2006年11月27日月曜日

60年代を語り継ぐ方法

 

小坂修平『思想としての全共闘世代』(ちくま新書),山口文憲『団塊ひとりぼっち』(文春新書),ティム・オブライエン『世界のすべての七月』(文藝春秋)

・大学の市民講座で60年代の話をした。聴き手はぼくと同世代かそれ以上の人たちだから、当然、60年代については、それぞれの思い、思い出がある。だから、むしろ、最近語られる60年代の特徴について、その記憶、あるいは記録とのずれ、というよりは後から強調され、無視され、忘れられ、繰り返し再現されて歪められた言説について話すことにした。
・そうすると、話題はまず、「団塊の世代」ということになる。以前にも書いたが、このことばは堺屋太一の小説に由来するものである。発表されたのは1976年で、当の世代はすでに30歳間近という年齢になっていた。こんな歳になってじぶんの世代に名をつけられるのは、きわめて不愉快で、ぼくはけっして使わなかったが、いつの間にか定着して、最近はやたらに目につくようになった。逆にノスタルジーで固めた美化された60年代にまつわる伝説もふくめて、そのいい加減さを指摘したいと思った。

journal1-106-3.jpg・小阪修平の『思想としての全共闘世代』は自らの体験の問い直しである。全共闘運動は、大学の個別の問題に対する異議申し立てから始まったもので、それ以前の学生運動とは異質な性格を持っていた。だから、一時期大勢の学生の支持を得たのだが、メンバーが固定していたわけではなく、全国的な組織をもっていたわけでもなかった。テーマはバラバラ、出入り自由。著者自身も、集会やデモに出たり出なかったり、芝居をやっていて大学から遠ざかることもあったと書いている。
・そういう特徴は既存の学生運動組織からは軟弱さとして批判されたが、それは活動の趣旨からいって、あたりまえの違いだった。全共闘は何より「社会関係のなかでのじぶんの具体的なあり方を問題にした」思想を基本にする個人の集まりとしての運動であったのである。何より、じぶんを探すために行動する。学生運動は単にその一つに過ぎない。全共闘もその他の学生運動も一緒に語られてしまうから、そんな意識は無視されて、連合赤軍でおしまいということになる。
・小阪は大学を中退している。バイト生活をしながら映画を作り、写真を撮るといった道筋を歩いて、塾や予備校で教えながら評論活動をするという道を選んだ。それは学生運動をして卒業すれば一流会社の猛烈サラリーマンといったステレオタイプ的な団塊世代像とはずいぶん異なるが、ぼくじしんや当時の仲間を見ても、むしろ、著者のような道筋を歩いた人は少なくないはずだ。以前にも書いたが団塊世代の大学進学率は16%で、その中で学生運動に関わった人は、数回のデモ参加などを入れても、そのまた1,2割といったところだったろう。

journal1-106-4.jpg・そのことは、『団塊ひとりぼっち』を書いた山口文憲も同様である。かれは高校生の時にベ平連に入り、ベトナム戦争に反対する運動に加わり、新宿西口のフォークゲリラでは中心にいて歌う経験もしている。で、その後はやっぱり、いろいろなバイト仕事をやって、小阪よりはやわらかい文化的な評論活動をするようになった。海外を放浪した経験などから、旅の本を何冊も書いている。
・ぼくは、京都ベ平連の近くにいて(入ったわけではない)、関西フォークのミュージシャンたちとよくつきあっていたから、その周囲にいた人たちもふくめて、かれやかのじょたちが、大学をやめ、あるいは行かずに、いろんなバイト仕事をしたり、さまざまな試みをして、それなりに生きてきたことを知っている。だから、この『団塊ひとりぼっち』に書いてあることには、ものすごく距離の近さを感じた。実際ぼくじしんも、就職しない生き方はないものかと考え、大学にずるずる残り、出た後も、塾で教え、大学の非常勤講師をやり、雑文を書いたりして過ごした長い時間があった。
・団塊世代がもらう退職金は総額で10兆円だそうである。このお金を狙って、さまざまな業種が新商品を考えている。すごい金額だと思うが、仮にひとり1000万円だとすると、10万人に過ぎない。500万円にしても20万人だ。団塊世代は1947年から49年がその核だといわれていて、総数は700万人以上になる。ということは、話題の定年問題は「世代」の70分の1にしかあたらない話だということになる。それでも、ほかの世代にくらべたら数が多いという程度のことに過ぎないのである。

journal1-106-1.jpg・とはいえ、60年代に青春時代を過ごした世代には、ほかとは違う特殊な経験が共有されていて、そのことをずっと引きずって生きてきた人が少なくないはずだ。ぼくはそのことは、きちっと表現しておくべきことだと思う。そして、それをテーマに書いている人は日本人にはあまりいない。
・ティム・オブライエンの『世界のすべての七月』は、ある大学の同窓会に集まったアメリカのベビーブーマー世代が、旧交を温めながら、当時から現在までの道筋をふり返る話だ。ティム・オブライエンはヴェトナム戦争を題材にした作品が多いが、ここでも、柱になっているのは、ヴェトナムに従軍して足を切断した男と、徴兵を逃れてカナダに移り住んだ男で、そこに同窓の女たちとの関係が絡みあってくる。
・ヴェトナム戦争に従軍したベビーブーマーは50万人で、5万人が戦死したといわれている。団塊世代との違いは何よりここが一番大きいことを今さらながらに実感するが、共感できるところも少なくない。たとえば、次のような台詞。


私たちは世界を変革しようとしていた。でも、それがどうなったと思う?世界が私たちを変革しちゃったのよ。

・けれども、じぶんの問題としては、それを認めたくない気持ちの人たちが少なからずいる。

2006年11月20日月曜日

マネー・ゲーム報道にうんざり

 

・西武の松坂が60億円でボストン・レッドソックスに落札された。年俸とあわせると総額で100億円を越えると言われている。驚き、というよりはあきれる数字だが、例によってメディアはその額だけに注目して、すごいすごいと囃したてている。で、来期のメジャーの注目は松坂対松井、松坂対イチローだということになる。観戦旅行、広告、グッズでの波及効果が何百億円と見積もりを立てたりしているが、そのお金を出すのはもちろん、日本人だ。
・こんな高額になった理由は何なのだろうか。松坂のヤンキース入りをレッドソックスが阻止したかったから、WBCのMVPになったから、野茂と同程度に活躍できるからといろいろいわれているが、納得できる説明はほとんど聞こえてこない。西武球団に支払われる60億円は、フリーエージェント前に譲渡してもらうための補償金だが、西武が被る損害期間はたった2年なのである。つまり、松坂がもう2年我慢すれば、西武には一銭も入らずに手放すほかはないわけで、この額を知らされた西武球団自体が、その信じられない額に驚き、慌ててしまったようである。
・60億円は日本の球団はもちろん、メジャーの弱小球団では選手全員の総年俸をまかなってしまう額である。ボストンは、そんなお金をどうやって回収するつもりなのだろうか。レッドソックスのホームはフェーンウェイ・パークという現存するもっとも古い球場である。ぼくは外側からぐるっと一周しただけだったが、小さくて汚いという印象だった。けれども、他球団が続々改修や新球場をつくっているのに、ボストンにはその気がない。収容人員はわずか 35000人に過ぎないから、全試合満員にしても年間で200万人をちょっと越える程度にしかならない。しかも、人気球団だから、何年間も満員が続いていて、チケットがとりにくい球場の一つだと言われている。
・メジャー・リーグが好景気に沸いている一番の原因は、テレビ放映権から得る収入にある。ネットワークの全国放送だけでなく、地域のケーブルテレビにお金を払って試合を見る人が増えているのである。野球への関心の復活といわれているが、逆に言えば入場料が高くて気楽に見に行けないと感じる人が多いということでもある。おそらく、日本で中継するための放映権も大幅にアップするのだろう。視聴料不払いに苦慮するNHKは来年以降も払い続けることができるのだろうか。あまりの高額になると、野球に関心のない視聴者の新たな不払いの理由になるかもしれない。
・松井やイチローの試合を見ていると、球場のバックネットに日本語の広告が乗っていることに気づく。フェーンウェイ・パークもそうなるのだろうか。イチローはいくつもCMに出ていて、オーナーの任天堂はもちろん、ユンケルやとんがりコーンなどの広告に奇妙な感じを覚えることが少なくないが、これから企業間でも松坂の争奪戦が始まって、球場のフェンスを賑わすことになるのだろうか。まさに、金、金、金という印象で、来シーズンが楽しみなどと脳天気に話す気が知れないという感じである。
・もっとも、ぼくは今年のメジャー・リーグの試合はあまり見ていない。松井がケガをしてイチローばかりだったせいもあるが、野茂がいないメジャーは本当に興味も半減で、見はじめてもすぐにやめてしまうことが多かった。井口や大塚や斉藤が活躍しても中継はないから、ネットで確認するだけで、プレイオフになってからやっと、田口のプレイを楽しむことができた。
・その野茂は、今年は一度もメジャーで投げなかった。右肩の故障だが、3年ほど前に手術をして以来ずっとかんばしくないようだ。もうすぐ 40歳で功成り名もあげたのだから引退してもいいのではと思うけれども、来年も現役を続けるつもりのようだ。回復して投げられるようになれば、もちろんできるかぎり試合を見て応援したいと思うが、どうだろうか。
・野茂は95年にドジャーズで新人王をとって、11年間メジャーで投げ続けた。好不調の波があり6球団を渡り歩いたが、その間に稼いだお金はもちろん、 60億円には届かない。たぶんその半分にもならないだろう。日米通算200勝をあげた去年はデヴィルレイズで1億円以下の年棒だった。松坂の年俸は15億円かそれ以上の複数年契約だと言われている。実際にやる前から、すでに野茂の生涯年棒を越える契約をするわけで、時代が変わったことを感じざるを得ない。
・来年は松坂のほかにも、岩村や井川など多くの選手がメジャーに行くようだ。野茂が切りひらいた道が踏み固められ、今や高速道路になった。そのことを自覚している選手や球団経営者がどのくらいいるのだろうか。野茂は日本の野球環境の悪化のために私財を使ってチームを作っている。それも都市対抗で活躍できるほどのレベルにまであがっている。野茂よりはるかに稼いでいるイチローや松井はそのお金を何かに還元しているのだろうか。たかが野球で一年に10億も20億円も稼ぐというのは、どう考えたって異常なことで、松坂にはそういう感覚を麻痺させないように願うばかりである。

2006年11月13日月曜日

紅葉の山を歩く

 

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forest55-4.jpg・10月にはいって好天の日が続いたので、付近の山を歩きたくなった。日中はまだ20度近くなるから、少しのぼると汗をかくほどだが、空気は乾いているから、気持ちがいい。山道には枯れ葉が敷き詰められていて、歩くとサクサクと音がする。錦松梅をまぶしたおにぎりをもって、ここのところ毎週一度歩いている。
・西湖の南岸にある山は紅葉の名所として知られていて、その名も紅葉台という。山は河口湖の湖岸まで続いていて、途中に三湖台、五湖台という見晴らしのいい展望台がある。西湖民宿村に車を止めて、1時間弱登って、三湖台まで行った。朝のうちの晴天からしだいに曇りはじめ、着いた頃には雲行きが怪しくなって、富士山も雲に覆われるようになった。
forest55-5.jpg・展望台からは眼前の西湖しか見えない。西湖の北に続くのは御坂山系で、いちばん右端に三つ峠がある。そこから左に御坂山、黒岳などがあり、西湖のすぐ北にそびえるのは十二ヶ岳、鬼ヶ岳と毛無山。部分的には歩いているが、まだ歩いてないところがかなりある。左に見えるのは王岳でその下には精進湖がある。

forest55-6.jpg・三湖台の展望台でおむすびを食べていると道産子が登ってきた。山道を馬に乗るというのは楽なのかどうか。バイクで山道を走った経験からすると下りは地面が遠く見えて怖い気がする。隣の紅葉台までは車でこられるからか、91歳のおばあちゃんがやってきた。平日なのにさすがに紅葉の名所だけのことはある。
・などと感心してのんびりしていると、いきなり雷と雨。紅葉の青木ヶ原を真下に見ながら、慌てて下山をしたが、かなり濡れてしまった。

forest55-7.jpg・三つ峠からは西に御坂山系が連なり、それとは別にもう一つ、南西に河口湖の天上山までつづく尾根がある。その尾根に登って天上山から河口湖まで歩いた。今年はあちこちで熊が出没して襲われている。河口湖でも最近ニュースになっている。町中にも出てくるから、家にいても安心できないが、山歩きをするときは、出会うかもしれないと思わなければならない。幸い今のところ出食わしていないが、三つ峠への山道で「熊に注意!」という警告を見つけた。湖畔から天上山まではロープウエイがあって、観光客がたくさんやってくる。富士山の絶景ポイントで、裾野の全容が眺められる。

forest55-8.jpg・河口湖から甲府へ行くときには御坂トンネルをくぐる。その入り口から旧道に入り、三つ峠への登山道をすぎて登っていくと旧の御坂トンネルがある。その脇にあるのが、太宰治が投宿して『富岳百景』を書いた天下茶屋である。ここも紅葉の名所で、今は平日でも、車が詰まっている。ここの風景はすでに「写真館」で紹介したことがある。


forest55-9.jpg ・トンネルの脇から御坂山に登るルートがある。山頂までは険しくてかなりきついが、登ればあとは尾根伝いにパノラマの風景を楽しむことができる。黒岳から見る富士はもちろん、アルプスが南、北、それに八ヶ岳が見える。空気が澄みはじめた今が一番登り頃かもしれない。エネルギーがあれば次はここにしようかと思っている。もっとも、家からすぐに御坂山系に登ってはいる。パラグライダーのスタート台になっているところからの景色はなかなかいい。ただし、この写真は夏である。

2006年11月6日月曜日

学生が聴く音楽

 

・今年も「音楽文化論」の最初に、学生たちからいちばん好きなミュージシャンと、いちばん好きな歌詞を聞いた。一昨年と同じ形のアンケートだったが、かなり違いが出ておもしろかった。ただし、ぼくはほとんどJポップを聴かないから、その傾向などについては、ゼミの学生に教わりながら話しあった。
・まず、変わらない傾向からいうと、洋楽ファンがほとんどいないということ。100人を越える回答者のうち、洋楽をあげていたのはわずかに 3名だった。洋楽を聴かない傾向はもう90年代からずっと続いているが、マニアックなファンも少なからずいて、ぼくのゼミにはそういう学生が来たりしていた。ところが最近は目立たない。夏の野外フェスティバルなどでは数万人も集まってそれなりに盛況のようだから、ここの学生の特徴なのかもしれない。洋楽好きには男子学生が多いように思うが、そういえば、毎年女子学生の比率が上がっていて、席を見渡しても、それが目立つようになった。
・好きだと選んだ歌詞の内容にも、ほとんど変化はなかった。自分探し、応援や励ましの歌、そして癒し。こんな内容の歌が相変わらず新曲として出され、それなりに受け止められているようだ。ただ、その歌い手やミュージシャンになると、おやっと思える変化があった。一昨年は一番多かった浜崎あゆみが0票で、その次に多かったミスター・チルドレンも2票だけだし、ゆずも一人のみ。しかも、複数票を獲得した歌手やミュージシャンはCoccoや鬼束ちひろなど数人しかいなかった。
・理由をゼミの学生に聞くと、今は倖田來未がいちばん売れているが、それは歌詞がいいというわけではなくて、パフォーマンスの魅力だという。ようするにエロカワってやつだが、男ばかりでなく女にも好評らしい。そう言えば、今回のアンケートには倖田來未は1票もなかった。
・売れ筋にめぼしい歌詞がなかったとしても、なぜこんなに分散するのだろうか。ぼくにはほとんどの歌やミュージシャンの名がちんぷんかんぷんだから、これも学生に聴くと、割と古い人が多くあがっているという。たぶん中学生から高校生の頃に聴いていいと思っているものをあげたのではないか、というのである。実際、そういうミュージシャンに出会うと何年もつきあって聴くというパターンが多いようだ。もちろん、大学生でも最近デビューした人を聴かないわけではない。しかし、大学生にはすでになじみのミュージシャンがいるから、おもに飛びつくのは中高生というわけである。
・だとすると、ミュージシャンはデビューしたときについたファンと一緒に年を経ていくということになる。見崎鉄の『Jポップの日本語』(彩流社)には浜崎あゆみの歌詞の変化について1人称の単数(わたし)から複数(わたしたち)へという指摘がある。わたしはがんばる、たえる、強く生きるから、みんなも、君たちも、ともにがんばろう、強く生きようという変化だというのである。ここには、自己実現に成功して富も名声も手に入れたものが、手をさしのべるから君もがんばれとする傲慢さが垣間見えるという。そういう変化と、音楽に対する興味が減る年代が重なって急速に人気を失っていく。そういう分析もできるのかもしれない。
・こんなふうにみてくると、Jポップは10代の中頃の子どもたちの感受性に訴えかける音楽だといえそうである。それを引きずって20代前半頃までは聴く。だから、ミュージシャンは、その後も続けようと思えば、新しいファンをつかまなければならないが、それはきわめてむずかしい。もっとも、こんな傾向は、最近始まったものではないだろう。人気が落ちてもがんばって続ければ、やがて懐メロ歌手として再生する。そんなケースは歌謡曲の時代から無数にあったのだから。
・団塊の世代がいろいろ話題になったためか、吉田拓郎や南こうせつが「嬬恋」の感激をくり返してノスタルジーに浸っている。聴いているのはもちろん、仕事や子育てに忙しかった同世代のおじさんやおばさんたちだ。いい年して今さら「結婚しようよ」も「神田川」もないだろうと思うが、歌う側にはそれしか曲がなく、聴く側にも、聴きたいものがそれしかないのだから、しょうがないといえばしょうがない。
・もう何度も書いているけれども、日本人のミュージシャンには歌や音楽で食えなくなれば俳優やタレントに転身してというケースが多すぎる。歌は芸能界への、人気者への足がかりに過ぎない。そんなふうに軽いものとみなされている。ローリングストーンズやエリック・クラプトンやマドンナなど、定期的に日本にやってきては金儲けして帰るミュージシャンは数多いが、それに匹敵できる人は誰もいない。彼や彼女たちはもう何十年も、歌を作り続けている。そのまねができないのは音楽や歌が軽くみられていて、それ相応の才能が集まらないせいなのかもしれない。
・学生たちが「いい」とか「すき」としてあげる歌詞は、はっきり言って、どれも他愛がない。花鳥風月に思春期の淡い恋心、あるいは漠然とした人生への不安や悩み。これでは、20代の後半になったら、ちょっとあほらしくなってしまう。そして50代にもなると、その昔懐かしいうぶな心を持った時代を再度味わいたくなってくる。その間の時間をなぜ歌にして歌えないのか、それを聴きたいと求めないのか。Jポップの不思議である。