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2024年4月1日月曜日

ライブの記録はいつからOKになったのか

 
ビリー・ジョエルの東京ドームでのライブについては、以前にこのコラムで書いた。忘れていたのだが、その当日にYouTubeですぐにアップされていて、あー、そうだったと思い出した。もちろん、客席からの録画で、音もこもっていて良くはなかったが、今終わったばかりのライブなのにと驚いて、その様子を最後まで見た。しかも、アップされているのは複数で、中には公認といったことばが入っているものもあった。

自分で録画したライブをYouTubeに許可なく載せることは、今でも違法だと思うが、いったいいつから、ライブでの録画が許されるようになったのだろうか。そんな疑問を感じて調べて見ると、日本では今でも、アーティストや主催者が認めた場合を除き、原則禁止になっているようだ。ただし、スマホを会場内に持ち込めないようにすることはできないから、電源を切って録画しないようアナウンスするしかないようだ。

densuke1.jpg僕が良くコンサートに出かけたのは京都に住んでいた1990年代までだった。会場の入り口で、テープレコーダーやビデオカメラを持っていないか、手荷物をチェックされたことが何度かあったと記憶している。今覚えているのは、京都の円山音楽堂で、一緒に行った友人が「ビデオでんすけ」で録画していて、係員に注意されてやめたことだった。多分70年代で、その大きくて重たいビデオカメラはあまりに目立ちすぎたのだが、それを会場に持ち込んで録画しても大丈夫だと思っていたのだ。そんな機材を持っている人はごく少数で、当時は普及しているのは、カメラを除けば、録音できるラジカセぐらいだった。もちろん、その時代には公にする手段もなかったから、あくまで個人的に楽しむために限られていた。

walkman1.jpg録音や録画が厳しく禁止されるようになったのは、レコードがCDに代わった80年代初めからだったのかもしれない。その頃にはウォークマンやハンディタイプのビデオカメラも普及して、誰もがどこでも気軽に録音や録画ができるようになった。もっとも、有名なミュージシャンのライブを無断で録音した海賊版と呼ばれたレコードは古くからあって、僕もボブ・ディランの伝説的なライブを何枚も買った。極めて悪い音が大半だったが、中にはレコード会社が録音したものが流出したと思えるようなものもあった。ディランの海賊版は、のちに正規の形でほとんど発表されていて、僕もそのほとんどを購入した。

ところで、ライブとYouTubeの関係だが、オフィシャルなものはもちろん、そうではない違法なものも多く蓄積されていて、ミュージシャンの名前で検索すると、大昔のものから最近のものまで、山のように出てくるのが珍しくない。これではライブ盤など出しても売れないだろうと思うが、ミュージシャンにとっては、それが宣伝効果として有効だと判断される場合があるのかも知れない。実際、ビリー・ジョエルについては、正規に記録されたと思えるライブがいくつもあって、東京ドームについても、すぐにアップされていたのだった。

2024年2月19日月曜日

小澤征爾逝く

 

ozawa1.jpg"小澤征爾が亡くなった。ぼくはクラシック音楽をほとんど聴かないし、彼のレコードやCDも持っていない。けれども彼に対する関心はあって、ずい分やせ衰えた最近の姿は気になっていた。
小澤征爾は斎藤秀雄に師事し、24歳の時にヨーロッパに武者修行に出かけている。その指揮者としての才能がすぐに認められ、いくつもの賞を取り、カラヤンやミンシュ、そしてバーンスタインといった巨匠に師事することになる。その勢いでNHK交響楽団の指揮者に招かれるのだが、その指揮者としての立ち居振る舞いを楽団員から批判され、演奏をボイコットされることになる。以後彼は、日本を去って音楽活動を海外に求めることになるのである。

ぼくはこの出来事について、音楽に限らずスポーツなどで海外に出向き、成功した人がしばしば経験する、やっかみや拒絶反応を最初に味わった人だと思っていた。それは帰国子女に対する扱いにも共通する、未だに改まらない日本人の島国根性なのだろう。それでつぶされる人もいるが、中には世界的に認められた超一流の存在になる人もいる。そうなると、最近の大谷翔平選手のように、今度は一転して、まるで英雄か神様のように扱うのもまた、相変わらずの現象である。

小澤征爾は1973年から30年近くをボストン交響楽団の音楽監督として活動した。しかし国内においても、1984年から師を偲んで「斎藤秀雄メモリアルコンサート」を国内で開き、「斎藤記念オーケストラ」を結成して、松本市などでのコンサートを定期的に行ってきた。YouTubeを検索すると、さまざまな場での活躍を見ることができるが、おもしろいのは、コンサートそのものではなく、そのリハーサル場面を収録したものである。彼は事細かに楽団員に指示し、そのたびに理由を明確に伝え、時には楽団員の意見を聞きながら、一つの作品を仕上げていく。そのやり方は、一流の演奏家に対しても、小学生に対しても変わらないのである。

クラシック音楽に疎いぼくには、指揮者は単に飾り物にしか見えなかった。小澤征爾の指揮者としてのパフォーマンスは独特で見栄えがいい。そこにカリスマ性を見る人もいて、彼の評価は何よりそこにあるのだろうと思っていた。しかし彼のリハーサル風景を見て、指揮者は脚本をもとに舞台を作り上げる演出家であり、なおかつコンサートの場で聴衆の視線を一点に集中させる主役的な存在であることを改めて認識させられた。

小澤征爾が20世紀後半から21世紀にかけて、世界を股にかけて痛快に生きた人であることは間違いない。とは言え、申し訳ないが、彼の死をきっかけにして、彼が指揮した作品を改めて聴いてみようかという気にはなっていない。彼の指揮した音楽が、他とは違っていることが、やっぱりぼくにはよくわからないからである。クラシック音楽音痴としては、彼の魅力はやっぱり、その生き様と立ち居振る舞いにある。

2024年1月8日月曜日

ビリー・ジョエルが東京ドームでやるそうだ

 



joel1.jpg"もうライブには出かけないが,ウドーからライブの知らせがやって来る。ほとんど興味がないミュージシャンばかりだから、配信停止にしてもいいのだが、面倒だからそのままにしている。先月ウドーからビリー・ジョエルのライブの知らせが入った。1月24日に東京ドームで一回だけのコンサートだというのである。ちょっと信じられない気がしたし、どのくらい客がはいるのか疑問を感じた。

僕にとってビリー・ジョエルは過去のミュージシャンだったから、今でもコンサート活動をしているとは思わなかった。確か21世紀になって活動を休止していたはずで、NHK BS の「街歩き」でニューヨークをやった時に,犬を散歩している彼が映って驚いたことがあった。そんなふうに気ままに暮らしているんだと,その時思ったことを今でも覚えている。

彼は僕と同じ1949年生まれである。1973年に発表した、なぜかハーモニカの印象が強い「ピアノマン」が代表曲だ。この後いくつものヒット曲を出したが、活躍したのは80年代の前半までである。僕はこの「ピアノマン」の他に「オネスティ」や「ストレンジャー」、そして「心のニューヨーク州」など、好きな曲がいくつもある。ただしあくまで,80年代までの人であって、後はほとんど忘れていたミュージシャンだった。

だから、東京ドームでライブをやるということに驚いたのだが、「ウィキペディア」を見ると、日本には1978年以降、何度もやってきていて、東京や大阪、あるいは福岡でコンサートをしている。会場は日本武道館や大坂城ホールの他、東京、大阪、名古屋、札幌などのドーム球場だから、相当の人数が集まっていたのだろう。その日本での人気に改めて驚かされたが、最後は2008年だから15年ぶりということになる。

で、YouTubeでジョエルのライブを検索すると、古い日本公演から割と最近のものまで、いくつも聴くことができた。もう頭は禿げ上がって、恰幅も良くなっているけれども、ステージでは精力的に動き、ピアノのうまさも健在で、声も昔のままだったから、聴き応えのあるものが多かった。昔の曲ばかりだけど、エンターテインメントとして十分に楽しませることはできる。そんな感想を持った。多分、東京ドームでのライブも、満員になって観衆を満足させるだろうと思った。それにしても、最近のライブでも若い観客がけっこういるのは、どうしてなのだろうか。

2023年11月13日月曜日

4 Non Blonds "Bigger, Better, Faster, M"

 
YouTubeには見聞きした傾向にあわせて並べる機能がある。あるいは、一つ見ると、類似のものが続く機能もある。レディ・ガガのライブをクリックした。曲目は"What's Up?"で、聴いたことがあるいい歌だと思った。それが終わると次に同じ曲で、ピンクやドリー・バートンのライブになって、その後、4 Non Blondsという名のバンドになった。知らなかったから調べると、この歌を作ったバンドで、歌っているのはリンダ・ペリーという名前だった。今度は4 Non Blondsやリンダ・ペリーで検索すると、騒がしいのが多かったが、いくつかいい歌もあった。で、Amazonで買うことにした。

4nonblonds.jpg" 見つかったのは、4 Non Blondsでは1枚だけで、発売されたのは1992年だから、もう30年も前である。"What's Up?"は「どう?」「どうしたの?」といった意味だが、歌の中には出てこない。代わりにくり返し歌われているのは "What's going on?" で、どちらも同じような意味である。調べて見ると、同名の歌がすでにあるから"What's going on?"ではなく、"What's Up?"にしたとあった。

4 Non Blondsはブロンドでない4人という意味で、女三人、男一人の編成だ。女ばかりでやりたかったようだが、いいミュージシャンがいなかったとあった。そんな姿勢と同様、歌詞も男中心の社会を批判する内容だった。「目標に向かって希望の丘を登ろうとしたが、世界が男で成り立っていることがすぐわかった」とあって、こんな社会ってどうなんだ?と繰り返す。リンダ・ペリーの声はハスキーがかってボリュームがあるから、説得力は十分という感じだった。このアルバムのタイトルになっている曲はない。「より大きく、より良く、より早いM(男?」という意味だろうか。

rindaperry.jpg" 4 Non Blondsはこの1枚だけで解散したが、リンダ・ペリーは歌い続けていて、1枚だけアルバムを出している。女の立場からの社会批判という姿勢は一貫していて、収められた歌の中には、他のミュージシャンに提供されたものもあったようだ。実際彼女は、プロデューサーとして何人もの女のミュージシャンをデビューさせてもいるし、ジャニス・イアンやアリシア・キーズ、それにピンクなどとも共作したり、アルバムの製作に関わったりもしているようだ。

彼女はデビュー時から自分がレスビアンであることを公言して活動してきた。活動の拠点がサンフランシスコだということもあって、LGBTの運動を支え、リードする役割もこなしてきたようだ。1965年生まれだから、もうすぐ60歳になる。しかし、最近も歌っていて、その迫力は衰えていない。

2023年9月25日月曜日

ヴァン・モリソンの2枚

 Van Morrison "Moving On Skiffle"
"What's It Gonna Take? "
 

このコラムでは、今年は死んだ人ばかりを取り上げてきて、僕自身も、聴いてきたミュージシャンも、そんな歳になったのだと、改めて気づかされた。そう言えば、新譜もとんと見かけない。そろそろ更新しなければと思っていたら、Youtubeでヴァン・モリソンがベルファストでやったライブを見つけた。Van Morrison - Up on Cyprus Avenueというタイトルで8年前とあるから2015年に行われたものだ。森に囲まれた公園の特設ステージは満席で、その周囲に多くの人が立って聴いている。1時間近いライブを見ていて、ヴァン・モリソンが気になった。

morrison12.jpg" 探してみると、毎年のように新譜を出していることがわかった。このコラムで取り上げたのは21年に出た『Latest Record Project Volume 1』で、コロナ禍でコンサートが禁止されたことに抗議して作られたと紹介してあった。『What's It Gonna Take?』は翌22年に出ていて、全曲がコロナ禍での国の規制や人々の振る舞いに対する批判になっている。このアルバムには賛否両論あったようで、自己中心的で悪質だとする批判や、文化の最近の抑圧を描写しているといった肯定的な評価もあったようだ。確かに、メッセージは直接的で辛辣だが、聴いている限りはいつものモリソン調で軽やかだ。それにしても80歳近いのに元気だと感心した。

morrison11.jpg" そのエネルギーはまだまだ衰えを知らないかのようだ。今年も『Moving On Skiffle』という名のアルバムを出していて、やっぱり軽やかに元気に歌っている。スキッフルというのは50年代のイギリスで流行った音楽だが、もともとは20年代のアメリカで、まともな楽器を持たない黒人たちがタライや洗濯板などを使って始めたものだった。だから音楽的にはごたまぜだったのだが、イギリスでリバイバルしたスキッフルもまた、ブルースやフォーク、カントリーなどが混在する音楽だった。

ただしモリソンはそんな音楽を聴いて成長し、やがて本格的にミュージシャンをめざすようになった。このアルバムは当時のヒット曲を23曲も収めた2枚組みである。いくつかはアメリカのフォークソングとして聴いた曲もあるが、サウンドはいつものモリソン節である。毎年出していることに驚いたが、モリソンの次の新譜が11月発売と予告されていて、次はロックンロールをとりあげた『Accentuate The Positive』だという。自分史を作ろうとしたのか、20世紀のポピュラー音楽を振りかえったつもりなのか。回顧的なアルバムを作るのはすでにボブ・ディランがやっているが、アメリカとイギリスを代表する二人のミュージシャンならではだと、改めて思った。

2023年9月11日月曜日

万博って何なのか

井上さつき『音楽を展示する パリ万博1855-1900』(法政大学出版局)

2025年に開催される大阪関西万博が工事の遅れなどで話題になっている。そもそもなぜ今万博なのか。その意図がよくわからない。と言うより大阪市はカジノを中心にしたIR(統合型リゾート)を作ることを狙って、万博をその隠れ蓑にしたと批判されている。地盤がまだ安定していないゴミの埋め立て地だから、建物を造っても沈下してしまうし、交通手段もかぎられている等々、問題は山積みだ。

この万博のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」で、サブテーマとして「いのちを救う」「いのちに力を与える」「いのちをつなぐ」と極めて抽象的でよくわからない。確かに温暖化は深刻だし、戦争や紛争はたえないが、そんな現実的な問題を具体的にテーマにしているわけではないようだ。

xpo1.jpg そもそも万博って何なんだ。そう思って、書架に読まずに積んであった万博関連の本を探してみた。井上さつきの『音楽を展示する』は19世紀中頃から20世紀初頭にかけて何度か行われた「パリ万博」について、主に音楽に焦点を合わせて論じたものである。万国博覧会は1851年にロンドンで初めて開催された。パリ万博は1855年に開催され、続いて1867年、78年、89年、そして1900年とほぼ10年ごとに開かれた。パリでの開催はこの後1937年で、その後は開かれていない。

パリ万博は産業革命を誇示したロンドン万博と違って、産業の他に芸術の展示を重視した。しかし絵画や彫刻と違って、音楽は、常設の展示ではなくコンサートという形で行われる必要がある。この本には、その音楽の展示方法の工夫や、演奏され歌われる音楽の種類、それらを聴きに来る聴衆の階層などが、開催年度によっていろいろと見直されてきたことがよくわかる。パリ万博といえばエッフェル塔ぐらいしか思い浮かばなかったが、パリが芸術の街と言われるようになる上で、万博が果たした役割が大きかったことを再認識した。

万博は産業の発展を目的に始まり、文化的な側面を追加して、人々に近代化による社会の変化を実感させることに役立ったが、その産業は20世紀になると二つの世界大戦を引き起こすことにもなった。1970年に開催された大阪万博は、大戦から立ち直った日本や世界の現状、あるいは宇宙への関心などを展示する上で大きな意味があったと言われている。しかし、その後の万博ははっきりいって、もうやる必要のないものになってきていると言えるだろう。今さら世界中から最新技術や文化的なイベントを一ヶ所に集めて開催される意味がどれほどあるのか、はなはだ疑問なのである。

だからこの本を読んでまず感じたのは、万博の意義はすでになくなっているということだった。クラシック音楽がコンサートホールで聴くものとして確立し、印象派やキュービズムなどの美術が美術館に展示され、高額の値段で売買されるようになったのは、まさに19世紀の後半の万博が華やかに開催された時期と重なるのである。あるいは20世紀になると映画やラジオやレコードといった技術が普及し、やがてテレビが登場するようになる。そして、20世紀終わりからのインターネットである。19世紀末から始まったオリンピックと併せて、こんなものを未だに当てにしている日本の政治家たちの古びた感覚に、もううんざりするしかないのである。

2023年8月14日月曜日

シニード・オコーナーとアイルランド

 

sinead.jpg" シニード・オコーナーが死んだ。自殺のようだ。去年の12月に息子の自殺などがあり、本人も自殺をほのめかすツイートをして入院をしたというニュースを見つけて、彼女のことを振りかえった。結婚と離婚を四度くり返し、その度に四人の子どもを産んでいること。自殺したのは三度目に結婚したアイルランドを代表するミュージシャンのドーナル・ラニーとの間に生まれた三人目の子どもだったことなどを書いた。その時から、近いうちに彼女の訃報があるのではと思っていたが、現実になってしまった。

彼女については、このコラムで何度も書いている。最初は1999年で、フィンランドの青年が僕のディスコグラフィーに載っている彼女のCDがほしいとメールが来たことを紹介した。日本版が珍しかったからだが、インターネットが始まった頃には、こんなメールが世界中からやってきて、面白いメディアができたものだと思った。

sinead2.jpg" 僕がシニードのことを知ったのはボブ・ディランの30周年記念コンサートのライブだった。1992年で、テレビで生中継されたのをわくわくしながら見た記憶がある。ミュージシャンが全員、ディランの歌を歌ったのだが、彼女だけがボブ・マーリーの「ウォー」を歌い、泣き崩れて、クリス・クリストファーソンに慰められた。その行動や坊主頭の姿にびっくりしたが、彼女を有名にしたのはプリンスのカヴァー曲「ナッシング・コンペアーズ・トゥー・ユー」だった。カナダ人の友達の家を訪問した時に、壁にこの言葉が書いてあって、女性二人で暮らすカップルの関係が、この歌でよくわかる気がした。

ireland12.jpg" 僕は2005年に初めてイギリスとアイルランドに行った。その目的は、パブでギネスを飲みながらアイリッシュ音楽を聴くことだった。アイルランド出身のミュージシャンには好きな人がたくさんいた。一番古いのはヴァン・モリソンでU2などとともに、シニードもその一人だった。こういった人たちのライブは無理だったが、パブでのライブや、アイルランドのフォーク歌手が勢ぞろいしたコンサートを、偶然ダブリンで聴くことができた。シニードはイギリスに苦しめられたり、飢饉で大勢の人が死んだことや、アメリカに移り住んだ人のことをテーマにした曲をたくさん歌っている。

isinead1.jpg" その2005年に彼女が発表した"Sean Nos Nua"はアイルランドの伝統音楽を素材にしたものだった。このコラムで、「ゲール語で古いスタイル(Sean Nos)と新しさ(Nua)を意味するタイトルに見られるように、彼女自身の雰囲気をのこしたアルバムに仕上がっている」と書いた。彼女はその後も何枚かのCDを出したが、ここ10年ほどは、ほとんどその名前を耳にすることはなかった。1966年生まれだからまだ50代で、死ぬには早すぎるのにな、と思った。

P.S. と、書いていたらザ・バンドのロビー・ロバートソンが亡くなったという新聞記事を目にした。闘病生活の果てだったようだ。ザ・バンドについては、昨年「The Bandという名のバンド」というタイトルで書いた。ロビーが製作した『ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった』をAmazonで見て、ザ・バンドについてはあまり書いていないことに改めて気づかされた。ボブ・ディランのバックとして活躍した印象が強かったが、このバンドでもいくつものヒット曲を作った。メンバーの大半が死んでしまったが、改めて聴き直して、もう一度取り上げようと思う。

2023年5月22日月曜日

ルー・リードとビロード革命

rreed&havel.jpg" NHKのBSで「ロックが壊した冷戦の壁」という番組を見た。デビッド・ボウイ、ルー・リード、そしてニナ・ハーゲンを取り上げていたが、ルー・リードとチェコ・スロバキアの関係にふれた部分に興味を持った。共産党政権が倒れた後に大統領になったヴァーツラフ・ハヴェルとルー・リードの関係については、リードの伝記を読んで知っていたはずだが、そのほとんどは忘れてしまっていた。

velvet.jpg" ハヴェルが中心になって共産党政権に抵抗し,打倒した運動は「ビロード革命」と呼ばれているが、それはルー・リードのバンド名である「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」に由来する。ただし、ルー・リードが直接、その革命に関わったというのではない。ハヴェルがニューヨークで手に入れたレコードをチェコに持ち帰ったことで、それが大きな影響力を持ったということだった。共産党政権下ではロック音楽は厳しく弾圧された。リードの作る歌は決して政治的なメッセージを持つものではないが、何より「自由」であることをテーマにする。そのことがハヴェルの心に響き、チェコの若いミュージシャンたちに共鳴した。

ハヴェルが大統領に就任した直後の1990年4月に,ルー・リードはプラハを訪れている。この番組にはなかったが,彼の伝記によれば、最初は躊躇していたのに、「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」の曲を忠実に再現するバンドの演奏を聴いた後に,リード自らステージに上がって歌ったとある。番組では、ホワイトハウスに招待されたハヴェルがルー・リードの出席と演奏を求め,クリントン大統領の前で歌った様子が映されていた。ホワイトハウスはおよそ,ルー・リードには似合わないが、ハヴェルにとってはどうしても一緒にいてほしい人だったようである。

「私が大統領になったのはルー・リードがいたからだ」。このようなことばを公言する人がチェコスロバキアの大統領になった。ハヴェルは政治家ではなく劇作家だったから、共産党政権下からの変容がどれほどのものだったかと、今さらながらに思った。そのハヴェルはチェコスロバキアがチェコとスロバキアに分離した後も、チェコの大統領を2003年まで務めている。2011年に亡くなっているが,ルー・リードもまた2013年に亡くなった。ベルリンの壁前でコンサートをしたデビッド・ボウイ、東ドイツで弾圧に屈せず,抗議の歌を歌ったニナ・ハーゲンとは対照的なハヴェルとリードの関係に、僕は音楽の持つ力を強く感じた。

2023年4月10日月曜日

坂本龍一の死に想う

 
坂本龍一が逝ってしまった。享年71歳、僕より三つも若い、早すぎる死だった。癌と闘いながらも反原発や憲法の擁護、そして自然破壊などを批判する言動を繰り返してきた。同じような活動をしてきた大江健三郎の訃報を聞いたばかりだったから、ショックはいっそう大きかった。日本の良心と呼べる人の相次ぐ死は、軍備増強に舵を切った日本の状況を歯止めのきかないものにしてしまう。そんな気持ちに襲われた。

sakamoto2.jpg" 坂本龍一が有名になったのは『YMO』からだが、僕が彼に興味を持ったのは、1983年に公開された『戦場のメリー・クリスマス』がきっかけだった。大島渚が監督したこの映画に、彼はデビッド・ボウイやビート・タケシとともに出演し、主題歌を作った。これがきっかけだったかどうか分からないが、坂本は『YMO』を解散し、『ラスト・エンペラー』にも出演し、音楽も担当してアカデミー賞やグラミー賞などを獲得して、一躍世界的なミュージシャンになった。


sakamoto1.jpg" 坂本龍一が音楽を使って政治的なメッセージをすることを知ったのは、2001年にTBSが企画した「地雷ZERO 21世紀最初の祈り」に出演した時だった。彼は地雷撤去のためのチャリティソング「ZERO LANDMINE」を作曲して,親交があって彼の意志に共鳴するミュージシャンたちを集めてCDを作った。ニューヨークに移り住んだ90年代から2000年代にかけては『YMO』の再結成もあって,彼がもっとも精力的に活動した時期だったが、9.11を経験することにもなった。音楽にいったい何ができるのか。そんなことに悩み,自分の表現活動を試行するきっかけになったようだ。

彼の政治的な発言がより際立つきっかけになったのは、2011年の東日本大震災と福島原発事故だった。2014年に中咽頭癌を発症して,療養生活を送ることになったが,すぐに回復して音楽活動も政治的発言も精力的に行った。それは21年に直腸や肺に転移した癌の摘出した後も続いていて,つい最近も神宮の木を伐採する方針に抗議して小池都知事などに直訴する手紙を書いていることが報道されたばかりだった。

ジョージ・オーウェルを評価する時に使われたことばに「ディセンシー(decency)」がある。オーウェルを評価した大江健三郎もまた、この「ディーセンシー」を使ってオーウェルを論じることがあった。それは大江自身が自らを律する時に使ったことばでもあるが、僕はまた,坂本龍一にももっとも当てはまることばであるように思う。「品位」「良識」「人間らしさ」などと訳されるが、世界の政治や経済,そして社会の分野で今,大きな力を持つ人たちにもっとも欠けているものである。

P.S. NHKの「クローズアップ現代」が坂本龍一を追悼する番組を放送した。しかし、光を当てたのは彼の音楽のみで,政治的な言動についてはまったくふれなかった。それは彼の一面だけを捉えて、その全体存在を矮小化する愚行だが、NHKが「ディセンシー」とは無縁のメディアに堕してしまっていることを露呈した番組でもあった。

2023年3月13日月曜日

ジョニ・キャッシュの最後のアルバム

 
Joni Cash "American IV : The Man Comes Around"
AmericanV : "A Hundred Highway"

ジョニ・キャッシュはカントリーの大御所で、2003年に亡くなっている。ディランと一緒に「北国の少女」を歌ったのが、彼を知るきっかけだったが、その後も特に興味を持つことはなかった。ホアキン・フェニックスが主演した『ウォーク・ザ・ライン』はキャッシュの半生を描いた映画で、面白かったが、それでも,キャッシュのCDを買う気にはならなかった。同じカントリー・ミュージシャンのウィリー・ネルソンのCDを買ったのも4年ほど前で、僕がカントリーミュージックにいかに無関心だったかが、今さらわかるのである。

フォーク・ソングと重なるジャンルなのになぜなのか。単調で明るいサウンドと、保守的で右翼的な歌が多いという印象が強かったのかもしれない。対照的に、ディランに代表されるように、フォーク・ソングは政治や社会を批判するミュージシャンがリードする音楽ジャンルだった。しかし、実際には、二つの音楽ジャンルは、それほど単純に二分できないものだったようだ。実際、ジョニ・キャッシュは民主党支持で、反逆のイメージがあって、刑務所でコンサートをやったりもしている。

cash1.jpg" YouTubeでたまたまジョニ・キャッシュの ”Hurt" という歌を見つけた。その年老いた顔に惹かれて聴いて、CDを買いたくなった。収録されているのは"American IV : The Man Comes Around"というタイトルで、IからVIまで出ているが,キャッシュが存命中に出たのはIVまでである。

”IV"は2002年に発売され、”Hurt" はプロモーション・ビデオとして2003年度のMTV Video Music Awardsで最優秀撮影賞を獲得している。ナイン・インチ・ネイルズのカヴァー曲だが、自身の人生を切々と振りかえるような内容で、キャッシュの墓碑銘だとも言われているようだ。

cash2.jpg" この『アメリカン』のシリーズは著名なプロデューサーであるリック・ルービンが、晩年のキャッシュを追いかけて作ったものである。録音は小さなライブや自宅で10年以上もかけて撮りだめしたものだから、それ以前のキャッシュとはずいぶん違う歌声が聞こえてくる。張りのある低音ではなく、しわがれてか細い声で、楽器もギターだけだったりする。収録曲も自作ばかりではなく、他のミュージシャンのカバー曲が多い。

"IV" にはサイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」やビートルズの「イン・マイ・ライフ」、スティングの「アイ・ハング・マイ・ヘッド」が入っているし、"V" にはスプリングスティーンの「ファーザー・オン・アップ・ザ・ロード」が収められている。他のアルバムにはU2やレナード・コーエン、トム・ウェイツ、トム・ペティ、そしてシェリル・クロウの曲を歌っている。ジャンルを超えて彼が気に入った歌を、プライベートな場で歌う。その歌声に聞き惚れてしまった。

2023年1月30日月曜日

デヴィッド・クロスビーについて

 
csn1.jpg" デヴィッド・クロスビーが死んだ。81歳だが、心臓を病んで、闘病生活をしていたようだ。彼はスーパー・スターではないし、派手な目立つミュージシャンでもなかった。けれども、僕にとってはロック音楽に興味を持つきっかけになった大事な人だった。ボブ・ディランの「ミスター・タンブリンマン」は、僕にとってギターを覚え、コピーして歌った初めての曲だが、最初に耳にしたのは、ザ・バーズのカバーだった。クロスビーはそのバンドの一員でサイド・ギターとテナー・コーラスを担当していた。リーダはロジャー・マッギンでザ・バーズはあくまで彼のバンドだった。

csn2.jpg" 1965年に結成され、いくつものヒット曲を産んだザ・バーズは68年に解散し、クロスビーはすぐに元バッファロー・スプリングフィールドのスティーブン・スティルス、元ホリーズのグラハム・ナッシュとそれぞれの名前を並べた「クロスビー・スティルス&ナッシュ」を結成した。時にニール・ヤングも参加して「CSN&Y」として活動し、”Teach Your Children"などのヒット曲をいくつも出している。ちなみにこの曲には中山ラビの「子供にはこう言ってやんな」と題したカバーがあって、コンサートでは必ず歌う曲だった。

クロスビーは長年薬物中毒に冒されていて80年代から90年代にかけては目立った音楽活動はしていない。ほとんど忘れられた存在で、時折誰かのコンサートにゲスト出演すると、そのやつれた姿が哀れなほどだったが、2000年以降には復活して、息子とバンドを組んだり、スティルスやナッシュと一緒になって音楽活動をするようになった。ただし、この時期に発表された彼の作品については、僕はほとんど知らない。

それにしても、次々と馴染みのミュージシャンが死んでゆく。日本ではもうロックやフォークは古いと思われているから、若い人たちにはまったく馴染みのない人たちだろうと思う。しかし、クロスビーは1年前までステージに出ていて、若いミュージシャンたちには敬愛されていたようだ。ネットには彼の死に際して、多くの記事があがっている。地味な存在だが、亡くなって見ると大きな人だった。僕自身のことも含めて、あらためてそう思った。

2022年12月26日月曜日

Sinéad O'Connor "How about I be Me (And You be You)"

 

sinead3.jpg" ここでシネイド(シニード)・オコーナーを取り上げるのは12年ぶりだ。その時は"Theology"というタイトルの二枚組みだった。 "How about I be Me (And You be You)"はその2年後に発表されていたのだが、全然気づかなかった。これよりもっと新しいアルバム"I'm Not Bossy, I'm the Boss"も2014年に出ているが、それ以後には出ていない。

最近の様子をネットで調べると、今年の1月に息子が自殺したとあった。その兆候は以前からあったようで、息子が家を出てから、彼女は何度もツイートしたようだ。で、その1週間後に彼女自身が自殺することをほのめかすツイートをし、思いとどまって入院をしたということだった。

オコーナーは本当に波乱万丈の人生を送ってきた。結婚と離婚を四度くり返し、その度に四人の子どもを産んでいる。自殺したのは三度目に結婚したアイルランドを代表するミュージシャンのドーナル・ラニーとの間に生まれた三人目の子どもだった。

"How about I be Me (And You be You)"は10年も前に出されたアルバムだが、彼女がプライベートな生活の中で、ずっと苦悩してきたことを感じさせる歌があった。

私にそっくりの子どもを産んだ
目はあなたにも似ているが
あなたには会わせたくない
なんと説明したらいいかわからないから "I had a baby"
あなたがどこにいるのかわからない
でも、家から遠いことだけはわかる
目が覚めると独りぼっちで、あなたはいない
家からとても遠いところに行ったんだ "Very Far From Home"
このアルバムは兄のジョセフ・オコーナーに捧げられている。彼はアイルランドでは著名な作家で『ダブリンUSAーアイリッシュ・アメリカの旅』が翻訳されていて、このコラムで紹介したことがある。アメリカにあるダブリンという名の街を訪ねるといった内容で、他の作品も、アイルランドという国や移民をしていったアイルランド人をテーマにしているようだ。

シネイドにもアイルランドをテーマにした歌は多い。アイルランドのことを思い、カトリック教会に反撥して激しい歌を歌うが、彼女の声は今でも透き通っていて美しい。それはこのアルバムでも変わらなかった。とは言え、Wikipediaを見ると、2018年にイスラム教に改宗してシュハダ・サダカット (Shuhada' Sadaqat)と改名したとあった。激しい生き方をしている人だとつくづく感じた。

2022年11月14日月曜日

Jackson Browne, "Downhill from Everywhere"

 
jacksonbrowne3.jpg" この名前で取り上げるのは2回目だ。ジャクソン・ブラウンがコロナに感染して、アルバム制作が中断したために、2曲だけのシングル盤が先に出たためだった。アルバムだと思って購入してがっかりしたが、その後アルバムが出て、やっぱり買うことにした。すでにメインの曲は紹介しているから、また取り上げるのは止めようと思っていたが、来年三月に日本で公演をやると言うニュースを見て、やっぱり書くことにした。

アルバム・タイトルの「Downhill from Everywhere"」については前回、次のように紹介した。「海に流れ込む、プラスチックその他の人間が捨てたゴミを歌ったものである。ゴミは学校から、病院から、ショッピングモールから等々、あらゆるところから流れ下る。歌詞の大半はその「~から」を列挙したものになっている。引力に従って行き着く先である海を、私たちはどこまで自分のこととして考えているのだろうか。私たちが生きていくのに、海がいかに大切かということを。プラスチックは海に流れ下ることで細かく粉砕される。それを魚が食べて、また人間に返ってくる。この歌はドキュメンタリーの"The Story of Plastic"でも使われている。」

その他の曲も強いメッセージが込められているものばかりだ。トランプ前大統領の移民政策に抗議した"The Dreamer"、地震に襲われたハイチ復興支援として作られた"Love is Love"、人種差別を抗議し、公平であることの大切さを訴える"Untill Justice is Real"、エイズ病棟をドキュメントした映画『5B』に提供された”A Human Touch"などだ。ジャケットには巨大なタンカーが写っているが、これは原油流出事故後にバングラデシュに移送されて解体されたものだという。

他方で、彼本来のものである自省的な歌もある。シングルカットされた"A Little Soon To Say"については、前回次のように紹介した。「今の状況に対する自分の戸惑いを歌っている。地平線の向こうが見えない、明かりに照らされた道の向こうが見たいんだけど、とつぶやき、すぐに決断しなければならないのに、情報があまりに少なすぎる、とつづく。今の病を乗り越える道を照らしたいし、できると思いたいが、そう言うにはまだ早すぎる。」

人工心臓を手術して無敵だと歌う"My Cleveland Heart"と、心が裂けるようだと歌う"Minutes to Downtown"など、自分の揺れ動く心を描く姿勢も健在だ。で最後はバルセロナ讃歌の"Song for Barcelona"。ここでも自分の魂に火をつける街と歌う反面で、愛する世界が見つけられなくなってしまうと揺れている。

ジャクソン・ブラウンのコンサートには2015年に出かけた。その時の様子は「ジャクソン・ブラウンのコンサート」に書いている。また聴きたいと思うのだが、コロナ禍で人混みは避けているから諦めている。

2022年9月26日月曜日

Lady Gaga "A Star Is Born"

 

star1.jpg"レディ・ガガはマドンナの二番煎じだろうぐらいにしか思っていなかった。だから彼女のCDは一枚も持っていない。もちろんかなり過激な政治的発言をして話題になったことは知っていたが、それもまた、マドンナと一緒と思っていた。

そんな程度の関心だったが、Amazonでたまたま見つけた『アリー/スター誕生』という題名の映画を見た。もちろんガガが主演であることも知らずにだったし、誰が監督で誰が出ているかも確認しないで見始めた。面白くなければ途中でやめる。そんなつもりだったが、最後まで見て、サウンドトラックまで買ってしまった。

star2.jpg"『スター誕生』はすでに三作作られていてこれが四度目のリメイク版である。僕はこの三作目を見たはずだが、内容についてはあまり覚えていない。主演したのはクリス・クリストファーソンとバーバラ・ストライサンドで、今調べるとアカデミーの歌曲賞を取ったようだ。クリスファーソンはカントリーのミュージシャンだが、この時期には多くの映画に出ていて、そのほとんどを見ている。たとえば、ボブ・ディランと共演した『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』(1973)、三島由紀夫の原作を映画化した『午後の曳航』(1976)、『アリスの恋』(1974)、そして『コンボイ』(1978)などである。もちろん、いい歌もあって、ジャニス・ジョプリンが歌ってヒットした「ミー・アンド・ボビー・マギー」が代表作になっている。

ガガが主演する四作目もカントリーの人気ミュージシャンに見いだされてスターになるという話である。共演したブラッドリー・クーパーは、ステージでのパフォーマンスも彼がやり、監督も務めている。知らない俳優だと思ったが、後で調べると、Amazonで見た『世界にひとつのプレイブック』(2012)でアカデミー主演男優賞にノミネートされているし、『アメリカン・スナイパー』(2014)とこの『スター誕生』でもノミネートされている。あるいは『ジョーカー』(2019)では製作者になっている人である。

で、肝心の映画についてだが、酒とドラッグに溺れたカントリーのスターだったジャクソン・メインが、たまたま入った酒場で歌うアリーに興味を持つところから始まる。その自作の歌にほれ込んで、自分のステージで一緒に歌わせたりして、彼女を人気者にし、恋に落ちて結婚もする。しかし、自分を上回る人気者になることで、また酒やドラッグに溺れるようになり、最後には自殺をしてしまう。アリーはグラミー賞を取るのだが、そこで歌うのは彼に対する愛と惜別の歌である。

いい歌が多かったからサウンドトラック盤を買ったが、あらためてガガの声量に感心した。ただ、彼女の他のアルバムについてはすぐ買おうという気にはなっていない。

2022年8月22日月曜日

Eric Clapton "The Lady in Balcony"

 

clapton2.jpg"エリック・クラプトンは今年77歳になった。日本で言えば喜寿の歳だ。デビューは1960年代初めだから、音楽活動はすでに60年を超えている。で、新しいアルバムを出した。"The Lady in Balcony"は、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで予定されていたコンサートがコロナで中止になり、その代わりにライブハウスで行った小さなコンサートを収録したものである。

だから新しい曲はなく、使われている楽器の多くはエレキではなくアコースティックギターである。ライブ盤といっても聴衆がいないから、曲の合間に拍手も掛け声もない。本来なら大きなホールでやるはずだったものが、コロナで出来なかったということをメッセージとして残しておきたかったのだろうか。

クラプトンはエレキ・ギターの名手として知られていて、その奏法にはスロー・ハンドという名前が付けられている。指の動きはゆっくりしているように見えるのに、生きた音が繰り出される様子を形容したものだと言われている。何しろその格好良さで日本にも多くのファンがいて、来日すればいつでも武道館が一杯になるほどだった。

エレキ・ギターの名手としては他に、ジミー・ペイジやジェフ・ベックなどが挙げられるが、いずれもヤードバーズのギタリストだった。面白いのは三人ともヤードバーズを抜けて新しいバンドを作ってから有名になっていることだ。クラプトンはクリーム、ペイジはレッド・ツェッペリン、そしてベックはジェフ・ベック・グループである。そんなことを書いていると、60年代から70年代にかけて聴いていたブリティッシュ音楽が思い起こされて懐かしくなる。

ただし、クラプトンについて思い出すシーンは、彼が主役ではなく脇役として登場するコンサートばかりである。たとえばジョージ・ハリスンが呼びかけ人になったバングラディシュの食糧危機支援のコンサートやザ・バンドの解散記念コンサートのザ・ラスト・ワルツなどである。彼はそこでギターとバック・コーラスばかりだったが、主役に負けない存在感があった。

僕がクラプトンをよく聴くようになったのは、生ギターを主にしたアンプラグドというシリーズの中で発表した「ティアーズ・イン・ヘブン」以降である。その後の「フロム・ザ・クレイドル」 (1994)、「ピルグリム」 (1998)などを聴いてから、それ以前の「アナザー・チケット」 (1981)や「ビハインド・ザ・サン 」(1985)、「オーガスト 」(1986)、そして「ジャーニーマン 」(1989)なども聴くようになった。

"The Lady in Balcony"は、そんな彼が歌い演奏してきた曲で構成されている。昔とあまり変わらない声で、それほどギターを目立たせずに静かに淡々と歌っている。参加ミュージシャンと車座になっているところとあわせて、すぐそばで聴いているような気持ちになった。

2022年7月11日月曜日

The Bandという名のバンド

 
theband1.jpg"ザ・バンドはボブ・ディランのバックとしてデビューした。ディランが生ギターからエレキギターに持ち替えた時期で、彼の信奉者たちのなかには拒絶反応を示す人たちが多かった。政治や社会を風刺したり批判したりするフォークソングはインテリの好む音楽で、ロックンロールは商業的なガキの音楽だと思われていた時代だった。

ただし、この『ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった』を見ると、彼らはロニー・ホーキンスのバックとしてカナダで1950年代の終わりに結成され、その後ディランのバックになったとあった。有名なのは1965年のニュー・ポート・フォーク・フェスティバルや、翌年に行ったロンドンのロイヤル・アルバート・ホールを始めとしたヨーロッパ公演で、客との緊張関係が伝わってくるステージは、今では伝説化している。

ディランが交通事故に遭ってウッドストックに隠遁すると、ザ・バンドのメンバーも移り住んで、レコード制作をした。ディランの「Basement Tape」とザ・バンドの「Music from Big Pink」で、ザ・バンドはこれを機に独立したバンドとして活躍した。ピーター・フォンダの『イージー・ライダー』に使われた「ザ・ウェイト」やディランの「アイ・シャル・ビー・リリースト」が大ヒットして70年代前半を代表するバンドになったが、1976年に最後のコンサートをしてバンドは解散した。そのライブは『ラスト・ワルツ』として映画にもCDにもなった。監督したのはマーティン・スコセッシだった。

その後メンバーはそれぞれ独立して音楽活動を続けたり、再結成されたりしたが、目ぼしいヒットは生まれていない。だから今では忘れられたバンドになったと言えるかもしれない。メンバーのうち、ベース担当のリック・ダンコ、ドラムスとボーカルのリヴォン・ヘルム、そしてキー・ボードのリチャード・マニエルは死んで、存命なのはガース・ハドソンとロビー・ロバートソンの二人だけである。

『ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった』はロビー・ロバートソンが制作し、彼自らがザ・バンドの歴史を振りかえって語るという構成になっている。その話を聞くと、知らなかったことがずいぶんあった。ロバートソン自身にはネイティブ・インディアンの血が流れていて、養子として育てられたことが明かされているし、少年時代からの仲間であったメンバーの結束の強さや、有名になった後の仲たがい、そしてドラッグやアルコールにおぼれたり、自殺をしたメンバーのことが語られている。ザ・バンドと一時期音楽活動を共にしたディランはもちろん、影響を受けたエリック・クラプトンやブルース・スプリングスティーンも登場して、70年代前半に輝いたザ・バンドのことが語られている。

このビデオを僕はAmazonで見つけて見た。最近はめったに聴くこともなかったが、改めて何度も聴き直した。フォークソングとロックンロールの融合、ビートルズやローリングストーンズなどに代表されたブリティッシュ・ロックとの出会いなど、ポピュラー音楽がエネルギーに溢れた時代に、ザ・バンドという名のバンドがいたことを、改めて思い出した。

2022年5月23日月曜日

Neil Young "Barn"

 
young8.jpg"ニール・ヤングは相変わらず精力的な仕事をしている。"Barn"はクレイジー・ホースをバックにした2年ぶりのアルバムだ。古いライブや未発表音源を次々発売して、また出たかという感じだったが、このアルバムはなかなかいいと思った。

タイトルの"Barn"は納屋の意味だが、録音したのはコロラドから近いロッキー山脈のどこかにある古い納屋で、それを修復してレコーディング・スタジオにした。アルバム・ジャケットには夕焼けに映えるログの納屋が描かれていて、入り口にメンバーが並んでいる。YouTubeには"A Band A Brotherhood A Barn"というタイトルで、その録音風景や、納屋周辺の風景が収録されている。隙間から太陽が差し込むような納屋での録音だから、録音の環境としてはよくないのだろうが、おもしろい試みだと思った。

このドキュメンタリーは現在のパートナーである女優のダリル・ハンナが監督をしている。結婚したのは2018年で、36年連れ添い2014年に離婚した前妻のペギー・ヤングは、2019年に癌で亡くなっている。二人の間には障害を持つ子どもがいて、ブリッジ・スクールを一緒に運営していた。彼女自身もミュージシャンで、ニールのステージでバックコーラスなどもしていた。離婚後の彼女はつらかっただろうと勝手に思ったりするが、どうだったんだろうか。

そんなことを考えながら聴くと、ヤングの複雑な気持ちを表す歌詞を見つけることができる。最後の "Don't forget love"は死んだペギーに対する歌のように思えるし、"They might be lost"は彼女と子どもたちのこと、そして "Shape of you"は今一緒にいるダリルを歌ったもののように感じられる。そんな聴き方ができるアルバムだが、気候変動に対するアメリカ政府の無策ぶりを批判する "Human race"や、エネルギー依存を批判した "Change ain't never gonna"、あるいはカナダ生まれでアメリカ人になった自らの経歴を歌った "Canerican"なんていう歌もある

クレージーホースをバックにしているが、半分はソロに近い静かなもので、半分はロックしている。全員爺さんばかりだが、ヤングの声は今でもボーイ・ソプラノのままだ。長年歌い続けてきて、これからもまだ歌い続ける。そんな表明の歌もあって、聴いていると心が休まる気になった。

今こそ、古い歌を歌おう
君が聴いたことがある歌だ
君の心の窓をゆっくり開く (Welcome Back)

2022年4月11日月曜日

Stingの新譜 "The Bridge" と 'Russians'

 
sting1.jpg"スティングの新譜は5年ぶりだ。前作の『57th & 9th』はニューヨークの通り名をタイトルにしたもので、久しぶりにロックのアルバムだった。『The Bridge』のサウンドにはバラエティがある。すべての歌が新しく作られたもののようだが、何かに似ていると感じさせるものが少なくない。もちろんどれもスティングらしくてなかなかいい。

『The Bridge』はコロナ禍のなかでリモートによるセッションで作られたという。会議や講義だけでなく、レコーディングもリモートでできるのかと、再認識させられた。離れたままの人たちを繋ぐ「橋」という発想が生まれたのは、そんな作業の中からだったのだろうか。離れたところにいて、一つの曲、一つのアルバム作りをする。そんなふうにしてできた「橋」には次のようなフレーズがある。

あそこに橋があると言う人がいる
霧の中のあそこだと
嘘だと言う人もいるし
あるはずがないと言う人もいる
………
しかし橋は心の奥深くにある
………
門を開けて渡ることのできる橋を架けよう
メイン・テーマは「橋」のようだが、曲としては「愛」と名のついたものが3つある。愛することの難しさが物語られているが、それは男女の恋愛にかぎらず、コロナ禍の分断はもちろん、荒んだ町に対するものであったり、国境におけるものだったりする。「愛」は離れたものを繋ぐ「橋」になるが、また繋がりを壊す凶器にもなる。人は分離されていると感じれば、それを結ぶ「橋」をかけたがるが、繋がっているものを分断させたりもする。「橋」はそんな人間の心理を喩えるものとして良く使われてきたが、今はまさに、そのことが切実に語られる時代なのかもしれない。

ロシアのウクライナ侵略で、とんでもない蛮行が繰り返されている。子どもたちが避難する劇場や、人びとが集まる駅にミサイルやクラスター爆弾が撃ち込まれたり、民間人への拷問や虐殺が多数報道されたりするのに直面すると、戦争がいかに人間を狂気に陥らせるかを改めて実感させられる。プーチンはウクライナのネオナチが、ウクライナに住むロシア人を殺してきたからだというが、そんな理由は、決して正当化できるものではない。独立した国であるウクライナを「大ロシア」として統合したいという野望は、悪魔の夢想でしかない。スティングはそんな思いを込めて、デビュー時に作った 'Russians' を歌って、YouTubeに公開した。
ロシア人だって子どもを愛すると思いたい
そういう私を信じて欲しい
私やあなた、私たちを救うのは
ロシア人もまた、子ども愛しているかどうかにかかっている
米ソの冷戦時代の対立を批判して1985年作られた歌だが、世界中の人たちが抱く思いを直接訴えることばだと思う。

2022年1月17日月曜日

楽曲の権利をなぜ売るのか?

 ボブ・ディランやブルース・スプリングスティーン、そしてデビッド・ボーイが楽曲の権利を売却したといったニュースを聞いた。ボーイは死んでいるから本人の意思ではないが、今なぜ?という疑問を感じた。金額はボーイが2億6千万ドル、ボブ・ディランが3億ドル以上、そしてスプリングスティーンが5億ドルだという。すでに巨万の富を得ながら、まだお金が欲しいのかと批判したくなるが、その理由を知りたいとも思った。

楽曲の権利とは著作権のことで、ミュージシャンがレコード会社からCDとして公開した楽曲について持つ権利である。楽曲の作者はCDの売り上げに応じた収入を得る他に、それがラジオやテレビなどのメディアで放送されたり、楽曲が使われたりした時にも報酬を得ることができる。また、CDの購入者が個人的に聴く以外の利用をした時にも、支払う義務が生まれる。ジャズ喫茶店や音楽教室などでの利用をめぐって支払い義務の有無が争われたりしてきたことは、これまでにも話題になってきた。

その、本来は作者の有する権利を買ったのは、レコード会社である。ボーイの楽曲権はワーナー・ミュージック、ディランはユニバーサル、そしてスプリングスティーンはソニー・ミュージックエンタテインメントだ。売却によってディランやスプリングスティーンは、ライブで自分の楽曲を歌う時にも使用料を払わなければならなくなるのだろう。もうライブはあまりやらないことにしたということだろうか。ディランは80歳を超えたからそうかもしれないが、スプリングスティーンは70代の前半だ。

このような動きには高齢化した大御所ミュージシャンの「終活」だという解釈がある。今金が欲しいというよりは、自分の死後にもしっかりした企業に楽曲の管理をして欲しいと思うからだというのである。楽曲の購入や利用は今ではネットを介したストリーミングにあって、その市場は爆発的に拡大している。一つのコンセプトをもって作られたアルバムも、ストリーミング市場では細切れになって売買される。長期にわたって得られるかもしれない収入を自ら管理するのが面倒な状況にもなっているのである。

調べてみると、納得できる理由がいくつか出てきたが、音楽の現状にとってよくないことだとする意見も見受けられた。一つはストリーミング市場が一部の大物に偏っていて、若手のミュージシャンが育ちにくい環境にあることだ。スーパー・スターといわれる人たちにも、最初は売れない時代があって、徐々に才能を伸ばし開花させる土壌があったのに、今はそれがなくなってしまっているというのである。ここには、コロナ禍にあってライブ活動が制限されているという現状も重なっている。

20世紀後半はポピュラー音楽が花開いた時代だった。ディランやスプリングスティーンはその代表的なミュージシャンだが、彼らの終活とともに、この音楽も終わりを迎えてしまうのだろうか。そしていくつかがクラシック音楽として残されていく。利益優先の大企業の手に渡された音楽だけが化石のようにして生き残る。そんな近未来を想像してしまった。

2021年12月6日月曜日

中川五郎『ぼくが歌う場所』(平凡社)

 

goro2.jpg 中川五郎は50年も歌い続けているフォークシンガーだ。本書はその半世紀を越える時間を個人史として辿ったものである。小学生の頃に洋楽に関心を持ち、ギターを弾きはじめた少年が、当時のヒット曲からフォークソングに興味を持ちはじめる。そのきっかけになったミュージシャンはウッディ・ガスリーやピート・シーガーだった。そして、彼らの歌には今まで聞いたことがない政治や経済、あるいは社会に対する批判的なメッセージが込められていることを知る。少年はその歌詞を訳して、日本語で歌うことに夢中になった。

そんな関心は中川五郎一人だけのものではなく、やがて「関西フォーク運動」と呼ばれる大きな動きになった。当時高校生であった彼は、ボブ・ディランの歌を替え歌にした「受験生のブルース」を作って歌ったが、それが高石友也によって「受験生ブルース」としてヒットすることになった。フォーククルセイダースの「帰ってきた酔っ払い」が大ヒットしてブームとなり、彼も入学したばかりの大学にはほとんど行かず、音楽活動に没頭するようになった。

1960年代後半から70年代初めにかけては大学紛争が各地で起こっていた時期であり、ヴェトナム戦争に反対する運動も盛んに行われていた。メッセージ性のある歌が大きな注目を集め、岡林信康や高田渡といった人気ミュージシャンも生まれ、時代の寵児としてメディアで扱われたりもした。この本には、彼らとコンサートなどの活動を共にしながら起きたさまざまな動きやそこで生じた問題が、彼の経験を通して振りかえられている。

レコードが売れ、コンサートに多くの人が集まれば、当然、金銭的な問題が起こる。所属したプロダクションとの契約は給料制であり、レコードは印税ではなく買い取りだった。だからどれほどレコードが売れても、コンサート活動が忙しくなっても、ミュージシャンには少額のお金しか払われなかった。ところが、新宿駅西口広場で始まった「フォーク集会」では、彼らの作った歌が歌われたにもかかわらず、金儲けのために歌う連中だと非難されたりもした。それほど有名でもなかった著者は、両方の中間にいてうろたえたり、また面白がったりもしている。

そんなフォークソングは大学紛争の鎮静化やヴェトナム戦争の終結とともにはやらなくなり、「四畳半フォーク」と呼ばれる極私的な内容になり、やがてメッセージ性の乏しいニューミュージックと呼ばれた歌に変容することになった。著者自身も音楽活動よりは雑誌の編集作業や洋楽のレコードに解説を書いたり、歌詞を訳したりといった仕事が中心になり、やがて小説の翻訳や自ら小説を書くようになった。

音楽活動とは縁遠くなった著者が再び歌いはじめたのは90年代になってからである。気になるミュージシャンとの出会いや、親しい人たちの死などがあって、改めて死や生について考えて歌を作ることもはじめた。2006年に25年ぶりのアルバム『ぼくが死んでこの世を去る時』(offnote)を出して、本格的な音楽活動をするようになると、目立たないけれども、政治や社会に対して抗議して歌う人たちが見えてきて、その人たちと一緒に歌う機会も増えた。

中川五郎が歌うことの必要性をさらに感じたのは、東日本大震災と福島原発事故だった。被災地で何を歌えばいいのか悩みながらも精力的に活動し、その中からアメリカのフォークソングにあるトーキング・ブルースという形式を使った時宜的な歌や、関東大震災時に起きた朝鮮人虐殺事件などを歌うことも始めた。それは2017年に出したアルバム『どうぞ裸になってください』(コスモスレコーズ)にまとめられていて、今を見つめた数々の語り歌は、強烈でありながら優しさも滲むメッセージで溢れている。

この本のテーマは歌であるが、ここには同時に彼の私的な生活史も語られていて、恋愛や結婚、子どもの誕生と育児、そして不倫や別居などについても触れられている。決して品行方正ではないし、家庭を大切にしたわけでもない。そんな自分のダメな部分についても正直に吐露していて、私小説風にも読める内容になっている。その意味では本書は最新のアルバム同様に、自分を裸にして語った個人史であり、そこから見た日本の半世紀を歌ったトーキング・ブルースでもあると言えるだろう。

『週刊読書人』12月3日号に掲載