2011年8月29日月曜日

沖縄についての2冊の本

 

奥野修司『沖縄幻想』(洋泉社)
松村洋『唄に聴く沖縄』 (白水社)

・3月に沖縄に出かけたが、その前後に何冊かの本を買って、ほとんど読めないままにきた。夏休みになって、気になっていた本を何冊か読んでみた。沖縄は40年近く前に出かけて以来だったから、その変容に驚いたが、ここで紹介する2冊を読みながら、その理由をあらためて考えてみた。
・始めて沖縄に行ったのは1974年で、復帰後の大イベントとして催された海洋博に反対するグループに帯同してのものだった。工事による海洋汚染、オニヒトデの大発生と珊瑚礁の被害などが話題になり、復帰後の沖縄の開発の仕方に強い批判が向けられていた。反海洋博のグループには日系米人も数名いたから米軍基地周辺や伊江島の射爆場に行き、これも建設中だった平安座の石油コンビナートにも出かけた。僕にとっては観光とはまるで違う、義務としての旅だったが、ことばも食べ物も人びとの気質もまるで違う世界には、大きなカルチャー・ショックを受けた。

okuno1.jpg ・37年ぶりの沖縄はまったく違う世界だった。高い建物の林立する那覇の街並みや国際通りの変容はもちろん、高速道路や北部のヤンバルと呼ばれる地域にできた道路網、小島との間にできた橋、それとは対称的な、嘉手納基地やキャンプ・ハンセン周辺の寂れ方など、驚きの連続だった。
・奥野修司の『沖縄幻想』には、復帰後の沖縄の変容が国からの莫大な補助金と三度のバブルによると書かれている。復帰後に当時の田中角栄内閣は「沖縄振興計画」をたて、「本土との格差是正」と「自立的経済発展」を目指して「沖縄振興開発特別措置法」を策定したが、海洋博は目玉のイベントだった。その2年前に大阪で開かれて大成功した万博の再現を狙ったのだが、入場者は予測を下回り、かえってその後に不況をもたらした。
・その後沖縄が注目されたのは80年代後半のバブルの時期で、大型リゾート開発ラッシュになった。沖縄の音楽や歌が注目されたのもこの時期で、本土のグループであるThe Boomの「島唄」が大ヒットして、すっかりポピュラーになったが、経済は本土と同様にバブルがはじけると沈滞した。

・2007年にやってきた三度目のバブルは、近くて安く海外より安全な観光地として、あるいは別荘地として本土から注目された結果だった。ここにはリーマンショック以前のアメリカのバブルによる外資の進出といった要因もあったようだ。いずれにしても、この三度のバブルによって沖縄が大きく変わったことは間違いない。ただし、その変容はけっして好ましいものではない。「自立的経済発展」は達成されないままで、ただ土建業だけが突出して多い現状は、道路や箱物ばかりを増やす公共工事や外からの観光開発の繰りかえしに費やされてきたことを証明するものだし、「本土との格差是正」は基地負担の見返りとしての補償費に頼りきっている。『沖縄幻想』を読むと、復帰後の沖縄の疲弊ぶりがよくわかる。

matumura1.jpg ・松村洋の『唄に聴く沖縄』 は沖縄の歌や音楽を通して、この島の歴史や風土、そして人びとの暮らしぶりの中にある魅力を解き明かそうとする内容である。沖縄は琉球王国としての歴史を持っている。中国の明や清の時代に属国として貢物を差し出していたが、その見返りに絹織物や陶磁器が下賜され、貿易も盛んに行われた。三線も中国伝来のもので、主に琉球王朝の上流社会で使われてきたようである。
・沖縄の音楽には、この中国の影響を受け洗練された宮廷芸能と、人びとが仕事の際に歌うところから生まれた民謡があった。現在では欠かせない三線が民謡の中で使われるようになったのは、それが働く場を離れ、プロの歌い手が登場するようになってからのようだ。宮廷芸能と民謡の間には、その価値に基づく格差があって、民謡は軽蔑される音楽だった。
・薩摩藩に占領され、さらには明治時代になって琉球王国が沖縄になる「琉球処分」を経て、沖縄の人びとが本土や海外に移住をしはじめると、歌や音楽もまた、外に出るようになった。松村は沖縄の唄の中にある外国はもちろん本土との違いを訴える「アイデンティティ」の希求に注目するが、それは何より、外に出ること、そして中に侵入されたことから生まれた意識だと言う。多数の島によって成り立つ沖縄には、もともと個々の島やその中にある小さな集落ごとに、それぞれ特徴的な世界があり、唄に代表される文化があって、そこには沖縄全体を自らの地として考える発想はなかったのである。

・沖縄の文化や人びとの気質が島ごとに違うことは、今回の短い旅でも強く感じたことの一つだった。けれどもまた、いかにも観光客向けに強調された「沖縄らしさ」や、本土と同じように近代化された風景や暮らしぶりも目につき、それがあまりに雑然と混在していることが気になった。『唄に聴く沖縄』は、変容しながら魅力を失わずに歌い継がれてきた沖縄の音楽に注目する。しかし、沖縄という地とそこに生きる人たちは、大きな変化の中で、沖縄という地とそこに生きる人たちの現在や未来にとって不可欠な独自な「アイデンティティ」をどう見定めているのだろうか。この2冊を読むと、その音楽と現実との間にある断層の大きさが一層強調されて伝わってくる。

2011年8月22日月曜日

残暑お見舞い申し上げます

・昨年に続いて厳しい暑さになりました。いかがお過ごしでしょうか。

・ぼろくそに言われ続けた菅首相が、とうとう退陣することになりました。辞任要求にははっきりした理由がわからないのに、大半の人が当然視するというおかしな事態でした。特に脱原発を支持する世論が7割を超えていて、その声を自らの政策に積極的に取りこもうとしたのに、支持率が下がり続けたことは、理解に苦しむ現象だったと今でも思います。次の首相が誰になっても、脱原発の政策はトーンダウンが明らかですから、その真意はさっぱりわからない気がします。とは言え、ふり返れば、鳩山前首相も同じようにして政権の座を追われ、彼が主張した普天間基地の国外、あるいは県外移転は雲散霧消してしまったのですから、まったく同じことがくり返されたことになります。

・僕は人間として、政治家の力量としての鳩山や菅を支持するわけではありませんが、彼らが掲げ、実行しようとした政策の多くは、今でも支持し続けたいと思っています。それは「沖縄の基地負担軽減」「脱原発」「子ども手当と高校授業料の無償化」など、多くのものがあって、そこにはあるべき社会の姿を考えたビジョンと理念があると思うからです。そして、この2年間、国会はもちろん、メディアにも、民主党が掲げた政策について、その理念をもとにした議論はほとんどなかったように思います。

・沖縄にある基地を本土並みに減らすことは、アメリカとの関係をどうするのかという問題につながります。そのことは、鳩山前首相の腰砕けを批判したところで、けっしてなくなるわけではありません。彼は強硬なアメリカの姿勢に屈服したという以上に、既存の状態を保とうとする政治家や官僚の「抵抗勢力」に負けたのです。

・菅首相の「脱原発」政策は3.11以降の深刻な福島原発事故の影響から生まれたものでした。それ以前には、原発をクリーン・エネルギーとし、CO2削減のために将来的には電力の50%を原発でまかなう計画を掲げていました。しかし、自民党政権時代には民主党は原発を過渡的なエネルギーとして規定していましたから、政権を取ったことで、やっぱり、政官財の保守勢力に妥協した結果だったのです。

・原発事故がもたらした被害、これから起こるであろうさまざまな影響の前に、大半の人びとは原発に依存しない社会を未来に期待しています。それに向けて、「再生エネルギー法案」などのいくつかの法律が国会を通りました。しかし、その多くは骨抜きというほどではないにしても、エネルギー政策の大転換というにはほど遠いものでしかありません。政治に妥協が避けられないのは確かなことでしょう。しかし、これで多少とも流れが変わるという見通しが立たないのでは、何ともやりきれない思いが残ってしまいます。

・「子ども手当」や「高校授業料無償化」は自公両党からばらまきとして批判され、民主党も大きく譲歩せざるを得なくなりました。しかし、この政策が、「子どもを育てる責任が親や家庭だけでなく社会にもある」という理念に基づくものであることが、ほとんど議論になりませんでした。長期政権をばらまきによって維持してきた自民党に言われる筋合いのない批判だと思いますが、政策ではなく政局と数の論理に明け暮れた国会の象徴と言えるものだった思います。

・次の総理を選ぶ民主党代表選の立候補者は「馬鹿野郎」だそうです。馬淵、鹿野、野田に陰で動く小沢一郎で、これに経産省の操り人形でしかなかった海江田も手を上げました。「馬鹿野郎」が冗談や皮肉ではなく事実ですから、とても笑う気にはなれません。

2011年8月15日月曜日

夏の訪問者たち

 

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・震災後の対応で忙しかった前期の授業が終わった7月の末から、つい数日前まで、何人もの人たちが入れかわりたちかわり訪れた。その度に、にぎやかに話し、食べ、飲んだ。我が家に泊まったら、西湖でカヤックを漕ぎ、自転車を走らせる。これはもてなしだが、人によってはノルマのように感じたかもしれない。普段使わない筋肉を使うから、確実に筋肉痛になる。涼しさのせいもあるが、我が家に泊まった人の大半は、朝食を告げるまでぐっすり眠っていた。

・自転車には速度計をつけているから、必死で漕ぐ人もいる。西湖の周回道路はおよそ10キロだから、平均20キロで走ると30分ほどで一周できる。最速は院生のY君で23分だったから、平均27キロぐらいで走ったことになる。留学生のL君は、そのY君のタイムを聞いて、負けじと張り切って出かけたが、いつまでたっても戻ってこなかった。帰ってから聞いたら、周回道路ではなく、精進湖や本栖湖に行く139号に出て大回りをしてしまったようだ。長い坂道の上り下りがあるから、これだと倍の時間がかかるのも無理はなかった。

forest94-2.jpg ・カヤックはアルミの棒を組み立てるのだが、長年使って、棒を繋ぐゴムが何本も切れてしまっている。だから、どの棒とどの棒を繋ぐかで手間取って、最近ではずいぶん時間がかかるようになった。水に浮かぶ心地よさのせいか、留学生のRさんは見えなくなるほど遠くまで行ってちっとも戻ってこなかった。一方で、別の日に来た同僚のKさんは、後ろ向きで漕ぎだして、そのまま進んでいるから、自転車で追いかけて、前向きに漕ぐよう大声で叫んだ。

forest94-3.jpg・カヤックやカヌーはボートとは違って、前を向いて進む。懸命に漕ぐ人、のんびり佇む人。一人で、そして二人で。小学生の男の子二人を連れてきたKさんは、Y君とS君をそれぞれ前に乗せて、右、左と呼吸を合わせて漕ぎだした。ライトブルーのレガシーB4で関西からやってきたOさんは、カヤックや自転車では、ドライブとは違ってのんびりモード。自転車もカヤックも今まで多くの人を乗せてきたが、人それぞれなのは、その度に、見ていてもおもしろいと思う。

forest94-5.jpg ・もうひとつのもてなしは食事だが、大人数になると、数日前からの仕込みが必要になる。冬ならストーブでじっくり煮込んだカレーやシチュー、あるいはパスタのソースになるのだが、夏は七輪に炭火をおこしてコトコトやることにしている。夜のバーベキューも、たき火でできた熾火を七輪に移して肉や野菜を焼く。これがなかなか好評だった。カボチャのコロッケ、芦川産のこんにゃくと鳥肉とゴボウの煮物、イカと茄子のパスタ、そしてかき揚げ天ぷらとソバ。大人数の食事作りは大変だが、わいわいやるのはやっぱり楽しい。

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2011年8月8日月曜日

二人のファド歌手

 

Amalia Rodrigues "Art of Amalia" "Fado Lisboeta "
Dulce Pontes "O Primeiro Canto" "Lagrimas"

・NHKのBSでポルトガルのファド歌手を取りあげていた。「Amazing Voice 驚異の歌声」という番組で、ドゥルス・ポンテス(Dulce Pontes)という名の、ファドをベースにしたシンガー・ソングライターだという紹介だった。ファドと言えばアマリア・ロドリゲスと言われるほど、日本では彼女だけが異例に有名で、僕も彼女のLPレコードは持っている。しかし、それ以上の関心を向けることはなかった。だから、半ば懐かしい感じでファドということばを聞いたのだが、番組を見ながら、いいなと感じてAmazonで何枚か注文した。ついでというわけではないが、CDでは持っていないアマリア・ロドリゲスもあわせて買い求めた。

dulce1.jpg ・ドゥルス・ポンテスは1969年生まれだというから、40歳を少し越えたところだ。CDを聴いてまず思うのは、その歌唱力である。国立音楽院でピアノを専攻したというから、クラシック音楽の出身で、確かにそんな歌い方だが、しかし、やっぱりファドに間違いはない。音楽的に新しい要素も加えていて、アマリア・ロドリゲスとはちょっと違うなという感じもするし、似たところもある。"O Primeiro Canto" という名のアルバムは1999年に発表されているが、ネットで調べると「ポルトガルの北半分を歩き、うもれていたフォークロアを集め、様々な国の音やリズムや楽器をほりおこし、ウェイン・ショーターなど国やジャンルをこえた一流ミュージシャンを集めてセルフプロデュースした」という説明を見つけた。全曲が彼女のオリジナルのようだ。

amalia1.jpg ・ファドはポルトガルの伝統音楽で、スペインのフラメンコによく似ているが、踊りと一緒のフラメンコと違って歌だけだ。またフラメンコは、スペインの伝統音楽とはいえ、歌うのも演奏するのも、そして踊るのも、ロマである場合が多い。一方でファドには、そういう特徴はないようだ。また日本では、ファドといえばアマリア・ロドリゲスと、たったひとりの歌手で代表される音楽であるかのように思われている。
・アマリア・ロドリゲスの歌はきわめて演歌に近い。港町や酒場、そして男女の出会いや別れがテーマで、聴いていて八代亜紀を連想したりもする。けれどもまた、演歌とは違って、じめじめとした感じがない。演歌嫌いの僕が聴いていいと思う理由は、そんな乾いて明るいイメージを連想させるからなのかもしれない。

amalia2.jpg ・CDでアマリア・ロドリゲスを聴いていて、また、アルゼンチンのフォルクローレのことを思った。ポルトガルは現在ではヨーロッパの西の果てにある小国だが、大航海時代にはスペインと競って世界中を植民地にする強国だった。だから、メキシコからアルゼンチンに至る中南米の国で歌われる歌は、どこのものでも、スペインやポルトガルの臭いがする。ポルトガルは70年代半ばまで独裁政権下にあって、アマリア・ロドリゲスは、国家的歌謡として擁護されたファドのシンボル的存在だった。だから彼女も、ファドも、民主化の過程では批判され衰退したのだが、90年代になってEUの時代になると、自国の文化の見直し機運の中でまた聴かれるようになった。

dulce2.jpg ・ドゥルス・ポンテスの歌はファドを超えて世界に繋がっている。ただし、もう一枚の "Lagrimas"は、聴いていてアマリアなのかどうかわからないほどファドそのものだ。1996年の発表だから、99年の"O Primeiro Canto"との間に、大きな変化があったのかもしれない。で、最新作の"Momentos"(2010)も注文してあるのだが、こちらは注文後に品切れになったようで、まだ届いていない。僕と同様、NHKの「Amazing Voice 驚異の歌声」を見て、多くの人が注文したのだろうと思う。日本版は在庫ありだが値段が倍近くする。日本のレコード会社はなぜ、相変わらず、こんな商売をやっているのだろうか。

2011年8月1日月曜日

地デジ化顛末記

 ・テレビのアナログ放送が終わった。たいした混乱もなかったようだが、停止した日は来客もあって、一度もテレビをつけなかったから、終わりがどうだったのかはわからなかった。当然だが、今はアナログをつけても砂嵐状態だ。

・どうせろくに見ないからそのままでいいと思ったのだが、町へ出かけたついでに役場によって、難視聴地域に対する町の対応について聞いてみた。後で係の者が電話をするという返事で、処理しているのが自治体ではなく、県域のテレビ局であることがわかった。地デジ化は総務省の指揮でおこなわれているが、実際に対応に動いてきたのは各都道府県にある民放テレビ局で、それがわかった途端に、なるほどなという思いがした。

・電話での対応は、「お宅の地域はケーブルでの視聴ということで処理させてもらってます」という、きわめて素っ気ないものだった。ケーブルに契約する気はないとこたえると、感度のいいアンテナを高くたてれば、電波をキャッチできないこともないが、多少のゴーストが出て見えにくいかもとかえってきた。難視聴地域ならBSをつかった地デジ放送が見られるはずだと言うと、これはケーブルも使えない地域に限って提供するためのものだから、お宅の地区では認められていませんときた。電話をしながら、アドレナリンが湧きだしてきた。

・で、「実は僕はメディア論を研究していて、地デジ化については、ずっと批判的なことを言ったり書いたりしてきている。新しい技術の導入だと言っても、結局は、あなたの放送局や地元のケーブルテレビの既得権を守ることが最優先で、金ばかりかけて、新しい技術が持っている可能性はもとより、視聴者の都合なども平気で軽視する、とんでもない政策なのだ。」と言って、電話を切った。無性に腹が立ったが、しばらくすると同じ人からまた電話がかかってきた。

・「総務省と連絡を取りまして、特別に、BSでの視聴をお認めするということにしました。」という返事だった。言われるままに電話をすると、一から説明をさせられて、それでは次の電話番号におかけ直してくださいときたから、またカッとして、「ちょっと、役所仕事もいい加減にしてほしいな!ここまでたどり着くのにどれだけの労力を使ってると思ってるの!!」と言ってしまった。BSでの視聴は、我が家のチューナーに付属していた Bcasカードの番号を聞いて、スクランブルをはずしてくれればいいだけのことなのだが、結局、我が家に書類が送られてきて、所定の書式に従って必要事項を記入して返送という手続きを取らされた。

・BSでの地デジ放送は東京からのもので、NHK2局と民放5局が用意されているのだが、僕が住んでいる山梨県では民放は2局だけだから、スクランブルが外れて見られるようになったのは、NHK2局のほかには日本テレビとTBSだけである。なぜそうなるのかは、県域放送局の既得権を侵害しないという理由以外には思い当たらない。我が家では、映りが悪いとは言え、これまで、東京のアナログ放送が全部映っていたのにである。しかも、ケーブルテレビと契約すれば、民放5局の他に、テレビ神奈川やTOKYOMXまで見られるという。こんな露骨なやり方が、なぜ問題にならないのか。お役所仕事のやりたい放題と、人々の従順さに、今さらながらにあきれる気がした。ついでに言うと、Bcasカードを管理しているのは、総務省の天下り機関で、こんな組織は本当はまったく必要ないのである。

・というわけで、我が家では地デジは4局だけ見ることができるようになった。ただし、今のところほとんど見ていない。つまらないから見る気がしないのだが、その原因は既得権にあぐらをかいて競争意識をなくした姿勢にこそある。地デジは原発。だから脱原発と同時に脱地デジ。そんなことを再認識した経験だった。