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2024年4月22日月曜日

散々な一日

 

河口湖の桜が満開になりました。自転車で湖畔一周と行きたかったのですが、ちょっと前から軽いぎっくり腰になってしまいました。その前も、雨が多くて、なかなか行ける日がなかったのです。腰の痛みもだいぶ取れ、天気も良かったので、一ヶ月ぶりに自転車に乗りました。ところが湖畔は人やクルマで大賑わいで、渋滞箇所もあちこちにあって、すいすいとはいけない状態でした。

止まっているクルマの脇を通り抜けようとした時に、溝にはまってこけてしまいました。足の擦り傷ぐらいでたいしたことはなかったのですが、タイツは破けてしまいました。クルマに乗っていた人が驚いて、「大丈夫ですか?」と声をかけてきて、かなり驚かしてしまっただろうと思いました。少し血が出ていましたが家に帰って、傷の手当てをしていると、肩が痛くなってきました。自転車は何ともなかったですし、この程度ですんでよかったと思ったのですが、自転車はしばらくやめることにしました。

virus1.jpg 夜になると肩の痛みがだんだんひどくなったのですが、パソコン(iMac)を開けるといきなり、画面がフリーズして、「あなたのパソコンに『トロイの木馬』というウィルスが侵入しました。すぐにAppleセンターに電話をしてください」という表示が出てきました。35年近くパソコンを使ってきましたが、ウィルスにやられたことはありませんでした。そこで疑えばよかったのですが、画面にある電話番号に電話をしてしまいました。

するとインド訛りの日本語を話す人が出て、「すぐに対応しないとパソコンが壊れます」と脅してきました。どうしたらいいと聞くと、修理に3万円かかります。至急コンビニで払ってくれれば直しますという返事でした。それでこれは怪しいと思い、いろいろやり取りをしましたが、相手はコンビニで3万円を繰り返すばかりでした。Appleはそんなことでお金の請求をするはずがありません。そう言って、コンビニに行く気はないとこちらも繰り返すと、結局相手が諦め、「30分後に再起動したら戻ります」と言って電話を切りました。再起動すると、確かに何事もなかったように立ち上がりました。

ほっと一安心ですが、パソコンのデータを抜き取られたのではと心配になりました。そこでAppleのサポートに電話をして、相談することにしました。待ち時間が長かったですが、親切に対応してくれ、まあ大丈夫だろうということになりました。ところが一緒に立ち上げていたMacbookがフリーズして動かなくなっていました。Apple サポートと画面を共有する作業をしている時にiMacではなく、Macbookが反応していましたから、これが原因だろうと思いました、もういちどAppleに電話をしたのですが、すでに9時を過ぎていて終了していました。この間、肩の痛みは忘れていたのですが、寝る時に寝返りできず、痛くて何度も目を覚ましました。散々な目に遭った一日でした。

翌朝もう一度、Apple に電話をしました。Macbookのフリーズは相談する直前に直ったのですが、他にもう一つ、古いIDで買ったソフトが更新できなくなったという問題がありました。詳細は省きますが、共有画面にして長時間あれこれ試みて、うまくいきました。こういう時のAppleの相談員は丁寧で感心します。それにしてもiMacは2012年製で、システムの更新もありません。主な使用はMacbookにしなければと思うのですが、大きな画面に馴れているのでなかなか決断できないのです。


2024年3月11日月曜日

「山を歩く」は意外なこと

 

miyake1.jpg 大学院の頃からの友達が、突然冊子を送ってきました。題名は『山を歩く』で、思わず、「え!どういうこと?」と口走ってしまいました。何しろ、彼が山を歩くことなどは、まったく想像がつかないことだったのです。昨年の春先のことです。で、今年も2023年の山歩きの記録が届きました。僕より三つほど若いですが、70歳の山歩き初体験ということでしょうか。しかし、月一回の割で歩いているようですから、もうすっかり板についたことだろうと思います。

友達は三宅広明さんといいます。大学院を出た後、学校の先生として淡路島や神戸で働いて、退職後に山歩きに目覚めたのですが、きっかけは山歩きの好きな友人に誘われたことだったようです。明石に住んでいますから、歩くのはもっぱら近隣の山で、僕にはほとんど馴染みがありませんでした。けれども、初めて山を歩いて、木々や花々にふれ、生き物の気配を感じ、高いところからの景色を眺めて感激している様子は、十分に想像することができました。

山歩きはいつも三人で行っているようです。気心が知れた仲間なんでしょうね。連れ立って何かをすることが苦手な僕にはできないことだと思いました。僕はいつもパートナーと一緒に山歩きをしてきましたが、彼女の体力が衰えて、前には登ったところにも行けなくなりました。誰か連れがいたら、まだまだ行きたいところはあるのにと、うらやましく思いながら読みました。

ちなみに、去年歩いたのも羽束山(三田市)、編妙の滝(神崎郡)、天下台山(相生市)。摩耶山(神戸市)など家から日帰りできるところがほとんどですが、木曽駒ケ岳に挑戦したようです。もっとも彼以外の二人はアルプスにも良く上る登山家のようで、彼だけが3000mも、山小屋泊まりも初めてだったようです。「よく歩く六甲山が931m、これまでで一番高い山が氷ノ山の1510mという具合。日本アルプスにどんな山があるのやら、どんな景色が見えるのか、全く知らず、関心も持たずにずっと生きてきたわけで」と書いていますが、千畳敷カールの高山植物や、雷鳥のひな、そして山頂に登って見える山々に、大パノラマだといって感激しています。

僕は木曽駒ケ岳はロープウエイで行ける千畳敷カールまででしたが、御嶽山には登りました。だから彼が見た周囲の山の様子は僕にもわかりました。もちろん大噴火で多くの人が命を落とす前のことでした。この冊子を読みながら、息子と登った富士山や、友達だけが登って、僕とパートナーは途中の駒津峰であきらめた甲斐駒ケ岳のこと、そして昨年亡くなった義兄と登った磐梯山などを次々と思い出しました。そのうち彼とも一緒に歩きたいものだと思いました。




2024年1月1日月曜日

また一つ歳をとった

 

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明けましておめでとうございます。2024年最初の更新です。数え年で75歳になりました。喜寿がもうすぐそこまで来ています。歳をとったものだとつくづく思います。運転免許証の更新に高齢者教習の他に認知症検査が加わりました。高をくくってのんびり手続きを開始したら、予約がいっぱいで12月の中旬からになりました。師走も押し迫ってから、認知症テスト、高齢者教習、そして免許証の更新と慌ただしく済ませて、何とか新しい免許証を手に入れました。次は3年後ですから、もう78歳ということになります。

コロナが少し収まったこともあって、去年は夏に東北に旅行しました。クルマを運転して往復1600 kmのスケジュールでした。まだまだやれると自信を持ちましたが、酷暑の旅行はもうやめようと反省しました。自転車に乗ることも、山歩きをすることも、少しづつ億劫になっています。これではいけないと思うのですが、年令にあわせてほどほどにと思う気持ちもあります。目も耳も衰え、身体の節々に痛みを覚えますが、もう何年も、コロナに感染することも、風邪をひくこともせずに過ごしています。健康でいることが一番と思う今日この頃です。

それにしても公私にわたって、訃報が多い1年でした。それも多くが同年齢に近い人ばかりでしたから、次は自分かな、と思わされました。何より驚いたのは義兄の死です。3月に胃ガンでステージ4だと聞きましたが、それから半年あまりで逝ってしまいました。山歩きをする元気な人でしたから、お見舞いに行った時に見た痩せた身体には心が痛みました。音楽のレビューが亡くなった人ばかりだったのも去年の特徴でしたが、ずっと聴いてきた人たちが、もうそういう歳になったのも事実です。

暮にクルマで事故を起こして、軽自動車をレンタルしました。修理して戻ってくるのはまだだいぶ先のようですから、当分は軽自動車を運転しなければなりません。当然、長距離運転などはする気になりませんから、買い物など、近所の移動に限られると思います。何しろ借りているのは問題になっているダイハツなのです。とは言え、もっとも、けっこう快適に走るものだと改めて感じました。半ば自動運転化したクルマに馴れていましたから、初心に帰っての運転を楽しんでいます。

このホームページを始めたのは1996年でしたから、もうすぐ30年になります。もう書くことも、この更新以外にはほとんどなくなったのですが、週一回の更新が、かなりしんどくなりました。何より話題を探すのに一苦労なのです。行動自体が少なくなりましたし、人とのつきあいも限られています。日本の政治や経済,そして社会の状況について危惧することが多いのですが、もう批判してもしょうがないと思わされることが続いています。唯一の救いは大谷選手の活躍ですが、ケガをしたり桁違いの大金を手に入れたりと、大丈夫かなと心配するようになりました。春になればまたシーズンが始まります。今はそれと、クルマが戻ってくることを心待ちしています。

2023年12月25日月曜日

運転免許証更新の認知テストを受けた

 

75歳を過ぎると運転免許証の更新には、高齢者講習だけでなく、認知症テストが義務化されている。このテストを受け、高齢者講習に行った後で、やっと免許証の更新手続きに行けるのだから、何とも手間のかかる話である。老人にこんな手間をかけさせるのは、いやなら運転を止めなさいと言っているのと同じではないか。そんな文句を言いながら、認知症テストに出向いた。費用は1500円で、この後の講習にも7000円がかかる。もちろん免許証の更新にも費用がかかるから、出費という面でも決して少なくない額である。
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テストの形式は3種類だった。暗記力を試すために16枚のイラストを見せて、その後でどれだけ覚えているかを問うものが一番大きな問題で、後は今日が何年何月何日で、今何時何分かを問うもの、それに1から9の数字を並べた乱数表の数字二つに印をつけろというものだった。配点は記憶力が80点で「何年~」を問うものが20点。乱数表は点とは関係なかったから、暗記したことを忘れさせる魂胆だったのだろう。

僕はあらかじめYouTubeで予習をしていたから、85点から90点ぐらいを取った。周囲を見渡すと、4つや5つしか埋まっていない人もいたが、受けた全員が合格した。合格点は36点で、「年月~」が20点だから、記憶力は16点取ればいいのである。しかも「年月~」については事前確認もしたのである。各自の点数については教えてくれなかったから、どこまで厳密に採点したのか怪しいな、という気になった。

そもそも、自動車を運転するためになぜ、イラストを16枚も一気に覚える必要があるのか。僕にはまったくわからない。しかも、16枚中4枚を覚えていれば合格というのだから、老人をバカにするのもいい加減にしろと言いたくなった。高齢になれば事故を起こす危険性が増えるからというのであれば、もっと適切な検査があるはずなのである。それに認知能力の衰えを知る必要は運転にかぎらないから、どこの自治体でもやっている高齢者の健康診断の中に組み込めばいいのである。

運転免許証の更新には以前からうさんくさいところがあった。「安全協会」にお金を納めることを誰もが素直にやっているが、僕は最初に強制的に払わされて以後、一度も払っていない。以前は名前などの記入を和文タイプでやる費用と一緒だったから、免許証に手書きで記入したこともあった。そもそも集めた金が何に使われているのかが不確かで、批判をされるようになってやっと、払わなくてもいやな顔をされなくなったのである。その意味で、高齢者の認知テストは、教習所の収入増を狙ったもので、どうせ政治家が介入していることだろうと疑いたくなった。

今回、高齢者の免許証更新には他にもハードルがあることに気がついた。信号無視や横断歩道での停止といった比較的軽度の違反でも、試験場での運転技術の検査が義務づけられているのである。うっかりで捕まったら、さらに厄介なことになる。自分で運転しなければ生活できないところに住んでいて、クルマに乗ることはまだまだ必要だから、それを肝に銘じた経験だった。

2022年1月10日月曜日

黒川創『旅する少年』(春陽堂書店)

 
kurokawa1.jpg 蒸気機関車に興味がある少年が、学校の休みを使って日本全国を旅をする。それは今から半世紀前のことで、ちょうど全国から蒸気機関車が消える時期だった。少年は周遊券を買い、有効日数いっぱいの計画を立てて、北海道から九州までの旅をする。それも夏休みはもちろん、春や正月の休みを待って、学校が始まる前日、あるいは当日の早朝に帰る計画を立てて実行する。それが小学生の時から中学生まで続くのである。「鉄オタ」などと言うことばが流行るはるか前のことで、読んでいて、その行動に呆れ、感心してしまった。

著者の黒川創は小説や評論を数多く執筆し、『鶴見俊輔伝』で小佛次郎賞を得ている有能な書き手で、僕も彼の書いたものには注目しているが、この本では、彼の少年時代について、改めて知らされることが多かった。実は僕は、この本に登場する少年期の作者を直接知っていた。彼の父親である北沢恒彦さんと一緒に、京都の新京極の調査をしたことがあるし、同志社大学の近くにあった「ほんやら洞」に親子で来ているところを見かけたり、中学生の頃の著者がバイトをしているのも覚えていたからだ。『鶴見俊輔伝』の批評でも書いたが、彼が大学生の時に『思想の科学』ではじめて編集をした「大学生にとって大学生とは何か」という特集で、僕は大学生について彼からインタビューを受けてもいた。しかし、彼がこれほど蒸気機関車にのめり込む少年時代を過ごしていたことは、全く知らなかった。

これほど長期の旅をくり返しするのには相当の費用がいる。それは主に母親からの提供だったようだが、なぜ許せたのか、という点に興味を持った。認めなければへそを曲げ、鬱屈した気持ちにさせてしまうと思ったのかもしれない。あるいは夫との関係がぎくしゃくしていて、そのことで、息子に負い目があったのだろうか。いずれにしても、今ではとても認められないことのように思える。また、少年は車中や旅先で出会った人と仲よくなり、食事や宿泊などを助けてもらったりしている。高度成長期で日本が大きく変わる時期であったとはいえ、「袖触れ合うも他生の縁」といった気持ちが、まだ通用していた時代だったことを改めて思い出した。

黒川創の執筆の仕方は、徹底的に資料を調べ上げることにある。その姿勢は、この少年時代の旅によって培われたものであることも再認識した。蒸気機関車の最後の運行にあわせて出かけるためには、何時の列車に乗って、どのルートで行ったらいいのか。写真を撮るためにはどこで待ちかまえたらいいのか。そして、ついでに見ておきたいところや、うまく新学期に間に合うように帰るには、どうするか。そんなことを事前に徹底的に調べているし、当時の旅を思い出すための写真や、切符なども、きっちり整理していたのである

旅の最後は蒸気機関車とは縁のない沖縄である。石垣島や西表島にも行っているが、嘉手納や普天間の基地にも行っている。「ほんやら洞」でバイトしていたことや、父親の影響もあったのだろう。すでに戦争と沖縄について、あるいは当時の政治状況についても、自ら考えることはしていたようだ。早熟といってしまえばそれまでだが、後に黒川創となる、その出発点に触れた気がした。

2021年10月4日月曜日

iMacで悩んでます

 マッキントッシュのOSが"Catalina"から"Big Sur"に更新されたようです。ようですと書いたのは、僕の使うiMacには更新の通知が届いていないからです。パートナーがビッグ・サーに更新しろと言ってきてると聞いて、初めて気がつきました。どうして僕の所には来ないのか、気になってAppleを調べると、"Big Sur"はiMacでは2014年以降のモデルに対応とありました。僕のiMacは2012年ですから、もう新しいOSには対応しないというわけです。さて、どうしようか。かなり悩ましい問題です。

そう言えば、僕の使うiMacはすでに9年も経っているのです。そんなになるのかと思いましたが、今でも問題なく動いています。壊れるまでは使うつもりでいましたが、OSが更新できないとなると、ぼちぼち買い替えを考えなければなりません。けれども 、iMacにつなげて使っているディスプレイは、新しいiMacでも使えるのでしょうか。Appleは現在、ディスプレイを販売していないのです。

僕は1989年からマッキントッシュを使い続けています。今までに購入したマックはおそらく10台を超えているでしょう。何しろ最初の頃は数年経つと処理速度が遅くなって買い替えなければならなかったのです。しかも、最初に買ったSE30は100万円近くもしたのです。そこにいくと、最近のパソコンは進化が遅くなった気がします。今使っているiMacのプロセッサーを調べると、Quad-Core Intel Core i7で処理速度は3.4GHz、プロセッサーの個数は1、コアの総数は4とありました。今売っているものとどれほど違うのでしょうか。

同じ27インチで調べると、3.1から3.8GHzまで3種類あってコアが6〜8とありました。ターボブーストを使うと最大5GHzになるとありましたが、ここ10年、あまり変わっていないことがわかりました。これなら壊れない限りは買い替える必要などないなと思いました。しかし、24インチのiMacは新しいのが出たばかりで、プロセッサーはApple M1チップという新しいもののようです。さらに、これから発売されるものとして30インチのiMacの噂があるようです。今は大きな変化の時期なのかもしれません。

もう一つ気になるのは、新しいiMacを購入したら、古いiMacをディスプレイとして使えないかという問題です。壊れていないのに捨てるのは何とももったいない気がするからです。今のところダメという記事が多いですから、やっぱり壊れるまではこのまま使うことにしようと思っています。そのためにも、iMacにあるデータは確実にバックアップしておかなければなりません。

AppleはGAFAの一角として世界を席巻しています。その旗手(機種)は何といってもiPhoneでしょう。僕は2014年に最初のiPhoneを購入して、昨年SE(第2世代)に買い替えました。最初の5sが6年で使い物にならないほどに遅く感じられたからでした。もっともiPhoneは電話以外にはほとんど使っていませんでしたから、買い替える必要もなかったのですが、今さら電話だけで使う携帯に代える気にもならなかったのです。Appleは毎年新機種を出しています。それに合わせて毎年買い替える人がかなり多いのでしょう。パソコンとは力の入れ方がずいぶん違うとつくづく感じました。

2021年7月5日月曜日

宮沢孝幸『京大おどろきのウィルス講義』


corona1.jpg・新聞の書評欄で見つけて、読みたくなった。欧米ではワクチン接種が進んで、鎮静化しつつあるが、変種のウィルスによってまた、感染者が増えたりもしている。この新型コロナ・ウィルスとは一体何者なのか。そんな疑問を持ち続けていたからだ。読みはじめて感じたのは、ウィルスというものの複雑さや深遠さで、克明にメモを取って読まなければ理解もしにくいし、頭にも残らないということだった。しかし、久しぶりにノートを取りながら読んで、新たな世界が開けたような気になった。

・当たり前だがウィルスは人類の誕生よりはるか昔から地球に存在してきた。生物でも無生物でもなく、他の生物に寄生して生き長らえてきた。著者は獣医学の専門家で、ウィルスの研究者だが、ヒトに比べて動物に寄生するウィルスについては、これまであまり研究されてこなかったと言う。エイズ・ウィルスやSARSコロナウィルスが登場してヒトに危害を及ぼすまでは、動物に寄生するウィルスは、研究対象としてはほとんど無視されてきたというのである。

・今、世界中を襲っている新型コロナ・ウィルスに研究者はもちろん、世界中の人びとが恐れ、翻弄されているわけだが、獣医学の分野でウィルスを研究してきた著者にとっては、それほど驚くことではなかったようである。そもそも、人に感染するウィルスは、動物に寄生しているウィルスのごく一部にすぎない。ウィルスは野生のあらゆる生き物はもちろん、牛や馬といった家畜や犬や猫などのペットにも寄生している。それが、突然変異をおこしたり、他の生物に感染した時に、悪さをするようになるのである。

・新型コロナウィルスは正式には"SARS-Cov-2"と名付けられている。コウモリ由来で、2002年に流行したSARSコロナウィルスに近く、その弱毒型のバリエーションにすぎないようである。しかし、弱毒型である故に多くの人に感染し、世界中に広まってしまっているというのである。確かにスプレッダーと言われる人の多くは無症状で、自分が感染していることに無自覚だったりするのである。感染集積地を特定したらできる限り多くの人にPCR検査をして、感染の広がりを防ぐようにする。その感染防止のイロハが、日本では未だに行われていないのである。

・生物の細胞内にはDNAという身体の設計図があり、これがコピーされてRNAという手続き書になり、それをもとにたんぱく質が作られるという仕組みがある。それによって細胞が絶えず作られ、成長したり、新陳代謝をおこしたりするのだが、ウィルスにはRNAの遺伝情報を持って生き物の細胞に入り込み、そのRNA情報をDNAに変換させて、寄生した細胞のDNAに付け加えさせてしまう種類があって、「レトロウィルス」と名付けられている。このウィルスの目的は、進入した細胞を使って自らを再生産することにあるのだが、感染した細胞にはこのウィルスのRNAがDNAとして残ってしまい、悪さをされることがあるのである。

・典型的には「成人T細胞白血病」を引き起こす「ヒトTリンパ好性ウィルス」(HTLV)やエイズを起こす「ヒト免疫不全ウィルス1型」(HIV-1)があって、どちらも感染すれば死の危険があって恐れられたものである。しかし、生物には「レトロウィルス」が入り込むことを利用して、新しい臓器を作り出すという進化の仕組みも見られるのである。この本で紹介しているのは著者の研究テーマでもある哺乳類の胎盤と「レトロウィルス」の関係である。卵子と精子が結合して受精卵となり、それが胎盤に着床して子宮の中で成長していく。この時母胎が受精卵を異物として攻撃しないよう制御するのが、ウィルス由来のDNAだというのである。

・この本ではさらにiPS細胞と「レトロウィルス」の関係にも話を進めている。読んでいて、ウィルスと生物の関係の複雑さと深遠さを、改めて教えられた気がした。コロナ禍は個人にとっても、国や世界にとっても大変深刻な問題だが、地球やそこで生きる生物が辿ってきた長い歴史という視点にたてば、ウィルスが欠かせない存在だったことがよくわかる1冊である。

2021年3月8日月曜日

何ともお粗末なデジタル化

 コロナ禍で露呈した日本の現状には、驚くものが少なくない。その一つにデジタル化の遅れがある。小中高から大学が休校になってわかったのは、多くの生徒や学生がPCはもちろん、タブレットさえもっていないことや、家にWiFi環境が整っていないことだった。スマホがあればPCはいらない。こんな傾向は大学で学生に接していたときから感じていたが、リモートでの勉強が避けられなくなって、そんな問題が改めて露呈した。PCを使った教育をせめて中学生から徹底していれば、こんなことにはならなかったはずである。

我が家にも「マイナンバーカード」を申請する書類が来た。しかし、うさんくさいと思っているから、すぐに捨てた。国民についての情報を一元化しようという政策は、過去に何度も試みて失敗している。「住基ネット」がいい例だが、「マイナンバー」も、面倒なことをやらされた割に、何の役になっているのかわからないと感じてきた。それどころか、カードにすることによって、郵便局や銀行の預金までも管理するなどというから、不信感ばかりをもたされることになった。政府はカードの普及に力を注ぐようだが、使い方に納得がいかなければ、国民の抵抗はなくならないだろうと思う。

そんなデジタル化の遅れを改善するために、国は「デジタル庁」を新設するようだ。情報システムを整備して縦割り行政を改めること、あらゆるデータのデジタル化とオンライン化することなどが謳われているが、あまりに遅いし、果たしてうまくいくのか、ほんとうの目的は何かなど、疑わしいこと満載の制度である。確かに、コロナに対する台湾の対応を見れば、データや情報のデジタル化が必要なことはよくわかる。それに比べて、感染者の集計や、給付金の支給を手作業でやっている日本のお粗末さが目立つばかりだった。

デジタル化については、日本はすでに周回遅れになっている。だから急いでと言うのだが、政府の政策には一貫性がないし、国民の意識も低いままであるような気がする。たとえば日本人の多くはまだ、カードではなく現金を利用している。買い物に行けばそれはよくわかるし、カードが使えない所も多い。しかし世界的に見れば、現金を持ち歩くことをしなくなった国が増えているのである。そんな傾向にあるのに、渋沢栄一で新紙幣などとやっていること自体にデジタル化についての意識の薄さを感じてしまう。相変わらずカードではなく紙幣を使えと国が勧めているのである。

この国の政策は、やっていることがちぐはぐだから、結局何をやってもうまくいかない、デジタル化はその典型例だろう。結局役に立たなかったCOCOAに、一体いくら注ぎ込んだのか。やれる見込みのないオリンピックになぜ、観客向けのアプリを開発しようとしているのか。発注業者の中抜きをなぜ見逃しているのかなどなど、うさんくさい話は山のようにある。何しろ政府のトップがデジタル音痴で私腹を肥やすことばかりに熱心な老人ばかりだから、何をやっても結局は無駄遣いに終わるのは明白なのである。

GAFAの波はもう十分日本に押し寄せていて、僕もPCとスマホはApple、買い物の大半はAmazon、そしてGoogleでメールや検索やYouTubeや写真の管理などを行っている。コロナ禍でわかったデジタル化の遅れは、日本の将来をいっそう暗くするものだが、そんな危機意識の薄さが、その暗さをさらに増してしまっている。

2020年5月11日月曜日

再放送ばかりになったテレビ

 

・今までよく見ていたテレビ番組のほとんどが再放送になった。たとえば火野正平の「心旅」は、この春も三重県からスタートして愛知、静岡と来たところで、中断が決定された。その後は2014年の旅が再放送されている。見ていたのにほとんど覚えていないが、やっぱり6年前だから若いなと思った。最近の旅では、一日に走る距離は10km前後だが、6年前は20kmはざらで、40kmなんて日もあってびっくりした。やっぱり70歳を超えたらしんどくて、スタッフも気にしているんだろうな、と思った。もちろん、同年代である自分に照らし合わせての感想だ。

・もう一つ、田中陽希の「グレート・トラバース」は日本百名山ひと筆書きに続いて、2百名山をやり、現在は3百名山の途中にある。最初は2014年で208日、次は2015年で221日だったが、今回の3百名山は、まとめて全部に登るから、2018年から初めて2年を予定している。屋久島から出発して現在は宮城県まで来ていて、既に250座を越えているが、やはり緊急事態宣言が出て中断を余儀なくされた。東北地方は感染者も少ないから、中断しなくてもいいのではと思う。しかし、全国的に登山やトレッキングを自粛するよう求めているし、山小屋も閉じているから、そんな時には続けられないと判断したのだろう。

・僕は家周辺で自転車に乗り、近くの山を歩いている。例年の連休なら河口湖の湖畔も近隣の山もにぎわうのだが、今年は閑散としていたし、登山口は閉鎖され、駐車場も入り口が閉じられていた。だから自転車には乗ったが、山歩きは4月の中旬以降やめている。確かに、首都圏から大勢来られたのでは、感染者が出てしまうという不安はあるだろう。しかし、不安感にどれほどの客観性があるのかとも思う。休みには渋滞するほどの人気の山ならともかく、そうでなければ、互いに接触や接近をしなければ、それで充分なのではと思う。

・普段あまり見ていないが、バラエティなどでも距離をとったり、家などからオンラインで出演といった形が増えてきた。しかし、スタジオやロケで収録するドラマや、ロケ中心の旅番組は、撮ったところまでで中断ということになるようだ。テレワークが出来るものと出来ないものの違いが、こんなところにも出ているのである。いずれにしても、テレビが主な仕事場であるタレントは仕事が減って困っているようだ。こんな様子もやっぱり、危険というよりは、不安感を与えないための配慮のように思う。

・スポーツは現状では、競馬以外は開催の見通しが立たないようだ。ほぼ終息した台湾や韓国の野球は、無観客ながら開催し始めている。近いうちに観客も入れるようだ。日本よリも感染者数も死者数も多いアメリカも、MLBを何とか開催しようと、いろいろな案を出して探っている。ところが日本では、野球もサッカーも、開催が出来るような対策があまり見えてこない。やっぱり、不安を煽るようなことはしてはいけないと自粛しているように見える。

・今日本中に蔓延しているのは、コロナウィルス以上に「不安」という空気なのだと思う。しかし「不安」を解消させるのは「安心感」ではなく「安全」で、必要なのは、それをどうしたら可能にできるかという模索なのだと思う。政府が中途半端な対応をしているのに、どこも批判ではなく忖度して、出る杭になってはいけないと躊躇しているのだろうか。

・テレビのニュースは、自宅待機せずに出かけている人を探し回る監視塔になったかのようだ。サーフィンをしたって、釣りをしたって、接触を避けるよう気をつければいいじゃないか。そんなことを発言する人は、テレビではほとんど見かけない。オーウェルの『1984年』に出てくるテレスクリーンそのものである。

2020年4月20日月曜日

コロナ禍に思うこと


・ここのところ毎週、コロナ禍について書いています。欧米では猛威を振るっていて、全世界で感染者数が200万人を超え、死者も10万人を超えました。他方で中国や台湾、そして韓国などの隣国は終息に向かっているようです。台湾では、無観客ながらプロ野球が開幕しましたし、韓国では、国会議員の選挙が行われました。ところが日本では、これから急増するのではと危惧されています。

・ 日本の感染者数と死者数の少なさには、ずっと違和感を持ってきました。理由はPCR検査自体の桁外れの少なさにありました。たとえば東京では3月末から感染者数が激増して200人近くになった日もありましたが、検査実施人数は多くても一日に500人といったところでした。つまり、極めて陽性の可能性が高い人にかぎって検査をしてきたのです。

・これでは、陽性だけど無症状という人の数はわかりませんし、熱や咳などの症状がある人のなかに、どれだけ感染した人がいるのかもわかりません。日本の感染者は1万人を超えたところですが、この数字はほとんど意味がありません。死者数についても、肺炎で亡くなった方の検査をしていれば、その数はずっと増えているはずです。何しろ日本では毎年、誤嚥性も含めて肺炎で亡くなっている人が13万人もいるのです。

・WHOが検査を勧めるよう警告を発し、世界中のほとんどの国が検査に力を入れているのに、なぜ日本だけが検査を抑えているのでしょうか。感染者が増えたら軽症の感染者の入院で病院がパンクしてしまうというのが、一番の理由のようです。しかし、中国は武漢に数千床の病院を数日で作りましたし、他の国でも、体育館やイベント会場、そしてホテルなどを軽症の患者用に用意するところが多くありました。

・クルーズ船での集団感染騒ぎから2ヶ月が過ぎているのに、政府は何をやってきたのでしょうか。感染者を入院させるベッドが不足しているとか、医師や看護師が装備するマスクや防護服が底をついたとか、今さら何を言っているのかと思います。感染拡大を予測して用意をしてこなかったのでしょうか。マスクは店頭でも相変わらず品薄です。だから首相の提案で一軒に2枚の布製マスクを配布というのですが、いったい何を考えているのかと呆れてしまいました。

・その首相は緊急時多宣言を4月6日に出しました。外出を極力控え、密な接触を避けるようにという要請で、仕事はテレワークを、食事の提供は持ち帰りやケータリングを、そして歓楽を目的とする営業は自粛をといったものでしたが、それに伴う、売り上げや収入減の補償については、ほとんどなしというものでした。欧米の国ではすでに補償の給付が始まっているところが増えていているのですが、多くの批判にもかかわらず、日本の政府は30万円だの10万円だのと、もたもたうろうろしています。

・世界一斉のコロナ禍で何よりはっきり見えたのは、各国のリーダーの姿や言動でした。芸術活動も含めて素早く補償などを宣言したドイツのメルケル首相。自ら感染して入院したことで、目が覚めたように真剣になったイギリスのジョンソン首相。台湾の蔡総統の対応は見事でしたし、韓国の文大統領の指揮は決然としていました。その他、ニュージーランド、アイスランド、ノルウェイなど、女性のリーダーが目立っています。それに比べて日本の安倍首相は、専門家会議から進言があったわけでもない小中高の一斉休校を突然出したり、効果の薄い布マスクを配ったりと、何をしているのかという感じです。

・ところがそんな政権でも、未だに4割前後が支持しているのですから、この国はどうなってしまったのかと唖然とするばかりです。一番の原因は、本気になって批判をしたり、実態を正確に報道する気のないメディアにあります。こんな様子を見ていると、なぜ日本が無茶な戦争を始めて、原爆を落とされるまでやめられなかったのか。3.11で原発をなぜ止められなかったのか。その理由がわかる気がしました。このままではアジアはもちろん、欧米が鎮静化してもなお、日本は深刻な状況のままだということになりかねない気がします。アベノリスク、アベノウィルス。このことに一刻も早く気づくべきです。

2020年4月13日月曜日

ジョン・プラインの死

 

prine5.jpg・ジョン・プラインがコロナ・ウィルスで死んだ。感染して症状が重いことは知っていたが、死の知らせはやっぱりショックだった。入院していることを知ってから、持っているCDやYouTubeで彼の歌を聴き、インタビューなども聞きながら、回復して欲しいと願っていたが、残念だった。73歳。僕より二つ上だった。

・ジョン・プラインは日本ではあまり知られていない。ウィキペディアも日本語版には載っていない。しかし彼は今年のグラミー賞で生涯功労賞を受けているし、1991年の"The Missing Years"と2005年の"Fair & Square"で、グラミーの"Best Contemporary Folk Album"を受賞している。18枚のアルバムを出して9枚が同賞などにノミネートされているから、その実力の程は飛び抜けていたと言っていい。

・とは言え、彼は地味なミュージシャンだった。格好もつけず、驕りもせず、隠し事もしない。「つねに自然体。一人の自由な姿勢をくずさない。そして、時代の気温を親しい旋律にとどめて、ひとの体温をもつ言葉をもった歌をつくる。ほんとうに大事なものは何でもないものだ。かざらない日常の言いまわしで、なかなか言葉にならないものを歌にする。」長田弘が『アメリカの心の歌』(岩波新書)で書いた評ほどプラインを言い当てたものはない。僕はこれを読んで、それまでは興味を持たなかった多くのミュージシャンを聴くようになったが、プラインもその一人だった。ちなみに、僕はこのホームページを1996年から続けているが、最初に書いたのは、この長田弘の『アメリカの歌』だった。

John Prine.png・プラインは1998年と2013年に二度の癌手術をしている。しかし少しの中断期間はあっても、コンスタントに音楽活動はしていて、2016年 "For Better, or Worse" 、2018年 "The Tree of Forgiveness"とアルバムを出して、健在ぶりを示していた。僕はこの2枚とも、このコラムで取り上げている。亡くなったと聞いてまず聴いたのは、遺作になったアルバムの最後に収められた「僕が天国に行く時」 という曲だった。神様と握手をして、ギターをもってロックンロールをやる。酒を飲み、かわいい娘とキスをし、ショウ・ビジネスを始める。そんな歌のように今ごろは天国に着いて、この歌を実現させているのかもしれない。

・このアルバムには、すでに死んでしまった音楽仲間を歌ったものもある。そう言えばウィリー・ネルソンの最新作の "Last Man Standing"(最後の生き残り) も、すでに死んだミュージシャンをあげて、次は誰かと歌っていた。そんな気持ちは僕も同じなのかもしれない。最近このコラムで取り上げた中にも、難病に苦しむジョニ・ミッチェルのことや、引退を宣言したジョーン・バエズなどがあった。そのバエズはプラインがコロナに感染したことを聞いて、彼を励ますためにYouTubeで"Hello in There"を歌っていた。4月に来て、ライブハウスで数多くのコンサートをこなす予定だったボブ・ディランの来日も中止になった。感染したと伝えられたジャクソン・ブラウンは軽症のようだが、どうしたのだろうか。なお、ジョン・プラインの死を追悼してブランディ・カーライルも"Hello in There"を歌っている。

・プラインが感染したのは、ひょっとしたら小さな会場でのライブだったのかもしれない。最近でもそんなところでライブをやっていたようだ。日本でもライブハウスが感染のクラスターになって、行ってはいけないところの代表に上げられている。確かに密閉された空間に大勢の人が集まって、一緒に歌ったり、掛け声をかけたりするから、感染しやすい場所であることは間違いない。二度も癌の手術をしたという自分の体調を考えれば、感染を恐れて自重したらよかったのにと言いたくなるが、彼はやっぱり歌いたかったのだろうと思う。何しろ、天国に行っても歌うぞと宣言していたのだから、本望だと納得するほかはないのかもしれない。

2020年3月23日月曜日

世界の終わりの始まりのよう

 

・WHOがパンデミック宣言をした途端に、世界中が新コロナウィルスで大騒ぎをし始めた。発生源の中国は沈静化し始めたようだが、イタリアやスペインを始めとして、ヨーロッパが感染の急増とその対策に追われている。悠長に構えていたアメリカも慌ただしくなった。急増に苦慮していた韓国は、検査体制の強化によって増加の押さえ込みに成功するかのように見える。台湾は入国管理や検査、あるいはそれに応じて起こる問題をあらかじめ想定して対応する体制を整えて、感染者数が増えないようにしてきた。世界の国々の対応はさまざまだが、日本はどうか。

・検査数は韓国とは桁違いに低い。感染者数も死亡者数も比較的少ないが、実態とはずいぶん違うのではないかと疑問を持つ人が多い。オリンピックを中止にさせないために数を少なく見せかけようとしていたのかもしれない。しかし、感染は世界中に広がって、終息がいつになるのかわからない現状では、世界中からアスリートや観客が集まるオリンピックができるはずがない。それでも関係者は口をそろえて予定通りに開催を目指すと言っている。一度始めたら止められない。そんな悪癖がまた顕著になっている。

・ドイツのメリケル首相は第二次大戦後最大の世界的な危機だと言っている。そこには感染者数や死者数の増加だけでなく、経済の世界的な混乱や人間関係やコミュニティなど、社会の崩壊といった危険性が含まれている。と言うよりは、経済や社会への影響の方が、より大きな問題であることは明らかなのである。そういう認識からは、オリンピックの開催などはもってのほかになるだろう。オリンピックは中止か延期。安倍政権にとっては、それをいつ表明するかが問題で、気にしているのは政権の延命だけなのではと言いたくなる。

・このままでは世界が終わる。そういう認識にたって発言し、行動をしている政治家がどれほどいるのだろうかと思う。温暖化による気候の変動や、プラスチックなどによる海洋汚染など、地球規模での喫緊の課題に対して本気になっている国の指導者はきわめて少ないことからも明らかだ。そもそもトランプ大統領は温暖化自体を認めていないし、石炭火力発電を推進する日本は、最悪の事例として批判されている。ここ数年の台風や大雨による大被害を受けていても目覚めないのだが、3.11と原発事故を経験したのに原発を止めないのだから、止められないという悪癖はどこまで行っても治らないのかもしれない。

・世界が終わる前に日本が終わる。日銀と年金機構が必死に支えても株価が大暴落をしている。このまま行けば経済破綻だろう。もっとも政治は森加計から桜、そして検事の定年問題とやりたい放題で、法制度も官僚組織もがたがただし、メディアにはそれを批判する力が失われている。新コロナウィルスに対する政策も支離滅裂だが、世論の半数はそれを支持していて、政権の支持も同じぐらいある。ほかに適当な人がいないからと政権を許してきたが、止められない、止めさせられない症候群は行くところまで行かなければ治らないのかもしれない。

2020年3月9日月曜日

パニックのもとは誰ですか?

 ・新型コロナ・ウィルスによる騒ぎがパニックと言えるような状況になっています。安倍首相の唐突な小中高校の一斉休校要請がその発端です。それ以前のテレビによる過剰な報道が人々の心に不安を植えつけていて、休校要請が、そこに火をつけたと言えます。店頭からはマスクはもちろん、トイレットペーパーやティッシュー、インスタント食品や缶詰め、そして米や小麦粉までが無くなったと報道されています。

・新型コロナ・ウィルスの怖さは、その実態がまだ突き止められていないことにあります。効果的な薬もまだ見つかっていません。しかし、インフルエンザと比較して、高齢者や病気を抱える人を除けば、軽度の症状ですむ場合が多いと言われています。たとえば日本ではインフルエンザによる死亡者は、ここ数年2000人から3000人を超えるほどになっています。アメリカでは1.4万人を超えたとされていますが、昨シーズンは6万人が亡くなっています。

・インフルエンザの場合、日本では学級閉鎖の基準はなく、各自治体に任されていて、クラスの4分の1とか3分の1が休んだ場合などまちまちのようです。そして新型コロナ・ウィルスについては、10代以下の感染者がごくわずかなのが現状です。にもかかわらず、安倍首相は、小中高校の一斉休校を要請しました。しかも、春休みまでですから、実質的には1ヶ月以上の休校ということになりました。

・驚いたのは、この要請について文科省も寝耳に水だったということです。しかも、専門家から要請されたわけでもないし、相談したわけでもないというのです。首相の慌てぶりだけが目立った行動ですが、その理由には、政権の支持率の急降下や東京オリンピックの中止といった、自分の地位を脅かす要因が迫っていたことがあげられます。まさに「エリート・パニック」の典型例だといえるでしょう。テレビで生中継された会見では、彼はプロンプターを使って、官僚の作った原稿を読み、あらかじめ用意された記者の質問にも同様の返答して、その場で上がった記者やジャーナリストの手には応えず、会見を終了させました。何一つ、その場で自分で考えた言葉は発しませんでした。

・そのおかげで、学校や子供を抱える家庭、給食にかかわる業者などは大混乱のようです。乳幼児の保育所や学童保育所はそのまま、休職した親については企業に負担を求めたり、有給休暇を使えと言ったりしています。国も補助をするとはしていますが、どの程度のものなのかははっきりしていません。そして自由業や個人経営者は補助の対象外になっています。要請前に事前に対応策を考えた形跡はありませんから、ちぐはぐさばかりが目立っています。

・そもそも、日本での現在の感染者数は実態を表しているのでしょうか。韓国に比べたら、感染の有無を検査する数は1割に足りていません。検査数を韓国並にしたら、感染者数も桁違いに増えるかもしれません。それは死亡者数にも言えるでしょう。何が原因で死んだかの特定についても、今の検査実態では、十分に把握しているとは思えないからです。検査能力の低さだとしたら、なんともお粗末な実態ですが、意図的に検査数を抑えているとしたら、これは国家的な犯罪です。

・とは言え、感染者数の増加を抑えることは必要です。人々が濃厚接触をしないようにするのが一番ですが、だったらなぜ、満員電車を放置しているのでしょうか。スポーツや芸能、年中行事のイベントが次々中止になっています。仕方なしに無観客でおこなう場合も少なくありません。しかしこれは、少しでも症状のある人には参加しないよう呼びかけ、入場の場で体温のチェックをしたり、会場をいっぱいにするほど入れなかったりするなど、個々の対応に任せたらいいのではないかと思います。現に映画館やパチンコ屋が営業を停止しているという話はあまり聞きません。

・今はインフルエンザや花粉症が蔓延する季節です。くしゃみや咳が出る人が多いのは仕方がないことでしょう。しかし、それに過剰に反応して、あからさまに遠ざかったり、叱責したりする人が多いようです。仕方がない面はあると思いますが、互いを異物や汚物、あるいは危険物のように思う気持ちの蔓延は、ウィルスよりももっと怖いように感じます。社会を壊さないため、経済を壊さないために政治がすべきことはたくさんあると思いますが、その肝心の政治がすでに壊れてしまっているのは、なんとも恐ろしい気がします。

2020年1月20日月曜日

パソコン・ソフトと新聞

 

・マッキントッシュを使い始めて、もう30年になります。ガリ版や和文タイプ、そして日本独自のワープロ機で個人誌を出していたので、「DTP(卓上印刷)」ができるというふれこみに、思わず飛びついてしまったことを今でも鮮明に覚えています。大阪の日本橋にある小さな店で、並行輸入で手に入れましたが、本機(SE30)とプリンター、スキャナーにソフトとフォントを合わせると120万円ほどしました。

・日本語で使える紙・誌面を編集できるソフトには「EGWORD」と「EGBOOK」があって、ワープロとは違って、縦書きができるなど、ずいぶん便利で重宝しました。しかし、より高度な編集ができるアルダスの「Pagemaker」が日本語対応になったときから、「EGWORD」と「EGBOOK」は使わなくなりました。「Pagemaker」がアドビに買収され、しばらくすると「In Design」に変更されましたから、それ以降ずっと、去年まで「In Design」を使い続けてきました。

・ソフトは今ではダウンロードをして購入します。しかも、月とか年毎に使用料を払うという形式になっています。バージョン・アップするたびに買い直すのにくらべれば便利ですが、古いまま使えなくなった分だけ、出費もかさむようになりました。しかも、アドビはソフトの価格が単体では高額で、いくつものソフトを抱き合わせで買わせるようになっています。ほとんど使わないし、ダウンロードさえしないソフトまで買わなければならないことに、ずいぶん腹を立ててきました。

egworduniversal2.png ・「In Design」のほかに編集機能のあるソフトはないものかと探すと、懐かしいEGWORDという名前が目につきました。「egword Universal2」という名で「物書堂」が開発し、販売しています。2008年に発売中止となりましたが、2018年に復活したということでした。さっそく試用版をダウンロードして使ってみると、「In Design」でやっていたことのほとんどができることが確認できたので、購入することにしました。値段は8000円で、学割でも毎月2100円もかかるアドビに比べれば、ただみたいな値段でした。少なくても、大きなバージョンアップでもしない限りは、新たに買い直すことがないからです。

kawasemi2.png ・ところでマッキントッシュは、システムを32から64ビットにした「Catalina」という名のシステムにバージョン・アップしました。それによって使えなくなったソフトが続出したのですが、そのなかに日本語入力として使っていた「JustSystem」の「ATOK」や「マイクロソフト」の「Office」がありました。しかも対応版はやはり年月決めで購入することになっています。ですからこれもやめて、日本語入力は「物書堂」が開発した「かわせみ2」に変えました。4400円ですから、年額6000円の「ATOK」に比べれば格安です。「Office」もマッキントッシュに付属する「Numbers」や「Pages」「Keynote」で代用できますから、年額1万円を超える「Office365」も買わないことにしました。

・もう一つ、長年の契約を解除したものに「朝日新聞」があります。ここ数年、その記事内容に強い不満を感じてきました。読売や産経はともかく、なぜ朝日までが政権に忖度して、強い批判をしないのか。そんな気持ちが募ってきたときに、「毎日新聞」が首相との会食をやめたという記事を目にしました。官房長官への対応とか記事についても、政権批判に方針変更をしたようでした。で、毎日新聞に変えたのですが、取り上げる記事も論調も、確かに朝日とは違うなと思いました。わが家では親の代からずっと朝日でしたから、これは大きな変更だと言えます。

・実際には、大概のニュースはネットで知ることができますから、もう新聞はとらなくてもいいのかもしれません。しかし、ネットに載る記事の多くは新聞社や出版社が出したものです。ですから、ここがつぶれたら、ニュースの発信先そのものがなくなってしまうことになります。その意味では、せめて一紙ぐらいは取り続けるのが義務だと思っています。毎日新聞は朝日と違って、購読者にはネットでの閲覧もできますから割安です。三大紙と言われながら讀売や朝日に比べると発行部数も少ないし、業績不振も何度かありましたから、一読者として応援することにしました。

2020年1月2日木曜日

今年もよろしく

 

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本栖湖中の倉峠からの富士


2020年です
今年もよろしくお願いします
このホームページ(ブログ)も21年目になりました
暇になったのに週一の更新がしんどい
そんな気持ちにめげそうにもなりますが
まだしばらくつづけるつもりです

安部とトランプの退陣を一昨年から祈願していますが
今年こそは、辞めさせなければなりません
嘘と隠蔽でやりたい放題の政権を野放しにしたままでは
日本やアメリカだけではなく
世界が壊れてしまいます

気候変動が現実化しはじめても
格差や貧困が目に余るほどになっても
今だけ、金だけ、自分だけ
そんな風潮に変化が訪れることを願って
新年を迎える今日この頃です

2019年12月9日月曜日

「おとうさん」「おかあさん」って何?

 

・山梨県では見られない「ポツンと一軒家」をアマゾン・プライムで見ています。久しぶりにおもしろい番組だと思いましたが、気になることがいくつかありました。それは、一軒家を探すスタッフが、見かけた人にいきなり「おとうさん」「おかあさん」と呼びかけることです。もちろん、この番組だけというわけではありませんが、あまりに頻繁に出てくる呼びかけなので、見ていてうんざりするようになりました。

・「おとうさん」「おかあさん」は、その子どもだけに限られた呼びかけです。ですから、いきなり知らない人から呼びかけられたら違和感をもつはずです。実際ぼくは、そんな呼びかけをされたことは一度もありません。これはテレビの中で始まったもので、今でもテレビに限られたものだと言えるでしょう。

・そもそも、「おとうさん」「おかあさん」は結婚していて子どもがいることが前提になるものですから、それがわからない人にいきなり使ってはいけない呼びかけのはずです。呼びかけられた人から、「俺には子どもはいないし、結婚もしていないよ」と言われたら、呼びかけた人は、どう返答するのでしょうか。今は未婚や子どものいない人が少なくない時代なのです。

・そもそも知らない人への呼びかけには、「ちょっと、すみません」などですむはずです。確かに「おじさん」「おばさん」「おじいさん」「おばあさん」「兄ちゃん」「ねえちゃん」「坊や」「お嬢ちゃん」などを使えば、距離感が縮まって親近感が生まれると思います。しかし、「おとうさん」「おかあさん」はいけません。より近しさを出すために使うようになったのかもしれませんが、呼びかけのことばとしては、きわめて限定的なものであることを自覚すべきでしょう。

・近しさを表現するなら、自分が名乗り、相手の名前を聞いて、名前を呼びあえばいいのですが、テレビでは、そこまですることは滅多にありません。仮にあっても、その後にまた「おとうさん」「おかあさん」が出てくるのはいかがなものかと思ってしまいます。「ポツンと一軒家」は人気番組で、尋ねられた人も見ている場合が多いです。呼びかけに親切に応えるのは、テレビに対する親近感からなのかもしれません。

・だからなのか、番組の出演者からは「やさしいね」「いい人だね」といったことばがよく出て来ます。そこには田舎の人はといった但し書きがついています。けれども、そういう反応をするのは、相手がテレビのスタッフやタレントであり、自分が映されていることを意識しているからなのです。意地悪なぼくなら、「あんたに『おとうさん』などと呼ばれる筋合いはないよ」と応えるかもしれません。そんな例は見たことがありませんが、あったとしても、放送には出さないでしょう。テレビ番組はあくまで、都合のいい部分だけで編集されたものなのです。

・もっとも「おとうさん」「おかあさん」についてもつ違和感は、もともとは夫婦が互いを呼びあうものに対してでした。子どもが生まれたら互いをそう呼びあうというのは、ごく当たり前のものでしょう。しかしぼくは、これにもずっとおかしさを感じてきました。子どもが独り立ちして家から出て行ってもまだ、そう呼びあうのには、何かさみしさすら感じてしまいます。互いの関係が、それだけでしかないのかと、思ってしまうからです。

・呼称を使う関係は日本人に典型的で、個人主義が行き渡っていない何よりの証拠かもしれません。ぼくが気に入らないのは、テレビがそれを増幅させていると思えるからに他なりません。とは言え、この番組については、他にも思うところがたくさんあります。そのうちに別のコラムで、内容について考えたいと思います。

2019年11月11日月曜日

一人になった母のこと

 

・父が死んで1ヶ月半が経ちました。今月の末には納骨式と49日をして、それで一応、やるべきことが済みます。やれやれという感じですが、一人になった母のことが気になります。老人ホームには出来るだけ行こうと思いましたが、台風による崖崩れでで中央道が通行止めになって、予定が立たないこともありました。前回は3連休の初日に出かけましたが、午後の2時すぎだというのに、中央道の渋滞は解消されず、ずい分時間がかかりました。行っても2時間ほどの滞在ですが、それでも朝出て、帰るのは夕方になります。出来るだけ行こうと思っても、1日仕事になりますから、なかなか大変です。

・母は父が死んだことは理解できるようになりました。一日中部屋で一人でいてすることがないから、どうして過ごしたらいいかわからない。外から見られているように感じるから、カーテンを開けるのが怖い。足が弱ってトイレまで歩くのも心許ない。あなたたちが帰ると、余計にさみしくなってつらい。行けばすぐにこんな話をくり返します。だったら訪ねてこない方がいいのかな、と言うと、首を振って、来てくれるのは嬉しいと言います。しかしすぐに、帰ると後がさみしいんだよね、とくり返します。

・母の認知症は脳溢血がきっかけでした。それによって直近の記憶がなくなってしまったのですが、心配性の性癖が消えて、老人ホームではのんびり、楽しく暮らしてきたのです。老人ホームでは絵画や習字、あるいは粘土といった教室がありますし、コンサートやイベントなどもあります。父と二人でそれらにも積極的に参加をして来ました。父以外には話をしたりする人がいないことが気になっていましたが、一人で入居している人たちには、二人でいる人には近づきにくかったのかもしれません。

・父は今年の初め頃から、ほとんど寝たきりで、出かけていってもいるのかどうかわからないような感じで、母とだけ話して帰ることが多かったです。しかし、そんな状態でも、いるだけで安心できていたようでした。父のベッドはまだ置いたままですが、そこに誰もいないことで、母の心配性が復活し、増幅してしまっているのです。教室やイベントにも出かける気がないようですし、耳が遠いし目が疲れるからとテレビをつけることもありません。母はよくラジオをつけていましたが、それも聞く気はないようです。

・しかし、介護をしている職員さんからは、部屋を出て応接室で入居している人と話をしていることもあると聞きました。父が死んだことで慰めてくれる人もあるようです。それを聞いてちょっと安心しましたが、ここで一人で生きていくんだという気持ちを、どうしたら自覚してもらえるか、なかなか大変だなと感じています。時々家まで連れて帰って、数日一緒に過ごそうかとも思います。しかしそれをやれば、老人ホームには戻りたくないというに決まっています。

・ホームに行くときにはパートナーが古い写真をもっていくことにしています。昔の記憶はすぐに思いだして、しかも鮮明に再現することもできますから、なるべくそれを話題にして、一緒にいる時間を楽しく過ごそうとしています。行けば必ず日記帳を取り出して、僕等が来たことを書かせるようにもしています。おそらく時間が解決してくれるのだろうと思います。不安が消えて落ち着けるよう願うばかりです。

2019年9月2日月曜日

香港と韓国

 

・香港でのデモは、返還から22年の記念式典が開催された7月2日に始まった。主な理由は犯罪容疑者を中国本土に引き渡すという「逃亡犯条例」の改悪に反対するものだった。デモの参加者は最大で170万人にもなったようだが、これは香港の人口が740万人ほどだから、4人に一人が参加したことになる。これほどの数の人が反対の意思表示をする理由は、単に条例一つだけにあるのではない。それは香港の歴史そのものに関連するものである。

・香港はアヘン戦争後の1842年にイギリスの領土になって発展した都市である。それが「一国二制度」という条件で1997年に中国に返還された。つまり、香港は特別行政区として独自の法制度をもち、政治を司る「立法会」の議員を選ぶ権利があり、表現の自由も認められていて、中国本土とは大きく異なる制度を50年間は保証されたうえで返還されたのである。ところが、現在では議員選挙にしても、トップである行政長官の選び方にしても、中国の意向が強く働くようになっているし、批判的な団体や人びとが捕らえられたり、行方不明になったりもしている。香港がじわじわと中国化している。デモに参加した人には、そんな強い危機感があると言われているのである。

・香港に住む人の多くは漢民族だが、自分たちを中国人ではなく、香港人と思っている。何しろ150年間イギリスの支配下にあって、社会的にも文化的にも西欧流が根づいているのだから、共産党が支配する中国を拒絶するのは当然のことなのである。その形骸化した「一国二制度」もあと30年ほどで解消されてしまう。そうなる前に独立したい。それが香港人の世論なのである。

・2014年の「雨傘デモ」以来、抗議活動をリードしてきた黄之鋒と周庭の二人が警察に一時逮捕された。デモの沈静化を狙ったトップの逮捕だが、逆にデモの拡大や先鋭化を招くかもしれない。香港に隣接する深圳には中国の軍隊が待機していて、いつでもデモを制圧できる態勢になっている。アメリカは中国を牽制しているが、日本政府は沈黙したままだ。

・他方で、韓国で行われているデモは日本政府に対するものである。「反日」ではなく「反安部」なのだが、日本のマスコミはプラカードに書かれたハングルを「反日デモ」と偽って報道した。テレビでは連日、嫌韓を煽る番組を流している。徴用工の賠償請求や従軍慰安婦を巡る問題に反発して、安倍政権は半導体の製造に利用する材料などの輸出規制を強化した。いわゆる「ホワイト国」から除外という措置だ。テレビの嫌韓煽りの影響か、この措置を7割以上の人が支持しているという。

・対抗して韓国は日韓の軍事協定である「日韓秘密軍事情報保護協定(GSOMIA)」を破棄した。この条約は北朝鮮の核開発やミサイル問題に対応するために、日韓が協力して情報を交換し合うという趣旨で2016年に締結されたものである。ここには日韓だけでなく、米国も強く関わっている。日韓の関係は最悪の事態に陥っていると言えるのである。落としどころも見いだせない、とんでもない状況に陥ってしまっているが、日本の政権は一体何を目的としてこんな行動に出ているのか。理解に苦しむというほかはない。貿易も観光も、両国にとって大打撃にしかならないというのにである。

・しかし、日韓の間にある問題もまた、歴史的にしっかり見直す必要がある。日本が朝鮮半島を侵略して「日韓併合」をしたのは1910年のことである。ここから第二次大戦が終わる1945年まで、朝鮮半島は日本の植民地となり、朝鮮人も日本人として扱われた。このような歴史に対して1965年に「日韓基本条約」が結ばれ、戦争の賠償や戦後の補償として総額6億ドルの供与を行っている。徴用工や従軍慰安婦の問題も、この時点で解決済みだというのが安倍政権の姿勢だが、ここにはいつまでも謝ってはいられないという、韓国の人びとの気持ちを逆なでするような態度もある。

・しかし、侵略して植民地化し、多くの人が強制労働や兵隊の性欲処理の道具に使われたこと、戦中はもちろん、戦後もずっと在日韓国・朝鮮人に対する差別が横行してきたことなどを考えた時に先ず優先すべきは、いつまで謝る必要があるかは、加害者ではなく被害者である韓国や朝鮮の人びとが判断するという姿勢なのである。それを自虐史観などといって嫌韓を煽っていたのでは、関係はますます悪くなるばかりだろう。それで泥沼に陥るのは韓国ではなく日本の方なのである。

2019年8月12日月曜日

猛暑はもう異常ではありません

 

・長い梅雨がやっと明けたと思ったら、いきなりの猛暑です。前回のコラムでも書きましたが、東北旅行は散々で、一日早く切り上げて帰って来ました。その河口湖も、連日30度を超えています。河口湖周辺ではエアコンをつけずに車に乗っていたのですが、去年からはつけずにはいられない温度になりました。気象台が発表する温度は、日陰で下に芝生を敷き詰めた所で測ります。ですから日なたではもっと上がりますし、アスファルトの上ではさらに上がります。先日東北の帰りに、車の温度計は何度も40度を超えました。

・テレビの気象予報では、猛烈な暑さになりますから、外出やスポーツは避けるようにと警告しています。もっともだと思います。ぼくは連日自転車に乗っていて、24、5度の朝の6,7時台と決めていますが、それでも、汗びっしょりになります。30度になる日中にはとても走れたものではないでしょう。クーラーのない我が家でも、去年からは欲しいなと思うようになりました。

・ところがテレビでは夏の甲子園野球を中継していて、相変わらず熱闘甲子園と連呼しています。35度を超える甲子園で高校生が全力で野球をやるというのは、どう考えたって異常です。日程を8月の後半にずらすとか、午前中と夜間だけにするなどの方策を考える必要があると思いますが、そんな声はどこからも聞こえてきません。そもそも甲子園野球は新聞が始め、テレビが人気にしたものですから、批判は封じ込められてしまうのかもしれません。

・投手の連投について、大船渡高校の佐々木選手をめぐって議論が起こりました。監督は準決勝で投げたので決勝では出場させなかったのですが、その事で高校には抗議の電話が殺到したようです。自分勝手もいい加減にしろと言いたくなりますが、プロ野球の解説者には相変わらず、根性論や甲子園を理想化する発言が目立ちます。しかし、高校生に連投を強いるのは日本だけの悪習で、成長過程にある高校生に過度の運動をさせては駄目だというのが、最近の健康医学の常識になっているのです。

・160kmを越える球速を出した佐々木投手は来年にはプロ野球入りし、数年後にはメジャーに行く素質を持った選手です。高校の監督はそのことを考えて、壊してはいけないと判断したようです。きわめて当たり前だと思うのですが、甲子園は高校生球児の夢だからとか、佐々木が出ないのではつまらないといった発言を平気でする神経が、信じられない気がします。

・ところで、東京オリンピックが1年後に迫りました。テレビにはその事をはやし立てる番組が目立つようになりました。もっぱらメダルが有望の日本選手に注目しています。しかしこの暑さでほんとうにできるのか。熱中症で倒れる選手が続出し、観客も含めて死人まで出たら、一体誰が責任をとるのでしょうか。すでにチケットも販売され初めていて、当たった、外れたと騒ぎになっています。またホテルの予約も行われていて、すでに大会期間中は満室となっているところが多いようです。チケットは取れたけど宿泊先がない、ボランティアに応募したけれど泊まるところがない。こんな混乱が起こるのは明らかでしょう。一体どんな「おもてなし」をするというのでしょうか。

・政府やメディアが一体となって熱く盛り上げようとしているオリンピックも、大会が終われば深刻な経済不況に襲われるという予測が出されています。米中の経済摩擦などにより、世界不況はすでに始まっているという見方も、すでに出されています。ここのところの株価の急落は、猛暑の中の寒々しい話しで、怪談話どころではないのです。このまま行けばオリンピック前に、日本は大不況に見舞われる危険性もあるのです。異常なのは猛暑ではなく、この国の政策とメディアのはしゃぎようにこそあるのです。

2019年6月24日月曜日

年金だけでは暮らせないのは当たり前の話

 

・金融庁が財務大臣の諮問によって検討し、作成した年金に関する報告書が、物議を醸しています。仕事を辞めてから死ぬまでの間に、年金の他に2000万円必要という報告がなされたからです。最初は「100まで生きる前提で退職金って計算してみたことあるか?普通の人はないよ、たぶん。オレ、ないと思うね」と他人事のように話していた財務大臣も、批判の強さに豹変して、この報告書を受けとらないと、言い出しました。この態度にはあきれますが、今さらながらに驚いている世論にも首をかしげたくなりました。年金だけでは生活できないのは、受給者の多くにとって自明のことだからです。

・ 報告書によれば、夫65歳、妻60歳の無職夫婦がモデルで年金が21万円弱となっています。ところが支出は26万円強ですから、月々5万円不足して、100歳まで生きれば不足総額は2000万円になるということです。ごく当たり前の報告だと思いますが、いわれて初めて気づいて、驚いたり憤慨したりする人が多いという報道の方に、ぼくは驚きました。ところが、財務大臣だけでなく官房長官やその他の首相側近の議員たちが「不安や誤解を広げるだけの報告書で、評価に値しない」と発言して、金融庁に撤回要求を出したことには、またかという腹立ちを覚えました。目先の参議院選挙への影響しか頭にない発言としか思えないからです。。

・ 年金支給額が21万円というのは、国民年金だけでなく厚生年金も合わせて受給されることを意味します。しかも決して平均ではなくかなり多い額になります。厚労省によれば、国民年金の平均受給額は5万5千円で、厚生年金と合わせた平均額は15万円となっています。年金受給者がこの額ではとても暮らしていけないことは、言うまでもないことです。ぎりぎりに切り詰めるか、仕事をして収入を増やすか。そんな暮らしが高齢者にとってはごく当たり前になっているのです。しかも年金額はこれから減らされる可能性がありますし、破綻してもらえなくなる危険性だってあるのです。その意味では金融庁の報告書は、それでも甘いものだと言えるでしょう。

・ 国民生活基礎調査によると、1世帯あたりの貯蓄額は1000万円ちょっとのようです。当然、高齢者ほど額は大きいのですが、それでも60代が1300万円、70代が1250万円ほどで、2000万円には届いていません。ここにはもちろんばらつきがあって、今年還暦を迎えた人の4人に1人は貯蓄なしという調査結果も出ています。すでに年金が主たる収入源になっている人たちの多くは正規雇用で退職金も手にできた人たちが多いのだと思います。その人たちですら2000万円以上の貯蓄をするのは難しかったわけですから、若い人たちにとっては、絶対無理と思われてしまう数字なのかもしれません。現在、非正規で働く人の割合が4割になっていて、その平均所得は200万円に達していないのです。老後どころか働いているのに生活が困窮している人がこれほど多いのです。

・ 高齢化社会になれば年金制度が破綻しかねないことはとっくの昔からわかっていたことです。しかし政府は100年安心などという標語を掲げながら、ほとんど無策でやり過ごしてきました。それどころか「グリーンピア」などで大損したり、最近では株に多額の投資をしてその危険性が問題になっています。社会福祉に使われるはずの消費税が企業の減税などに使われてきたのですが、10%にあげる理由についても、相変わらず福祉の財源ということばがつかわれているのです。

・ 金融庁が出した年金を20万円もらってもなお、2000万円の貯蓄が必要という報告には、一面の真実があります。高齢者の多くはもちろん、若い世代の人たちの大半が、困窮した生活の中で長生きしなければならないという未来図を提示したからです。これにはもっともっと怒るべきだと思います。2000人程度のデモではなく香港並みの規模になってもおかしくない問題だからです。参議院選挙を控えて、政府や自民党の嘘にだまされないよう、現実をしっかり見つめるべきなのです。