2017年4月24日月曜日

『海は燃えている』

 

theatrecentral.jpg・甲府駅前の小さな映画館でやっているというので、『海は燃えている』を見に出かけた。甲府駅に近い繁華街にあったのだが、人通りがほとんどない。シャッターが閉まった店もあって、寂れた様子だった。映画館も上映の15分前にならないと鍵がかかったままで、観客は僕とパートナーの他に2人だけだった。割と新しいビルに二つのスクリーンがある映画館で、マイナーな作品も頑張って上映しているようだ。それだけに、いつまで持つのかと心配になった。

FUOCOAMMARE2.jpg ・『海は燃えている』はアフリカ大陸から船でイタリアに渡ろうとした難民たちをドキュメントした映画である。場所はイタリアといっても、むしろチュニジアに近いランベドゥーザという離島である。映画は松の枝を切ってパチンコを作る少年のシーンから始まる。それで鳥を狙うのだが、もちろん、それは難民とは何の関係もない。父親は漁師で、獲ってきたイカで母親(祖母?)がパスタを作る。それを3人で食べながら、いろいろ話をする。少年はまるでそばを食べるように、パスタをすすって食べている。

FUOCOAMMARE1.jpg ・そんな離島に住む家族の日常が映されながら、時折、小さな船に乗った大勢の難民たちのシーンが挿入される。救助艇が向かい、脱水症状などで気を失っている者や死んだ人の数を確認し、救助艇で難民たちを島まで移送する。この島にとって難民たちが船でやってくるのは、すでに日常化しているが、島民たちはそのことをほとんど知らないかのようだ。

・少年は左目が弱視だという。だから回復させるために、右目をふさいで左目だけを使うよう勧められる。そのような診断をした地元の医者は、難民の診療をしたり、検死ををしたりもする。難民が押し寄せていることを知る数少ない地元民だ。難民たちは収容施設にいて、島を出歩くことはない。その次にどこに行くのか.イタリア本島なのか、あるいはチュニジアに送り返されるのか。難民たちはアフリカや中東のさまざまな国から来ていて、今更送還されても、戻る場所はない。そのことは映画では何も語られない。

・この映画には役者は登場していない。少年をはじめとして島民と難民、そして救助隊員も実在の人たちだ。だからドキュメントなのだが、少年の家族の様子には日常を再現するようなフィクションが入り込む。難民と島民、その二つの世界を淡々と描き出すこの映画には、今まで見たことのない、リアルさを感じた。

・監督はジャンフランコ・ロージで、この映画は2016年度のベルリン国際映画祭で金熊賞〈最グランプリ高賞〉を獲得している。彼は前作の『ローマ環状線、めぐりゆく人生たち』でも2013年度ヴェネチア国際映画祭金獅子賞を受賞している。日本ではほとんど話題にならない映画だけに、これを甲府で見られたのは驚きだった。それだけに、観客が4人だけというのは、日本人にとって難民の問題が遠い世界であることを改めて実感した。

2017年4月17日月曜日

Bob Dylan "Triplicate" "Real Royal Albert Hall"

 

2017dylan1.jpg ・ディランの話題は相変わらずノーベル賞ばかりだが、彼はせっせとアルバム作りをしている。と言ってもオリジナル曲ではない。かつてフランク・シナトラなどが歌ったスタンダード曲ばかりである。2015年に『シャドウ・イン・ザ・ナイト』、16年の『フォールン・エンジェル』に続いて今度は3枚組の『トリプリケート』だ。タイトル名は3枚組という意味なのか3作目ということなのか。これで一応の区切りなのか、まだまだ出てくるのか。長いつきあいだから買ったし、悪くはないけれども、やっぱり、そろそろオリジナル曲が聴きたいなと思う。ノーベル賞にまつわる歌など作らないのだろうか。

2017dylan2.jpg ・最近買ったディランのもう一つのアルバムは『リアル・ロイヤル・アルバート・ホール』である。1966年に行われたライブで、演奏中に「ユダ」というヤジに「そんなこと信じるか、おまえは嘘つきだ」と応えて「ライク・ア・ローリング・ストーン」を歌ったのが伝説として語られてきた。それはすでに『ブートレグ・シリーズ4』として出されていたが、実際に、このやりとりがあったのはロンドンのロイヤル・アルバート・ホールではなく、マンチェスターの公演だったというのである。だから「リアル〜」なのだが、なぜこんな間違いが今頃になってわかったのか、信じられない気がした。僕はもうずっと、この有名なライブがアルバート・ホールだったと思っていたのである。

・実は同時期に『ライブ1966』という36枚組のボックスセットが発売された。その年の4月から5月にかけて行われたライブを、観客が録音したものも含めて全てまとめたものだ。ほとんど同じセットリストのCD36枚で25000円もしたからとても買う気にはならなかったが、そこから一枚、ロイヤルアルバート・ホールだけが別売りされたのである。このボックスセットを作って初めて、間違いに気づいたということなのだろうか。だとしても、おかしな話だ。

・ディランにとって確かに、1966年は大きな転機になる年だった。生ギターで一人で歌うプロテスト・ソングの旗手がバックバンドを従えて、エレキギターでロックをやり始めたからだ。ここから「フォークロック」というジャンルができ、いわゆる「ロック音楽」が本格的に生まれ始めた。ビートルズやローリングストーンズも大きな影響を受け、アメリカのウエストコーストから、多くのミュージシャンが登場した。

・それから半世紀たって、ディランはロック以前のアメリカのスタンダード曲を自ら歌い始めた。それはまた、彼の音楽にとって大きな転機になるものだったと言える。そして今度は、ディラン・ファンの多くの賛同を得た。アメリカのポピュラー音楽を長いスパンで見直した時に、ロック以前と以後で、当時考えられたほどには大きな断絶はなかった。いい歌はいい。それがディランのメッセージだが、そこにはまた、現在のポピュラー音楽に対する強い批判が込められている。

2017年4月10日月曜日

村上春樹とポール・オースター

 上春樹『騎士団長殺し』第一部、二部(新潮社)
ポール・オースター『冬の日誌』『内部からの報告書』(新潮社)

haruki2017-1.jpg・村上春樹の『騎士団長殺し』はおもしろかった。そんなふうに感じたのは『1Q84』以来だ。その間にもたくさんの本を出版していて、『職業としての小説家』では、小説家としてのプロ意識に感心もしたが、『騎士団長殺し』を読みながら、あらためてうまいなと思った。2冊で1000頁を越える大作だが、読み始めたら止められない。僕の読書量は最近ではめっきり減ったが、ベッドで読んで、眠れなくなったのは、本当に久しぶりのことだった。

・しかし、読みながら、そして読んだ後に思ったのは「空っぽ」といった感想だった。つまり、何かを考えさせるといったメッセージが何もないのである。そんな読後感は『1Q84』でも思ったが、今度はさらに徹底していて、作者の強い狙いがあったのではと考えさせられた。何かを読む時には、そこに作者のメッセージを読みとることが主たる狙いになる。そんな読み方を否定されたような感じがした。

haruki2017-2.jpg・この物語は未完である。作者はそうは言っていないがプロローグで初めに出てくる「顔のない男」が第二部に少しだけ登場しただけで、顔のない男から言われた肖像画がまだ描けていないのである。あるいは、少女の失踪について、主人公がその行方を捜して奔走し、迷走するのがこの物語の核心だが、さんざ苦労をしてわかったのは、少女が実の父親であるかもしれない免色の家に入り込んで、出られないでいたというのも、中途半端な感じがした。

・『1Q84』は1年後に第三部が出版されている。おそらく来年には『騎士団長殺し』でも第三部が出るだろう。そして物語は、あっと驚くような展開になる。そんな予測を感じさせるヒントがあちこちにちりばめられている。「顔のない男」「免色渉」「スバル・フォレスターに乗る男」の3人はいったいどういう人間なのか.ひょっとしたら同一人物?こんな疑問に対する答えが欲しい。そんなふうに思わせる書き方にも、円熟した小説家であることを実感した。


auster2017-1.jpg ・ポール・オースターの『冬の日誌』は題名通り、彼の過去についての日記である。ただし、書き手からみた他者として「君」という主語で書かれている。そこにあるのは、幼い頃から現在に近いところまでにわたる赤裸々とも思えるほどのプライベートな話である。父親の話は『孤独の発明』で書かれていたが、母親や最初の結婚相手のリンダ・デイヴィスや2度目のシリ・ハストヴェットについては初めて読んだ。

・もっとも回想は2歳や3歳の頃にまでさかのぼるから、おそらく日記には残されていない記憶を呼び起こしてというものも少なくないはずだ。それはたとえば顔やその他の身体に刻まれた傷跡から蘇ってくる。「顔の皮膚に彫り込まれたもろもろのギザギザは、君という物語を語る秘密のアルファベットだ。なぜなら傷跡一つひとつが治った怪我の名残であって、怪我一つひとつは世界との思いがけない衝突によって生じたのだから。」確かに、そんな傷跡は僕にもたくさんあって、そこから記憶が蘇ることはある。しかし、『冬の日誌』に書かれた話の多くは、きわめて詳細だから、そこに虚構が含まれないはずはないと思ってしまう。

auster2017-2.jpg ・『内面からの報告書』も過去の自分の物語だ。訳者である柴田元幸が書いたあとがきには「2012年から13年にかけて刊行されたこの2冊は、1947年生まれの、人生の冬が見えてきた人間が、遠い昔に自分の身体(『冬の身体』)と精神(『内面からの報告書』)に何が起きていたかを再発見しようとする、過去の自分を発掘する試みである。」とある。

・そうやって掘り起こされたオースターの人生は、僕のよりはずっと波乱に満ちている。ユダヤ人であることで幼い頃から経験した差別や、さまざまな人種が混在する中で感じた黒人たちの貧しさなどが、子供の目線から語られている。あるいは母の死に遭遇した時の戸惑いは、『孤独の発明』での父に対する距離感とは対照的で、その動転した様子は、僕にとっては信じられないほどだった。

・村上春樹とポール・オースターは、「喪失」をテーマにする共通点の多い作家だった。しかし、オースターがテーマにする喪失感は年齢ともに変わってきて、最近の作品では年老いたゆえに感じるものになっている。その意味では『冬の日誌』と『内面からの報告書』は、けっして幼い頃からつけてきた日記をもとにしたものではなく、老人となった現在から、改めて記憶を呼び起こし、そこにフィクションを重ねたものではないか。読みながらそんな感想を持った。

・『騎士団長殺し』のような世界は、僕には想像(創造)しようもないが、『冬の日誌』なら書けるかもしれない。ちょっと始めてみようか。そんな気持ちにさせられるような内容だった。

2017年4月3日月曜日

遅い春

 

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落ち葉に群がる鳥にカメラを向けたら一斉に飛び立った

forest140-2.jpg・退職の行事も3月末に全て終わって、4月になった。とは言え、もうすぐ新学期が始まる。講義の準備が気にかかるから、退職したという気分ではない。しかし、週1度でも仕事は仕事、一度に何もなくなるよりはいいのかもしれない。さて、心機一転何から始めようか。と思ったのだが、また雪だ。
・それにしても今年の冬はおかしい。11月に季節外れの大雪があって、その後はたいしたことはなかったのだが、3月になってから何度も雪が降っている。春の雪はすぐ溶けるが、寒暖差が大きいから、身体に応える。

・京都で2年ぶりにやったパートナーの個展は、盛況のうちに無事終わった。久しぶりに会って話すことは、退職と身体の調子、そして親の介護ばかりだった。学生時代の友達に会うと、昔話も出るが、それだけに、お互いの退職や親の話が不思議にも感じてしまう。歳取ったんだなと、つくづく思わされる瞬間だった。

forest140-3.jpgg・院で教えた留学生が二人訪ねてきた。一度は中国に戻ったのだが、日本で働いていると言う。中国人の留学生が日本で就職するのは、ここ数年のことだ。二人は優秀で日本語はもちろん英語もできるから、就職先には困らないようだ。もっとも日本で起業したいという野心もあって、悩みも多いようだから、それは慎重にとアドバイスをした。運動不足だというので忍野の高座山(たかざす)に登り、残り少なくなった薪割りをし、陶芸もやった。

forest140-4.jpgg・仕事が楽になったところで、家のメンテナンスをあれこれやろうと思っている。ログのペンキ塗りは薪をどかしながらの面倒な作業だから、燃やして空きができたところからやる必要がある。はしごを使っての作業で、ログの全てを塗るとなるとかなりの時間がかかるだろうと思う。それが終わったらバルコニーの腐った柵や板を作りかえなければならない。ベランダに置いたチェアも補修できるかどうかやってみようと思っている。あるいは、道路から玄関までの道に置いた石をどかして、歩きやすいようにすることも考えている。たぶん夏までかかるだろうが、それだけに、いつまでもくり返し降る雪が恨めしい。

・東京では桜が満開になったらしい。河口湖では片栗の花がやっと蕾を出し始めたところだ。今年の春は遅い。