2011年3月28日月曜日

地震、結婚、卒業、個展、そして入学

 

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K's工房陶展「スナフキンと森の時間」
(京都・アイディ・ギャラリー、4月1日〜3日)

・まだ3月が終わったばかりだというのに、今年は何という年だろうと思います。3月11日の巨大地震と津波は、いまだに死んだ人の数もわからないほどに甚大な被害をもたらしましたし、被災して避難している人の数も桁違いに多いです。原発がどうなるのかも不確かなままですし、大きな余震も相変わらず頻発していますから、日常生活をおくれている人にとっても、不安の材料は増えるばかりです。

・おかげで、中東で連続した政変のニュースは、新聞やテレビでは小さく扱われていますし、ニュージーランドの地震についてはまったくといっていいほど語られなくなりました。テレビが節電を呼びかけながら、被災地の状況や原発の様子を巡って視聴率競争をしているのは、なんとも矛盾した態度のように思えます。

・地震の時は大学で会議中でした。大波に揺れる船に乗っているようで、それが何分も続きましたから、大きな地震であることはすぐわかりました。体の弱った父と母の家に行き、高速道路が閉鎖されて家に帰ることはできませんでしたので、一泊して翌日帰宅しました。幸い、実家も自宅もほとんど被害はなく安心しましたが、巨大地震と津波の被害を伝えるテレビの映像には体の震えを覚えました。

・実は、一週間後にある次男の結婚式にあわせて沖縄から先島諸島を旅行する計画を立てていました。結婚式ができるのか心配でしたが、息子に確認して、予定通り14日に出かけることにしました。ところが15日の夜、西表島のホテルで寝ているところにメールや電話が飛び込んできました。富士山の西側の静岡県と山梨県の境目あたりを震源にするマグニチュード6.0の地震があって、そのことを心配した人たちからのものでした。旅先ですから、もちろん、我が家がどうなったのかもわかりませんが、とりあえず遠くにいて無事であることを急いで伝えました。

・息子の結婚式は参加者が半減しましたが、無事おこなわれました。パートナーの実家は千葉の浦安にあって、大きな被害が出たようでしたが、ご両親も当日の飛行機でやってくることができました。こんな状況の中、のんびり島巡りなどしている自分にやましさを感じないわけではありませんでしたが、旅は予定通り、西表島、石垣島、宮古島、そして沖縄本島を巡って22日に帰宅して終わりました。幸い、家の様子は出かけたときと同じで、地震の被害はほとんどありませんでした。

・23日には大学で卒業式がある予定でした。しかし、計画停電もあって中止に決まり、学生には「学位記」だけが手渡されました。袴姿の学生も、普段着の学生もいて、いつもとは違う静かな卒業の風景になりました。就職活動で苦労した彼や彼女たちには、大学生活の最後の最後の時にまで災難が降りかかりました。かわいそうではありますが、ゆとり世代と非難されてきた学生たちには、大人として生きていく自覚をもついい機会にして欲しいと思います。その晩、河口湖では季節外れの15cmの大雪が降りました。

・計画停電がいつまで続くのかわからない状況です。そのために入学式も中止になり、新学期も1ヶ月おくれで開始されることになりました。計画停電が一番の理由ですから、電力需要の増す8月にまで延長することはできません。当然授業数が減るわけですが、まさか文科省は補講をして時間数を確保しろとは言わないと思います。おそらく、このような災害を経験した学生たちは、授業を熱心に聞き、自らも勉強しようという気持ちになるでしょう。今、この状況をどう捉え、どのように考え、どんなふうにして対応していくのか。教える側にもしっかりと準備して、学生に向けて語りかける必要があることは言うまでもありません。

・なお、パートナーの個展が京都のアイディ・ギャラリーで4月1日から3日まで開かれます。今回のテーマは「スナフキンと森の時間」。僕も2日と3日には会場にいますので、ぜひお立ち寄りください。2年ぶりにお会いする方も多いと思いますので、楽しみにしています。


2011年3月21日月曜日

西表、石垣、宮古島

 

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・14日の早朝家を出て、羽田に向かう高速道路で正面からの日の出に遭遇した。真っ赤に燃えるような色。那覇行きの飛行機は飛び立つとすぐに、富士山の近くを通り過ぎた。いつもは下から見る飛行機に、今は乗っている。よく知った風景だから、どこがどこなのか一目でよくわかった。

・飛行機を乗り継いで石垣島に着き、八重山そばを食べて西表島行きのフェリーに乗った。島が近づくにつれ、その大きさや山の多さに驚いた。ヤマネコやカンムリワシの島。沖縄本島に次ぐ大きさで、人口はわずか2000人ほどだという。

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・マングローブの繁る川をボートでさかのぼり、1時間ほど歩いて滝に到着した。大きな板根に支えられた巨木が生える森は、家の近くの森とはずいぶん違う。手つかずの自然。とは言え、この近くにはかつて炭鉱があったと聞いた。

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・沖縄の島々はどれも珊瑚礁に囲まれている。その石垣島の北端の岬から見た珊瑚礁のすばらしさは息をのむほどだった。特産物の石垣牛はおいしかったが、途中で見つけた放牧地では、カメラを向けると「さち」と名のついた牛が近寄ってきた。

宮古島では飛行機を降りた途端に、「まるでハワイみたい」ということばが出た。そう意識した島作りがかなり徹底して行われている。その代表的なリゾート・ホテルで息子の結婚式が行われた。地震のために出席者は半減したが、とにかく無事に済んでほっとした。

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2011年3月13日日曜日

ボッツマン&ロジャース『シェア』

 

・「シェア」ということばは新しいものではない。「フリー」とともに、60年代の対抗文化の中でよく使われた。さまざまな慣習や規制に囚われずに、やりたいことを自由(フリー)にやる。そこで出来上がったものはまた、自由に作りかえられたり、ただ(フリー)で手に入れることができる。つまりシェア(共有)されることが前提になる。おおよそこんな考え方で、その典型は、この時代に登場したロック音楽やファッションに見られたが、それらはまた、新しい文化的な商品として、消費経済を活性化させることになった。

・しかし、「フリー」と「シェア」の考え方は70年代になっても、自前のコンピュータ作りに夢中になった人たちの中に引き継がれて、「ハッカー倫理」の中核になる。つまり、発明された技術や発案され、プログラミングされたソフトは、誰もが自由にただで使えるように提供され、その改良への参加もまた自由であることが原則とされたのである。このような伝統は、パソコンが商品化され、巨大な産業に成長した後も残りつづけてきたが、インターネットの中では、その利用の仕方や、ソフトの開発という点で、むしろ発想の中心に置かれてきたといってもいい。

share1.jpg・R.ボッツマン&R.ロジャースの『シェア』はネットの情報交換の場の発達が、消費社会をリードした「所有」という考えを改めさせ、「シェア(共有)」という方向を、さまざまな面に広げはじめているという。たとえば自動車は、足の拡張という道具である以上に「ステイタス・シンボル」としての役割を担って消費されてきたが、都会で生活するかぎりでは、実際にそれほど頻繁に利用する道具ではなかった。だから使わないときは誰かに安価に提供する。そんな仕組みがネットによって簡単に作られ、あっという間に広まっているようだ。同様のことは、家やさまざまな道具などにも広がっているし、使わなくなったモノや着なくなった服の売買や交換などにも広がっているという。次々と消費して捨てるのではなく、有効に無駄なく使い、利用する。そこには当然、便利さや経済性だけでなく、環境や資源の問題を考えるという大きな視点も含まれている。

・さまざまなものの共有、交換、そして贈与が成り立つためには、相互の間に信頼関係が必要だ。ただしそれは、全人格的な形で関わるほどの強い絆である必要はない。「その昔、ユートピア的なコミュニティを目指した人たちは、古いコミュニティを捨てて、いちから全部やり直すことばかりに固執していたの‥‥‥だから結局失敗してしまった。私たちがやろうとしているのは、シェアをカルチャーのコアにすることなの。カウンターカルチャーではなくてね。」

・「所有」ではなくて「共有」が当たり前になれば、当然消費は減少する。それは資源や環境にとってはもちろん、消費のためにあくせく働いてお金を稼ぐ生活スタイルからの解放を実現させてくれるかもしれない。しかしまた、モノが売れなくなった企業の多くは倒産し、失業者が増えることも意味している。しかし、この本では「<共有≫からビジネスを生み出す新戦略」と副題をつけたように、「シェア」はビジネスや産業の構造に及ぶ、大きな変革の要素なのだという。

・たとえば、テレビや新聞、そして雑誌を使った広告に陰りが見え、代わって企業が使う広告費の多くがネットに向けられるようになった。 FacebookやTwitterといったソーシャル・ネットワーク・サービスでは、広告は何であれ、それに関心を持つ人たちが寄ってくるコミュニティに載せられる。筆者たちが希望を持って見るのは、商品やサービスに対する欲望をかき立てる一方的な誘惑ではなく、人びとのニーズや欲求との間に生まれるコラボ消費という方向性である。

・確かに、ネットの動向には、そんな方向性が見て取れる。ただし、「シェア」の習慣に慣れていない日本人が、このような生活スタイルに魅力を感じ、実践するまでには、いくつものハードルがあるようにも思う。

2011年3月7日月曜日

キース・ジャレットのピアノ

 


Keith Jarrett "The Koln Concert"
"The Melody At Night, With You"
"Staircase" "Facing You"
"My Song" "Standards Live"

keith1.jpg・キース・ジャレットはジャズに限らず、クラシックにも幅を広げて活動しているピアニストだ。そしてアルバムには、ピアノ・ソロのものがかなりある。「ケルン・コンサート」は彼のアルバムの中では一番ポピュラーなもののようだ。1974年にドイツのケルンでおこなわれ、75年にアルバムとして発売された。曲目はなく一曲目からPart1、PartIIA、ParetIIB、PartIICと名づけられている。要するに全曲がこのコンサートの中で生まれた即興音楽(インプロヴィゼーション)だということなのである。

keith2.jpg・即興音楽とはあらかじめ決められた主題をもたずに、その場で演奏をする音楽だ。聴いている人はもちろん、演奏者自身にも、どんな音楽が展開されるのかはわからない。しかし、「ケルン・コンサート」でジャレットが弾くメロディはあまりに美しいから、それが即興だとは信じられない気がしてしまう。ジャズにはどんな曲にも、途中で即興になる部分がある。トリオにしろカルテットにしろ、演奏者たちが即興で奏でる音でやりとりをする部分は、多くの場合、その曲の一番の聴きどころになる。けれどもジャレットの即興は曲全体におよび、そしてたった一人でおこなわれる。そもそも、このアルバムで奏でられる音楽はジャズというよりはクラシックのようでもあり、また、ジャンルなどは越えた独自の音楽のようにも聞こえてくる。

keith4.jpg・ネットで検索してみると、ジャレットの興味深い発言を見つけることができた。たとえば、演奏の前には、演目の練習をするのではなく、準備を調えないための時間が必要なのだと言う。つまり、あらかじめ主題をイメージして、その練習をするのではなく、逆に何のイメージも持たずにステージに立てるように準備をするというのである。しかし、それは無から有を創造するためではない。彼にとって、その時生まれた音楽は「私という媒体を通して神から届けられたもの」だからである。こんなことばを読むと、彼の音楽には宗教性が強いのかもしれないと感じてしまうが、けっして教会音楽に近いわけではない。

keith3.jpg・ジャレットのピアノを聴いたのはもうずいぶん前で、ずっと忘れていたのだが、何となくYouTubeで検索をして、その魅力にとりつかれてしまった。彼の演奏を見ると、ジャレットは時に腰を浮かし、立ち上がり、うめき声を上げ、足踏みをし、あるいは奇声を発しながらピアノを弾く。それは神と聴衆をつなげる媒体=メディウム=巫女が一種のトランス状態になっておこなう祭礼のようでもある。そして一曲ごとに立ち上がり、客席に向かって頭を下げる。クラシック音楽のコンサートでは当たり前の所作だが、その対照もまたおもしろいと思った。

・というわけで、「ケルン・コンサート」をはじめとして、何枚ものCDを次々購入した。トリオでの演奏、バッハなどのクラシック音楽を扱ったものなど、彼のアルバムはまだまだたくさんあって、買い始めたらきりがないほどだが、5月の末に日本でコンサートをやるという。今度こそは泊まりがけで行こうと、迷わないうちにチケットを買ってしまった。