2006年2月28日火曜日

スペインの音楽

 

casals1.jpg・スペインの音楽といっても、チェロのパブロ・カザルスとフラメンコしか知らなかった。カザルスが1961年にホワイトハウスでケネディ大統領を前に演奏をしたCDには「鳥の歌」が入っている。80歳を過ぎていたが、息づかいが聞こえる演奏には思わず聴き入ってしまうほどの迫力がある。ソフトな演奏のミーシャ・マイスキーとは対照的に荒々しさを感じるサウンドには、80歳を過ぎているとは思えないすごみがあった。
・「鳥の歌」はカタルーニャの民謡で、クリスマスの祝い歌だという。しかし、その哀しみにあふれた旋律を聴くと、どうしてもスペイン市民戦争やフランコの圧政に苦しんだ人たちのことを連想してしまう。

camaron1.jpg・スペインに出かける前に入手していたフラメンコはカマロン一人だけだった。既に死んでしまっているが、現在でも強い人気で、バルセロナの CDショップのフラメンコのコーナーには彼のCDがたくさんあった。フラメンコをポップにしたジプシー・キングスに似ているが、もっとずっと泥臭くて、激しく、なおかつ哀切感がある。バックのギターがトマティートであるものを何枚か買い足したが、どれもいい。しわがれた声、演歌を思わせる小節、それに独特の手拍子。旅行中も、家に帰ってからも繰り返し聴いて、一緒に手拍子を叩いたりしている。

maytemartin1.jpg・フラメンコにももちろん、ニュー・ウェイブはある。マイテ・マルティンはバルセロナ出身の女性の歌手(カンタオーラ)だが、カマロンとは対照的に泥臭さがまるでない。中身も確かめずに購入した"Querencia"にはギターの他にチェロのバックもついていて、フラメンコとは違う曲風の歌もある。クラシックやジャズとのフュージョンなどもやっているし、詩に対するこだわりもあるようだ。気に入ったのでAmazonで調べたが、手にはいるのは1枚だけ。もうちょっと買っておけばよかった。


antoniovega1.jpg・スペインではフラメンコ以外にどんな音楽が流行っているのか。ネットで調べてチェックしていったのがアントニオ・ヴェガだ。マドリード出身でもうすぐ50歳になる。建築家を目指し大学にはいるが中退、パイロットや社会学者に方向転換をするが、結局音楽の道へという経歴を持っている。78年にバンドとしてデビューして90年代になってからソロ・ミュージシャンになったようだ。3枚のCDを買ったが、サウンドしてはフォーク・ロックでことば以外には、あまりスペインを感じさせるものはない。聞き慣れている音だから、何の違和感もなく聴ける。歌はどれも自作だと思うから、マイテとともに、ことばがわかればとつくづく思う。

tomatito1.jpg・バルセロナのカタルーニャ音楽堂はガウディのライバルだったモンタネールが造った建物だ。名所になっているがガウディびいきとしては比較にならないと感じたが、作られた当時はモンタネールの方が評価が高かったそうだ。しかし、後になって気づいたのだが、ここで10日にヴェガ、そして16日にトマティートのライブがあった。10日は無理だが16日はバルセロナに着いた日で、本当に近くをうろついていたから、何とも悔しい思いがした。入り口をもう少し丁寧に見ておけばなー……。

elgleo1.jpg・代わりにというわけではないが、うろついていたところで聴いたストリート・ミュージシャンのギターが気に入った。二人組のフラメンコ・ギターだが、そのうちの一人でEl Gleoという名の人のCDを買った。ちょっとはにかんだような顔をして、「グラシャス」と言ったような気がした。CD-Rに焼きつけた自家製版だが、ホテルに帰ってパワー・ブックで聴いてみると、驚くほどギターがうまい。スペインにはこんな人がごろごろいるのかもしれない。


elgleo2.jpg・もっとも、スペインの街にフラメンコが流れているというわけではない。タクシーやカフェで耳にした音楽はU2だったりREMだったりで、世界中どこに行っても同じ音楽が溢れているのだ、と改めて実感した。バルセロナの地下鉄ではローリング・ストーンズのコンサートの宣伝をやっていたから、日本とまるで同じで、彼らが世界中を飛び回って金稼ぎしていることがよくわかった。そんな意味でも、ロックに愛想がつきかかっている気持ちがますます増幅してしまった。去年の夏のアイルランド、そしてこの冬のスペイン。どこに行っても生きている音楽がある。ロックがそれを駆逐しないことを願うばかりだ。

2006年2月22日水曜日

スペイン便り・その2


spain5.jpg・バルセロナでサッカーを見た。FCバルセロナは今、スペイン・リーグの首位にいる。スター軍団のレアル・マドリードほどではないが、ロナウジーニョやエトーなど、日本でもなじみの選手が多い。とてもチケットは取れないと思っていたが、ここに住んでいる友人が取ってくれた。一番安い席でも30ユーロ(4200 円ぐらい)したが、客席はほぼ満員だった。その最後列に近い席からフィールドを見下ろすように見た。収容人員は98000人、スタジアムの大きさがよくわかった。試合開始は何と夜の10時、毎日の強行日程でいつもなら寝ている時間だが、今日ばかりはそういうわけにはいかなかった。

spain6.jpg・試合はロナウジーニョのフリーキックやアシストで5対1で勝った。相手はセビリヤのベティス、中堅どころでけっして弱いチームではなかったのだが、最初から最後まで一方的な試合だった。当然ファンは大喜びで、周囲の人たちは歓声を上げ、拍手をし、歌を歌い、ウェーブをした。ぼくには試合以上にこちらのほうが楽しかった。サッカーをよく知っている、一番熱狂的な人たちが集まっているところだったようだ。とにかく日にちが変わろうという時間なのにみんな元気がいい。シエスタでしっかり昼寝をしているのだろうか。ぼくも思わず一緒になって、立ち上がったり、拍手喝采をしたり……。

spain7.jpg・バルセロナには、とにかく美術館や博物館が多い。それがどれも魅力的だから、ついつい欲張ってしまいたくなるが、一度入ったら2時間や3時間は必要になる。ピカソ、ミロ、ダリ、そしてガウディ……。観光客が多いが地元の人たちも来ていて、どこも大勢の人で賑わっている。ガウディの作った建物はサグラダ・ファミリア以外にもたくさんあって、それらが街に溶け込んでいるから、どこの通りを歩いていても建物やモニュメントなどに目が行ってしまう。歴史的なもの、町にゆかりのあるもの(人)を大事にするだけでなく、先進的で洗練されたところもあるから、スペインのなかではかなり異質な感じもする。温暖で食材も豊富だから、ぼくはすっかり気に入ってしまった。

spain8.jpg・スペインにはシエスタの習慣が今でも残っている。昼の休み時間をたっぷり取って、食事をし、昼寝をするのだが、バルセロナでも、その時間には店が閉まり、人通りが少なくなる。ずいぶんのんびり、というより怠惰な感じすらしていたのだが、慣れてくるとなかなか合理的な生活スタイルなのではないかと思い始めてきた。朝が動き出すのが早い。若いお父さんが昼間、小さな子どもを連れて歩いている。店は夕方からまた開きははじめ、レストランは夕方閉じて、夜は8時から9時に再開する。だから深夜でも街はにぎやかだ。一日を仕事だけではなく、食事や遊びにも十二分に使う。忙しいばっかりで、くたびれはててから遊ぶ日本人とはずいぶん違う生活観だと思った。

spain161.jpg・最後に料理について。前回のイギリス・アイルランド同様に、特にまずいと感じたものはなかった。というよりも、おいしいと思うものの方が多かった。ただ、塩気が強いこと、オリーブ・オイルがふんだんにかかっていることなどには慣れる必要があった。オリーブの塩漬けはビール(セルベッサ)をたのむと突き出しのようにしてついてくる。これが塩辛いが食べ出すと後を引く。喉が渇く。で、ミルク入れのエスプレッソ(カフェ・コン・レチェ)を飲む。これは砂糖を沢山入れた方がおいしい。スペイン料理は甘辛がはっきりしている。メインの料理にはほとんど甘みがない。その代わり、デザートと珈琲はたっぷり甘くする。
・行く前から食べたいと思っていて、食べられなかったものにイカ墨のパエジャがある。スペインではイカの他にタコも食べる。市場の魚屋さんに行くと、日本でもおなじみの魚がたくさんあって、その食材の豊富さに驚いてしまう。生で食べたい新鮮なものが多かったが、それはしないようだ。もったいないな、と思ってしまった。
・酒を出す食堂のことを「タベルナ」(Tabern)と言う。「タベルナで食べろ!」なんてダジャレて楽しんだが、スペイン語には奇妙に日本語に近いサウンドのことばがある。「カゴ」はうんこをするという意味だから、スーパーで「カゴは!」などと言ってはいけない。「カガ」は彼(女)がうんこをするで、加賀さんはきっとスペインでは笑いの対象になる。こんな話をバルセロナに住む友人から聞いた。どの街を歩いても、散歩途中に犬がしたうんこが放置されている。「「うんこ嗅ご」「嗅げ」「嗅がん」などと勝手に活用させてげらげら笑う。ぼくは英語の会話はいつまで経っても駄目だがスペイン語なら何とかなるかも、という気になった。しかし、覚えてもすぐに忘れてしまう。この記憶力の衰えがなんともうらめしい。

2006年2月19日日曜日

スペインの風景


photo34-2.jpg photo34-1.jpg マドリードからAVEに乗ると、見えるのはオリーブ畑ばかり。これが延々と続く。乾いて痩せた大地。ところが、アンダルシアに入ると椰子やオレンジ。コルドバの街中には実をつけたオレンジの木がいっぱいある。しかし、酸っぱいのか、宗教的な理由なのか誰も食べない。

photo34-3.jpg photo34-4.jpg 大理石の山、というのを初めて見た。草も生えない荒れ山だが、切り出した石はつるつるに磨かれて神殿や宮殿になってきた。麓は牧草地になっているが、よく見ると、石や岩がごろごろとしている。オリーブの木が目立たなくなると、アーモンドの木。ちょうど白い花が満開だった。

photo34-6.jpg photo34-5.jpg 白壁に赤い屋根。すべての家が同じ色。統一性が作り出す風景の美しさだ。色は違っても、ヨーロッパでは珍しくない。こういう景色を見ると、つくづく、日本の街の雑多さと比較したくなる。個人主義と集団主義、個性と協調。発想の仕方がまるで逆なのだ。

ロンダという町は断崖絶壁の上にある。ケルト人が作った町だ。何より侵略されないことを重視して、生活の面倒さは我慢した。町から崖下を見下ろすと、そんなことがよくわかる。平地にできた町には必ず城壁がある。そこを境に旧市街が作られている。ケルトやフェニキアから始まって、ローマの支配を受け、イスラムとの攻防があり、スペイン市民戦争まで、数々の戦がくり返されてきた。教会や宮殿には、そんな様々な文化の融合が見られるが、人々のなかにはまた、それぞれの民族や国に対する独自性の自覚も強い。


photo34-7.jpg photo34-8.jpg たまたま、バルセロナで泊まったホテルの前の通りで大きなデモがあった。数十万人か、あるいは百万人を超えていたかもしれない。カタルーニャの独立を求めるデモだったようだ。スペイン市民戦争から70年たっても、まだ独立の意志を強くもっている。マドリードに対するバルセロナ、ここでは、サッカーは単なるスポーツではない。

photo34-9.jpg photo34-10.jpg セビリアでフラメンコを見た。放浪の民、ロマが作りだした音楽と踊りだ。流れ着いたさきざきで、その土地の音楽になじみ、それを独自なものに発展させた。踊っていた人たちがロマかどうかはわからない。ロマの多くは観光地で、観光客にお金をせびって暮らしているという。確かに、ぼくもあちこちで何度かまとわりつかれた。 


2006年2月16日木曜日

スペイン便り・その1


spain1.jpg・休暇も残りわずかになった。いつもならこれから学部や院の入試で忙しい時期なのだが、今年はすべて免除されていて、しばらく大学に行く用事もない。で、スペインに出かけることにした。特に目的があるわけではない。美術館巡りとフラメンコ、あとは食事にワイン、正真正銘の観光旅行である。強いてあげれば、オーウェルの『カタロニア賛歌』を少しだけ辿ってみたいといったところだが、何が辿れるのか、あてがあるわけではない。
・飛行機はシベリア上空を西に飛ぶ。眼下には凍りついた大地と川、あるいは湖が延々と続く。街や道路があるのかないのか、人が住んでいる様子はわからない。東から夜が追いかけてくる。北には冬中夜の北極。すぐにも暗くなりそうなのに、いつまで経っても暮れては来ない。何とも奇妙なところにいる。そんなことを考えながら、ぼんやり窓の外を眺めていた。

spain2.jpg・最初はマドリードから。とにかく、スリ、置き引き、ひったくり、あるいは首締め強盗に気をつけろ、といったことが、ガイドブックやネットのサイトに書いてある。犯罪が多いわけではないが、日本人がよく狙われているという。だから第一日は手ぶらで、財布も持たず、現金をポケットに分散させてつっこんだ。パスポートのコピー。市内の観光も午前中は日本人ガイド付き。プラド美術館で「ゴヤの裸のマハ」を見た。写真撮影OKで先ず一枚。しかし、ソフィア美術館はカメラの持ち込みも禁止でピカソの「ゲルニカ」は眺めるだけだった。だから、その前に立って数分、目に刻むように見つめた。圧倒的な迫力。座り込んで動かない人も数人いた。

spain3.jpg・マドリッドでは地下鉄もタクシーも危ないからやめとこうと思ったのだが、預けた鞄がなくなり、もう一回空港まで行かねばならなくなって、タクシーを使った。ドライバーは若い兄ちゃんで首にかわいい刺青が入っている。必要なスペイン語会話をピック・アップしてノートを作ったが、それで調べて「レシーボ・ポル・ファボール」(領収書をください)と言う。誤魔化されないための工夫だそうだ。25ユーロ。帰りはバスと地下鉄にした。何度か乗り換えたが、言われるほどには怖くはなかった。鞄は空港にはなく、いろいろ文句を言っているうちにホテルに着いていた。「アシタ・マニアーナ」の世界に来たことを実感。そのうち来るとホテルでのんびり待っていればよかったのに、それができないせっかちさが日本人の悲しいところだ。夜はホテルの近くのレストランでタコのパエジャを食べた。おいしかったけど量が多い。

spain4.jpg・マドリードからはAVE(新幹線)でコロドバへ、そこで「メスキート」(アラブ支配時代の教会)やユダヤ人街を見て、翌日はグラナダの「アルファンブラ宮殿」、そして次の日はピカソの生まれ故郷のマラガからリゾート地のミハスへ移動して、地中海を望むマルベーニャ。夕日がジブラルタルに沈む。その先にはアフリカ大陸。♪思えば遠くに着たもんだ♪と、思わず口ずさんでしまった。
・で、次の日はケルトの作ったロンダの町を経由してセビリアまで来た。コロンブス、カルメン、セビリアの理髪師、そしてフラメンコ。セビリアに限ったことではないが、町のなかに歴史が生きている。フェニキア、ローマ、アラブ、カスティーヤ……。どの町にも旧市街を守る城壁があって、侵略と栄華と陥落の歴史がある。

2006年2月8日水曜日

ホリエモンのどこが悪いのか?

 例によって、テレビのニュースやワイドショー、あるいは週刊誌でのホリエモン・バッシングはすさまじかった。乗っ取りを仕掛けられたフジテレビはともかく、他の局はなぜ、こんなに手のひらを返したような取り上げ方をするのか。今さらながらにあきれてしまった。
事件があるたびに思うのだが、逮捕されて取り調べを受ける容疑者は、法に触れる事をした疑いがあるというのにすぎないのに、報道された時点で、悪玉のレッテルがしっかり貼りつけられる。罪があるのかないのか確定するのは、あくまで裁判の判決によってなのに、メディアはそのことに慎重でない。というよりは、率先して容疑者を血祭りに上げようとする。
容疑者の段階で犯罪者に仕立てあげて、あとで無罪という事件は過去にも沢山ある。その被害者が被った精神的、肉体的苦痛や、社会的、経済的な制裁はとても償いきれるものではないのだが、マス・メディアはその過ちをくり返して、しかも、その責任を自ら反省したことがない。
派手なパフォーマンスで名を売り、注目を集めて、それを自社の株価に反映させる。そのこと自体には何の犯罪性もない。ホリエモンはメディアの手法に乗って大儲けをしただけで、株価の暴落で大損する人が大量に出ても、それは買った人の自己責任なのである。同じことを小泉首相もやってきた。野党はどこもメディアの使い方で負けたのだから、今さら、選挙でホリエモンを担ぎ出したことを批判しても、負け犬の遠吠えにしか聞こえてこない。民主党だってホリエモンを担ぎ出そうとして断られたのだから。
「有名人は有名だから有名人なのだ」と言ったのはD.J.ブーアスティンで、彼はテレビのもつイメージを増殖させる圧倒的な力を60年代に指摘をしている。それから半世紀近く経ち、テレビにさらにネットが加わって、世はセレブ、ブランド、あるいはブームの時代なのである。「実」よりは「虚」がリアリティを持つ。魅力の核心が実体にではなくイメージにあることがいまほど顕著になった時代はない。その端的な例が小泉政権であり、ライブドアなのである。
ホリエモンが日本放送の買収に乗り出したのは、メディアの力を自分の手に握りたかったからに他ならない。その行動に痛快さを感じたのは、既得権を握りしめた人たちが慌てふためき、その古い体質が露呈したからだ。何も持たない若者がアイデアと行動力で巨大メディアを乗っ取ろうとした。それは閉塞した社会に風穴を開ける可能性を垣間見せたし、新しいテクノロジーの力を目の当たりにもさせた。ところが、その古い人たちが、今回の事件でそれ見たことかと発言し始めている。ナベツネ、フジテレビ、あるいは自民党を追われた抵抗勢力………………。
「虚」が支配する時代は危険だが、それを古き良き時代の「実」に求めてもかなわない。「虚」を前提にした上での「実」。今必要なのは、それを求めるための倫理感やルールの模索のはずだが、その「虚」を作り出す中心にあるテレビには、そんな意識がまるでない。ホリエモンの虚像を作り上げ、ライブドアを巨大な資産を有する会社に急成長させたのは、何よりテレビだったはずである。火をつけた本人なのに、手に負えなくなると消防士に早変わりして火消しのポーズをとる。メディアはまさに「マッチ・ポンプ」で、ホリエモンを追いかけてする言動には、無責任といよりは犯罪者といってもいいレッテルを貼りつけたくなってしまう。これは、ライブドアにかけられている容疑よりもずっと重いものだと思う。

ホリエモン報道が落ち着いたと思ったら、今度は「東横イン」の社長が晒し者にされている。儲け主義のひどいホテルだと思うが、ホテルに対する行政指導にも疑問を感じている。なぜすべてのホテルが一律に身障者のための施設や部屋を用意しなければならないのだろうか。個々のホテルが独自に特徴を出して、それを目玉にすればいいじゃないかと思う。お年寄りや身障者が安心して止まれるホテルは、それを第一に考えれば、ビジネスとしても大きな可能性があるはずで、それをお上が義務で押しつけるものではないだろう。ところが、そんな発想は皆無で、ころころ変わる社長の態度をおもしろおかしく映し出して、ひどいホテルだと言って非難するばかりだ。しばらくすれば話題にもしなくなるだろう。すべての局がすべての事件について同じ調子だから、もう本当にうんざりしてしまう。テレビが何かを煽りはじめたら、それとは反対の姿勢をとって考えてみる。ぼくには、ずいぶん前から、そんな習慣が身についてしまっているようだ。