2011年10月31日月曜日

最近買ったCD

Tom Waits "Bad As Me"
Neil Young "A Treasure"
Ry Cooder "Pull Up Some Dust and Sit Down"
Patti Smith "Outside Society"
Gustavo Santaolalla "21 Grams" "Brokeback Mountain""The Motorcycle Diaries"

・最近買ったCDはあまりないのではと思っていたが、トム・ウェイツの新しいアルバムを買ったのを機会にiTunesを調べてみたら、意外に何枚も並んでいた。車に乗っているときにはiPodをつけているから、買ったままで聴いていないというわけではないのだが、CDを聴くことがなくなったから、一枚のアルバムについての印象がすごく薄くなった。

tom1.jpg・トム・ウェイツの"Bad As Me"はハードカバーの冊子で、各曲の歌詞が見開き2ページごとに書かれ、写真が載ったものだ。簡易のアルバムもあるが、興味があったから買ってみた。ボーナストラックが一枚余計について、3曲がおさめられている。iTunesで好きな音楽だけダウンロードといった時代だからこそなのだろうか。歌詞を見ながら歌を聴く。歌詞はパソコンではなくタイプライターで打たれたものだ。


仕事を見つけろ 金を貯めろ ジェーンに聞いてみな
雨の日には傘の値段があがるってことは誰もが知っているから
で、どんなニュースもひどいもんだ "Talking at the sametme"

young10.jpg ・ニール・ヤングは次から次へとアルバムを出している。しかし買ったのは久しぶりだ。"A Treasure"は昔のライブ録音で、Tシャツつきのものもあるようだが、こちらは一番安い輸入版にした。反戦歌ばかりのアルバムを出したかと思うと、妙に商売っ気を感じさせたりと、最近はあまり手を出す気がしなかったが、評判がいいので買うことにした。80年代のもので知らない曲が多い。なかなかいいが、題名の「お宝」といえるほどの価値があるとは思えない。

ry7.jpg ・精力的にアルバムを出すと言えばライ・クーダーも一緒だ。しかし、彼が出すアルバムはどれもテーマがはっきりしていて、しかも相互に繋がりや一貫性がある。アメリカの音楽のルーツを訪ね、発掘する作業には、必ずマイノリティの視点が強くある。最初は彼のギターに惚れてファンになったのだが、最近のアルバムで発表される歌は、どれも歌詞がいい。"Pull Up Some Dust and Sit Down"に出てくるのはいじめられる移民、貧富の差の拡大、中東での終わりなき戦い、そして銀行ばかりを救済する政府に対する怒りや辛辣な怒りだが、どれもストーリーとして語られるから、訴えがシーンとして浮かびあがってくる。


かわいい子どもが徴兵されたと言った
列車が次の朝やってきて
俺は立ってバイバイと言うほかなかった "Baby join the army"

patti5.jpg ・パティ・スミスのアルバム"Outside Society"はソウルの町で見かけた。てっきり新曲ばかりと思ったのだが、シングル盤で出たヒット曲を集めたベスト盤だった。全曲リマスターだということだが、すでに持っているものとの微妙な違いに耳を傾ける趣味はないから、あまり聴いていない。ただ、すべての曲について、パティ自身がコメントをつけていて、それはそれでおもしろい。そう言えば、ここで紹介するほとんどアルバムはLPレコードでも売り出されている。デジタル化で形のあるものが不要になる時代に異を唱える人が増えているということなのだろうか。

21g..jpg ・グスタヴォ・サンタオラーラの"21 Grams"は映画のサントラ盤である。21グラムは心臓の重さで、心臓移植を巡る人間模様がテーマの映画だが、僕は画面を見ずに音だけ聴いていたから、かえって音楽が気になり、気に入って買ってしまった。サンタオーラが誰なのかもわからなかったのだが、彼はアカデミー賞を取った"Brokeback Mountain"の音楽も担当している。1951年生まれのアルゼンチン人で、チャランゴの名手だと言われている。チェ・ゲバラの南米旅行記を映画化した"The Motorcycle Diaries"のなかに、「ウスアイアからラ・キアカへ」という題名のチャランゴのソロ演奏曲がある。気に入ってYouTubeで検索すると、彼のライブ演奏を聴くことができた。もちろん、映画のシーンをかぶせたビデオもある。知らない人がまだまだいる。改めてそう思った。

2011年10月24日月曜日

放射能と食べ物

・食料などの買い物は毎週一回、行きつけのスーパーと地元の野菜を売る店に出かけている。食べ物については我が家(主にパートナー)は自覚的で、ずいぶん前から、生産地や成分表等を確かめて買うことをやってきた。野菜は地産地消が一番だし、季節外れのものはなるべく買わない。こんな原則だから、海外で生産された野菜や果物は滅多に買うことはないし、温室育ちの季節外れの野菜もあまり食べなかった。幸い、山梨県にはおいしい米や牛乳、そして卵などが何種類もある。山国だが、隣の静岡県からは魚も来る。だからスーパーに並んでいる品物のなかから、なるべく地元や周辺のものを選ぶことはそれほど難しいことではなかった。

・とは言え、すべてを地産地消でというわけにはいかないから、生鮮食料品にしても、穀物にしても、全国各地のものを買って食べることはやってきた。大手メーカーのものであっても必ず成分表には目を通して、添加物の少ないもの、原料が国内産であるものを選んだりもしてきた。だから、買い物にはいつでもかなりの時間がかかった。時においしそうなものならそんなこと気にせずに買おうという僕と、添加物が気になるからダメというパートナーとの間で口論になることもあったが、大筋では大体の基準ができていた。

・そんな日常のルーティン(おきまり)が原発事故以降混乱するようになった。放射能はほうれん草等の葉物とキノコ類に吸収されやすい。海産物では海苔や海草類、貝、そして小魚類が危ない。そんなニュースが次々出て、新茶の時期には神奈川、そして静岡からも検出された。当然、福島県はもちろん、栃木や群馬、茨城、そして千葉で生産される農産物や太平洋岸でとれる海産物が買い控えされるようになった。政府はそれを風評被害として安全性をくり返したが、放射能の検出作業は万全と言うにはほど遠い状況だし、安全基準を引き上げたり戻したりと場当たり的だから、実際のところ信用できないというのが大方の人の感覚だろう。

・放射能の被害は内部被爆が深刻で、その多くは食べ物や飲み物から吸収される。ただし、気をつけなければならない程度は年齢に反比例して、幼い子どもや妊娠中の女性に対する影響が強いという。50歳を過ぎたらそれほど怖がる必要はないと言われているから、60を過ぎた僕は、あまり気にする必要はないのかもしれない。と言うより、福島を中心にした農業や漁業を衰退させないために、60歳を過ぎた人は積極的に、その地のものを食べる義務があると言う人もいる。京大の小出裕章さんだ。確かにそうかもしれないと思う。

・食物に含まれている放射能をきちんとはかって、個々の品物に18禁とか30禁、そして50禁、60禁と細かく表示をする。それができるだけ危険を少なくして、福島周辺の農業や漁業をダメにしないようする唯一のやり方だとすれば、そのことは、政府が大原則として政策にして、国民に理解されるよう説明をする必要がある。そこには当然、原発政策や、東電の扱いについて、国民の立場に立った政策が伴わなければならない。

・ところが、野田首相の政策が目指しているのは、原発の再稼働と東電の生き残りで、この点については自民党も変わらない。除染をして避難地域に住民が戻れるようにするといった実現できそうもない話をする一方で、食べ物については、ご都合主義の基準値を設定して、安全であるかのように思わせて消費させてしまおうとしている。安全ですと言っておいて、5年、10年経って被害が現実化したときには、やっぱり「想定外でした」などと言うつもりなのだろう。

・東京のスーパーで買い物をすると、野菜はやっぱり、福島や関東一円を産地にしたものが多い。たぶん安全だろうと思っているのかもしれないが、不安に感じながら、仕方なく買って食べている人も多いのだと思う。そこに感じる空気は、はっきりさせずに曖昧にして、その曖昧さに異議を唱えることをしない風潮だ。放射能は目に見えないし、その被害もはっきりとしているわけではない。だからこそ、はっきりした方針と基準を出して、国民を納得させて信頼関係を築く必要があるのに、政府の姿勢はずっと、ないふりをするか曖昧にお茶を濁すばかりである。

2011年10月17日月曜日

福島についての2冊の本

 

福島についての2冊の本

開沼博『「福島」論』(青土社)
佐藤栄佐久『福島原発の真実』 (平凡社新書)

・僕にとって福島は、縁のある土地だった。義母のいるいわき市には毎年のように夏休みに出かけたし、子どもと一緒に海水浴をしたり、ハイキングをした。その義母が亡くなって今年で七回忌になる。ほかに知りあいはいないので縁遠くなっていたが、大地震が原因の原発事故が起きた。だから、津波の被害はもちろん、放射能の汚染が引き起こした問題には、人ごとではない気がして、ずっと関心を持ちつづけている。

fukusima1.jpg・僕がよく訪れていた頃の福島県知事は佐藤栄佐久で、1988年から知事を務めて2006年に収賄容疑で逮捕されて辞職している。僕は誰が知事なのかも関心がなかったのだが、原発事故の後に、彼がトラブルを隠す東電を批判して、プルサーマル計画にずっと反対してきたことを知った。収賄容疑は二審でも有罪の判決が出たが、一体何が罪なのかわからない内容で、原発政策を勧める上で邪魔な知事を辞めさせるための策略だったことは明白のようだ。その点を含め、『福島原発の真実』 には、知事就任以来、原発に対してとってきた方針と政府や東電とのやりとりが詳細に語られている。

・佐藤知事は自民党の参議院議員からの転職で、最初は中央とのパイプを持った知事として仕事をした。原発についても、福島の経済を活性化させるために必要なものという姿勢をとってきた。それを反転させたのは2000年のことだ。それ以後知事は福島県のことだけではなく、原発をかかえる他県の知事をリードして、その危険性を訴え、トラブル隠しをする電力会社を批判し続けてきた。

fukusima2.jpg・福島県に原発ができたのには、ここがかつて常磐炭鉱という石炭の生産地をかかえていて、閉山後の経済の落ち込みからの脱却を願っていたことがある。あるいは、福島県には多くの水力発電所があるが、それらは20世紀の初頭から、主に東京への電力供給のために作られてきたこともある。そして、事故を起こした福島原発の地は、終戦直後に堤康次郎が広大な土地の払い下げを受けて塩田事業をした跡地に作られたものである。

・開沼博の『「フクシマ」論』は現役の大学院生が修士論文として書いたものである。そのメインテーマは副題にある「原子力村はなぜ生まれたのか」で、大地震と原発事故が起こる直前に書き上げられている。まるで事故の予言書であるかのようにして一時期話題になったが、内容はあくまで「原子力村」にある。それは一般的には政治家、官僚、電力会社、原発関連企業、マスメディア、そして大学研究者たちによって構成された閉じた組織のことを指すことばだが、この本ではむしろ、現実に原発のある地で暮らす人びとと県や市や町、そして村の政治家や役人、そして建設や土木工事などの地元企業が住人となる「村」に焦点が当てられている。

 

・中央にあって「世界有数の原子力技術の確立」を望み、その卓越性を誇示し、安全神話を作りあげてきた「ムラ」と、経済成長から取り残され、過疎化する地域の維持や発展のために原発の設置を容認した「ムラ」は、共に原子力に大きな「夢を見ていた」ことでは共通している。そして両者が抱いた「どちらの夢も幻想であったことが、時間の経過とともにますます明らかになってきた」。にもかかわらず、どちらも、その夢を捨てることができなかった。


・それは、一方では、地方の「反中央」であるゆえの自発的な服従の形成のなかから、他方では、貧しいムラの「都会」への欲望のなかから可能になった。その生産により、原子力ムラはaddictionalな自己の再生産をはじめることになった。そして、ちょうど同じ時期に、中央の原子力に関わる各アクターも閉鎖性・硬直性をもった<原子力ムラ>と呼べる集団を確立する。結果としてこの二つの原子力ムラが、原子力推進に抵抗する勢力もうまくからめとる形で、現在の「原子力推進体制」を確立する共鳴をはじめたのだった。(p.298)

・鋭い指摘だと思う。しかし、一見新しいもの、先端的なことに関わることが、前近代的なムラ組織によって支えられるという構造は、たとえば新聞とテレビが一体となった電波村にもあてはまるし、企業や学校、そして地域といったさまざまな集団の中にも容易に見ることができる、きわめて日本的な特徴である。ここまで危険性が露呈された原発をストップさせることがなぜできないのか、という当たり前の疑問に対する答えは、たぶん「ムラ」のなかにある。このような仕組みをあらためるのは、放射能に汚染された土地を除染するのと同じぐらい難しいことなのかもしれないと思う。
 

2011年10月10日月曜日

マックとの出会い

 

・アップル創業者のスティーブ・ジョブズが死んだ。iMac、iPod、iPhone、そしてiPadと立て続けに大ヒット作を出して、まさに絶頂期でのおさらばだ。新商品はほぼ出尽くした感があるから、アップルはこれから厳しい時代を迎えることになるのでは、と思う。そのことは、ジョブズが元気でいたとしても変わらないことかもしれない。

・ぼくはアップルの製品をiPhone以外すべて持っている。iPadはテレビを見る気をなくしたほどにおもしろいし、iPodは車の運転に欠かせない。そしてもちろん、マッキントッシュは仕事の必需品で、家と研究室に一台ずつと、持ち運び用に一台使っている。講義も2年前からKeynoteでやるようになった。

macse30.jpg・あらためて、今まで何台買ったか思い出してみたがよくわからない。おそらく10台は越えているだろうと思う。最初の一台はマッキントッシュSE30で、購入したのは1989年だった。まだ日本では販売されていなくて、大阪の日本橋にあるマッキントッシュを並行輸入する店で手に入れた。本体だけで90万円もして、その他に日本語のフォント、EGワードやページメーカーといったソフト、それにスキャナーとプリンターを合わせると150万円近くの出費になった。新車を買うのと同じほどのお金を投じて、一体何をやろうとするのか。そう思われても仕方のない投資だったが、その後の僕の時間の過ごし方は一変した。

・文章を書くのではなくワープロでタイプしはじめたのはその4,5年前からで、日本ではパソコンよりはワープロ専用機が家電メーカーからそれぞれ販売されていた。手書きからタイプ入力への変化は文章を書く際にはもちろん、読書ノートをつけることや、それをカードで整理することなど、さまざまに渡っていて、知的作業の一大変革がやってきたことを実感させたが、AppleのMacintoshについて書かれた記事を読んだときには、その製品以上に、それが生まれる歴史に驚かされた。

・スティーブ・ジョブズは社名のアップルをビートルズにちなんでつけている。パソコンを誕生させたアメリカのコンピュータ文化は、対抗文化が沈静化した後にサンフランシスコの郊外で生まれている。国や大企業が独占する大型コンピュータに対抗して、個人が自由な表現活動や情報のやりとりに使う道具を作る。パーソナルなコンピュータとは、まさにそんな意味でつけられた名前だった。

・現在のパソコンの原型となったのは1977年に登場したApple IIである。しかし、その後のコンピュータ社会の発展をリードしたのは、1981年にIBMが出し、マイクロソフトのMS-DOSをOSにしたPCだった。Apple社が1984年に発売したマッキントッシュには、オフィスワークの道具として位置づけられたPCを批判した60年代の対抗文化の気風が取りこまれた。僕が魅了されたのは何よりそこにあったが、その魅力はまた、パソコンとしては多くても一割程度のシェアしか持てない限界にもなった。

・スティーブ・ジョブズはマッキントッシュが発売された翌年にApple社をやめている。Apple社としての独自性を維持することとIBMPCに対抗する機能を備えること。マッキントッシュには、そんな二面性が課せられたが、ワープロと表計算が使えれば十分という風潮に風穴を開けたのは、ジョブズがApple社に復帰した後に発売したiMac(1988)だった。ジョブズは続けて、iPod、iPhoneと大ヒット作を連発したが、それを可能にしたのは、1995年から本格化したインターネットの急速な発展と映像や音のデジタル化が、多くの人に表現や通信の手段としての道具に関心を向けさせたことにある。

・そんな意味で、ジョブズが実現させた世界は、60年代の対抗文化の日常化だったと言えなくもない。しかしそれはまた、モノについても時間についても新たな浪費を生みだし、それに囚われてしまう生活の現実化でもある。マッキントッシュと出会って、できることがたくさん生まれた。しかし反面で、何もしないで過ごすことに充実感を持たせることがきわめて難しくなったことも間違いない。もうこれ以上の道具は必要ないという気になっているから、僕にはジョブズの死を惜しむ気持ちは起こらない。

2011年10月3日月曜日

愛車に感謝、そして別れ

 

forest95-1.jpg


forest95-2.jpg・12年間乗ってきたレガシー・ランカスターが27万キロを超えた。この間、ほぼ無事故で違反も少々、免許を取って40年を過ぎて、はじめてゴールドにもなった。元気に走ってくれていて、まだまだ大丈夫と思うが、ここ数年は点検のたびにいろいろ部品を交換して、かなりの費用がかかるようになっていた。で、一大決心をして、乗り換えることにした。長いつきあいで、僕にとっては人格をもっているかのように感じることもあるのだが、いつ壊れてもおかしくない距離になってからは、信頼と同時に不安感ももってきた。

・この車については、これまでも何度か話題にしてきた。20万キロを超えたときに書いた「20万キロ越えに感謝」には、東北に3度でかけ、佐渡島にも行ったことが記されている。そう言えば、大震災の時に思い出したのは、津波に襲われた三陸のリアス式海岸の道が上り下りが連続する曲がりくねった道だったことだった。あるいは下北半島の恐山に行く途中に見かけた原発や六ヶ所村、そして立ち並ぶ風車の景色も頭をよぎった。義母が住んでいた福島県のいわきにも何度も行ったし、義兄が別荘を持っている磐梯山や那須にも頻繁に出かけた。

・富士山周辺の地域の自動車ナンバーが「富士山」になったのは、車がちょうど20万キロを超えた直後だった。まだしばらく乗り続けようと決めた時で、新しいナンバーに興味があったから、陸運局に出かけたが、この時のことも「富士山ナンバーに変えた」に書いた。この後、他府県に出かけた際に「こんなナンバーあるんですか?」と聞かれたことが何度もあった。中には「いいな」とか「かっこいい」と言った人もいて、何となく鼻が高い気になったこともあった。

forest95-3.jpg・ランカスターは車高が高いから未舗装の山道でも平気で走ってくれる。だから、富士山周辺の林道をずいぶん走ったし、富士山の道も行けなくなるところまで何本も登って見た。たくさんの荷物が積めるから、数日間の旅行やキャンプにも出かけたし、パートナーが京都で開く個展にも、作品を一杯乗せてお供した。あるいは、ストーブに使うために見つけた伐採した木を運ぶのにも大きな力を発揮してくれた。そして何より、冬の雪道や凍結路を安心して走るのにはタイヤ以上に4駆やABSが役立つことを実感させてくれた。

・もちろん、はじめからこんなに長いこと乗り続けるつもりでいたわけではなかった。特にガソリンが値上がりしはじめた頃からハイブリッドに乗り換えることも考えたが、スバルがヨーロッパでディーゼルを販売したニュースを聞いてからは、それが日本で発売されるまではがんばってもらおうと思ってきた。しかし、発売時期は当初2010年と言っていたのに次々延期されて、現在では一体いつになるのか、そもそも日本で発売する予定があるのかどうかさえわからない状況になってきた。

・レガシーはランカスターの後継車は「アウトバック」という名に変わっている。車のデザインも現行モデルは大きく変わってしまった。そして僕は現在売られている車が好きではない。ずっと乗り続けてきた理由は何よりそこにあるのだが、元気に走っているとは言え、いつ故障してもおかしくない状態になっている。で、ずいぶん前から中古車のチェックもして、旧モデルで色も同じ車を探してきた。自分で見に出かけられるところは東京と山梨に限られるから、なかなか気に入ったものがなかったのだが、ちょっと前にいいのを見つけて、買うことにした。色も同じでデザインも似ているから、乗り換えたことに気づく人は少ないかもしれない。

・だから12年乗ってきた愛車とはあと半月でお別れで、乗るたびに「ご苦労さんでした」とつぶやいている。廃車にしてもスクラップではなく、オークションにかけて、外国に輸出される可能性が高いようだ。ロシアかインドか、あるいはアフリカでまだまだ走り続けることになるのかもしれない。そう思うと、かわいそうな気もするし、車冥利に尽きる幸せな奴だとも言いたくもなる。