2013年7月29日月曜日

音楽と政治

(仮)ALBATRUS "ALBATRUS"

・あらかじめ予測されていたとは言え、参議院選挙の結果には落胆した。自民党圧勝の理由は何より投票率の低さにある。自民党に対抗して争点を作り出す勢力が生まれなかったのだから、組織票を基盤にした政党が勝つのは当たり前のことだった。

・と、CDレビューなのに選挙の話題から始まってしまったが、選挙結果で一つだけおもしろくて希望が持てることがあった。東京選挙区で無所属の山本太郎が当選したことと、緑の党公認の三宅洋平が比例区では最高の17万票を取ったことである。三宅洋平はミュージシャンで、レゲエ・ロックバンド「犬式 a.k.a. Dogggystyle」や「(仮)ALBATRUS」のメンバーとして活動してきた。その経歴を活かした彼の選挙運動は、まさにライブ・パフォーマンスと言えるものだったようである。その最終日に渋谷のハチ公前で行ったパフォーマンスの様子について、斉藤美奈子が東京新聞のコラムで次のように書いている。


・参院選最終日の20日20時前、山手線の右と左に位置する二つの街の光景は対照的だった。一方は秋葉原駅前。(中略)安倍首相が、街宣車の上からこぶしをふり上げて叫ぶ。「誇らしい国をつくっていくためにも憲法を変えていこうではありませんか!」歓声と共に日の丸の旗が振られる。演説終了後の「安部ソーリ」コールはやがて「NHK解体!」「ぶっつぶせ朝日!」などの罵声と怒号に変わった。
・他方、ほぼ同時刻の渋谷駅ハチ公前広場。「選挙フェス」と銘打った特設ステージでスピーチするのは緑の党の比例代表候補者三宅洋平と無所属の山本太郎だ。フィナーレで三宅氏は憲法9条を読み上げた。「戦争ぼけしているやつらに平和ぼけがどんだけ楽しいか教えてやろうよ!」スクランブル交差点の対岸まで人が鈴なりだったけど、文字通り老若男女が集まったハチ公前は和やかで明るかった。メッセージの内容と行動様式は同調するのである。(以下略)

・この記事を読んですぐにYutubeで両方の動画を見比べてみた。陰と陽、醜悪と美、音楽の有無はもちろんだが、メッセージの中に生きたことばがあるかどうかといった点で、きわめて対照的だった。山本太郎もずいぶん演説上手になったと思ったが、三宅洋平の演説はそのままラップにもなりそうで、聴衆の心を掴んでいるのがよくわかった。ネット選挙であることが注目されたが、公の場での訴えの仕方にこそに新しさを感じた選挙だった。

albatrus.jpg・で、さっそく三宅洋平のCDをアマゾンで探して"ALBATRUS"という名のアルバムを手に入れた。バンド名は「(仮)ALBATRUS」。アルバムは熱気に溢れ、強いメッセージとレゲエやロックのリズムが心地よく融和して、聴いていて力が湧いてくるようだった。ボブ・マーリーを彷彿とさせた「1/470 Party People」は次のようなメッセージで始まっている。


この国の47都道府県で本気で具体的な実践を行き始める男や女が
各県で10人ずつで良い その470人で日本は変えられる
470人の中の一人はでかいよ
で、誰が今日その一人になるか、だ

・三宅洋平が集めた17万票は、彼個人が選挙期間中に全国を飛び回って開催した「選挙フェス」で、彼に共感した人たちが入れたものだ。組織もなく有名でもなかった彼がたった2週間でこれだけの人の心を掴んだことは驚きだが、であればなおさら、彼が所属した「緑の党」や「緑の風」あるいは「グリーン・アクティブ」といった無力な乱立が気になった。470は無理にしても各県一人ずつでも候補者を出して、全国的な運動ができるよう準備したら、選挙はもっともっとおもしろくなっただろうにと思った。いずれにしても、音楽を使った新しい選挙のスタイルに新しい方法が見えてきたことは確かだろう。

2013年7月22日月曜日

戦前の日本に戻っていいのだろうか?

・自民党の選挙スローガンの「日本を、取り戻す。」を見るたびに、頭に「戦前の」を足した方がぴったりすると思っていた。自民党の憲法改正(悪)案は、まるで明治憲法の復活のようだし、自衛隊を国防軍にするとか、兵士が出兵を拒否したら軍法会議で死刑か懲役300年だといった話が平然と公言されたからだった。ぞっとするようなおぞましい話だが、そんなことがたいした議論にもならずに、参議院選挙で自民党が大勝した

・昨年の衆議院選挙の時に、僕は悪夢の選択だと書いた。どっちにしても悪夢にしかなり得ないのなら、よりましな方を選択すべきだという主張した。その時一番問題だと思ったのは原発事故の終息と原発の廃止に向けて、少しでも積極的な政策を掲げる所に投票すべきだと思ったからだった。しかし結果は、自民党の復活と民主党の壊滅的な敗北だった。

・で、勢いを盛り返した自民党が歩き始めたのが、原発再稼働に向けた道であり、憲法の改悪であり、借金財政をさらに悪化させるアベノミクスだった。憲法は近代国家の土台として政治権力の暴走を阻止するために作られたもののはずだが、自民党案には、表現の自由を制限したり、道徳的に国民を縛り統制する条項が追加されている。憲法が何であるかをはき違えた、戦前への回帰があからさまな内容と言えるものなのである。

・安倍政権の人気を支えているのはアベノミクスと名づけられた積極的な経済政策にあると言われてきた。確かに表面的には円高が是正され、株が上がり、景気が改善されはじめて来たように見える。しかし、株の上がり方はどう見たってバブルだし、多額な国債の発行は日本が抱える借金を増やすばかりなのである。この数ヶ月で2倍にも3倍にも上がった株があるから、確かに儲けた人や企業はあるのだろう。デパートの売り上げが伸びたのは株でもうけた人たちが買う貴金属や高級ブランド品によるところが大きいようである。一方で、物価がじりじりと上がり始めている。

・安倍首相は選挙期間中に「日本を、取り戻す」一つとして、60年代から80年代までの経済成長をした元気な日本をあげていた。しかし、後進国から先進国への過程にあった時代と、世界第3位の経済大国になって、成熟した社会になりつつある現在との違いを全く無視した発言には、呆れるほかはないほどである。
・必要なものはほぼ手に入れることが可能になり、少子高齢化がますます進行する社会で、いったいどうやって経済的な高成長を実現させるのか、そもそも経済成長が必要なことなのかどうか。アベノミクスの行き着く先は、バブルをもう一回はじけさせることでしかないのではと危惧せざるを得ないのである。

・自民党の政策は原発にしても経済にしても、そして憲法問題にしても、地獄への道を突き進む動きにしか思えないのに、なぜそれが支持されるのだろうか。誰も戦争なんかしたかったわけじゃないのに戦争にまっしぐらに突き進んでしまった、戦前の日本の状況に酷似していることを指摘する人は少なくない。空気には逆らえない、怖い現実は見たくない、遠い未来よりは目先の安心、といった気分が蔓延していて、その空気を取り払う風が吹き込めない。そんな息苦しさを感じる選挙結果だった。

2013年7月15日月曜日

「カルチュラル・タイフーン2013」報告

 

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・「カルチュラル・タイフーン2013」が無事終わりました。主催校の責任者としてほっとしています。スタッフとして手伝っていただいた人たちには感謝してもしきれないほどです。どうもありがとうございました。

・「カルタイ」は普通の学会大会とはずいぶん違いました。学会名は「カルチュラル・スタディーズ」ですが、あくまで協賛で、主催は「カルチュラル・タイフーン2013」実行委員会ということになっています。つまり、開催校を引き受けると、大学と折衝して会場や機材などを借り、できれば資金的な援助をお願いするといった仕事を任されますが、それだけではなく、実行委員会を組織し、事務局を置いて、大会の中身についても企画し、応募し、選考するといった作業をしなければなりませんでした。

・実行委員会や事務局のスタッフの多くが非常勤教員や院生、そして学生であることもほかには見られない特徴です。しかも、学会に所属しない人たちが大半でした。若い人たちの発想を重視して、自由な大会作りをするというのが趣旨ですが、彼や彼女たちには長い時間とエネルギーを割いてもらうことになりました。もちろん無休のボランティア仕事です。労をねぎらうために金銭的に余裕のある専任教員が差し入れをすることもありましたが、それで報われるわけではありません。若い人たちは何より、自分の勉学や業績作りのためにこそ、時間とエネルギーを使うべきだからです。

・この点が大会で行われた総会でも問題になりました。カルタイの趣旨を大事にすれば、若い人たちに過重な負担がかかること、学会であることを基本にすれば、カルタイの自由さを維持するのが難しくなること。そのあたりをどう解決していくか。それは長い時間をかけて準備をしてきた中で繰りかえし感じ、また話題にされてきたことでした。

・カルチュラル・スタディーズは既成の研究分野を横断する学際的な研究を特徴にしています。先生も生徒も一緒になって協力し、競争し合って研究するのが、その出発点にあった大きな特徴でした。しかし、現実には大学の専任教員と非常勤、院生との間には、経済的にも社会的にも大きな格差が存在します。そこを無視して一緒に仲良くというのは、あまりに非現実的でロマンチックな発想にしか過ぎません。

・「カルタイ」は他の学会とは違って研究発表だけでなく、パフォーマンスがあり、展示があり、映画の上映があり、そして物販や屋台で食べ物を売って作るといったこともありました。今回は食べ物の販売は認められませんでしたが、その他についても、なぜ学会なのにそんなことをするのか疑問をぶつけられることが多々ありました。学会らしくない学会だけど、学会の大会として続けていきたい。学会の総会では執行部からそんな意思も発表されました。であればなおさら、しっかりした基盤を作って、その上で、自由にやることについての戦略や戦術が必要だろうと感じました。

・もっとも僕はこの学会に所属していませんから、今回だけで、次回には大会に出かけるかどうかもわかりません。何事もなく終わってほっとしたところですから、しばらくはカルタイのことなど考えたくもないというのが正直な気持ちです。

2013年7月8日月曜日

「カルチュラル・タイフーン2013」にお越しください!

 

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・いよいよ今週末から、東京経済大学で「カルチュラル・タイフーン2013」が開かれます。12日は東経大が主催する学術シンポジウム「(アンチ・)デジタル時代におけるカルチュラル・スタディーズと人文学」で、17:00から6号館7階の大会議室で開催されます。デジタル化の波、就職難といった状況が大学における教育をどう変えてしまったのか。本学コミュニケーション学部所属の西垣通(「デジタル時代における身体と知の変容」)、深山直子(「<先住民>にとって知識とは何か」)、そして首都大学東京の西山雄二(「人文学と制度」)の各氏による報告と、中京大学の大内裕和、東京外国語大学の岩崎稔の両氏のコメントによって展開される議論にご参加ください。終了後に懇親会を予定しています。参加費は無料です。

・13日、14日は「カルチュラル・タイフーン」の本大会で、特別企画、パネル、ブース、そしてシネマタイフーンなどの企画が盛り込まれています。

特別企画

・「復興」への違和感、そして直視すべき問題
・「NEXT WAVE CULTURE-ポスト資本主義下の実践カルチュラル・スタディーズ
・文化と政治――音楽が鳴り止むとき
・抗うアジアの表現と情動 ―― オルタナティヴな<記憶-歴史>を想像する
・たまスタディーズ:国立編
パネル

・パネルは総数が27で、内容も「若者」「ジェンダー」「メディア」「スポーツ」「音楽」「文学」「移民」「沖縄」「東アジア」「多摩」「ポスト資本主義」「サブカル」等々と多岐に渡って行われます

・その他、ブース/グループワーク、シネマタイフーンがあり、演劇やパフォーマンス、ディスカッション、そして伝統工芸やものづくりのワークショップ、あるいは写真等の展示が行われます。シネマタイフーンは福島原発事故のドキュメントを中心に上映され、最後にディスカッションが予定されています。

・このようにカルチュラル・タイフーンは多様な発表を行う場として、すでに10年以上続いてきました。半年以上の準備期間のなかで、院生や学部生、そして一般の人たちが自発的に参加して協力してきたという面もふくめて、一般的な学会とは大きく性格を異にするイベントだと言えます。多くの方々の参加を希望します。

2013年7月1日月曜日

アルンダティ・ロイ『民主主義のあとに生き残るものは』 (岩波書店)

・インドについては、ほとんど知らないと言っていい。もちろん、訪れたこともない。中国に次いで人口の多い国で、中国に続いて急速な経済成長をしている国であること、世界で一番映画が生産されていて、その多くはノーテンキなミュージカルらしいということぐらいだった。

roy.jpg・アルンダティ・ロイの『民主主義のあとに生き残るものは』 は大学の同僚が訳した本である。贈呈されたもので、そのまま読まずに放っておいたのだが、強姦事件の多発といったニュースを耳にして、手にして読み始めた。題名は、3.11の地震のあった2日後に東京で予定されていて中止になった講演会の原稿だった。


・私たちは民主主義をどんなものに変えてしまったのか?民主主義の寿命が尽きたとき、いったい何が起きるのか?民主主義が空虚となり、意味を失ってしまったのはいつからなのか?民主主義を支える諸機関がなにか危険なものに変化してしまったとき、何が起きるのか?民主主義と自由市場がいまや一つの搾取する有機体に統合され、そこには最大の利益を得るという発想に支配された、薄っぺらで広がりのない想像力しかない。そんな時代に、どうすればこうしたプロセスを逆転させることができるだろうか?どうすればいったん変化してしまったものを、かつての形に戻すことが可能となるのか?(p.10)

・ロイの問いかけは、もちろんインドの現状に対するものである。しかし、それは同時にアメリカやヨーロッパ、そして日本にも向けられている。インドは今、経済成長のめざましい国として、民主主義が育ちつつある国として注目されている。けれども、彼女によれば、インドの経済成長は、「ヒンドゥー原理主義」によるイスラム教徒の迫害と、国土に眠っていた鉱物資源の多国籍企業による開発、巨大なダム建設、森林伐採を伴うもので、カースト制度の上にさらに、貧富の差を拡大させたものである。森に住んでいた先住民を追い出し、抵抗する者たちを虐殺するやり方はすさまじいものだが、その多くはメディアで報道されることもなく、また取り上げられたとしても、発展のためという理由をつけて不問に付されてしまってきたようだ。

・本書によれば、インドの経済成長は12億人の人口のうちのわずか100人の人びとにGDPの4分の1を占有させるに至っている。もちろん、このような流れに抗して多くの運動が起こってきた。独立後1980年代までは「さまざまな民衆闘争が土地改革や、封建地主から土地なし貧農への土地再配分を求めて戦われてきた」のである。それが今日では「土地や富の再配分を語ろうとすると、非民主的どころか狂気の沙汰と見なされる。」経済成長の過程で強固になった「上方蓄財システム」が裁判所や国会、そしてメディアといった民主主義を守るはずの組織に、湯水のごとくお金を使って機能不全状態にしてしまっているからだ。

・この「上方蓄財システム」からのお金の流れは、芸術活動や奨学金に向かい、多くの慈善活動にももたらされている。ロイによれば、それは、批判的な勢力を分断し、取り込んで、その力をそぐためにこそ役立っている。実際、このような手法は20世紀の初めから、アメリカにおいて巨万の富を得たフォードやロックフェラーといった財閥によって行われてきたことで、現在のインドでもきわめて有効に機能しているのだという。

・もちろん、この「上方蓄財システム」はインドに限ったものではない。同様に高い経済成長をしているブラジルやトルコでも、大規模なデモが起きている。またそれは経済成長を続けている国に限ったものではないことは、アメリカで昨年起きた「ウォール街を占拠せよ」デモにも共通したものである。そこで糾弾されたのはアメリカの富の半分がわずか400人によって占められているということだったのである。

・経済成長に自然破壊と公害が伴うことは、日本が実証済みである。しかし、そのひどさは、中国においてもインドにおいても、はるかに深刻なようだ。それは南米においてもアフリカにおいても同様のようだ。経済成長が多くの人びとを豊かにし、民主主義を発展させるのではなく、貧富の差を拡大し、権力と資本を一部の人間に持たせてしまう。本書はインドだけでなく、グローバルな規模で「上方蓄財システム」によって民主主義の崩壊が起こっていることを気づかせてくれるものである。