1998年1月25日日曜日

世間体とゴミ



  •  京都西山奥
       京都の洛西ニュー・タウンから西山に登る細い道がある。花の寺や善峰寺など観光名所もあるが、亀岡や高槻につながる知る人ぞ知るといった山道である。市内が一望できる絶好のスポットもあって、ぼくもバイクや車で時折出かけるが、季節ごとに趣のある景色を見せてくれるお気に入りのルートである。しかし、その道をちょうど登り切ったあたりの平らな土地に、ものすごいゴミの山ができている。2カ所に別れて車が10台ほど、そのほか簡易の公衆トイレ、風呂、それにモーターボートまであった。実際こんな光景は、ちょっと山の中をドライブしたら、すぐに見かけるものである。
       井上忠司の『世間体の構造』(NHK出版)には村と村の境目にゴミの山ができる習慣が古くからあって、それが顔見知りの他人の目を気にする日本人独特の風習であることが書かれている。環境問題に自覚的になって、ゴミの選別にやかましい自治体が増えているが、「世間とは顔見知りだけの狭い世界なり」といった日本人の感覚は、まだまだ健在である。それは例えば、道路のグリーンベルトに散乱する空き缶などをみてもわかる。さすがに町中でのタバコの吸いがらのポイ捨ては減ったが、人の目が及ばないところ、自分が匿名のままでいられるところでは、ついつい昔の癖が出てしまうようだ。


  • 1998年1月19日月曜日

    『ザ・ファン』(1996) 監督:トニー・スコット、主演:ロバート・デ・ニーロ 、ピーター・エイブラハムズ(原作)早川書房

  • 最近はすっかり、映画をテレビ、それも衛星放送で見る習慣がついてしまった。だから新しい映画は、大体1年遅れで見ることになる。ビデオをレンタルする気にもならないのは不精の極みのような気もする。が、それでも不都合はないのだから、便利になったことを感謝すべきだろう。映画レビューが時期はずれになるのはちょっと気がかりだが、別に最新の映画情報のつもりではないから、さして問題だとも思わない。
  • とは言え『ザ・ファン』はずっと気になっていた。テーマである「ファン」に関心があったからだ。で、原作はちょっと前に読んだ。原作と映画の違いはよく議論されるところだが、デ・ニーロを想像しながら読んだせいか、映画を見てほとんど違和感を感じることはなかった。ただ、舞台がシカゴからサンフランシスコに変わり、チームが「ホワイト・ソックス」から「ジャイアンツ」に変わっただけのことである。原作でも、自分勝手の「ファン」の恐ろしさは感じられた。しかし、映画でのデ・ニーロの演技は、それ以上だった。彼は時に演技が過剰になりすぎて、食傷気味になる(最近では『フランケンシュタイン』)が、今回は彼以外にはできない役のように感じられた。
  • 他球団から超高額の年俸でスラッガーがひいきチームにやってきた。しかもその選手は地元の出身である。主人公のギルは今年こそ、おもしろい試合が見られると期待する。彼は妻とも離婚して、息子ともめったに会うことができない。ナイフの会社のセールスをやっているが、成績が悪く、父が創業者であるにもかかわらず、解雇寸前のところにいる。で、目下の関心は野球だけ。ところが、その期待したレイバーンは極度の不振。つけるべき背番号11をチーム・メートのプリモがゆずらない。原因はそこにあるのかもしれない。しかもそのプリモは絶好調。ギルは背番号の交渉に自分が一役買おうと考える。
  • ギルはプリモを殺し、レイバーンの調子は戻る。ギルはレイバーンに感謝してもらいたいと思う。しかし、レイバーンはファンなんて勝手なヤツはクソくらえだという。ギルは許せないと思う。そしてレイバーンの息子を誘拐。映画としてはぞっとするほどおもしろかった。けれども、ファンのイメージがこんなふうにして強調されるのは危ないな、とも思った。
  • ファンについては、社会学でも、最近よく研究されるようになった。学生の関心も高くて、例えばぼくのゼミでは去年、バレーボールの追っかけ、ロックのグルーピーをテーマに論文を書いた学生がいたし、今年は宝塚ファンをテーマにした論文があった。あるいは小説やマンガや映画とその作者をテーマにする場合も多い。そのすべてに共通しているのは、自分自身がファンだという自覚である。好きな対象、自分自身がそうであるファンについて考えるから、当然批判めいたことが書かれないという不満はあるが、何かのファンになること、ファンであることの積極的な意味を力説するという点ではどれも説得力があった。
  • ファンについての社会学的研究も、かつてのような病理現象的な扱いから、ごく普通の人にとってのアイデンティティ形成の一要素、というものに変わってきている。例えば、有名なのはマドンナとそのファンがもつ「ウォナビー」(私もなりたい)という意識だろう。これは、もちろん、自分もスターになりたいといったものではない。むしろマドンナのように男に従うことなく積極的にいきる女になりたいという意識である。
  • ファンとはけっして、スターを盲目的に愛し、同一化し、あげくは自分とスターとの違いを見失なってしまうといった存在ばかりではない。自分が自分である、あるいは自分らしい自分を捜す。そのために誰かのファンになる。そんな傾向の方が、現実的には圧倒的に多数派を占めているはずである。『ザ・ファン』は「ストーカー」といった話題とともに、そんな現実を不必要に歪ませる結果をもたらしかねない。この映画に夢中になりながら、一方では、そんなこわさも感じてしまった。
  • 1998年1月12日月曜日

    "The Bridge School Concerts"

     

  • 「ブリッジ・スクール」はサンフランシスコのヒルズボローにある、ことばやからだに重度の障害を持つ子どもたちのための学校だ。そしてこの学校を支援するために1986年から毎年一回、秋にコンサートが開かれている。主催者はペギー・ヤングでコンサートは毎回、ニール・ヤングが中心になっておこなわれている。そのマウンテン・ビュー「アライン・アンフィシアター」におけるコンサートも去年で12回目を数えた。
  • "The Bridge School Concerts"には、86年から96年までに登場したミュージシャンの歌や演奏が集められている。例えば、トム・ペティ(86)、トレイシー・チャップマン(88)、エルビス・コステロ(90)、ボニー・レイト(93)、サイモン&ガーファンクル(93)、プリテンダーズ(95)、ベック(95)、デビッド・ボーイ(96)、パティ・スミス(96)、パール・ジャム(96)。ちなみに、97年のコンサートは「ブリッジ・スクール」のホームページでは10月18、19日におこなわれていて、出演者はニール・ヤングのほかにアラニス・モリセット、スマッシング・パンプキンズ、ルー・リード、メタリカ他となっている。また『ニール・ヤング全記録』(音楽の友社)によると、スプリングスティーンもディランも参加したことがあるようだ。
  • 「ブリッジ・スクール」は重度の障害を持つ子供たちのために積極的に新しい道具や技術を取り入れて、彼や彼女たちの自己表現やコミュニケーションが可能になるような教育をしている。そのホームページには、具体的な日常生活のプログラムや、子どもたちの作品などが紹介されている。このコンサートは、そのような教育を運営するために重要な資金源になっているのである。
  • 慈善活動というと、何か抵抗感をもつのが日本人の共通感覚かもしれない。しかし、アメリカ人のこの種の活動に対する意識はきわめて積極的で、しかも大げさではない。ロック・ミュージシャンによる支援活動は、たとえば70年代の「バングラデシュ救援コンサート」から一つの大きな流れになったと言えるだろう。そして84年の「USA for Africa」はテレビによって世界中が一日中つながる巨大なイベントになった。それはロックが市民権を得るためには確かに有効な活動になった。あるいは、巨額な支援金を集めるためにはロックのスーパー・スターの力が不可欠であることも証明された。けれどもそれはまた同時に、一つの売名行為になったり、政治や社会的な立場の違いや対立をうやむやにしたりもした。最近では交通事故で死んだダイアナとエルトン・ジョン、そしてダイアナ基金との関係などがある。
  • ぼくは必ずしも、ロック・ミュージシャンのおこなう支援コンサートに賛成するつもりはない。しかし、"The Bridge School Concerts"などを聞き、「ブリッジスクール」のホームページなどを見ると、それがずいぶん地道な活動として定着していることをあらためて教えられる。と同時に、この種の活動が日本ではまったく不毛であることを考えさせられてしまう。例外的にがんばっているのはただ一人、泉谷しげるだけだろう。
  • 現実から距離を置くことを作品のモチーフにしていた村上春樹が、最近は「デタッチメント」ではなく「コミットメント」が大事だと言い出している。それはやっぱり彼にとっても、何年かのアメリカ生活で得た実感のようである。で、地下鉄サリン事件への関心というわけだ。それを批判するつもりはないが、関わる価値のある対象は、もっと身近な現実の中にいくらでも存在していて、実はそのことの方が大事で、なおかつ難しいはずなのである。とは言え、きっかけを作るのにそれなりの理由を探してばかりだったり、抵抗を取り払うことに手間どったりしているぼくには、「日本人」などと一般化して他人を批判する資格など、どこにもないのだが..............。
  • 1998年1月5日月曜日

    鶴見俊輔『期待と回想』上下(晶文社)

     

    kitai1.jpeg・鶴見俊輔は17歳でハーバード大学に入学し、20歳で卒業している。太平洋戦争が始まって投獄され、日本に強制送還されたから、実質的には2年半、その間に、ウィリアム・ジェームズやパース、G.H.ミード、そしてJ.デューイを読み込んでいる。シンガポールでの戦争経験の後、27歳で京大の助教授になった。プラグマティズム、転向研究、そしてさまざまな大衆文化論、そして『思想の科学』の編集とベ平連。
    ・ぼくにとってはもう30年ほど、とにかく、すごい人、偉い人、それに何より信頼できる人としてありつづけてきた。そんな鶴見さんが、インタビューを受ける形で、自伝的な本を出した。この本は改めて、彼の思考のスタイルとその発想の原点を垣間みさせてくれる。
    kitai2.jpeg・彼の父は鶴見祐輔、母方の祖父は後藤新平。その「日本の上位1%」の家系の中で育ったという生い立ちが彼の発想の原点にはある。もちろん、その後ろめたさを自覚するのはある程度成長してからだが、しつけの厳しい母親との関係が彼の性格や思考に与えた影響は恐ろしく大きかったようだ。「何でもかんでも叱ったね。わたしの存在自体が気にくわない。しかもそれは過剰な愛のためなんだ。」
     そんな、行き場のない気持ちの向けどころはフィクションの世界だった。彼は3、4歳の頃から本を読み始めるが、その大半はエロ本だと言う。「和田邦坊の『女可愛や』や宮尾しげをの『軽飛軽助』は女を裸にするところがあって、『いやあ、いいなあ』と感激したのを覚えていますよ。」
    ・飛び抜けた秀才がなぜ漫才やマンガにあれほど肩入れをするんだろう。ぼくは正直言って今一つしっくりしない疑問のようなものを持ち続けてきた。実際大衆文化の研究家には、自分の本当の趣味はもっと高尚なものに向けられているといった人たちが少なくない。けれども、この本を読んでいるうちに、そんな疑問がすっきり解消したような気分になった。彼にとってマンガや大衆文学は、何より自分が自分でいられる場をかろうじて提供してくれるものとしてあったのである。
    ・権威や権力、原理原則、体系だった思想、純粋で高級な文化。鶴見俊輔にはこのようなものに危うさ、胡散臭さを感じとる姿勢が貫かれている。彼はそのようなものの対極にあって希望の託せる存在として大衆やその文化に期待する。「無関心に依拠して戦う。それがわたしの望みなんですね。『がきデカ』に期待する、というのはそういう意味なんですよ。」
    ・もちろん彼は、自分が大衆そのものだなどと思っているわけではない。「私のポジションは、サンチョ・パンサに憧れるドン・キホーテだったと思う。ドン・キホーテそのものでもない。またサンチョ・パンサそのものでもない。ドン・キホーテから学ぶサンチョ・パンサでもないんだ。」
    ・鶴見は吉本隆明とは違って知識人と大衆とをまったく異なる存在としてはとらえない。「私は連続体として考える。そういうふうに切れないというのが私の考えです。知識人は大衆と相互乗り入れをしている。」ぼくは鶴見俊輔を、そのことを身をもって感じとり、一つの思想に仕立て上げた人だと思うが、この本は、そのことをつくづくと実感させてくれるような気がした。