢になれば共和党支持になっていることが指摘されています。

アメリカでは若者層をZ世代(1996年以降の生まれ)やミレニアム世代(2000年以降に成人)と呼んで、社会の不正や人権、そして地球の温暖化などについて意識が高いことが指摘されています。しかし日本では、若者層は保守的で、政治にも無関心だと言われています。その理由を若者たちの意識の低さに求めることは容易ですが、個性を育てることをしない教育の場にこそ、その原因を求めるべきではないか。「ツーブロック禁止 必要?」と言う記事を読んで、そんなことを強く思いました。

2022年11月14日月曜日

Jackson Browne, "Downhill from Everywhere"

 
jacksonbrowne3.jpg" この名前で取り上げるのは2回目だ。ジャクソン・ブラウンがコロナに感染して、アルバム制作が中断したために、2曲だけのシングル盤が先に出たためだった。アルバムだと思って購入してがっかりしたが、その後アルバムが出て、やっぱり買うことにした。すでにメインの曲は紹介しているから、また取り上げるのは止めようと思っていたが、来年三月に日本で公演をやると言うニュースを見て、やっぱり書くことにした。

アルバム・タイトルの「Downhill from Everywhere"」については前回、次のように紹介した。「海に流れ込む、プラスチックその他の人間が捨てたゴミを歌ったものである。ゴミは学校から、病院から、ショッピングモールから等々、あらゆるところから流れ下る。歌詞の大半はその「~から」を列挙したものになっている。引力に従って行き着く先である海を、私たちはどこまで自分のこととして考えているのだろうか。私たちが生きていくのに、海がいかに大切かということを。プラスチックは海に流れ下ることで細かく粉砕される。それを魚が食べて、また人間に返ってくる。この歌はドキュメンタリーの"The Story of Plastic"でも使われている。」

その他の曲も強いメッセージが込められているものばかりだ。トランプ前大統領の移民政策に抗議した"The Dreamer"、地震に襲われたハイチ復興支援として作られた"Love is Love"、人種差別を抗議し、公平であることの大切さを訴える"Untill Justice is Real"、エイズ病棟をドキュメントした映画『5B』に提供された”A Human Touch"などだ。ジャケットには巨大なタンカーが写っているが、これは原油流出事故後にバングラデシュに移送されて解体されたものだという。

他方で、彼本来のものである自省的な歌もある。シングルカットされた"A Little Soon To Say"については、前回次のように紹介した。「今の状況に対する自分の戸惑いを歌っている。地平線の向こうが見えない、明かりに照らされた道の向こうが見たいんだけど、とつぶやき、すぐに決断しなければならないのに、情報があまりに少なすぎる、とつづく。今の病を乗り越える道を照らしたいし、できると思いたいが、そう言うにはまだ早すぎる。」

人工心臓を手術して無敵だと歌う"My Cleveland Heart"と、心が裂けるようだと歌う"Minutes to Downtown"など、自分の揺れ動く心を描く姿勢も健在だ。で最後はバルセロナ讃歌の"Song for Barcelona"。ここでも自分の魂に火をつける街と歌う反面で、愛する世界が見つけられなくなってしまうと揺れている。

ジャクソン・ブラウンのコンサートには2015年に出かけた。その時の様子は「ジャクソン・ブラウンのコンサート」に書いている。また聴きたいと思うのだが、コロナ禍で人混みは避けているから諦めている。