2002年6月24日月曜日

「メディア・イベント」の極み

・日本と韓国で開催されているWカップは、世界最大のメディア・イベントだといっていい。オリンピックはすでに何度か経験してきたが、Wカップはサッカー一種目だけでオリンピック以上の関心を集めている。しかも、あれで負けてもこれで勝てばという多様性がないから、一つの勝敗、というより1点をめぐって世界中が一喜一憂することになる。こんなイベントを目の当たりにするのは、ぼくにとってはじめてのことだ。テレビの世界同時中継が可能にした大騒ぎで、まさにメディア・イベントの時代であることを実感させられた。

・もちろん、メディア・イベントの歴史は長い。それは、新聞の創生期から、読者の関心を集めるものとして認識されてきたし、ラジオやテレビの時代になって、いっそう際だつようになったものである。たとえば、日本の新聞が一挙に購読者を増やしたのは「日露戦争」の報道だったし、甲子園の高校野球は朝日新聞が作りだしたものだ。戦争とスポーツを一緒にはできないかもしれないが、事実の報道にも、出来事を脚色し、物語を作りだして人びとの関心を惹きつけ、夢中にさせるといったやり方が強調されるから、メディア自体が作りだしたイベントと、そうではない出来事とのあいだには、実際、それほどの違いはないのである。

・今回紹介する一つは、そのメディア・イベントについて書かれたものである。『戦後日本のメディア・イベント』(津金沢聡広編著、世界思想社)はその前作『戦時期日本のメディア・イベント』の続編で、範囲は戦後から1960年まで。そのなかでスポーツに関係するのは2編。「戦後甲子園野球大会の『復活』」(有山輝雄)と「創刊期のスポーツ紙と野球イベント」(土屋礼子)。その他にテレビの普及とあわせてよく話題になる「メディア・イベントとしての御成婚」(吉見俊哉)や、もっと地味な話題、たとえば「復興期の子供向けメディア・イベント」(富田英典)など多様な話題が取り上げられている。

・有山さんは今年から東京経済大学に来られて学部の同僚になった人だが、彼は、甲子園を、日本に輸入された野球を「正しく模範的」な「武士道野球」に作りかえた「道徳劇」の舞台としてとらえている。また一方で、甲子園は朝日新聞の宣伝イベントとしてはじめられたものだから、そこには「見世物興行」としての側面が強くあり、娯楽性や有名性といった要素がつきまとう、きわめて矛盾の多い形にならざるをえなかったというわけだ。

・甲子園野球は戦争の中断の後に復活する。その際に、軍国主義的な色彩の強い「武士道野球」という特徴は影に隠れるが、実体は、「スポーツマン精神」ということばに置き換えられてそのまま継続する。「戦時の野球を隠し、しかも隠していることを復活、再生の言説によって隠し………戦時中を脇に片づけてしまえば、野球はスポーツ化され、復活した大会は『平和の熱戦』となりえた」(44頁)。このイベントは、そのメッキがかなり剥げてしまっているとはいえ、相変わらず「汗と涙の青春のドラマ」として春と夏に甲子園をにぎわしている。前にも書いたが、ぼくはこの甲子園野球が生理的に嫌いだ。


・Wカップのテレビ中継や新聞記事を見ているかぎり、そこには甲子園のような「道徳劇」の要素は目立たない。むしろ、なじみの選手を応援して興奮したり、感動したり、格好いい、話題の選手に熱を上げたりといった話題が多い。また韓国での様子には感じられる強烈な「ナショナリズム」も、日本ではそれほどでもなかった。そのクールさが両国の成績の差になっているのかもしれないが、ぼくは、興奮もこの程度でちょうどよかったのではないかとおもっている。優勝候補だったイタリアやスペインが審判の判定を公に批判している。負けるはずのないチームが弱いはずの国に負けた。その現実を認めたくなくて、責任を他に転化させようとしているところがみっともない。ベスト4に残ったヨーロッパ勢はドイツだけ。これは、Wカップが本当に世界的な「メディアイベント」になった証拠だと言えるかもしれない。

・「メディア・イベント」として気になる点をもう一つ。競技場のフィールドの周囲はいくつもの広告ボードで囲われている。目新しい光景ではないが、Wカップでは、それを一枚置くのに数億円の費用がかかるという。テレビ中継でも、民放の場合には試合の前後や前後半のあいだの休みにたくさんの CMが流された。放映権料は前回のフランス大会にくらべて桁違いに高騰している。世界大のメディア・イベントがまた格好の広告の場になり、巨額の金が動く機会になっている。

・『スポーツイベントの経済学』(原田宗彦、平凡社新書)によれば、今回のWカップでFIFAにはいる金は、1500億円を超えるそうである。チケットの売れ残り騒ぎは、放映権料の高騰で入場料収入に無頓着になったせいかもしれない。いずれにしても、FIFAは濡れ手に粟。しかし、ホテルの予約キャンセルが多数出た韓国では、チームの盛り上がりとは裏腹に、Wカップ不況が心配されているようだ。いくつも作った巨大なスタジアムは、これから何に使って維持していくのか。韓国の諸会場はもちろん、新潟、大分、宮城、神戸、静岡……。ぼくは、祭りの後始末が心配になってしまう。

日時: 2002年06月24日

2002年6月17日月曜日

ワールドカップについて

 

  • ワールドカップが後半戦に入った。すでに3週間、連日の熱戦を見て、もう充分堪能した気になっているが、日本が決勝トーナメントに進出したから、まだまだ目を離すことはできない。けれども、正直言ってぼくはもう、かなりくたびれている。サッカーのおもしろさや怖さを、今さらながらに実感したのだが、それももうすでに満腹状態になっている。
  • ぼくはサッカーはそれほど好きではない。大学生の頃からずっと見てきたのはラグビーだったし、ここ数年、特に熱心なのはメジャーリーグの野球だった。Jリーグが発足してからもう10年近くなるが、実際に見に行ったのは、リーグ昇格をかけた京都パープルサンガの試合ひとつだけだし、テレビの中継もめったに見ない。中田がセリエAのペルージャに行った年はWowowで中継したから何度か見たが、2年目からはCSのスカパーになって、見られなくなった。
  • ラグビーや野球にくらべて、それほど熱心になれない理由はひとつ。点が入らないことだ。引き分けが多いし、ペナルティ・キックで勝敗を決めたりする。その白黒つきにくいところが面白くない。そんなふうに思っていたのだが、ワールドカップを見ていて、その1点の重みというのがよくわかった。1点がどちらにはいるかによって、気持ちは天国と地獄に別れる。淡々としたストーリーに突然、クライマックスがやってくる。サッカーはその瞬間をじっと待つドラマである。
  • ラグビーはサッカーから派生したものだが、ゲームとしては対照的で、点を積み重ねていくことで展開する。一試合で何十点もはいるし、百点を超えることも珍しくない。それは野球も同じで、点が入らないことはまれで、二桁の点が入ることも多い。サッカーはゴールしそこなってため息といったシーンが多いから、どうしても見ていてストレスがたまることになる。凡試合ではそれがつまらなさの原因になるのだが、ワールドカップでは国民の期待や国の威信がかかっているから、そのなかなかとれない点をめぐってくり広げられる戦いに、一瞬も目が離せなくなってしまう。たった1点がもたらす狂喜と落胆のゲーム。暴動が起こるのも無理はないのである。
  • 今回のワールドカップでも、すでにあちこちで暴動が起こっていることが報道されている。日本に負けたロシア、決勝トーナメントに残れなかったアルゼンチン。韓国では霊になって韓国チームを支えるといって自殺した青年がいたそうだ。悪名高いイングランドやドイツのフーリガンは国外に出ることを徹底的におさえられたから、日本や韓国で騒ぎが起こることは、今のところない。けれども、これから決勝までのあいだに何が起こるか、まだまだわからないだろう。
  • いずれにしても、今、1点をめぐって世界中が一喜一憂している。大げさではなく、世界大戦状態にあるといってもいい状況だ。実際に殺し合い、破壊しあう戦争とはちがって、スポーツなら大いに結構という気もする。何しろやっていることは、ボールをゴールにいれるということだけなのだから。けれども、国中が大騒ぎという状態を見ると、こんなイベントがはたして必要なのだろうか、という疑問も感じてしまう。ワールドカップが原因で戦争が起こるといった可能性は少ないと思うが、そんな不安を感じてしまうような興奮ぶりが気にかかる。
  • ワールドカップは、ヨーロッパや南米の人びとにとっては長い間親しまれてきたイベントだが、世界中を巻きこむような形になったのは、テレビによる中継がはじまってからで、その巨大化はここ数回の大会で起きた現象にすぎない。だからこそ、今回のテレビ放映権料が一気に高額化したりもしているのだ。その放映権を獲得したドイツのテレビ局がつぶれたり、試合のチケットがうまく捌ききれなかったりといった不手際もあって、FIFAが批判されているが、FIFAの対応を見ていると、ワールドカップとはしょせん、一スポーツ団体がはじめた国際大会にすぎないのだと、改めて思ってしまう。FIFAにまつわる利権の大きさも計り知れないが、世界中を揺るがす巨大なイベントであることを認識していない、その能天気さも気にかかる。
  • スポーツはメディア、特にテレビの力によって、ますます巨大なイベント化していく。興奮、狂喜、歓楽、怒り、落胆、悲哀といった感情とそれを共有することでもたらされる一体感を消費させる場として欠かせないものになっている。ぼくはそこに入りこむことに消極的ではないが、みんながみんなという状況を目の当たりにすると、ちょっと躊躇して、一歩後ずさりしたい気になってしまう。「盛り上がること」だけが目的の行動には、何か気味の悪い影を感じとってしまうからである。
  • 2002年6月10日月曜日

    つれづれ

     

    forest17-1.jpeg・高原の花は、相変わらず、つぎつぎと咲いている。芽が出て、茎が伸びて、葉が茂る。そして開花。で、しばらくすると、花が落ちて、別の花と交代。だから1日として見逃せない。もちろん、雑草だと思ってむやみに抜くこともできない。だから、歩くところ以外には植物が繁り放題になっている。もっとも、自分で植えた向日葵とコスモスの周囲の雑草はこまめに刈っている。どちらも日の光をほしがるから、覆い被さるように雑草に伸びられては、成長しないし、負けて枯れてしまうことになる。それでも、森のなかでは一日中日があたる場所は少ないから、成長はゆっくりとしている。雨も少ないから、水撒きもしてやるが、そうやって保護していると、あらためて雑草の強さやたくましさを知らされる。

    forest17-2.jpeg・先日山梨放送の番組で「ミルキー・クィーン」という米の話を聞いた。おいしい米のようだが、それを富士吉田で作っているという。寒暖差の大きさときれいな水が稲作には適しているようだ。おいしい米など取れるはずのない土地に適した品種が、今人気を呼んでいるらしい。そんな話を聞くと、買って食べたい気がするが、作ってみたい気もちょっとだけする。付近には休耕田がたくさんあって、頼めば安い値段で貸してくれるようだ。すぐにとは思わないが、可能性としては考えてもいいかなという気になった。
    ・もっとも、ここのところ、ワールド・カップやMLBでテレビに釘付けで、カヤックも散歩もご無沙汰状態になっている。薪割りもしばらくやっていないし、倒木探しもお休みだ。運動不足もはなはだしくて気にはなっているのだが、昼も夜も、テレビの中のスポーツに一喜一憂している。米作りなどという大胆な思いつきは、だからこそするのかもしれない。実際に検討しはじめたら、たぶん、すぐにあきらめるだろうと思う。

    forest17-3.jpeg・湖畔はずいぶんにぎやかになってきた。釣り客、キャンパー、水上スキー、それに観光バス。近くのペンション村にも、連日修学旅行の団体さんがやってきている。カントリー・レイクのカヌー教室も早朝から大忙しのようで、出勤時には観光バスが駐車していて、中学生がカヌーと戯れている。これから8月末まで、河口湖周辺は都会の喧噪が持ちこまれるような騒がしさになる。ワールド・カップのためか、いつもより外国人をよく見かける。カメルーンが合宿しているから、アフリカ系の人たちも多い。だから、ふだんにもましてにぎやかそうに感じてしまう。

    ・そのような喧噪は家のまわりまではやってこない。しかし、この時期になると、さまざまな音がして、やっぱりにぎやかだ、鳥の声、カエルの声、キツツキが木をつつく音。ハチの羽音。庭にでるとそれが合唱するように聞こえる。もう少しすると、それに虫の声が加わる。ムササビは時折帰ってきて屋根裏で寝ている。夜な夜なやってきた野ネズミには餅米と向日葵の種をたらふく食べられた。ここ数日は大きなアリが入りはじめている。草花とあわせて、ここには生き物がたくさんいて、それらが一斉に生きるエネルギーをほとばしらせている。
    ・カウチポテト状態だからこそ思うことをもう一つ。今年こそは富士登山をしようと考えている。実はぼくはまだ一度も、頂上に立ったことがない。学生の時に一夏8合目の山小屋でアルバイトをしたのだが、その時も5合目と山小屋との往復ばかりで、そこから上には行かなかった。だから一度、と毎年思っていて、今年もそろそろそんな季節になったから、やっぱり今年は登らねば、と考えはじめている。しかし、富士山はなくならないから慌てなくても、といった気持ちが一方にあるから、今年もやっぱり登らないかもしれない。

    2002年6月3日月曜日

    Tom Waits"Alice""Blood Money"

     

    ・トム・ウェイツの新しいアルバムが2枚同時に出た。"Alice"と"Blood Money"。前作の"Mule"は1999 年だったから、3年ぶりということになるが、その前は6年も沈黙していたから、ずいぶん精力的に仕事をしているな、という印象が強い。今回のアルバムも、前回同様、全作、奥さんのキャスリーン・ブレナンとの共作だ。田舎の農場暮らしが肌に合っているのだろうし、当然ふたりの関係もいいにちがいない。そんなことを感じさせる2枚のアルバムだが、歌はどれももすごくいい。トム・ウェイツには相変わらず「酔いどれ詩人」とか「遅れてきたビートニク」といった形容がついてまわるが、もう完全にそんなイメージとはちがう人になったと感じさせるアルバムだ。
    ・ "Alice"は『不思議の国のアリス』を思いおこさせるおとぎ話だ。彼の声、バックに流れる音は昔とちっとも変わらないが、歌の中身は全然違う。その変わったものと変わらないものの組み合わせが、奇妙に新鮮な世界をつくりだしている。

    いつか、銀の月とぼくは夢の国に行くだろう
    目を閉じて、目覚めると。そこは夢の国
    花の墓に花をおいたのは誰?祈るのは誰?
    夢の国のチャイナ・ローズ、あるいは、愛の息づき
    この日々が永遠にすぎて、ぼくが今夜死んでも
    月は輝き、別のバラが咲くだろうか
    ぼくが愛したのは、しおれかかっているこの一本のバラ
    誰も花の墓に花を置きはしない "Flower's Grave"

    ・トム・ウェイツの声は低音のだみ声で、人相もまるでゴリラのようだが、いくつになっても若々しい感性をしていて、ぼくにはまるで天使の声のように聞こえてくる。もちろん、もうアルコールでごまかしてなどいない。けだるそうだが退屈はしていない。哀しそうだが、ひとりぼっちではない。静かだが暖かい。憂いのある笑い。そんな世界にぼくは、思わず聴きいってしまう。"Blood Money"には、ちょっと日常の生臭さもある。

    なぜ甘い、なぜ用心する、なぜ親切なんだ?
    人が心に持っているのはただ一つ
    なぜていねい、なぜ軽い、なぜプリーズっていうんだ?
    彼らはただ、君をそのままにしておきたいだけ
    そこには信じられるものは何もない
    泣く女、汗をかく商人、金を払うという盗人
    面倒見のいい弁護士、眠っているときの蛇
    お祈りをする大酒のみ
    善人になったら天国に行くなんて、信じない
    いずれにしても、みんな地獄に行くんだ "Everything Goes to Hell"

    ・トム・ウェイツは歌だけでなく、映画でも独特の役回りを演じる。ジム・ジャームッシュの「ダウン・バイ・ロウ」、コッポラの「アウトサイダー」のほか、たくさんの作品に出ていて、意外なシーンでひょっとしたらといった、わかりにくい感じで登場する。醜い容姿をいっそう強調させるメイクが得意だが、今度の2枚のアルバムにおさめられている写真もまた、どれも変装を楽しんでいる。
    ・トム・ウェイツは1949年生まれで、ぼくと同年齢。ヴァン・モリソンとともに、ぼくにとってはいつでも気になるミュージシャンで、しょっちゅう聴いている。だから新しいアルバムが出ればすぐに買って、くりかえし聴くことになるのだが、今回は2枚同時だから、楽しむ時間はたっぷりある。なぜか二人とも、雨の日に聴きたくなるから不思議だ。