2003年12月30日火曜日

目次 2003年

12月

30日:目次

22日:クロード・レヴィ=ストロース/中沢新一『サンタクロースの秘密』(せりか書房)

15日:昇仙峡周辺

8日:日本テレビとテレビ東京

1日:ジャンク・メールの山

11月

24日:久しぶりのコンサート Neil Young(武道館)

17日:同じ頃に同じ発想をした人がいた

10日:紅葉のにぎわい

3日:キャロリン・マーヴィン『古いメディアが新しかった時

10月

27日:ジョニー・デップの映画

20日:「ポピュラー文化論を学ぶ人のために」への手紙

13日:Neil Young "Are You Passionate?"

6日:野茂のMLB

9月

29日:おかしな天気

22日:オリヴァー・サックス『サックス博士の偏頭痛大全』

15日:ナチとユダヤの物語

8日:バイクとお別れ

1日:Lou Reed "the Raven"

8月

25日:夏は来なかった

18日:スーエレン・ホイ『清潔文化の誕生』

11日:読書の衰退

4日:山形までドライブ

7月

28日:フィールド・オブ・ドリーム

21日:Madonna "American Life"

14日:雑草のたくましさ

7日:ロジャー・シルバーストーン『なぜメディア研究か』

6月

30日:カメラ付き携帯のいかがわしさ

23日:料理とリフォーム

16日:"Bob Dylan Live 1975"

9日:アメリカの20世紀(上下)

2日:もう、梅雨のよう

5月

26日:なぜか懐メロ

19日:相変わらずのジャンク・メール

12日:不況と少子化の影響

5日:「ファイナル・カット」

4月

28日:病気と病

21日:春になったから

14日:Juchrera"Herveit"

7日:ドイツからの便り

3月

31日:久しぶりの京都

24日:やれやれ、今度は松井か

17日:心と肉体の関係について

10日:忘れた頃の大雪、さあ、除雪機だ!!

3日:Steave Earle "Jerusalem"

2月

24日:TVの50年

17日:ETCに変えた

10日:ネットで買い物

3日:また雪か

1月

27日:声とことばと歌、音楽

20日:パトリシア・ウォレス『インターネットの心理学』

13日:たそがれ清兵衛

6日:今年の卒論

1日:Happy New Year!

2003年12月24日水曜日

クロード・レヴィ=ストロース/中沢新一『サンタクロースの秘密』 (せりか書房)

 

levis1.jpeg・クリスマスといえば、サンタクロースの贈り物。子どもの頃は楽しみだったし、親になってからは子どもに何をあげようか、考えたりもした。しかし、ここ数年はそんな行事とも縁遠くなっている。わざわざケーキを食べたりもしなくなった。むしろ、Xマス商戦を当てこんだジャンクメールがアメリカから山のように届いて、うんざりするばかりだ。サンタクロースは消費社会が作りだした広告マン。愉しく過ごす人たちには嫌みに聞こえるかもしれないが、これは実感としてだけでなく、歴史的にも本当の話のようだ。
・クロード・レヴィ=ストロースと中沢新一による『サンタクロースの秘密』という本を見つけた。もう8年も前に出されているのに最近になるまで気づかなかった。レヴィ=ストロースの本はそれほど読みやすいものではないのだが、ページ数も少なく、字も大きいから、読みはじめたら数時間で一気に読み終えてしまった。「あー、おもしろい」。そんな読後感を久しぶりに味わった一冊で、Xマス・プレゼントをもらった気がした。だから僕も、ご愛顧に感謝してこのHPにアクセスした人に書評のプレゼントを。
・1951年にフランスでサンタクロースを処刑するできごとがあったそうだ。仕掛けたのはカトリック教会で、その理由はキリストとは何の関係もないサンタクロースに、Xマスが乗っ取られるのではという危機感だった。赤い服を着たサンタクロースはコカコーラが作りだしたキャラクターで、親がサンタに扮装して子どもにプレゼントをする習慣も、第二次大戦後にアメリカから入ってきたものだった。しかも、このような危機感は生活のあらゆるレベルで多くのフランス人に共有されていて、「アメリカ化」に対する恐れや反発として取りざたされてもいた。
・Xマスはキリストの誕生を祝う教会の祭で、ローマ・カトリック教会が広めたものである。しかし、その祭のもとは一年で一番陽の差す時間の短い「冬至」の日にヨーロッパ各地で行われていたものだという。昼間の長い季節は「生きる者の世界」。しかし、夜が長くなる季節には生命のエネルギーは衰えて、冬至の日には「死者」たちが「生の世界」に戻ってくる。だから昼間を取りもどすために「祭」をして、その死者達を迎え、慰め、礼を尽くして送りかえさなければならない。
・大事な役割をするのはどこの場所でも子どもや若者たちだったようだ。たとえば、「鞭打ち爺さん」があらわれて悪い子どもを懲らしめて回る。あるいは子どもたちが家々を回って歌を歌ったり騒いだりして、お金や食べ物をもらう。さらには若者たちがらんちき騒ぎをし暴れ回ることが許される日。子どもや若者が主役になったのは彼や彼女たちが「生きる者の世界」ではまだ半人前であったからで、「冬至の祭」には、イニシエーションの儀式という意味あいもあった。
・ローマ・カトリック教会はキリスト教の布教と信仰心を強めるために、この「冬至の祭」をキリストの誕生を祝う「Xマス」に「変換」した。一説ではキリストは夏に生まれたのだというから、「死」から「生」への復活を願う気持をキリストの誕生に重ねあわせたのは、計算づくのしたたかなアイデアというほかはない。その重要な虎の子の伝統がアメリカからやってきた赤いサンタクロースに踏みにじられたのだから、教会の怒りや危機感は容易に察しがつくというものである。
・もっとも、サンタクロースの処刑は実際には、かえってその価値を高める結果をもたらすことになる。表向きでは「アメリカ化」に反発していた人たちも、その物質的な豊かさ、便利さ、楽しさには無意識のうちにすっかり虜になってしまっていたから、クリスマスの行事はますます派手でにぎやかなものに変質していくことになる。
・サンタクロースはクリスマスを、生と死ではなく「生きる者同士」のプレゼントの交換という形に「変換」した。死の世界の封じ込め、あるいは忘却。「アメリカ化」が果たした最大の意味はここにあるとレヴィ=ストロースはいう。もっともそれで教会が衰退したわけではない。キリスト教も教会もまたサンタクロースを利用して、死の世界よりは生の世界に力点をおいたスタンスに「変換」したからである。
・ところで、この「サンタクロース論」はレヴィ=ストロースがまだ無名の頃に書いたもので、サルトルが注目して自ら主幹する雑誌に掲載したものだという。「実存主義」と「構造主義」の戦いの出発点。これが、むずかしい「構造主義」を一番簡単に理解できる論文であることとあわせて、「構造主義」や戦後のフランス思想史に関心をもつ人にも勧めたい一冊であることは間違いない。「贈与論」を中心にした中沢新一の解説もまた、わかりやすくておもしろい。

2003年12月15日月曜日

昇仙峡周辺

 


馬車に乗って川沿いを上る道が車での通行が可になっている。観光客もまばらで12月になっても紅葉が残っている。猿に猫に亀にラクダ、トーフ、大砲、松茸………。ちょっとした石や岩には全て名前がついている。そう言われれば見えないこともないが、言われなければわからない。


昇仙峡を抜けてさらに北に登ると湖がある。大きな石を積んでつくったダム。その一番奥にある蕎麦屋(轟屋)にはいった。水車でついたそば粉は自家製だという。他にも味噌や蜂蜜なども作っている。量がたっぷりの蕎麦は味も良い。岩魚と野菜の天ぷらも美味だった。おみやげに味噌と蜂蜜を買った。


店の人に勧められて近くの大滝へ。渓谷沿いに造られた歩道を10分ほど登ると突然大きな滝。二段になって激しく流れ落ちている。板敷渓谷の大滝。今年は雨が多いから、一層水量があるのかもしれない。昇仙峡で有名なのは仙娥滝で、こちらは知る人ぞ知る秘境の滝。もっとも、その間の距離は5キロほどだろう。

車で細い林道をさらに北上する。一応名前はついていてクリスタルライン、昔は有料道路だったのかもしれない。12月10日を過ぎると閉鎖になるというから、本当に滑り込みセーフだった。峠まで上がると富士山が綺麗に見えた。海抜は1700メートル。増富ラジウム温泉によって帰宅。一日中雲一つない天気だった。
朝起きたらあまりにいい天気なので、どこかにドライブしようという気になった。うっとうしい曇り空に季節はずれの大雨が続いていたから、どこへ行く宛てもなく出発して、走りながら行き先を探した。そういえば、まだ昇仙峡に行っていない。で、御坂峠を越えて甲府を抜けて昇仙峡。

2003年12月8日月曜日

日本テレビとテレビ東京

 

・日本テレビの視聴率買収事件があって、あらためて視聴率の意味などが問われている。テレビがついていれば見ていなくても、視聴したことになる。サンプル数がきわめて少ない。そんな調査にどれほどの有効性があるのか。この疑問は調査の開始時からいわれつづけてきたことだが、とにかくテレビ局にとっては、ほかに客観的な評価基準はない。民放の収入はコマーシャルによるし、その値段は、曜日や時間帯毎のこまかな視聴率によって算定されるから、1、2パーセントの違いでも、収入差は莫大なものになってしまう。番組制作スタッフが視聴率を上げることに血眼になるのは当然のことで、中でも日本テレビは社をあげて視聴率競争に邁進してきた。その意味では今度の事件は起こるべくして起きたものだといってもいい。
・東京のテレビ局はどこも巨大な新社屋を造ってきわめて景気がいい。周辺を新名所にして、電波だけでなく、実際に人をたくさん集めようともしている。まさにテレビの時代で、情報と人と金の流れを考えると空恐ろしい気がしてしまう。しかも、その中身、つまり番組がまた、高視聴率なものほどくだらないから、その落差に唖然とせざるをえない。日本テレビはまぼろしの伊勢エビを騙ってやらせ番組をつくったそうだ。それがまた問題になっている。虚業もここまでくれば救いがたいが、影響力を考えれば、そう突き放すわけにもいかない。テレビはもっとましなものにならないものか。
・一つの可能性はCSやBSデジタル放送によってある程度見えてきた気がする。大勢の人にではなく特定の人たちに好まれる番組作りが必要になったからだ。映画やスポーツなどの専門局の登場がいい例だし、NHKは早くから3チャンネル態勢で多様な番組作りをしてきた。さまざまなドキュメントや長時間のトーク番組など、興味深く見ることのできる番組も少なくない。民放のデジタル番組はまだまだスカスカの感じで、工夫の余地はずいぶん残されているが、今月からは地上波のデジタル化もはじまった。ひとつの局がいくつものチャンネルで多様に番組を提供しなければならない状況が、ハードの面でどんどん先行している。
・にもかかわらず、局の方針はアナログ地上波の視聴率に固執する。これはどう考えても後ろ向きで、積極的な番組作りや宣伝をしない姿勢が BSの視聴者を増加させない原因にもなっている。たとえば、高視聴率を上げるスポーツ番組の多くは、BSで同時に中継されることが少ないし、そのほかの人気番組のほとんども放送されない。デジタルの方が映像も音も綺麗だから視聴者数は増えるはずだが、視聴率を地上波でカウントするためなのだろうか。だとしたら何ともせこい発想だと言わざるを得ない。
・その点で一番積極的なのがテレビ東京だ。地上波の番組を少し遅れてBSで放送している。もっともこれは地上波での視聴率競争で恒常的に劣性だという問題を抱える弱小局の苦肉の策なのかもしれない。ただし、僕はこのテレビ東京の番組が好きで、地上波でも一番よく見ている。「いい旅夢気分」「ポチ・タマ」「テレビチャンピオン」「田舎に泊まろう」「デブ屋」「お宝鑑定団」「ガイアの夜明け」などなど。
・テレビ東京の番組を見ていると、予算が少ないことがありありとわかる。その番組作りには涙ぐましいほどの努力を感じる気がする。たとえばよく見る番組のほとんどはロケか素人を使ったものばかりだ。映画に「ロード・ムービー」というジャンルがあるが、テレビ東京はさしずめ「ロード・テレビ・チャンネル」といってもいいかもしれない。
・その最たるものは「田舎に泊まろう」で、毎回タレントが日本のどこかに出向いて、そこで泊めてもらえそうな家を探して交渉する。うまくいったりいかなかったり。タレントの素顔が覗いたり、その土地の様子、かかえる問題、泊まった家の事情や歴史が垣間見えたりしてなかなかおもしろい。ぼくのところに来たら「何アホなこと言ってんだ!」と取り合わないと思うが、世の中には親切な人がまだまだ多い。この番組が描きだすのは、そんな日本人の人情だが、少ない予算で知恵を絞って考え出した番組だな、とつくづく思う。「田舎へ泊まろう」でいつも思うのはディレクターやカメラマンは、いったいどこで何時間眠れるんだろう、という心配で、この番組作りはけっこうつらいんじゃないかと心配してしまう。
・テレビ東京のBS放送では毎晩映画を放送していて、これがまた、なかなかおもしろい。劇場公開されなかった話題作やマニアックなものが放映されるから、僕は毎日チェックして見たり、録画したりしている。同じ映画をくりかえし再放送、なんていう横着もしないから、かなり力を入れて番組作りをしているのだと思う。日本テレビのおごりと比較するとテレビ東京のマイナーさには、一つの光明が見える気もする。今日のマイナーは明日のメジャー。多様化するチャンネルでは、大きな視聴率は稼げない。少ないが熱心な視聴者をどれだけつかまえるか。BSや地上波のデジタル化は、そういう番組作りへの変更を余儀なくさせるもので、そのことに対応できるのは、巨大化した浪費局ではむずかしいだろうと思う。

2003年12月1日月曜日

ジャンク・メールの山

 夏休み明けから、大学宛のメールを携帯に転送できるようになった。だから、Palmに携帯をつけて大学に接続する必要がなくなった。ずいぶん便利になったのだが、最近やってくるジャンク・メールの量の多さには閉口している。多い日には数十通で、どんどん増えているから、放っておくと100通を越えることにもなりかねない。インターネットに接続するたびに削除作業をしているが、これが何とも面倒で、しゃくにさわる。携帯のパケット代もバカにならない額になってしまう。だから、携帯が鳴るたびに「またか」とうんざりしたり、むかついたり。
そのジャンク・メールだが、ほとんどはアメリカからのものだ。ヴァイアグラやアダルト・サイト、あるいは、ペニスを大きくするためのパッチ、バイブレーター等々は相変わらずで、簡単にダイエットできる薬、シェイプ・アップのための用具なども毎日のようにしつこく来る。株や貴金属への投資、音楽を無料でダウンロードできるサイト、最近多いのはアルコール感知機。これは酒酔い運転にならない程度に飲むためのものなのだろうか。さらにはFBIの資料をコピーしたCDやケーブル・テレビをただで見るためのコード………。腹が立つのはジャンク・メールを自動的に処理するソフトの宣伝だ。クリスマスが近いせいかおもちゃや衣料品などのメールも舞いこむようになってきた。
冗談ではなく、必要なメールがゴミの中に埋もれてしまっている。ジャンク・メールにはリストから外す手続ができるサイトが載っているものが多い。いちいちやるのは面倒だが、ものは試しと一つひとつやってみた。半分はリストから外しましたと表示されるが、それでも相変わらず届くのもある。ひどいのはサーバーが見つかりませんとか、応答しませんというもので、同じ内容でアドレスや題名が異なるものも多い。しかし、気持だけ減少したようにも思う。
ぼくのところへは国内からのジャンク・メールは少ない。有料サイトへの接続を理由に法外な請求書が送りつけられて来る場合があるそうだ。アダルトや出会い系サイトに接続した人のなかには、覚えがなくても払ってしまう場合があるらしい。これは悪質な詐欺で、コンビニの会員名簿が流出したのが原因のようだ。素直に払ってしまうのもどうかと思うが、コンビニの対応が責任者の減俸だけというのもおかしな話だと思った。
メールは便利な道具だ。公私にわたってもう欠かせないものになってしまっている。それだけに、手を変え品を替えのジャンクメールの攻勢には、技術的にも法律的にも素早い対応が必要になる。プロバイダーの中にはメールを選別して転送してくれるところもあるようだ。僕の所属する大学では今のところそんな工夫はない。大学に届くと、即、何でも携帯に転送してしまう。ジャンク・メールが送られてくるのは、メール・アドレスを公開しているせいだから、公開している教職員はもちろん、各部署のメール・アドレスにもたくさんやってくるのだろうと思う。で、対応策を情報システム課に要望してみた。
返答は1)アドレスを変える。2)ブラック・リスト・データーベースを使う。3)SPAM対策専用サーバを設置する。4)メールサーバにて拒否設定をする。1)はアドレスを変えてもHPに公開すればまたおなじことになるから変えても無駄。2)はデータベースの信頼性が保証できない。ぼくのところに来ているメールがリストアップされているかどうかわからない。必要なメールがはじかれる危険性もあるとのことでダメ。3)はサーバーの購入にかなりの費用がかかる。日々の運用、メンテナンスに労力がいるので大変。4)個々の申し出にこまめに対応しなければならない。サーバーに負荷がかかる。運用、メンテナンスにかかる労力。はじいていいのかどうか個人の申し出だけで判断していいのかなどの問題あり。
というわけで、現実的には簡単なことではないようだ。しかも、情報ネットワーク委員長宛てに「要望書」を出して、委員会で検討してもらわなければならない。ビジネスにしているプロバイダならともかく大学でも必要なサービスなのかどうか、反論もあるだろう。で、要望書の提出はあきらめて、携帯への転送サービスを中止することにした。ジャンクメールには「拒否」の手続を一通ずつ辛抱強く出す。ここ数日やり続けているが、来なくなったメールは確かにある。

2003年11月24日月曜日

Neil Young (武道館、2003年11月14日)

 

young8.jpeg・行こうかどうしようか迷っていたニール・ヤングのコンサートに行った。大学の行事が土曜日にあって出席しなければならなくなったから、金曜日も東京に泊まることにした。コンサートは7時からで、武道館には5 時半頃に着いた。当日売りのチケットを買おうと窓口を探していると、若いカップルが「チケット1枚あまっているんですけど,買ってくれませんか?私たちダフ屋ではないんです。」と言ってきた。チケット売り場はすぐそこで、わざわざ彼らから買う必要はないのだが、一応チケットを確認。偽物ではないようだ。席は2階の2列目で悪くはない。「値段は一緒でいいの?」と聞いたら「もちろん」という。少し不安は感じたが、買うことにした。

・開場まで時間があるのでカフェテラスに入って腹ごしらえ。サンドイッチとビール。コンサートの時はいつもこんな感じだったな、と思うが、最後に見たのは誰でいつだったか。このレビューのコラムで確かめると1999年4月のアラニス・モリセットとなっている。場所は大阪城ホール。4年半ぶりで、東京でははじめてということになる。

・入り口近くにテントがあって、そこでオフィシャル・グッズを売っているのだが、何と長蛇の列。パンフレットが3000円、Tシャツが 5000円。行列してまで何でこんな高い買い物をするんだろうと思ったが、目当てのものが変えた人は大喜び。武道館には駐車場があって無料だという。空きもまだあるようだ。だったら、今度来るときには車にしようか。

・会場に入って席を探すとど真ん中。なかなかいい席だ。アリーナを見下ろすと、客の世代がばらばらであることがよくわかる。禿頭、白髪、スーツ姿、年配のカップルもいれば、少年や少女もちらほら。これなら、最初から立ちっぱなしということはないだろう。ちょっと安心したが、座席が堅くて、背もたれがほとんどない。坐りつづけるのはちょっとしんどいかもしれない。武道館は全然改装工事をしていないんだろうか。近頃には珍しいひどい椅子だ。

young9.jpeg・開演は7時だがちっともはじまらない。2階席からはステージの横がよく見える。そこにたくさんの人が集まっている。コンサート前に楽屋にファンでも入れているのだろうか。音楽がやむたびに催促の拍手と口笛。コンサートが始まったのは25分も過ぎてからだった。舞台が明るくなると、右側に小さなカントリーハウス。そこに老人夫婦。おじいちゃんは新聞を読んでいる。左側には留置所。真ん中上には大きなモニターと小さな舞台。ニールヤングが登場して演奏と歌がはじまる。

・「グリーンデール」は物語仕立ての新しいアルバムだが、コンサートはそれを中心にした構成だった。アメリカの小さな田舎町に住む一家に起こる出来事。平和でのんびりした町で警察官が撃たれる。撃ったのは老人夫婦の息子ジェド。彼は町の留置所に入れられる。テレビが老人のところに取材に来る。彼は興奮して心臓発作を起こして倒れる。打ちひしがれる家族だが、孫娘が反撃に出る。

・こんなストーリーでステージは展開するのだが、残念ながら、詳しいことはわからない。僕はこのアルバムを買っていなかったので、聞く音もはじめてだった。ヤングの歌い方は淡々としていてバックもきわめてシンプル。僕は途中からあきてしまって早く終わらないかな、という気持になってしまった。しかし、話が終わったのは1時間半も経ってから。時間はもう9時になろうとしている。いったい聴きたい曲は何分やってくれるんだろうと、気持には早くも失望感が………。

・後半は1時間近くあって、ニール・ヤングも大熱演だったが、聴きたい曲はほとんどやらなかった。前日の朝日新聞の夕刊には大阪公演についての記事が載っていて「ライク・ア・ハリケーン」をやったと書いてあった。ヤング・ファンのサイトではダントツの聴きたい曲1位なのだが今日はなし。僕が聴きたかった「ヘルプレス」や「ロング・メイ・ユー・ラン」、「ハーベスト・ムーン」もなし。意外なのはディランの「オール・アロング・ア・ウォッチタワー」をやったこと。これはよかった。

・そんなわけで満足はしなかったが、とにかく一度は見ておきたいミュージシャンだったから、それだけでもいいか、という感じ。帽子を目深にかぶって顔もほとんどわからなかったが、一度その帽子が落ちて脳天のハゲがまる見え。うん、歳なのに2時間半もぶっ通しで歌い、演奏しつづける体力は素晴らしい。と、妙なところで感心。 (2003.11.24)

2003年11月17日月曜日

同じ頃に同じ発想をした人がいた

J.メイロウィッツ『場所感の喪失・上』 (新曜社)

 コミュニケーションについて考える枠組みは大きく二つに分けられる。ひとつは一人一人が日常的にする対人的なコミュニケーション、そしてもう一つはマス・コミュニケーション。ただし前者は相互的なもので、後者は一方的なものという点で、まったくちがうものとして捉えられる。少なくとも、15年ほど前まではそのように考えるのが一般的だった。


僕は大学院では「新聞学」を専攻した。当然、履修した授業は「新聞学」のほかに「マスコミ論」「ジャーナリズム論」といったものが多かったが、それにはあまり関心がなかった。僕がやりたかったのは対人関係やパーソナルなコミュニケーション、それに自分が夢中になっていた音楽などの文化的な分野だった。


だから、卒業した後も対人的なコミュニケーションに関心をもって、ジンメルやゴフマンやガーフィンケルを読みながら、男女や親子の関係、仕事を通した人間関係、あるいは「私」という意識などをテーマにした。それは『私のシンプルライフ』(筑摩書房、1988年)としてまとめられたが、同時に、テレビを見たり、ラジオを聴いたりするときにも、人びとは対人的な関係の延長としてふるまっているのではないか、といったことが気になりはじめてもいた。編集者の人にその話をするととても興味をもたれ、他に電話や写真やウォークマン、あるいは読書や日記や手紙を書くことなどについても考えて『メディアのミクロ社会学』(筑摩書房、1989年)を書くことになった。


もちろん、このような発想は僕のまったくのオリジナルというのではない。関心をそのように向けさせたり、同じようなアイデアが散見された先行研究はいくつもあった。たとえば、R.バルトの写真論や映画論、佐々木健一の演劇論、外山滋比古の読者論、E.モランの映画論、あるいはベンヤミンやマクルーハンなどなど………。それに電話が手軽な日常の道具になりはじめていたし、ワープロやパソコンなどの新しいコミュニケーションの道具が普及しはじめてもいた。コミュニケーションをキーワードに分析できる状況は明らかに大きな変化を見せはじめてもいた。


最近翻訳されたJ.メイロウィッツの『場所感の喪失』は、そんなぼくの発想ときわめてよく似ている。原著の出版は1986年だから時期的にもほとんど一緒だと言っていい。『場所感の喪失』はゴフマンとマクルーハンを融合させること、それによって主にテレビを分析することを主眼にしている。翻訳されたのはまだ半分だが、似たような時に似たようなことを考えた人がいたことに親近感を覚えながら読んだし、また、いまだに古くさくなっていない、その視点のユニークさや確かさにも感心した。


メイロウィッツが考えているのは、ゴフマンの「表領域」と「裏領域」という区別をマクルーハンの「活字媒体」と「テレビ」の違いに重ね合わせることだ。私たちは日常の人間関係のなかで、公的な場や関係と私的なもの、きちっと演出されたものとアドリブ的なもの、あるいはタテマエ的な関係とホンネのつきあいを使い分けている。それが微妙に入り組んだ世界の分析はゴフマンの独壇場だが、そのような枠組みをメディアの世界に置きかえた時にわかるのは、活字媒体の公的で演出的でタテマエ的な性格と、私的でアドリブ的でホンネ的なテレビとの違いである。

印刷メディアから電子メディアへの変移は、フォーマルな舞台上もしくは表領域の情報から、インフォーマルな舞台裏もしくは裏領域への変移であり、抽象的な非個人的メッセージから具体的な個人メッセージへの変移である。(186頁)
ことば、それも活字はいわば意味のみを伝えるメディアだが、テレビはそのことばを話す人が表出するものすべてを伝えてしまう。しかも、あたかも目の前で自分に向かって話しているかのようにしてだ。テレビは擬似的な対面的相互行為を基本にする。だからテレビは、公よりは私、演出されたものよりは自然なもの、タテマエよりはホンネ、表よりは裏を好んで映し出すようになる。


もちろん、このような指摘は、今となっては衆知のことだ。けれども、電話を使って、メールを使って、あるいはインターネットの掲示板を使ってするやりとりが、今ここにはいない見知らぬ人との個人的で親密なやりとりであったりすることを考えると、もう一回、時計を20年ほど逆回しして、丁寧に考えなおしてみる必要があるのではないかという気にもなってくる。

2003年11月10日月曜日

紅葉のにぎわい


forest29-1.jpeg・紅葉真っ盛りで、河口湖畔には人がいっぱいだ。河口湖美術館から久保田一竹美術館にかけての通りには、真っ赤に色づいて長持ちのする木が植えてある(何かはわからない)。夜にはライト・アップもするから、大学からの帰りに通ると綺麗だが、ぞろぞろ歩く人が結構いるから驚いてしまう。屋台なども出て、夏休みとゴールデン・ウィークにつぐにぎわいだ。


・山中湖でペンションを経営する友人のところに、時々倒木を拾いに行っている。春からぼちぼち運んできたが、まだまだたくさんある。急がないと雪が降ったらまた来年の春になってしまう。とは言え、山中湖までは片道30kmもあるし、天気のいい平日にかぎられるから、ほんとにたまにということになる。

forest29-2.jpeg・先日久しぶりに出かけると、友人が、「最近では河口湖の方が人気で山中湖はさっぱりだ」と言った。山中湖に来ても、行くところがない、することがない。そう言うお客さんが多いらしい。たしかに、山中湖は昔からの別荘地で、ホテルは少ないし観光名所もない。だからこそ、富士山や湖を見てゆっくり時間を過ごしたい人には人気だったはずで、団体客でにぎわう河口湖とは客層が違うのは昔からなのだが、最近はそうでもないらしい。何かすること、出かける場所を用意してもらわないと、何をしていいのかわからない、どこに行ったらいいのかわからない、時間がつぶせない。そんな訪問者が増えてきたらしい。

forest29-3.jpeg・河口湖町はもうすぐ富士河口湖町に変わる。近隣の勝山村、足和田村、上九一色村と合併するのだ。新しい役場もできて新しい出発という雰囲気だが、町長はこれまでにも町の活性化に積極的だった。野外のコンサートホール(ステラ・シアター)を作って、イベントの企画にも熱心だし、湖畔にラベンダーを植えて7月の「ラベンダー祭」も定着させた。「河口湖美術館」のある北岸には「オルゴール美術館」「久保田一竹美術館」、木の花美術館、円形劇場、それに「猿回し劇場」などがあって、観光客でいつでもにぎわう場所になってきたし、紅葉する樹木をライトアップもして紅葉祭もはじめた。

forest29-4.jpeg・もちろん、釣り客も多い。入漁料収入で駐車場やトイレの施設も整備している。湖岸にサイクルロードを作っているから、湖畔をサイクリングしたり、ジョギングしたりする人も増えるだろう。奥河口湖にはトンネルを二つ工事中で、車の往来も便利になりそうだ。「富士急ハイランド」や天神山スキー場も山中湖よりは河口湖からの方が近いし、高速道路や電車の交通の便も河口湖の方が断然いい。富士河口湖町になって富士五湖のうちの四湖は同じ町に含まれることになったから、これからは西湖や精進湖、それに本栖湖の活性化もはかるのかもしれない。そうなると、山中湖だけがますます孤立することになる。

・もっとも住人としては、観光客が増えるのはけっしてのぞましいことではない。交通渋滞は起きるし、人の多さにうんざりするし、あとにはゴミがいっぱいのこる。静かな山中湖の方がずっといい。ぼくも家探しをしたときに、そのことを考えた。環境としては山中湖だと思った。ただ、海抜が300mも高い山中湖は冬の寒さも一層厳しくて、永住の場所としてはちょっとつらい。自衛隊の演習場も近くて大砲の音がしょっちゅうする。だから河口湖にした。その判断は間違っていなかったと思うが、それにしても、最近の人の動きは極端だ。


・紅葉の季節が終わると河口湖も閑散とする。湖畔のライトアップや寒中の花火大会などイベントに工夫はしているが、春先までは静かな季節になる。外で長時間過ごすのには寒すぎるし、車もスノー・タイヤが必要になる。旅館や観光施設にとっては、あるいは町の財政にとっては、冬の閑散期に客を呼ぶのが次の課題だが、住人としては冬だけは静かなままであってほしいと思う。

2003年11月3日月曜日

キャロリン・マーヴィン『古いメディアが新しかった時』 (新曜社)

 

media2.jpeg・学生の卒論から若手の研究者の業績まで、携帯電話やインターネットをテーマにするものが多い。それだけ身近なものであり、また注目に値するものであることは否定しない。けれども、そのあまりに近視眼的な発想や関心の持ち方にうんざりすることも少なくない。彼らの主張は要するに、携帯電話やインターネットが人間関係やコミュニケーションの仕方を根底から変えてしまった、あるいはしまいそうだということにつきる。確かにそういう一面は目立つのだが、だからこそ、さまざまなコミュニケーション手段の開発のたびに同じような指摘がくり返されてきたことを、歴史を辿って見直してみるべきだと言いたくなる。

・目新しいものを見るときには、かえって古いものに目を向けて新旧の比較をしてみる必要がある。最近そんな思いをますます強くしているが、本書はそのような関心にぴったりの本である。それは何よりタイトルに示されている。『古いメディアが新しかった時』。明解でしかも好奇心をそそる題名だと思う。著者のキャロリン・マーヴィンはアメリカ人で、彼女が注目するのは一九世紀末に普及した電気とそれを使ったさまざまな技術である。電信、電話、電灯、映画、あるいは蓄音機………。この本を読んでまず気づかされるのは、百年前の人びとが新しい技術に出会ったときにもった驚きや疑問、あるいは考えや行動が、現在の携帯やインターネットのそれに奇妙なほどに類似していることである。

・たとえば、今ここにいない人の声を聞くことができたり、人やものの動きがスクリーンに映し出されることに驚く人はすでにいない。しかし、持ち運びできる小さな電話の出現やパソコンの登場、あるいはインターネットの普及に際して感じた驚きや疑問や不安は、多くの人に共通した経験として今なお進行中のことである。その間にすぎた百年が示すのは、技術の進化であって、人びとが実感する、新しいものに対する驚きや疑問、あるいは不安ではない。この本を読んで感じるおもしろさは何よりそこにあるし、新しいメディアの研究には、古いメディアが新しかった時代を知ることが不可欠であることをあらためて教えてくれる。

・パソコンの普及時によく見られたのは、パソコンの知識や技術による階層化だった。コンピュータのハードやソフトの専門家がいて、それを雑誌や新聞でわかりやすく解説する人がいる。次にいるのはそのような知識をもとにいちはやくパソコンを自分の道具として使いこなす人だし、その外側には使いたいけどむずかしそうと、しり込みする人たちがいた。そしてさらにその外側には、拒絶する人や無関係な人がいる。そんな階層化のなかで人びとがする議論や吹聴や言い訳がおもしろかったが、この本の中でも、一九世紀の末には電気や科学技術をめぐっていくつもの階層化が出現したことが指摘されている。

・耳慣れない専門用語とそれを翻訳することばによってできあがった区分けを、この本では「テクスト共同体」という用語で説明している。専門用語をめぐるエリート層の形成とその大衆化の関係、いちはやくそのノウハウやリテラシーを身につけた者の優越感と得体のしれないものに対して不信感をつのらせる者。今では古くなってしまったメディアや技術が新しいものとして登場したときに与えた衝撃は、最近のITの比ではない。膨大な資料から掘りおこした多くの実例を読むと、そのことがよくわかる。

・本書には電信や電話、電灯、ネオンサイン、あるいは電気そのものについて、作り話ではないかと思わせるような笑い話がいくつも紹介されている。色恋沙汰のうわさ話が電話によって村中にあっという間に広まる話。モールス信号をつかったひそひそ話。病気が電話で感染するのではという恐怖。階級や家庭の垣根をたやすく越えるという不安感。電気カクテル。ボトル詰めされた電気砲弾。街や遺跡や商店のライトアップ。あるいは月面への光の投射や宇宙人との交信………。

・電気技術がもたらす豊かなコミュニケーションが世界中の争いごとを解決する。こんな予測もまことしやかに語られたようだが、二〇世紀には二つの大戦があり、ナショナリズムやイデオロギーの対立が続いた。あるいは、映画、ラジオ、テレビのようなマス・メディアが発達し、メディア研究もマスに偏重しておこなわれた。そこからさらに、イデオロギーの終焉やボーダレス化が指摘され、携帯やインターネットがメディアの主役になろうとしている現在に続く。この本を読むと、そんな長い時間でメディアを考え直してみたくなるが、それだけに、一九八八年に書かれたこの本は、できればもう少し早く、携帯やインターネットが普及する前に翻訳してほしかったと思う。
 
(この書評は『図書新聞』の依頼で書いたものです。) (2003.11.03)

2003年10月27日月曜日

ジョニー・デップの映画

 

・最初に見たジョニー・デップの映画は『デッド・マン』(1995年)だった。ジム・ジャームッシュが監督をして音楽はニール・ヤング。サントラ盤のCDは買って音楽だけは聞いていたからずっと興味があった。けれども、見たのは何年もたってからだった。白人の若者がインディアンの世界に入りこんでさまざまな体験をし、さまざまな人と出会う。「若者の旅、肉体的、精神的になじみのない世界に入り込む物語」。デップは無口でセリフらしいセリフはなく、しかも喋っても小声でわかりにくかった。セリフのわかりにくさはジム・ジャームッシュの映画の作り方でもあるが、ちょっと癖のある役者だと思った。もちろん、第一印象は悪くなかった。
・ぼくはその時、おもしろい俳優を見つけたと思ったが、この映画が彼のデビュー作というわけではない。あらためて調べてみると、これ以前にすでに『クライ・ベイビー』(1990年)で主演していて、『シザー・ハンド』(1990年)や『エド・ウッド』(1994年)でも主演だ。『プラトーン』(1986年)は記憶にのこる映画だが、そこにも出ていたというが、まったく印象がない。1963年生まれだから現在40歳。20代の後半から主演してたのだから、気づくのが遅かったというほかはない。
・『デッド・マン』の次に見て面白かったのは『スリーピーホロー』(1999年)。18世紀末のニューヨーク近郊の村で起こる「首なし連続殺人」の捜査にやってきたデップが見た犯人は「首なしの騎士」。合理的な思考ではとらえきれない世界と遭遇して、臆病さと使命感のあいだで揺れ動くデップの心と行動。デップはもちろんだが、この映画はなかなかよくできていると思った。
・ジョニー・デップにはインディアンの血が流れているが、『ブレイブ』(1997年)では居留地で暮らす、仕事も夢もない若者を演じている。妻と二人の子どもがいて、盗みなどで何度も投獄されるという現状だが、殺人を実写する映画への出演の話を持ちかけられてひきうける。もちろん大金とひきかえで、映画は処刑までに残された7日間を家族や居留地の仲間と過ごす彼を映し出す。絶望や怒りをしまいこんだ寡黙な表情。マーロン・ブランドが共演した以外には派手さのほとんどない映画だが、デップ自らの監督ということもあわせて、アメリカ・インディアンの現状が虚飾なく描きだされていると思った。
・『ギルバート・グレイプ』(1993年)はデカプリオとの共演。しかし、話はやっぱり地味で、知恵遅れの弟(デカプリオ)と過食症の母、それに2人の姉妹の面倒を見る青年の役で、舞台がアイオワの田舎町だったこともあって、家族を支えるために夢を持てない、もってもどうにもならないジレンマをうまく演じていた。アメリカ中のどこにでも転がっていそうで、映画にはなりそうもない話。
・ そのほかに見ているのは前回紹介したばかりの『耳に残るは君の歌声』2000 年と『ブロウ』2001年。『耳に残るは君の歌声』はパリに住むジプシーで、ユダヤ人のためにロシアから逃れてきた少女と出会い、彼女を助ける脇役だが、パリを馬に乗って駆け回る姿は格好良かった。また『ブロウ』でのマリファナで大もうけする麻薬ディーラー役も、晩年の落ちぶれていく様子や、刑務所で娘が面会に来ることだけを信じて生きる姿が、肥満した体型とあわせて情けなくてよかった。
・デップは『ショコラ』や『パイレ-ツ・オブ・ザ・カリビアン』などで、影のある寡黙な青年とはちがう役どころを演じている。新作の『Once Upon a Time in Mexico』も公開前から話題になっていて、ビッグ・スターになりつつあるといった感じだ。ジャック・ニコルソンやロバート・デ・ニーロがそうであったように、年齢とともに役の幅を広げていくのは悪いことではないと思う。けれども、それは映画を通して彼が表現したいことや主張したいことが曖昧になることとひきかえになる。彼の持ち味は、マイノリティや日陰の存在を淡々と演じて、その存在を強く印象づけるところにある。これからもそんな役どころを演じる映画ができるのだろうか。
・デップは最近「アメリカは愚かで攻撃的な子犬だ」という発言をして話題になっている。「アメリカは間抜けだ。攻撃的で、周囲に危害を与える大きな牙を持った愚かな子犬だ」ときわめて率直だが、その後ですぐ「わたしは国を愛し、国に大きな希望を持つアメリカ人。だからアメリカについて率直に語るし、時には批判的な意見も言う」と釈明もしている。
・アメリカ人だがインディアンの血を受け継いでいること。映画俳優としてハリウッドで育てられたが、アメリカ以外の国で多くのファンを獲得したこと。現在はフランスに住んでいること。大スターになりつつある現状と合わせて、デップという俳優がこれからどんなふうになっていくのか、楽しみでもあり、また心配でもある。

2003年10月20日月曜日

『ポピュラー文化論を学ぶ人のために』への反応

  

『ポピュラー文化論を学ぶ人のために』が出版されてから1カ月近くたちました。まだ書評などはでていませんが、メールやハガキでの反応は届いています。すべて献呈した方々からのもので、内容にふれたものはほとんどありません。またBBSにも何人かの方に書き込んでいただきました。
反応があるというのはうれしいものです。すぐに返事をくれる方には感謝!感謝ですが、実は、ぼくは本をもらっても返事を出さないことの方が多いのです。おもしろそうなものなら読んでから、ひょっとしたらレビューの材料になるかも、などと思いつつ時間がたって返事をしそこなう。申し訳ないと思いつつ、このパターンをくり返しています。ですから、献呈して返事が来ないからと言って、腹を立てたりもしません。こちらが勝手に送りつけたのですから、返事はないのが当たり前。ただ、じぶんが送り手になるたびに、たとえ読みそうにない本でも、すぐにお礼のハガキやメールを出さねばと戒めることにはしています。今回もそんな気持を新たにしました。

この頃の学生さんにうまく受け入れてもらえるかしら、と気になりますが、なにはともあれお仕事一段落されたことお目出とうございます。(S.N.)

ハードからポップまでの議論がバランスよく配置されつつ、深味もあって、読み応えがありそうです。学生さんへの紹介というよりは、まずは自分が読みたいという感じです。(M.F.)

理論的な入門書として、たいへん便利な本のように思われます。ありがとうございました。(S.I.)

なかなか出ないので、なにかあったのかと心配していました。最初と最後を読み、目次をながめ、索引や文献案内を見ながら、丁寧にお仕事をされたことを感じました。このようなテーマで卒論を考える学生さんはおおく、彼らにとってはとても役に立つ文献だと思います。(T.H.)

文化論の本は、ジャンル別概説、総論カットみたいな本が多く、この書物はそういう不足を補う本として、全国の大学で活用されることになると思います。私も来年文化社会学の講義を担当するのですが、そこで活用させていただくつもりです。(M.I.)

私のゼミには音楽をはじめとするポピュラー文化の研究で卒論を書きたいという学生が、毎年なぜか多いのです。いつも先生の著書を勧めているのですが、また一冊が加わり、助かります。というか、学生ではなく私も少しこの分野を勉強しないと、指導が苦しくなりつつあるのです、とほほ。(K.N.)

原書を読んだことがあったのですが、取り上げられた素材についての理解がなかなか難しく、面白かったのですが、少々難渋した覚えがあります。さっと拝見したところ、「なるほど、そうだったのか」と、感じたところがいくつかありました。これから、しっかりと拝読して、勉強させていただきます。(N.K.)

新刊案内で見かけ、購入しようと思っていただけに、非常にうれしく思っております。(M.M.)

メディア・スタディーズを学ぶうえで不可欠な1冊ですので、翻訳していただいたことを心から嬉しく思っております。多くの学生の人たちに読んでほしい本ですから。私のところでも、さっそく、院生の人たちとのゼミで一緒に読んでいくことに決めました。(M.S.)

早速後期の基礎ゼミ(1年向け)でテキストに指定しました。生協に注文してきました。今ぱらぱらとめくってみたのですが、1年生にはちょっと難しいかもしれません。 頑張って読ませます(笑)。(Y.N.)

渡辺さんって、カルスタだったんですね。(C.U)

ずいぶん分厚い本なんですね。翻訳もさぞかしご苦労なさったことと思います。授業の参考に使わせていただきます。(M.S.)
このほかに、BBSに直接書き込んでくれた方もありますし、学会その他で直接お会いしたときにお礼のことばをかけてくださった方もあります。個人的な文面だけの方もいましたが、今回は載せないことにしました。それから、僕はカルスタではありません。読めばわかりますが、著者のストリナチもカルスタにはちょっと距離をおいたところに自分を位置づけているようです。目新しい「知」を上っ面で囃し立ててすぐに使い捨ててしまうのが日本の特徴ですが、ポピュラー文化を考える上で必要な理論をきちっと整理したものが必要だと思いました。
なお、BBSでは、この本の製作過程を編集者の中川さんとのやりとりで紹介しています。関心のある方はぜひ、お訪ねください。

2003年10月13日月曜日

Neil Young "Are You Passionate?"

 

・ニール・ヤングが武道館でコンサートをやる。去年の「フジロック」に来ていたから1年ぶりだが、単独でのコンサートは久しぶりだろう。残念ながら、僕はこれまで一度も彼のコンサートには行っていない。だから、今度ばかりは無理をしてでも行こうかと思っているのだが、例によって、帰り道のことを考えると気が重くなってしまう。ルー・リードの時も直前まで、行こうかどうしようか迷っていて、結局くたびれるからやめようということになってしまった。あとでコンサート評などを読むと、かなりよかったようで、行けばよかったかな、と少し反省している。

・もっとも、コンサートに行くときにはだれであれ、予習をするのがこれまでの習慣になっていて、ルー・リードもこの間あらためてずいぶん聴いた。で今はニール・ヤングを聴き始めている。この習慣は、ディランが最初に日本に来たときからだと思う。一曲も聞き逃してはいけないと、歌詞やメロディを頭にたたき込むようにして聴いた。それでも、アレンジを気ままに変えるディランのコンサートでは、何の曲だかわからないものがいくつもあった。

・ニール・ヤングはいつでも同じように歌うから、知っている曲はわかるだろうと思う。ただし、バックのクレイジー・ホースとギンギンに乗ってしまうと何がなんだかわからなくなることもあるかもしれない。僕は彼の歌は断然、ソロで生ギターでやるのが好きだ。最近ではニューヨークの惨事のあとにしたテレビの特番で歌った「イマジン」が今でも忘れられないほど印象深く残っている。あとは『フィラデルフィア』のエンディング・テーマとか、MTVでやった「アンプラグド」のコンサート盤などは、部屋や車のなかで時折聴いている。だから、武道館という会場が「絶対行こう」と思えない大きな理由でもある。

young6.jpeg・来日が近いせいか、古いアルバムが何枚も新装されて発売されたり、予定されている。9月に2枚組の新作"Green Dale"も出たようだが、まだ買っていない。僕がもっているCDで一番新しいのは"Are You Passinate?"だ。彼の歌には二面性があって、高音で鳴くように歌う静かなものと、クレイジーホースをバックに絶叫するものがある。静かなものは「ロンリー」とか「ヘルプ」といったことばがよく出てきて、聴いていて情けない気になってしまうが、"Are You Passinate?"は全曲がそんな感じだ。

・曲名も「失望さん」「やめろ」「家に帰ろ」「旧友」「癒し人」といかにもで、彼の歌はデビューの頃から一貫して変わっていない。メロディにはどことなく演歌くさいものもあって、そこにテンガロン・ハットで泣くように歌う彼の姿をかぶせると、日本人に受ける理由がよくわかる気がする。頭ははげて、ずいぶん太ったから、けっして格好いいとは言えないが、雰囲気と声は若い頃のままで、それはディランとは対照的なところでもある。歌が変わらないからいいともいえるし、年相応という面がないから不満だとも言える。

young7.jpeg・以前にぼくのHPに興味をもった人が大学に会いに来て、その時に自分がプロデュースしたCDをもってきた。中身はニール・ヤングへのトリビュートで、ヤングの歌を何人かの人たちが集まって歌うというものだった。他にもあるのかもしれないが、ミュージシャンを志す人にとってニール・ヤングが根強い人気をもっていることを示すアルバムだと思った。ちなみにこのアルバムのタイトルは"Mirror Ball Songs"で、問い合わせ先はwww.elesal.com。

・このコラムで取り上げるミュージシャンはどうしても、ぼくと同世代かちょっと上の人たちが多くなってしまう。それは僕の好み、聞き慣れた音楽に対する愛着という点からも仕方がないのだと思う。けれども、ロックの第一世代のがんばりがずーっと目立ってきていることも確かだろう。この一年で僕がとりあげたもののなかにもスプリングスティーン、パティ・スミス、トム・ウェイツといった人たちばかりが目立つ。

dylan7.jpeg・ 前回紹介したルー・リードのアルバムは意欲的に新境地を開拓しようとしたものであることがわかるし、ディランはまた映画作りに参加して"Masked and Anonymous"というサントラ盤を出した。映画のできはひどく不評だが、アルバム自体は結構おもしろい。「ライク・ア・ローリング・ストーン」がスペイン語のラップに作り直されていたり、他のミュージシャンが歌う「セニョール」や「珈琲をもう一杯」などにはあっと驚くほどの新鮮みがある。他にもスティングのニュー・アルバムももうすぐ出るようだ。ロック音楽は完全に行くところまで行ってしまって、なかなか先に進む道が出てこない。新しい方向を探るのは若い世代の使命だと思うが、還暦を過ぎた、あるいはそれに近い人たちばかりが目立つのは、ちょっと見通しが暗いと言わざるをえない気がする。(2003.10.13)

2003年10月6日月曜日

野茂のMLB


・今年のMLBが終わった。プレイ・オフの最中で、ヤンキースの松井もがんばっている。僕ももちろん関心がないわけではない。けれども、野茂のゲームが終われば、そこでシーズンも終わる。これは彼が米国に行ったとき以来変わらない感覚だが、今年はその気持ちが一層強かった。ドジャースがプレイ・オフに出られなくて悔しかったし、チーム力のなさが歯がゆかった。そこで防御率2点台でずっとがんばった野茂のひたむきな投球には、毎年のことながら感心し、感激した。

・16勝(6位)13敗、防御率3.09(5位)、三振数177(9位)、投球回数218.1(6位)、被打率0.223(4位)。日米通算で3000個の三振を奪い、シーズンはじめに100勝をして通算では114勝、日本での勝利数と合わせると192勝で、来年には200勝を越える。野球は記録のスポーツで、記録は積み重ねのうえに成り立つが、野茂の残した数字がいよいよすごいものになってきた。名実ともに、日本はもちろん、メジャー・リーグを代表する投手である。

・野茂は今年13敗したが、そこでドジャースがあげた点は13点。ちょうど一試合に1点で、これでは勝てるわけがない。ドジャースのピッチング・コーチはチームがもっと援護をしていれば20勝以上をあげてサイ・ヤング賞の候補になったはずといったが、たら、れば、はいくら言っても仕方がない。しかし、見ていてじりじりする試合の何と多かったことか。相手に先に1点とられたら負け。そんなプレッシャーのなかで、よくもまあ、我慢して投げたものだと、今さらながらに思う。

・野茂は今年35才になった。もう若くはない。というよりは、あと何年できるだろうかという年齢になってきた。速球派で熱投型だから、力が衰えたらもたないだろうと思ってきたが、今年は投球術の巧みさに驚いたシーズンでもあった。コントロールがよくなった。ストレートも速さを微妙に変え、フォークでストライクがとれるようになった。球速は並みだが打者は振り遅れたり当たり損ないだったりと、見ていて不思議な感じがした。もう完全に技巧派で、彼は不器用だとばっかり思っていた僕には、ちょっとした驚きだった。で、これなら40才までいけるだろうと確信もした。

2003年9月29日月曜日

おかしな天気


forest28-1.jpeg・後期は18日からはじまったが、13-15日の3日間院の集中講義があって、僕の夏休みは1週間短かった。12名ほどの学生が集まり、「感情とコミュニケーション」をテーマに話をした。課題図書を決めて報告してもらったのだが、社会人が多いせいで、自分の問題に引きよせて発表をする学生が多かった。おもしろかったが、現役の学生との格差が年々広がっていて、これは何とかしなければいけない状況になったと強く感じた。目的意識の有無はもちろんだが、基礎的な文献についての知識も現役の学生は全然かなわない。
・ところで、集中をやった3日間、東京の気温は連日33-34度。この夏にもなかった暑さで、僕は東京に泊まらずに涼を求めて河口湖に毎日帰った。おかげで、寝不足と前回書いた頭痛に悩まされたが、集中講義は楽しい時間だった。学生にとってもたぶん有意義だったろうと思う。
・ところが、大学がはじまるとすぐに、気温が一気に10度以上も下がった。東京でも20度以下の日があったし、河口湖では最低気温が6度にまで下がるようになった。夜はもちろん、昼間も灯油ストーブをつけはじめている。先週まで汗をかいていたのに今度は震えている。今年の季節は本当におかしい。めちゃくちゃだ。
・そのせいか、植えた朝顔がまだ花を咲かせている。コスモスはあちこちで咲いているし、ススキの穂もいっぱいで、栗の木も実をつけはじめている。植物の季節はおおむね秋なのだが、夏の名残も消えていない。外に出しておいた観葉植物を慌てて家の中に入れた。こんな気温だとぼちぼち紅葉もはじまるかもしれない。もっとも、また突然暑くなったりするかもしれないから、先のことはわからない。

forest28-2.jpeg・生ゴミを埋めるために、朝寒いのに薄着で庭に出た。で、スコップで土をすくおうした瞬間にぎっくり腰になった。暑い、寒いの急変に耐えられなかったのか、急に忙しくなったせいか、またやってしまった。ちょうど半年ぶりで、歩くのや坐るのはもちろん、寝ているのもままならない。とにかくじっとして3日間辛抱すること。何度もやって身につけた教訓である。
・ちょうど、たまった仕事がたくさんある。学会の査読が3本。10月はじめには結果を出さなければならない。分厚い本の書評の依頼も来た。「肉体論」の原稿も最後にもうちょっと書き加えなければならない。日本社会学会(10月12- 13日:中央大学)の部会の司会も頼まれたから、送られてきた発表の要旨を読んでおかなければならない。何しろ発表者は7名で司会はひとりなのだ。報告者が激増しているせいだと思うが、こんな過重な労働を強いたのではだれも引き受けうけなくなってしまう。僕ももう次回からは絶対、断ることにする。というより、今回も断ればよかったと大反省しているところだ。何年か前にも苦労してこりごりしていたのだが、ぜひ引き受けてほしいという文面に迷いが出てしまった。

・本当は、学部のゼミの学生の卒論や大学院の修士に博士論文が手もとにたくさんあるはずだった。それがまだほとんど来ていない。やる気がないのか、力がないのか、それとも指導が悪いのか。これから年末に近づくにつれて、イライラのつのる日々が続きそうで、そのためにも、腰はしっかりなおしておかなければと思っている。
・日が早く暮れるようになってわが家のムササビの出勤時間も早くなった。夜7時頃になると、屋根をコトコト走り回る。で朝の6時頃にまたコトコトさせて帰宅。そのほかに、去年何度かみかけたヒメネズミが今年は頻繁に家の中を走るようになった。どこからかやってきて、リビングの隅を駆け抜けて一目散に台所にむかう。これも夜の9時前後で、こちらはどこかの宿からわが家への出勤だ。乾物類はきちっとしまってあるから食べるものはないはずなのだが、何か目当てのものがあるのだろうか。灰色で小さくてかわいいのだが、見つけるとやっぱり、追いかけて、バタバタ音をさせたり猫の鳴き声をしたりして脅したくなってしまう。リスが来たなら餌を用意してあげるはずで、それほど変わらないのにネズミは敵視してしまう。考えればおかしな話だ。

2003年9月22日月曜日

オリヴァー・サックス『サックス博士の片頭痛大全』(ハヤカワ文庫)

ここ数年、頭痛に悩まされている。といっても「頭痛の種」といった比喩の話ではない。正真正銘の頭痛だ。原因の一つは車による通勤。家のある河口湖は海抜800mで大学はたぶん数十メートル。この高低差にいつまでたっても順応できなくて困っている。耳がつまり、頭が重くなる。仕事をしているあいだはあまり気にならないが、家に帰ると目の奥やこめかみが痛い。もちろん、大学でくたびれることも、往復3時間のドライブで目が疲れることも原因だろう。


とは言え、ぐっすり眠れば翌朝にはすっきりしてしまうから、別に薬も飲まないし、病院にも行っていない。子どもの頃は車酔いをよくしていたし、今でも飛行機に乗ればかならず耳が痛くなる。老眼がはじまって読書がつらくなったし、酒を飲んでも頭が痛くなるから、これはもう年齢や体質だとあきらめるしかないのだが、それでも何とか対処法を見つけたい。そんなふうに思っていたら、気になる本があった。
オリヴァー・サックスの書いた『サックス博士の片頭痛大全』。彼は『妻を帽子と間違えた男』や『レナードの朝』などの著書がある脳神経科医だ。『レナードの朝』は映画になっていてロバート・デニーロがレナードになり、医者はロビン・ウィリアムズだった。ドラマチックに描いた映画とは違って、原作は症例の詳細な報告で、これはこれでなかなかおもしろい。


『偏頭痛大全』も多数のさまざまな症例が登場する。それを読むと僕の頭痛などは大したことのないかわいいものだと思えるほどだ。しかしもっと驚くのは、頭痛はずっと病気としてあつかわれてこなかったという文章でこの本がはじまっていることだ。「一般的には、片頭痛は傷害を引きおこさない頭痛の一形態であり、忙しい医師の手を他の疾患よりもよけいに煩わせるものとみなされている。」片頭痛の記述は2000年前から存在するにもかかわらず、ロンドンの病院で片頭痛の治療がはじまったのは1970年になってからだそうで、この悩ましい頭痛に医学はほとんど注意を払ってこなかったというのだ。

片頭痛性の頭痛が起こる場所は特にこめかみ、眼窩の上部、前頭部、眼球の後部、頭頂部、耳介の後部、そして後頭部である。
確かにそうだ。こめかみ、目の奥、頭頂部、そして後頭部。僕は胃や十二指腸にも持病をかかえていて、時折、きりきり痛むことがある。頭痛との関連はないと思っているのだが、本には「胃痛型片頭痛」といった症状も紹介されているから、ひょっとしたら関係しているのかもしれない。病気についての本というのは、読めば読むほど気になるものだが、次のような文章にはかなり納得した。
とくに負けん気が強くてしつこい性格の患者は、片頭痛に譲歩しない。したがって普通の患者は、重い通常型片頭痛を起こすと気力を失い、休息をとりたがるのであるが、こうした患者は無理に仕事や生活を普段どおり続けることになる。
頭が痛くなったら、何も考えず、仕事もせず、眠るにかぎるということだ。たとえばぼくは原稿の締切に追われてイライラするという状況にはとても耐えられない。胃がきりきり痛んでくるし、頭も痛くなる。若い頃に何度も懲りているから、仕事は早め、早めに片づける習慣が身についている。しかし、イライラする原因はもちろん、自分のことばかりでなく他人にも関係する。こちらが期待するとおりに仕事をしない、勉強をしない、気が利かない。そういう人に対するイライラは、直接怒ったからといっておさまるものではない。だからどうしても、人にはたよらず、できることは自分でやってしまうことになる。自分で肩代わりできないものについては、自分のことではないと突き放すしかないのだが、そういう輩にかぎって、たよってくるから始末がわるい。


『偏頭痛大全』の最後には片頭痛の治療や薬についての記述もある。疲れたら眠ること、イライラしないこととあたりまえだが、薬のなかにカフェインがあって、珈琲や紅茶を多めに飲みなさいと書いてあった。もう全部やってることで、病院に行って医師の判断を仰ぐ気もないし、市販の薬など飲みたくないから、さほど役にはたたなかったが、世の中にはさまざまな頭痛の症状があるものだと今さらながらに感心してしまった。

2003年9月15日月曜日

ナチとユダヤの物語

 

・時折、地元に一軒だけある映画館に出かけるが、そこで「戦場のピアニスト」と「めぐりあう時間たち」を見た。どちらもよかったからレビューを書こうと思ったのだが、その機会を逸してそのままにしてしまっていた。
・映画はBSで毎日のように見ているが、映画館で見るとやはり、ちょっと印象が違う。画面も音も大きいし、途中で席を外すこともない。何よりお金を払ってみようと思ったものだから、期待度も大きい。当然、その善し悪しについて考えたくなる。「めぐりあう時間たち」は特に書こうと思ったのだが、その前に原作を読んでからと考えて、時間が過ぎてしまった。もちろん原作もまだ読み終えてはいない。
・「戦場のピアニスト」はロマン・ポランスキーが監督している。好きな監督の一人だから期待して見た。素直な話で彼らしくないなと思ったが、悪くはない。そんな感じだった。ワルシャワの街が占領されると、突然バリケードができて、ユダヤ人が集められる。その街の様子がもつすごさは大きな画面ならばこそだし、連合軍との戦いで廃墟になった街の光景もすごかった。そこで生き延びた一人のピアニスト。それにしてもナチとユダヤをテーマにした物語は尽きることがない。
・夏休みに入ってBSで音楽とナチとユダヤをテーマにした映画を見た。「暗い日曜日」。シャンソンとして有名な曲の題名でもある。映画はその曲の誕生と作者やその友人たちとの数奇な運命を描きだしていた。舞台はハンガリーのブタペストで、登場人物はレストラン「サボー」を経営するユダヤ人のラズロとその恋人兼共同経営者のイロナ、その店に雇われるピアニストのアンドラーシュ、それに常連客のドイツ人のハンスだ。
・レストランはピアノが人気を呼んで繁盛する。ラズロは喜ぶがイロナとアンドラーシュの仲が気にもなる。奇妙な三角関係がはじまる。アンドラーシュがイロナに曲をプレゼントする。それが「暗い日曜日」。店で演奏されるこの曲がさらに評判になって、店はますます繁盛する。ラズロは三人の関係を受けいれることにする。男同士の嫉妬と友情。しかしイロナは二人を同時に愛せると思う。ここに常連客のハンスが加わって、イロナに求愛するが彼女ははっきりと拒絶する。断られたハンスは自殺を図って川に飛びこむが、ラズロに助けられる。
・「暗い日曜日」は曲の良さというだけでなく、聞いた人が死に誘われるといおうことでさらに評判になる。ハンスが川に飛びこんだのも、店でこの曲を聴いた直後だった。曲がレコードになってヨーロッパに広がると、自殺者の数も増えて、それが大きなニュースになって報じられるようになる。店はますます有名になって繁盛する。しかし、ドイツ軍のハンガリー侵攻とユダヤ人狩りもはじまる。ドイツ軍の司令官としてハンスが戻ってくる。彼はイロナへの思いを断ち切れないままで、ラズロとアンドラーシュの抹殺を画策する。ラズロは強制収容所送り、アンドラーシュは自殺………。
・この映画にリアリティをもたせているのは第一に、ユダヤとナチの物語だが、イロナを演じたエリカ・マロジャーンの魅力も大きい。彼女はハンガリーの女優でほとんど知られていないが、マドンナにちょっと感じが似ていて、妖艶さと心の強さをもっている。彼女に夢中になる三人の男たちが、そのたがいの関係のなかでくり広げる心理劇が真に迫っているのは、イロナの魅力があればこそだと思った。
・映画を見てすぐに「暗い日曜日」のサントラ盤を注文した。同時に「暗い日曜日」が入ったCDの検索もしたら、以前に見た「耳に残るは君の歌声」も見つけた。ジョニー・デップがパリに住むロマの集団のリーダーで登場する映画で、やはりナチの侵略とユダヤやロマの弾圧が絡んでいる。ナチはロマ(→)をユダヤ以上に嫌ったのだが、それはユダヤ人の優秀さに対する恐れとは違って、漂泊の民族を軽蔑し忌み嫌ったからだ。
・しかし、この映画に登場するロマは、パリの街を馬に乗って走り去るジョニー・デップに象徴されるように気高くて格好いい。彼はアメリカ・インディアンの血を受け継いでいるが、ロマの役もいい。デップの映画をはじめて見たのはジム・ジャームッシュの「Dead Man」で、その無口で無表情のところが妙に気に入ったのだが、最近は売れすぎて、ちょっと食傷気味だ。

2003年9月8日月曜日

バイクとお別れ


bike1.jpeg・長年乗り慣れたバイクを手放した。河口湖に引っ越してからあまり乗っていない。特に冬場の4カ月ぐらいは路面の積雪や凍結で動かせないから、1年に 1000kmも走らなかった。買ってから10年以上たつがまだまだしっかり走る。このまま置きっぱなしにしたのではもったいないし、バイクがかわいそうだ。そんな気持をずーっと感じていた。
・車種はホンダのトランザルプ(アルプス越)で排気量は400cc。オン・オフ兼用のタイプで、名前のしめすとおり、山道などにはぴったりのバイクだ。ドイツ・ホンダが設計した車種でもともとは650ccのエンジンを積んでいて、それを日本で400ccに作り直したものだ。一度モデルチェンジがあったが、現在では生産は中止されている。それほど売れた車種ではないから通りすがりに見かけるということもめったになかった。
・日本では人気がなかったのだろうと思ってネットで検索すると、結構マニアの頁があった。中古の車種のなかでは人気も高いようだ。売りに出そうかとも考えたが、それも面倒くさい。で、近くの人に譲ることにした。もうすぐ車検切で、タイヤなどの交換もしなければならないから、ただにして、せいぜい大事につかって、事故を起こさないようにお願いした。
・僕がバイクに乗りだしたのは大学生の時からだから、もうバイク歴は30年を越える。そのあいだに乗ったバイクは5台ほどだ。30代の後半まではそのバイクでどこにでも行っていた。40代になって車を主に使うようになってバイクはサブの乗り物になったが、それでも、京都にいる頃にはなくてはならない必需品だった。バイクは駐車場を気にする必要がないから、京都や大阪の街中に行くときには便利だった。

bike2.jpeg・河口湖に引っ越したら、野山のツーリングに使おうと思った。実際あちこちには行ったのだが、日常的に使わないとだんだん乗る機会は減ってしまう。それに冬場の寒さである。ここ1年はバッテリーが上がらないように時折湖畔を一周といった程度で、駐車しっぱなしのバイクを見るのがつらく感じさえした。去年から50肩になって右手が思うように動かないから、バイクの引き回しもままならない。何しろ200kgを越える車体なのだ。
・で、譲渡契約書を交わして持っていってもらうことにしたのだが、なくなる前に何度か乗っておこうと思って、今まで行ったことのない道に出かけることにした。行こうと思って行ってないところが2カ所ある。一つは富士山の旧登山道。もう一つは下部温泉から朝霧高原に抜ける山越えの道だ。富士山は時間がかかるし、準備も大変だから下部温泉に行くことにした。

・河口湖から下部温泉に行くには本栖湖を通って山を下る道がある。国道300号線(本栖道)で、高低差1000mをくねくねと一気に下る。下部温泉につくと源泉館を過ぎて、今度は急な登り道。かなり上がったところに数件の集落があって、それを過ぎると断崖絶壁になった。はるか下に下部川。ところどころに崖崩れがあり、工事中も数カ所。霧も出てきて雨も降り始めた。時計の高度計を見ると1400m。1時間ちょっとで1000m下って1200m 上がったことになる。で、峠のトンネル。
・休まず入ると真っ暗で霧が立ちこめているから何も見えない。ライトが照らすのはせいぜい5mほど先で、ほとんど手探り状態で真っ直ぐ進む。緊張と恐怖。しかしもう止まって後戻りするわけにはいかない。そんなに長いトンネルではないはずだが、いつまでたっても出口は見えてこない。天井からは滝のような水。対向車が来たらまちがいなく正面衝突だ。そんな不安が数分。薄明かりが見えたときには本当にほっとした。

・2時間ほどのツーリングを楽しんで、このバイクに乗るのもこれが最後と思ったら、ちょっといとおしくなった。事故も故障もなく、あちこち運んでくれてありがとう。今度は別の人を乗せて、もっともっと走ってください。さようなら。

2003年9月1日月曜日

Lou Reed "the Raven"

 

reed4.jpeg・ルー・リードの新作"The Raven"はエドガー・アラン・ポーの同名の詩を題材にしている。『大鴉』。2枚組で参加しているメンバーがすごい。デヴィッド・ボーイ、オーネット・コールマン、ウィリアム・デフォー等々で2001年に舞台で上演した作品のようだ。だから、通常のアルバムとちがって、詩の朗読や歌のない演奏があり、時折、ルー・リードの歌が入るという構成になっている。輸入盤には歌詞がついていないから、聴いているだけだといつもとちがってちょっと肩すかしといった感じだった。で、さっそく、ネットで歌詞を探して読みながら聴きなおした。

・エドガー・アラン・ポーは19世紀前半に小説や詩を書いたアメリカを代表する作家で、日本の江戸川乱歩やフランスのボードレールに影響をあたえた人として知られている。映画が登場するとすぐに「モルグ街の殺人」などが映画化されて探偵小説、推理小説のパイオニアとして有名になるが、生存中は貧困生活に苦しんだようだ。ポーは1849年に40歳で死んでいる。ボルチモアの路上で泥酔して倒れているところを助けられたが、数日後に病院で死んだと言われている。

・リードはそんなポーの人生と彼が残した作品に自分の人生と現在の世界、とりわけニューヨークの状況を重ね合わせているようだ。アルバムのライナーノーツにはつぎのような文章が載っている。

エドガー・アラン・ポーはアメリカの古典的な作家だが、彼が生きていた時代以上に、この新しい世紀に奇妙に波長の合う作家でもある。強迫観念、パラノイア、自滅的な行為がいつも周囲にある。僕はポーを読み直し書き直しておなじ問いかけをしてみた。僕はだれ?なぜそうすべきでないことに引きよせられるのか?僕はこの考えと何度も取っ組み合ってきた。破壊願望の衝動、自己屈辱の願望。ぼくの中ではポーはウィリアム・バローズやヒューバート・シェルビーの父だ。僕のメロディーの中にはいつでも彼らの血が流れている。なぜしてはいけないことをしてしまうか?なぜ、手にできないものを愛してしまうのか?なぜまちがいとわかっていることに情熱をかたむけてしまうのか?「まちがい」とは何なのか?僕は再びポーに夢中になった。ことばと音楽、テクストとダンスで彼を生き返らせる機会に出会って、それに思わず飛びついてしまった。

・この2枚組のアルバムの中でルー・リードが歌っているのは46トラックのうちの13曲。ポーの詩を読むのは「大鴉」をふくめてほとんどがウィリアム・デフォーで、バックにはジャズが流される。最初はちぐはぐな組み合わせのように感じたが、何度か聴いているうちに意図がだんだん分かってきた。ポーの詩(19世紀)にビートニクの詩と朗読会の雰囲気(50年代、モダンジャズ)を重ね、そこに自らの音楽の足跡(ヴェルヴェット・アンダーグラウンドから現在まで)を残す。そんな構成をイメージしながら聴きなおすと、これはなかなかいいアルバムだと再認識した。

・ルー・リードは今月、東京と大阪でコンサートをやる。大阪 9/17(水) 大阪厚生年金会館、東京 9/19(金) 東京厚生年金会館、東京 9/20(土) 東京厚生年金会館。僕は1996年のコンサートを大阪で見ているが、これ以来だとすると7年ぶりということになる。ちなみにこのライブのレビューはこのHPでの記念すべき第一回のものである。そんなわけで行きたいのはやまやまだが、ちょうど授業のはじまりで、仕事をしてコンサートを見て、夜中に高速で帰るのではちょっと体力がもちそうもない。でも、チケットは当日でも買えるだろうから、どうするかは直前に決めようと思っている。(2003.09.01)

2003年8月25日月曜日

夏は来なかった


forest27-1.jpeg・八月もあと一週間でおしまいというときになってやっと暑さが訪れた。僕は暑さは大の苦手だが、それでも今年のように肌寒いほどの日が続くと、夏はもっと暑くなければと、ちょっと寂しさも感じていた。もっとも、天気が悪いあいだの気温は東京とほとんど一緒だったから、例年にない冷夏を実感したのは東京に住む人たちだったのかもしれない。
・今年の河口湖の8月の気温は最高が25度程度で、最低は15〜6度。過ごしやすい気温だが、雨ばかりでじめじめしているから、けっして快適ではなかった。それがここ数日、青空が見えはじめて、気温も30度前後にまで上がるようになった。静かにしていてもじっとりと汗をかく。長年京都に住んできたから、そんな感じにならないと夏になった気がしない。

forest27-2.jpeg・子どもが来たから尾花沢産の大きなスイカを買った。播州の素麺も食べた。珈琲も冷やして飲んだ。急いでやらないと夏はまたすぐに逃げていってしまう。そんな感じで、貴重な暑さを味わった。もっとも、去年は堪能した桃が今年はおいしくない。甘くないし、置いておくと熟さずに腐り始めてしまう。雨ばかりで気温が上がらないのだから、無理もないと思うが、生産者にとっては死活問題だろう。そういえば、近くの田んぼは稲穂をつけはじめているが、背丈が低いし、米がつまっていそうもない。
・最近になってニュースが、今年の冷夏が外米を食べた年以来であることに注目して、不作を問題にしはじめている。しかし、今年の天気の不順さは春先からのもので、植木屋さんなどはこんな事はなかったとその時から言っていた。前回のこのコラムでも書いたが、今年の梅雨は連休明けからはじまっていたのに、気象庁はなかなか梅雨入り宣言をしなかったし、今年の夏は例年通りと予想した。おまけに8月のはじめに数日晴れると慌てて梅雨明け宣言である。でお盆の期間はまた肌寒い雨。別に例年通りに区切れ目をつけることはないと思うが、そうしないといけない決まりでもあるのだろうか。

forest27-3.jpeg・この涼しい夏もまた、僕はその大半を家で過ごした。今年こそ野茂の試合を見にロスに行こうと考えたりしていたのだが、翻訳の校正があったし、肉体論(メディアとしてのからだ)の締め切りも気になった。編者の池井望さんからは夏休みにはいるとすぐに、「原稿の方よろしく」という確認メールが入ったのに、ほとんど何も書くことが決まっていない。米国に行って野球を見て、原稿書けませんでしたでは、大目玉を食らってしまう。そんなことが気になったのだ。
・「行けばいいじゃない。一週間ぐらい遊んだって、関係ないでしょ」とパートナーに言われたが、気になるものは気になる。30代の頃とちがってどうも冴えない。ひとりでに浮かんでくるといった感覚がなくなって、むりやり絞り出すという感じがここ数年続いている。才能が涸れたかスランプか、あるいは読書量の減少のためのなか。大学の忙しさのせいにしたくなるが、半分隠遁者のような生活をしはじめて、あれこれ考えることに興味を感じなくなったのかもしれない。

forest27-4.jpeg・もっともこのHPのコラムは毎週欠かさず掲載していて、ちょっと考えただけですぐできてしまう。この文章も、そろそろ書こうかとパソコンの前に坐って1時間ちょっとでここまで来ているのだ。短くて気ままな文章を書いていると、長くて練ったものが書きにくくなるのかもしれない。だったら、このコラムをしばらくやめてみようか、とふと考えたりもする。
・とは言え、原稿は7割程度のところまで何とか進んできた。からだをメディアとして考える。清潔さや健康を過剰に意識する最近の傾向について、からだと衣服の関係について、はだかや性について、病気について、心とからだと感情の関係について考えているが、池井さんからは表層的すぎるとクレームがつくのではと、ちょっと心配している。学生の論文指導ではきついことをズケズケいうが、いわれるのはやっぱり気になるし、へこんでしまう。8月末までには終わらせたいがうまくいくかどうか。

2003年8月18日月曜日

スーエレン・ホイ『清潔文化の誕生』紀伊国屋書店、藤田紘一郎『清潔はビョーキだ』朝日文庫

 

dirt1.jpeg・木に囲まれた生活をするようになって変わったことの一つに生ゴミを捨てなくなったことがある。庭のあちこちに穴を掘っては埋けるようにしたのだ。けっして捨てているわけではない。生ゴミは地中でバクテリアに分解されて土壌の肥やしになる。そこに花や木を植えれば、ゴミは植物の成長の助けになる。何でもないことだが、これが都会の生活では難しい。
・藤田紘一郎の『清潔はビョーキだ』には日本の農業がかつては人糞を肥料にしていて、そのために日本人のおなかのなかには必ず回虫などが住みついていたことが書かれている。このことはもちろん、僕にとっても記憶にあることだ。野菜にまかれた糞には虫の卵がついている。その野菜を食べるから、またおなかのなかで成長する。そのサイクルが便所の水洗化によって一掃された。
・この本によれば、その水洗化が始まった60年代から花粉症やアトピー性皮膚炎の患者が出始めたのだという。もちろんそこには、環境を無菌、無臭状態にするのが清潔で健康な生活には不可欠で、できればじぶんのからだそのものも無菌、無臭にしたい、という考えが伴っていて、清潔であることは文化的な生活の第一の基準になっていった。
・たとえばO-157のような病気が流行すると、小さな子供を持つ親などは特に過敏になって、手を洗ったり、うがいをしたりしてますます清潔であることを心がける。ところが、新しく登場する病気は、清潔にしたために免疫力が低下したことが原因である場合が多いのだ。極端なことをいえば、このような病気にかからないためには、清潔であることにこだわらずに、幼い頃から抵抗力や免疫をつけさせることが一番だということになる。実際、『清潔はビョーキだ』には回虫などには花粉症やアトピー性皮膚炎に対する抗体があると書いてある。
・とは言っても、今さら人糞をまいて寄生虫の卵のついた野菜を作ることもできないだろうし、誰もそれを食べる気にはならないだろう。清潔であることはもはや常識であり、現代の生活文化の大きな柱になっているから、それを外したら、生活の形が土台から崩れ去ってしまう。だから新しい病気の対応策は、新薬の開発と一層の清潔志向ということにならざるをえない。何とも皮肉な現象で、笑い話として片づけたくなるが、病状が深刻である場合も多いから、笑ってはすまされない問題として認識しなければならない。
dirt2.jpeg・スーエレン・ホイの『清潔文化の誕生』には、人びとの生活がなぜ、清潔志向に傾いていったのかという問題が、19世紀にさかのぼって、歴史的に詳しく論じられている。たとえば、移民によってつくられたアメリカでは、人びとは土地の風土病や外からもちこんだ伝染病によって悩まされた。病気の流行の原因は何より、水とゴミや排泄物。だから、町ができ、人が多く住み始めれば、何より問題となるのは上下水道の完備だった。ペスト、コレラ、腸チフス、あるいはマラリアや結核………。これらの病気はすでにその何世紀も前からヨーロッパの人口を半減させるほどに流行しておそれられてきたが、それらが伝染性のものであり、飲む水や排泄物、ゴミ、あるいは蚊や蠅などを媒介にして感染することが明らかになるのは19世紀から20世紀にかけての頃である。
・清潔志向がアメリカで浸透しはじめるのはホイによれば1930年代以降のようだ。それは、学校教育とそこでの衛生教育、それに石鹸や洗剤、自宅用の上下水道、トイレやバスルームなどの普及と重なる。第二次大戦後の50年代になると、洗濯機や冷蔵庫等の家電製品が次々と家庭の必需品になって、そこで生まれ育った人たちには清潔で衛生的な暮らしが当たり前になっていった。このような傾向は日本でも60年代に現実化した。
・清潔志向はその後、清潔であるかどうか、健康的であるかどうかということよりも、清潔に見えること、感じられることという方向に徹底されていく。食品のパック包装は、消費者にとって衛生的に見えるばかりでなく、セルフ・サービスのスーパーが大量に販売するために考案した戦略だし、ギフト商品の売上げ増加にも紙の包装やリボンでの飾りが重要な役割を果たした。あるいは、石鹸や洗剤はテレビCMのスポンサーとしてもっともおなじみになって、アメリカでは「ソープ・オペラ」といった番組ジャンルが定着するようになった。サラサラの髪、すべすべの肌、真っ白のタオル、ぴかぴかの歯、石鹸の匂い………。
・森の中に生活していると、最近の清潔志向が意味のないことのように感じられて、テレビのCMに強い違和感をもつことが少なくない。白さやすべすべ、さらさらを気にしなければ、洗濯でも食器洗いでも洗顔でも、あるいは風呂に入っても石鹸や洗剤はごく少量でいいし、必ずしも使わなくてもいい。家の中に消臭剤をまく必要性もまったく感じない。それはちょうど、庭に雑草を生い茂らせ、山のような落ち葉をそのままに放置しておくことと同じなのかもしれない。放っておけば、それは結局、土に帰るのだが、都会ではそんなわけにはいかない。清潔感というのは、結局、都会で暮らすためのルールで、現在の生活を念頭におきながら2冊の本を読むと、そのことがよくわかる。

2003年8月11日月曜日

読書の衰退

 大学生が本を読まない、というのは、もはや当たり前のことになった。携帯などのコミュニケーション・ツールにお金がかかることもあるが、そもそも、本を読む必要性を感じなくなっているのだ。だから、講義やゼミでまず心がけるのは、本を読むことの必要性ということになる。


僕はゼミを研究室でやっている。理由の第一は、部屋の壁に並んだ書架の本に関心をもたせるためだ。たとえば学生に自分の興味や関心にそってそれぞれ発表させる。最初の発表では、本を読んで参考にしてくる学生はほとんどいない。だから、部屋にあるぼくの本を見せて、「これを読んでご覧」と貸し出すことにしている。必要なら図書館に行けばいいし、生協で買ってもいい。しかし、アドバイスをしないと本を探さないし、見つけてきても的はずれなものが多いのだ。それにインターネットという便利なものができたから、それを使って検索して、適当にまとめてしまう。自分で探して、自分で読んで、それで考える。放っておいたら、そんな作業はまずしない。そこを念頭において、学生とつきあわなければならない。そんな時代になった。


追手門で教えた卒業生のW君から近況を伝えるメールが来た。彼は仕事を何度か変えている。大学院で勉強しなおそうかとか、教員免許をとろうかとか、その都度相談をしてくる。何を選んでも厳しい道だが、迷いながら懸命に自分の道を探そうとしているから、ぼくもずっと気になっている。そんな彼が、高校の図書室で司書として働きはじめて感じたことを書いてきた。

この間は、閲覧室の壁際に大きなスペースを占めていた文学全集を部屋の奥に片付けて、代わりに芸術、芸能、スポーツ関係の本と日本の小説を入れ替えました。これ だけで、雰囲気はずいぶんと変わりました。
高校の先生方は、「子どもは本は読まない」と頭から決めつけているところがあって、前々任の司書の方も文学全集ばかり買って選書は年に一度という状態だったので ぼろぼろの新書・文庫やいかつい文学全集ばかりになっていました。読みたくない本 ばかりの図書館なんてはじめから興味をもたないわけで、その辺を変えていくことも 動機付けには大事じゃないかって思います。
あー、なるほどな、と思った。図書室が、本を読むきっかけになっていない。毎日通う学校がそうなら、市や町の図書館などは一層無縁だろう。だったら、大学に入っても図書館を利用しないわけだし、自分で本を買ったりもしないわけだ。W君の指摘からすると、授業のなかで図書室を利用して、ということもないのだろうし、先生が利用するということもないのかも知れない。詳細は忘れたが、朝日新聞で、高校の先生の読書時間が毎日30分以下、という調査を読んだ記憶がある。いったい、生徒に何を材料にして教えているのだろう、と疑問を感じ、あきれたことを覚えている。


たまたま、同志社の大学院で後輩だったM氏からメールが来た。彼は今、神戸の私立女子校(中高一貫)で社会科を教えている。本当に久しぶりのメールで、以前は職場でインターネットが使えるようになったから、試しに送りましたというものだったが、今回も自宅から出すはじめてのメール、ということだった。メールの中身は東京で研修があるから、ついでに河口湖に訪ねたいというもの。僕はそのメールを山形で受け取って、返事を書いた。


わが家に来た彼と再会して話したのは、まず、最近の中高生や大学生の状況とそれに対応する教師の姿勢。ここに引用したW君のメールの話をしたら、受験校では教科書以外のことを生徒に教える余裕はないんや、と一蹴されてしまった。入試問題に関係のあるものを徹底的に覚えさせ、理解させる。それを授業時間の中でやるのが精一杯で、それ以外のことをやったら、教科書が消化できなくなってしまう。彼によれば、諸悪の根元は入試方法を変えない大学にあるという。批判するつもりがかえって批判されることになってしまった。


もっとも、彼はそんな受験体制に逆らって、社会の問題を生徒に伝え、体験させる工夫をしようとしてきている。いわば、校内の反体制派なのだが、教師の中にそんな意識を共有できる人は少ないという。首にならないよう気をつけながら、いかにして授業を活性化するか。それはそれで、しんどい作業で、大学生に本を読む必要性を自覚させることに苦慮している僕以上に大変なのかもしれないと思ってしまった。

2003年8月4日月曜日

山形までドライブ


03summer1.jpeg・大学の仕事から解放されるのを待って、今年も東北小旅行に出かけた。東北にしたのはごく単純な理由で、あまり行ったことがないからだ。去年は会津と磐梯山まで行ったから、今年は山形まで。山に登るわけではないが、鳥海山と月山をみたいと思った。できればどこかでカヤックもやりたい。日本海の魚も食べたいし山形の牛肉も食べたい。
・ルートは関越道で新潟まで行って、日本海沿いを酒田まで北上する。次に新庄から尾花沢、寒河江、山形と南下。あとは東北道を戻ってくるというもの。およそ1500kmの行程。河口湖を出発した時には霧雨で肌寒かったが、関越の清水トンネルを抜けると夏の空と雲が広がっていた。トンネルを抜けると雪国ではなくて夏国。日本海側から先に梅雨明けするとは、今年はやっぱり天候がおかしい。

03summer2.jpeg・新潟は去年、マスコミ学会で来ているから今回は素通り。中条で高速は終わり。海沿いを走ろうとバイパスの国道7号を外れると、すぐに「屋根瓦」屋さんの看板が目に入った。裏山は削られて粘土層が露出している。陶芸をやるパートナーの指示で停車。土をもらい、所蔵の高価な骨董や木製品などまで見せてもらった。これは間違いなく「お宝」。屋根瓦は今は造っていない。新潟地震で登り窯が壊れたのを機会にやめたのだそうだ。
・村上から北への海岸線は素晴らしい。磯もあれば砂浜もある。ここで、塩を作って売る店を発見。「Salt &Cafe」。海水を釜ゆでにして塩にする。注文した珈琲に苦汁を数滴入れる。ちょっとしょっぱくて磯の香りがする。パートナーはここでも、不純物として出る石膏(硫酸カルシウム)を袋一杯もらった。

03summer3.jpeg・鶴岡から酒田へ。630km、10時間の行程だった。土門拳記念館によってから宿を目指す。筑豊に広島に室生寺。彼の写真は良くも悪くもリアリズムの迫力。真面目、真剣。筑豊の炭坑の子どもたちの写真をみて、今はもう、はるか彼方に行ってしまった世界のように感じた。夕食は居酒屋で刺身の盛り合わせとノドグロの煮付け、それに岩牡蠣。美味。
・二日目は最上川沿いに新庄から尾花沢へ。川幅が広くてゆったり流れている。日本海に注ぐ川の特徴なのかも知れないと思う。信濃川、由良川………。船での川下りがあったが、カヤックは徳良湖で。銀山温泉を経由し、サクランボ畑を抜けて月山へ。どこかでキャンプをするつもりだったが、雨が降り始めたので中止にして山形市内で宿泊。ホテルにはお相撲さんの一行がいて、夕食を食べた焼き肉屋にも鉄板を囲む大男たち。最近相撲を見ないが雅山だけはわかった。

03summer4.jpeg・三日目は宇都宮まで南下して大谷石資料館を見学。ここでもパートナーは石を切り出すときに出る粉を採取する。その後Uターンをして那須高原へ。ニキ美術館を見学し、温泉の強烈な臭いのする殺生石で湯ノ花(ミョウバン)を採取する。車の中はもう石や土だらけ。宿泊したリゾート・ホテルには子連れの家族が一杯。最近ほとんど見ない風景で、子どもを連れて旅行をした頃を思い出してしまった。大変だけど、一番おもしろかった時期。などと考えている自分に気づいて、年取ったことをあらためて実感する。
・四日目は千葉から都内を抜けて帰路。梅雨が明けたようで暑い。車の温度計は33度。やっと夏。河口湖に着くと猛烈な雨。ところが家の周辺の道は乾いている。梅雨の雨ではなくて夏の夕立。気温は22度。避暑地の夏がやっと始まった。

2003年7月28日月曜日

フィールド・オブ・ドリームズ


たまたま合わせたチャンネルで『フィールド・オブ・ドリームズ』をやっていた。もう何度も見ていて、原作も読んでいるのに、やっぱり、最後まで見てしまった。しかもまた、おなじみの場面、おなじみのセリフに、にっこりしたり、ジーンときたりして………。これはひょっとしたら、僕が一番好きな映画かも知れない。見ながらそんなことを考えた。
・なぜ、そんなにおもしろいのか。メジャー・リーグの話だから?伝説の選手、たとえば、シューレス・ジョーが出てくるから?あるいは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のサリンジャー(映画では別の設定)が登場するから?アイオワのトーモロコシ畑に野球場を造るから?ケビン・コスナー? W.P.キンセラの書いた原作(『シューレス・ジョー』文春文庫)がいいからか?
・答えはたぶん、全部だろう。すべてが合わさって、アメリカの良さ、魅力がつくりだされている。野球に文学、それに政治、あるいはカウンター・カルチャー。現在はもちろん、60年代の臭いもするし、20年代の面影も描きだされている。
・話は、主人公が聞くお告げに従って、野球が大好きな往年の名選手、夢やぶれてメジャー・リーガーになれなかった者たちに球場を造り、そこに来るべき人を捜して、連れて来るというものだ。主人公のケビン・コスナーは借金をしてトウモロコシ畑を球場に変える。するとトウモロコシ畑から往年の名選手が現れて練習をし、試合を始める。それを家族で眺める。
・この映画を見ると、つくづく、アメリカの魅力は野球の魅力だと思う。力が勝負の世界。だから今、世界中から自分の実力を信じて大勢の選手がメジャー・リーグを目指す。もちろん、夢が実現するのはごくわずかだが、夢が叶わなかった者にも、一つの「物語」が生まれる。「フィールド・オブ・ドリーム」は、往年の名選手とはいえ球界を追放された者、途中で挫折した者、力不足からあきらめた者たちが登場するドラマで、だからこそ、野球に対する思いが強い人たちばかりなのだ。
・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』は最近、村上春樹によって訳し直された。僕はまだ読んでいないが、ついでに題名をなおさなかったのはどうしてなのかと不思議に思った。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は『ライ麦畑でつかまえて』ではなく、『ライ麦畑のキャッチャー』が正しいのだ。『フィールド・オブ・ドリーム』はトウモロコシ畑のキャッチャーだが、映画のなかでのキャッチャーは、主人公の父親だった。メジャー・リーガーの夢やぶれて、今度はその夢を息子に託す。主人公のコスナーは、それが嫌で嫌でたまらなかったという。早々と家を出て、帰ったのは父の葬式の時。そんな親子のすれ違いがトウモロコシ畑のグラウンドで和解する。父と息子と野球。これこそアメリカの神話なのである。
・ところで、この映画を見た日の昼に、久しぶりに野茂の試合を見た。今年はものすごく調子が良くて、投球回数はリーグ1位。勝利、三振、防御率、被打率などのすべてが5位以内というものだ。これでどうしてオールスターに選ばれないのか、と腹も立ったし、何よりドジャースのリーグ最低の打撃陣にはシーズンの最初から愛想が尽きていた。しかし、野茂は何もいわずに飄々と投げて、この日も勝利。11勝8敗。3点とってくれれば勝った試合が5試合ほどもあったから、本当ならもう15〜6勝はいっているはず、と文句ばかりだが、彼のおかげでメジャー・リーグの楽しさを、もう9年も堪能させてもらっている。野茂の夢はワールド・シリーズで投げること。それを何とか早く実現してもらいたい。まさに「フィールド・オブ・ドリーム」である。
・オールスター前に新庄がマイナー落ちした。田口は今年もほとんどマイナー暮らし。一方でオールスター・ゲームにはイチロー、松井、長谷川が出場した。それぞれの「フィールド・オブ・ドリーム」。野球は単なる玉遊びではないのである。

2003年7月21日月曜日

Madonna "American Life"

 

madonna1.jpeg・マドンナのニュー・アルバム『アメリカン・ライフ』がアメリカでアルバムの1位になったそうだ。彼女のデビューは1982年だから、もう20年以上、トップ・ミュージシャンの位置に居つづけていることになる。今さらながらに、すごい人だと思う。
・デビューの頃はマリリン・モンローの音楽版と言われたり、その歌詞の内容や言動から、道徳的、倫理的、あるいは宗教的な意味で反発を買ったりしてきた。僕はそんな彼女に興味を持ちつづけてきたが、そのアルバムを買ったのはずっと後になってからだった。
・理由は、聴くよりも踊るための音楽だったこと。マイケル・ジャクソンとほとんど同時期にブレイクして、音楽状況は完全に一変されてしまった。MTVがミュージック・ビデオ専門のケーブル・テレビ局として人気を集めて、ビデオがおもしろくなければCDが売れないという状況になった。多くのミュージシャンがそのような状況を批判したが、僕もあほらしい感じがして、一時期、ポピュラー音楽自体に関心をなくした。再び聴き始めたのはU2やスティングなどに興味を持ちはじめた80年代の終わり頃からである。
・そんなことがあったから、マドンナの歌自体にはほとんど興味をもたなかったのだが、マドンナのファンが若い女性で、「ウォナビー」(マドンナのようになりたい)というのだという話を耳にしたあたりから、どんなことを歌っているのか、興味をもつようになった。
・魅力的な女になるのは、男のためではなく、自分のため。自分を表現し、自己実現するため。マドンナはセクシーさを舞台でパフォーマンスしながら、同時にジョギングをやり、フィットネスをして体を鍛えた。男を誘惑しながら、男に頼らない。男中心で保守的なものへのあからさまな反発。若い女の子たちが憧れるのはごく自然なことだが、それは男にはもちろん、頭でっかちのフェミニストにも予測のつかない現象で、フェミニズム以上に、女の子たちの意識を変える役割を果たした。
・マドンナはその後映画にも出演し、女優としても才能のあるところを見せたし、出すアルバムはほとんど大ヒットした。しかし、グラミー賞はいまだにとれていない。これはスピルバーグがなかなかアカデミー賞を取れなかったのと似ているが、エスタブリッシュメント(体制)にとって受け入れがたい存在であったことは、スピルバーグ以上だといえるかもしれない。
・彼女は常に戦う人だったし、今でもそうだという評価をする人がいる。音楽業界の慣行に対して、男たちの好色的な目に対して、女たちの嫌悪や嫉妬の目に対して、社会の保守的な意識に対して、あるいはポップ音楽の世界のトップに君臨するために、自分をセクシーで美しく、なおかつ強い存在にするために………。
・前置きが長くなった。『アメリカン・ライフ』だが、なかなかいい。ビデオクリップでは、マドンナは女兵士になってブッシュ大統領にそっくりな男に手榴弾を投げるというシーンがあったそうだ。これはイラン侵攻の時期と重なって修正されたようだが、それでも、ビデオは放送自粛となっているらしい。マドンナの反戦!の意思表示。ただし彼女は、アメリカやアメリカ軍の批判ではなく、もっと本質的な意味での反戦と反物質主義がテーマだという。そのあたりは微妙で、マドンナも誤解をされないように苦労しているようだが、僕からすれば、それは同じことにすぎない。アメリカ軍に所属する若者たちが、無益な戦争にかりだされたことはまちがいないのだから。
・もっとも、アルバムにおさめられた歌のなかには、もっと素直に現代人の心を表現したものもある。アコースティック・ギターの弾き語りで、マドンナの新しい側面を聴いた気がした。マドンナはその持ち歌のほとんどを自作しているが、そのことを知っている人は意外と少ない。ただ歌い行動する人ではなく、彼女は思索する人でもある。


あなたのそばにいると、私は私でなくなる
あなたが話してくれないと、私は私でなくなる
夜一人でいても、人混みのなかにいても
私は私でないから、どうしたらいいかもわからない "X-Static Process"

・マドンナは『アメリカン・ライフ』で当然、グラミー賞を取るはずだと思う。こんなに不作の状態が続く音楽業界のなかで取れないとしたら、もうグラミー賞など存在価値はないに等しいのだから。ところが音楽批評家の評判はきわめて悪いという。サイトで探したら次のようなコメントが見つかった。やっぱり………。音楽批評家というのは米国でも日本でもしょうもない存在で、まったく救いがたいが、マドンナはそんな悪評をバネにさらに飛躍する。

グラミー賞関連の著作があるトーマス・オニール氏は、マドンナはこれまで真面目なシンガーやアーティストとしての評価を受けておらず、今後も受けることはない、としたうえで「マドンナはポップミュージック界で、吸血鬼に等しい不死身の存在。(アーティストとして)既に終わっているとする悪評や予測を超越しているようだ」と述べている。(ロイター)

2003年7月14日月曜日

雑草のたくましさ


forest26-1.jpeg・梅雨はまだ明けない。前回も書いたが今年は雨が多い。連休明けから梅雨入りの感じだから、もう2ヶ月以上になる。朝起きて、重たく雲がたれ込めていると、がっかりする。雨で濡れていては倒木集めにも出かけられないが、集めた木を切って割ることもできない。


・日が出ないから、家の回りの植物にも異変があった。ライラックが花を咲かせなかったし、三つ葉ツツジも申し訳程度にしか咲かなかった。買ってきて植えた植物のなかには、根腐れをおこしたものもある。垣根にしている樅の木に若葉が生えてこない。しかし、こんな天気でも元気な植物はあるし、こんな天気だから一層元気になるものもある。

 

forest26-2.jpeg・積んだ倒木にはかびが生え、キノコが出始めた。周囲の雑草が積んだ倒木の山を覆いはじめた。木にからまりつく蔦やアケビの蔓は気味が悪いほど勢いがいい。川沿いの道はもう歩けないほどびっしり草が生い茂っている。歩いて踏み固めたはずのところも、ちょっと歩かないでいると、道は消えてしまう。森の植物の生命力は本当にものすごい。空き家にして何も手入れをしなければ、家そのものが植物に呑み込まれてしまうにちがいない。そんなことが実感としてわかる。そう考えると、雑草はたくましいというよりは、恐ろしい。

 

forest26-3.jpeg・とても放っておけないから、草を刈った。電気の草刈り機はあるが、コードに限りがある。エンジンのを新しく買うほど広範囲に刈る気はない。で、ホームセンターに行って柄の長い草刈り鎌を買ってきた。とりあえずは川沿いの道。ここは重たい荷物を運び込むときにしか使わないが、放っておけば、雑草の幹が太くなって、秋にはタイヤに刺さるほどになってしまう。それから、倒木を運び込むための進入路。ここは隣の空き地だが、もうすっかりわが家の土地の一部になっている。手で刈ったのでは、きれいに刈り揃えることができないが、それでも、歩いたりするのに邪魔ではなくなった。

 

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・庭や森の花は、次々と入れかわっている。現在咲いているのは上のような感じ。山紫陽花に蛍袋や撫子。湖畔ではラベンダーが満開で向日葵なども大きく育っている。コスモスも咲き始めた。雨が多くても、いつものように咲くから不思議だ。ストーブ用に積んである薪のところに朝顔を植えた。もう少ししたら咲き始める。育って欲しいものと、じゃまくさいほど育ちすぎるもの。もちろんその判断は人間がする。保護してやるものと、ばったばったとなぎ倒すもの。僕は森の世界に君臨する暴君だな、とふと思ってしまう。


・しかし、畑や田んぼではちょっとした雑草も生きられない。最近流行のガーデン作りでも一緒だろう。文化(culuture)の語源は「耕す」だから、雑草との闘いのなかではぐくまれたもののことである。ぼくはその「文化」を研究するものの一人だが、雑草を刈るのは必要最小限にすることにした。だから今年は森の草むらには手をつけないでおくつもりだ。下の写真の草は、今1メートルほどに育っているが、夏の終わりにはどのくらいになるのだろうか。楽しみのような恐ろしいような………。


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