1997年12月31日水曜日

目次 1997年

12月

30日:目次

25日:山崎

8日:テレビ批評はいかにしたら可能か?

2日:やっと見つけた!!

11月

24日:Patti Smith "peace and noise"

17日: 中野不二男『メモの技術 パソコンで知的生産』(新潮選書)

11日:永沢光雄『風俗の人たち』筑摩書房,『AV女優』ビレッジセンター

11日:京都の秋

10日:ホームページ公開1年

3日:B.バーグマン、R.ホーン『実験的ポップミュージックの軌跡』勁草書房

10月

26日:A.リード『大航海時代の東南アジアI』

20日:『デッド・マン・ウォーキング』

12日:"Kerouac kicks joy darkness"

1日:ジョン・フィスク『テレビジョン・カルチャー』(梓出版社)

9月

15日:『NIXON』オリヴァー・ストーン(監) アンソニー・ホプキンス(主)

8日:Brian Eno "The Drop"

3日:高校野球について

8月

26日:ぼくの夏休み 白川郷、五箇山

17日:ミッシェル・シオン『映画にとって音とは何か』(勁草書房)

5日:The Wall Flowers "Bringing Down The Horse"

3日:トレイン・スポッティング』

7月

22日:富田・岡田・高広他『ポケベル・ケータイ主義!!』(ジャスト・システム)

15日:大学生とメール

8日:Neil Young "Broken Arrow""Dead Man"

5日:リービング・ラスベガス』マイク・フィッギス(監)ニコラス・ケイジ(主)

1日:ガンバレ野茂!!

6月

23日:『ブルー・イン・ザ・フェイス』 ポール・オースター、ウェイン・ウォン

16日: 津野海太郎『本はどのように消えてゆくのか』(晶文社),中西秀彦『印刷はどこへ行くのか』(晶文社)

10日:学生の論文が読みたい!!

7日:『恋人までの距離』Before Sunrise、『Picture Bride』

5月

31日:Van Morrison "The Healing Game"

27日: ジョゼフ・ランザ『エレベーター・ミュージック』(白水社)

25日:「矢谷さんと中嶋さん」

20日:『デカローグ1-10』クシシュトフ・キェシロフスキ

7日:連休中に見た映画

4月

30日:Tom Waits "Big Time""Bone Machine""Nighthawks at the Dinner"

25日:村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(岩波書店)『アンダーグラウンド』(講談社)

3月

30日:Bruce Springsteen "the ghost of tom joad",U2 "Pop"

30日:「容さんを偲ぶ会」(東京吉祥寺クークーにて)

15日:『ファイル・アンダーポピュラー』クリス・トラー(水声社)ほか

10日:Beck "One Foot in the Grave",The Smashing Pumpkins "Mellon Collie and the Infinite Sadness"

10日:ミネソタから舞い込んだメール

8日:容さんが死んだ

4日:知人の病気

1日:『女優ミア・ファロー スキャンダラス・ライフ』

2月

26日:Marianne Faithfull(バナナ・ホール、97/2/25)

25日:加藤典洋『言語表現法講義』(岩波書店)

20日:Bob Dylan(大阪フェスティバル・ホール、97/2/17)

日:

1月

31日:室謙二『インターネット生活術』(晶文社)クリフォード・ストール『インターネットはからっぽの洞窟』(草思社)

15日:Patti Smith(大阪厚生年金ホール、97/1/14)

1997年12月25日木曜日

山崎

 

  •  大山崎山荘美術館とその周辺
       大山崎は京都と大阪の境目にあります。淀川をはさんで東に男山(石清水八幡宮)、西に天王山。その狭い空間を東海道線、新幹線、阪急電車、京阪電車、名神高速道路、国道171号線などが通り抜けます。交通の要所で、有名な天下分け目の決戦があったところでもあります。最近ではサントリーのCMで「山崎の里」として知られているかもしれません。何もなかったところですが、数年前に「大山崎山荘」(アサヒビール所有)が美術館として公開されはじめました。ふだんは静かなところですが、休日は人びとでにぎわうようになりました。
       館内には、陶器(河井寛次郎、濱田庄司、バーナード・リーチ、ルーシー・リー)、絵画(モネ)、そのほか彫刻などが展示されています。ぼくはここのベランダで珈琲を飲むのを楽しみに、ときどき出かけます。この日は町民には無料で入館できる日でした。なお隣には快楽の神様「聖天さん」があって、おもしろい幟がはためいていました。


  • 1997年12月8日月曜日

    テレビ批評はいかにしたら可能か?

     

  • インターネットでビデオ・リサーチのホーム・ページにアクセスして、視聴率の資料を入手した。これは便利なページで近いところでは先々週のデータから始まって去年一年間のベスト50、あるいは調査が始まって以来のベスト100なんてのもある。ホームページは資料やデータの集め方を劇的に変える。こんなページがあると、そんなことばが誇張ではなく感じられる。
  • さっそく講義で資料として学生に渡して使ってみた。「先々週、あなた達はどんなテレビを見たか?」結構見ている人(4時間/日)も全然見ていない人もいたが、平均すると2時間強といったところ。ぼくもたぶんそのくらいは見ている。学生からの回答は予想通り、「音楽」「ドラマ」それに「バラエティ」に偏っていて、高視聴率のものをよく見ていた。ぼくはというと「音楽」「ドラマ」「バラエティ」はまったく見ていないし、見たものでジャンルごとのベスト10に入ったものもなかった。
  • 当然、なぜこんなに違うのかな、という疑問が生じる。だから「どこがおもしろい?」と聞いたのだが、はっきりした答えは返ってこなかった。「ただ何となく」「友だちとの会話についていけなくなるから」。朝から一日中よく見続けるという学生がいて、あまりのくだらなさに腹が立つんだけど、決してスイッチを切ろうとはしない、そんな自分にも腹を立てながら、毎日見ている、というのがあった。ぼくにもそんな生活をした時期があって、わからないではないのだが、教師としてはついつい「もっと自覚的にテレビを見ようよ!」などといってしまう。
  • それでは、ぼくは先々週、一体何を見たんだろう。と考えたけど、ほとんど思い出さない。食事時にニュースを見て、その後は大体、TV大阪の食べ物や温泉を紹介する番組を見ている。この局は毎日必ずこんな番組をやっているから徹底している。たぶん低予算で視聴率をある程度稼げるためだ。そのほかに見るのは映画とスポーツ、それにドキュメントだろう。ただ、この種の番組を見ていると、CMに邪魔されるのが気になってくる。だからリモコンを手から離さず、あちこち変えまくるザッピングが習い性になってしまった。
  • J.フィスクは『テレビジョン・カルチャー』(梓出版社)のなかでCMで中断するテクストと視聴者が手にしたリモコンがテレビを日常そのものにしたこと、完成されたテクストを作り出すのはむずかしいが、送り手側に操られてしまう危険性も少ないメディアになったことを指摘している。確かにそうだと思うが、「豊かさ=浪費」の象徴のようにも思えてしまう。
  • テレビは惰性で見る。ぼくも基本的にはそんな風にしてテレビとつきあってきた。ただ最近チャンネル数が増えて、積極的に見ようとする番組も見つけやすくなってきたようだ。しかも、最近増えたチャンネルはほとんどがコマーシャルのない番組で構成されている。NHKはあまり好きではないが、BSにはいい番組が少なくない。こまめにチェックをしていくとかなりおもしろい内容に出会えるし、資料として残しておく価値のあるものも多い。
  • 最近テレビの見方が変わったことを実感しはじめている。仕事がらかもしれないが、それ以上に選択できるチャンネル数の増加が原因のような気がする。来年には、見られるチャンネル数は数百にもなるそうだ。もちろん淘汰されるとは思うが、自分の関心や好みに合うチャンネルや番組が増えたらいいな、と思う。そうなってはじめて、テレビにも、フィスクの言うような、視聴者がその見方によって独自に再構成する世界が作り出される可能性が生まれる。それはまた、テレビ批評が可能になるときであるのかもしれない。
  • 1997年12月2日火曜日

    やっと見つけた!!

  • ホームページを毎週更新していると、たいていの人にはあきれられる。「まー好きなんです。」とか「自己満足の気がありますから」とか応えるようにしているが、本当は読んでくれる人、見てくれる人を捜している。ベル友やメール友がほしいわけではない。差し障りのないおしゃべりをして時間をつぶすのは大嫌いだ。けれども、何か共有できる人との出会いを求めている。
  • で、ホームページを介して、そんな出会いが時折ある。最近来た二人のメールを紹介してみよう。一人は東京の大学の夜間部に在学のNさん。彼女のメールは次のように始まっている。
      「ホームページを拝見しました。やっと見つけた!というのが正直な感想です。12月に卒業論文提出を控えていますが、いまひとつCultural Backgroundに欠けていると悩んでいます。私のテーマは「The Image and Lyrics of Black Sabbath」です。Image、Lyricsとはいっても1970年代前半のロックカルチャーとコマーシャリズムの中でBlack Sabbathのイメージがどのように作り上げられたのかが、私の論文の核にしたいところなのです。」
  • 「やっと見つけた!」の一言に参ってしまった。それに、勤労学生だと言うから、これは、親身になって助けてあげなければいけない。さっそく文献をあげて、いくつかアドバイスもした。すると11月の末に「大体できました」というメールが舞い込んできた。よかった、よかった。翻訳会社で昼間働いていると書いてあったから、卒業後もつづけるのかとゼミの教師のような質問もしたりした。こんな風にホームページを公開してから、他大学の学生からの卒論の相談が時折舞い込んでくるが、ゼミの学生とつきあうのと一緒で不思議と違和感がない。インターネットは「〜大学」などという狭い垣根を簡単に飛び越えてしまう。そんな思いがきわめて自然に実感できる。N さんの卒論ができあがったらぜひ読んで、返事を出したいと思う。

  • もう一つのメールのはじまりは、もっと感激的だ。岐阜のある研究所でプラズマの研究をしているというYさん。
      「先日ふとしたことから渡辺さんのホームページにたどり着き、万感の思いで拝見いたしました。実は、私は中学生の頃から中山ラビさんのファンでした。」
  • このホームページに気をとめさせたのは題名の「珈琲をもう一杯」だった。これはボブ・ディランの曲名"One more cup of coffee"を使ってつけたのだが、ディラン好きにはこれだけで十分なようだ。で、僕のページを読んでいくと「中山容さんを偲ぶ会の報告」に出会ったというわけである。
      「私もラビさんの影響か、ボブ・ディランのファンでもあります。ラビさんが深夜放送でかけてくれた『One More Cup of Coffee』を今でも忘れることはありません。最初に買ったディランのアルバムはDesireでした。10年前ディランが来日した時はコンサートへも行きました。学生時代、いつもこの『コーヒーをもう一杯』や『風に吹かれて』を口ずさみながら、日本中を旅した時のことも思い出されます。私、この20年の間、ずっと、ラビさんにもろもろの感謝の意をお伝えしたく、一度でよいからファンレターを出すことを、諦めながら、それでも、探しておりました。」
  • こんなメールをもらったら、さっそくファン・レターの仲介役をしなければいけない。しかし、それにしても、歌の影響力はすごい、と、今さらながらに感心してしまった。ホームページにはもちろん、こんな歌が人に与えるような影響力はない。できる関係も距離があるようなないような、きわめて曖昧なものである。けれども、ほんのちょっとした手がかりから、経験や思い、あるいは考え方が共有できる人たちがつながりをもつことができる。しかもそれは一度できたら持続させなければいけない、といったものでもない。「一瞬の共感」。そんなおもしろさが、ホームページには確かにあるようだ。
  • 1997年11月24日月曜日

    Patti Smith "peace and noise"


    ・パティ・スミスの新しいアルバムが一年ぶりで出た。「peace and noise」今年の一月に大阪でコンサートを聴いたばかりだったから、「おや?」という感じがした。何しろ、去年出たアルバム「gone again」は10年ぶりだったのだから。

    ・何かあったのかな、と思ったら、コンサート・ツアーで組んだバンドのギタリストのオリバー・レイと一緒に暮らしはじめたらしい。彼は 24歳だというからダブルスコア以上ということになる。ちなみにパティは50歳だ。この「peace and noise」ではオリバーが7曲も曲作りに関わっている。「愛は人をクリエイティブにする」ということだろうか?ぼくにはそんなエネルギーはないから、とてもできそうもない。だから、羨ましいというよりはおもわずすごいと言ってしまった。もっとも、当然のことながら、甘いラブ・ソングなどはほとんどない。相変わらず強いエネルギーのあるメッセージ。

    ・中国の江主席が先日アメリカに行ったが、チベットに対する弾圧への抗議やダライ・ラマを支持するデモが各地で起こった。中国の人権政策に対する批判はアメリカ人にとってはかなり敏感に感じられる問題のようだ。このアルバムにも、1959年の中国によるチベット弾圧とダライ・ラマの追放をテーマにした「1959」という歌がある。

    中国は混乱を極め/狂気の沙汰が氾濫した
    ダライ・ラマはまだ若かった
    自分の国が炎に包まれるのを目の当たりにした/暗雲の縁に吹き倒されるのを
    はなはだしい不名誉だ
    そびえるヒマラヤの地平に/チベットは流星のような存在だったが
    理性と協調は押し潰された/地上の楽園

    ・また、このアルバムには今年死んだアレン・ギンズバーグの詩を歌った曲「スペル」もある。

    世界は神聖/霊魂も神聖/肉体も神聖
    鼻も/舌もペニスも/手も肛門も聖なる部分
    すべてのものは神聖/人間はみな神聖
    いたるところ聖なる場所/毎日は永遠
    すべての人間は/天使のように気高く燃え上がる力
    狂人もあなたとおなじように神聖/わたしの魂か、それ以上に神聖

    ・このアルバムを聴いていると、歌はやっぱりことばだな、という気になってくる。一方ではきわめてパーソナルな世界。子どものこと、死んだ夫のこと、友人のこと、そして新しい愛のこと。また他方では今関心のある外の世界。チベットのこと、オカルト教壇のこと、そして、ビート詩人の死とビートの風化........。

    ・サウンドはオリバーのアレンジでちょっと耳新しいところもあるが、パティ節に変わりはない。けれども、そんないつもながらの彼女の声と歌い方が伝えるのは、彼女にとっての、悲しいことやつらいことや悔しいことや腹立たしいこと、そして楽しいことだ。たえず変わり続けている、彼女の経験する世界。それはやっぱり、歌詞を追うことでしかわからない。

    1997年11月17日月曜日

    中野不二男『メモの技術 パソコンで知的生産』(新潮選書)

     

    ・大学で講義しているときに見る学生の行動に、最近気になることがいくつかある。私語、携帯電話のための途中退出、再入場、あるいは手をあげての「トイレ行ってもいいですか?」。けれども、そんなことはたいしたことではない。うるさきゃ怒鳴って静めるまでだし、途中の出入りは無視することにしている。ところが、これは何とかしなければと考えてしまっていることが一つある。ぼくが一番気になっているのは、彼らがしているノートのつけかたである。

    ・最近の大学生は、ぼくが黒板に書いたことしかノートを取らない。まったく同じように写すから、ときどきおもしろがって赤や黄色のチョークを使うと、一斉に筆箱からマーカーやボールペンを取り出して、カチャカチャといった音が教室内にこだまする。しかし、そんな彼らをからかっているうちに、彼らがつけるノートとはいったい何なのか疑問に思うようになってしまった。ぼくは、黒板に書くことの4倍も5倍もの話をするから、黒板だけでは話の骨組みしかわからないはずである。その骨組みに、話を聞きながらメモを書き込んでいく。そうしなければ、ぼくの話は再現できないはずだが、学生たちはぼーっと聞いていることが多い。

    ・実はぼくの奥さんは予備校で英文法を教えている。彼女に学生のノートの付け方の話をすると、即座に「当たり前よ!」ということばが返ってきた。予備校では、テキストのどこに重要だという印をつけるのかまで懇切丁寧に指示するし、大事なことはすべて黒板に書いて、何度もくりかえし読んでは強調する。そんな話を聞きながら、あー要するに「指示待ち人間」という性格が人の話を聞く姿勢にまでしみこんでしまっているのだな、と考え込んでしまった。

    ・人の話を聞くというのは、同時に自分で理解するという作業をしなければ、ただ右から左に流れていってしまうばかりである。主体的な理解がなければ、疑問や批判も湧いてはこない。これでは質問や反論が出てくるはずもない。これははっきり言えば、小学校から高校までの授業での教え方に責任がある。しかし、そんなことを言っても仕方がないので、今さらやっても手遅れかもしれないけれど、メモの取り方を何とか教えて習慣づけなければならないと思った。

    ・学生は授業がおもしろくないと言うけれど、主体的に聞くという姿勢にならなければ、どんな授業も絵に描いた餅でしかない。本も同じで、学生たちは本を読むのはおもしろくないし、いやいや読まされるから嫌いだという。彼らに質問すると、レポートや論文を書くときに、大事なところを抜き書きしたり、書名や著者名、出版社名、それに発行年などをメモしたりはしないと言う。それでは、まともなレポートも論文も書けないはずだし、本のおもしろさも発見できないはずである。本のおもしろさは何より、主体的な「読み」のなかから味わえるはずのものだからである。そのようにして本を読めば、そこから、次に読みたい本や考えてみたいテーマが現れてくる。学生たちは、結局、このような基本的な技術を教えてもらわずに大学まで来てしまっているのである。

    ・と書いているうちに、ずいぶんな分量になってしまった。肝心のブック・レビューをするスペースがない。それでは、この本の著者に失礼というものである。しかし、けっして話のだしにするつもりだけでこの本をとりあげたのではない。

    ・この本には、物書きを本業にする人にとっての資料やデータ、あるいはさまざまな情報収集とその整理、そして文章にまとめあげるときのそれらの使い方などが書かれている。京大型カードからパソコンのデータベースへの移行といった道具の問題と、簡単なメモをどうとって、利用するかといったノウハウの問題まで、きわめてわかりやすく書いてある。これなら、大学生にも理解できるだろう、と思ったし、読みながら実践させれば、身に付くようになるかもしれないと考えた。来年のゼミではまずこの本をテキストにして、学生たちの受け身の姿勢を崩してやることにしよう。

    1997年11月11日火曜日

    永沢光雄『風俗の人たち』筑摩書房,『AV女優』ビレッジセンター

     

    ・おそらく「風俗」を研究対象にしやすいのは社会学が一番だろう。現実に、そのような題名の本はたいがい社会学者によって書かれている。けれども、そこに「風俗の人たち」のことが書かれるのは、めったにない。書かれたとしても、周辺をさっと撫でた程度で終わってしまうか、自分を無関係な場所に置いて、得意の客観的分析をするかのどちらかである。要するに、性の生態は、社会学者が自分の問題として正面から扱うことのほとんどないテーマだといってもいい。もちろんこれは、他人への批判である以上に、自分に向けるべきものである。映画のレビューはやっても、AVのレビューは気が進まない。第一、レンタルするのでさえ気が引ける。品位が邪魔するといえば聞こえがいいが、要するに勇気がないのである。けれどもわかったような顔はしたがるから、何ともずるい性根だと思う。
    ・永沢光雄の『風俗の人たち』は、『AV女優』につづくルポルタージュである。前作はずいぶん話題になって、ぼくもおもしろい本だと思ったが、今度の作品も、またなかなかの力作である。ぼくは2作とも社会学のフィールドワークとして見ても、傑出したものだと思う。
    ・『風俗の人たち』は雑誌『クラッシュ』に6年間にわたって連載されたレポートをもとにしている。雑誌やスポーツ紙の風俗レポートといえば、自らの体験をもとにするというのがふつうだが、永沢はそれをしない。いや正確にいえば一度だけしかしなかった。だから、読んで欲望を刺激させるような内容のものにはなっていない。次々と新手がでてくる風俗産業を訪ねては、それを仕事にしている人たちに話を聞く。そんなやり方で、およそ70回ほどのレポートが書かれた。
    ・ 実践のない性風俗レポートなんて書いた本人と編集者しか読まない。永沢はあとがきで、そんな中途半端な記事が本になってしまった、と申し訳なさそうに書いている。謙遜ではなくて、たぶん正直な気持ちなのだと思う。何といってもこの文章が掲載された雑誌は、男たちが欲望をむき出して読みあさる種類のものなのだから。けれども、また、そんな雑誌にふさわしい内容のレポートだったならば、決して本になることはなかったはずである。実際ぼくも、こんな真面目なレポートがよくも6年間も続けられたものだと感心してしまう。そんな意味では、この本が生まれるうえで功績があったのは、作者以上にこの雑誌の編集者の見識と姿勢だといってもいいのかもしれない。
    ・性風俗のレポートを体験として書かなかったことについて、永沢は恥ずかしかったからと書いている。たぶん、このような感性の持ち主では、この種の雑誌のレポーターは勤まらないのがふつうだろう。けれども、その恥ずかしいという気持ちが、このレポートにまったく違うおもしろを生みだす結果をもたらしている。性に対する欲望とそれを何とか処理したいという気持ちは誰にでもあるものだが、ところが体面や自信のなさ、あるいは倫理観が、それを実行させにくくする。この本には、一言で言えば、そんな浅はかな男の性(さが)と心の揺れ動きをテーマにした私小説といった世界がつくり出されているといってもいいかもしれない。
    ・だから、このレポートにはセックスが好きとかテクニックが上手とかいうのとは違う女たちの正直な気持ちも描き出されることになる。たとえば永沢は、「今の少年少女たちは、性というフィルターを通して大人たちを軽蔑していることは確かだと思う」とドキっとするようなことを書いている。性と金を媒介にした男と女、大人と子どもの不信のドラマ。そんな傾向がますます強くなることに恐れながら、同時に性の欲望も否定できないアンビバレンス。この本には、そんな単純な性風俗レポートや、性の商品化を頭ごなしに否定する短絡的なフェミニズムとは異なる、きわめて説得力のある性にまつわる今日的なテーマが描き出されていると思った。

    京都の秋



  •  柳谷観音
       京都とはいっても、ここは京都と大阪の境目、天王山の奥にあります。目の病気に御利益がある観音様で、土日はお年寄りでにぎわいますが、この日は火曜日、誰もいないお寺の紅葉を独占という感じでした。今年は雨が少なく、寒暖の差が大きいせいか、例年になく紅葉がきれいです。
       ここに載せた写真は、ディジタル・ビデオカメラで歩きながら撮り続けたものを静止画像として取り込んで、Photo Shopで加工をしました。水彩画風、切り絵風、あるいは油絵のタッチと、ちょっと手を入れすぎたかもしれません。したがって、実際の紅葉とは、ちょっと違った風景になってしまいました。

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    1997年11月10日月曜日

    ホームページ公開1年

  • ホームページを公開して一年が過ぎた。あっという間だったような気がするが、かなりの時間を費やし、エネルギーを使い、知恵も絞った。ホームページがなければ、僕にはこの一年でもう2本ぐらいの論文が書けたかもしれない。そんなふうに考えると、正直いってもうやめとこうかとも思う。けれども、ホームページ作りは論文とは比較にならないくらい楽しい。だから、ついついホームページのことを考えてしまう。この魅力はいったい何なのだろうか?
  • 一つは、ホームページが昔から関心を持ち、自分でも作ってきたミニコミに似ていることである。新聞や雑誌に何かを書いたり、本を出したりするのは、基本的には専門家の仕事と考えられている。実際、普通の人がそんなことのできる機会はめったにない。けれども、誰でも、何かを表現したい、誰かに伝えたいという欲求はあって、安価で少部数の発行物ならそれを実現するのはむずかしくはなかった。そんな発想は60年代に盛んになったが、いつの間にか下火になってしまった。
  • ミニコミは誰かに伝えるためには、それを置いてくれる場所(本屋とか喫茶店など)を探さなければならないし、直接送るには郵送料がかかる。ぼくは数年前まで『Newsletter』を定期的に作って60〜70部ほど送っていたが、文章やレイアウト、あるいは印刷はともかく、封筒につめて切手を貼ってポストに入れる作業は面倒くさかった。個人的なものだから、特定の人にしか出さなかったが、もうちょっと、広がりのあるものを作ってみたいとずっと思ってもいた。
  • ぼくのホームページには、この1年でおよそ4000人が訪れている(カウンターは12月20日から)。ものすごい数字だが、もちろんじっくり見てくれる人はもっとずっと少ないはずだ。実際、メールに感想を書いてくれた人は50人ほどだった。けれども、その半分が面識のない人たちだったことは、ぼくにはカウンターの数以上に驚きだった。卒論やレポートの相談をする学生、卒論集やぼくの論文を読みたいといってくれた人、あるいは、自分で作ったホームページを見てくれといってきた人、その人たちとは何度かのメールのやりとりもした。ホームページのおもしろさややりがいが、また、こんな出会いにあることはいうまでもない。大学や高校の同級生、そして昔教えた学生からの「久しぶりです。ホームページ見ました」といったメールもうれしかった。
  • もちろん、このページは大学のサーバーに載っているものだから、基本的には、ぼくの大学の学生に見てほしいと思っている。講義などで「見ろ」といっているから、かなりの学生がアクセスしているのだと思う。けれども、今一つ反応が弱い。講義に関連させて文献の紹介などもやっているから、役に立つとは思うのだが、そんな感想を耳にすることは一度もなかった。本を読まない、勉強をしないというのは、どこの大学の教員も口にする最近の一般的な傾向だが、実はぼくには、ホームページで何とか突破口をという気持ちが強くあった。なかなか思うようには行かないが、これから、一番工夫しなければならないところかもしれない。
  • もうひとつ、このページ作りには、大学にこれから入ってくる人、つまり予備校生や高校生にアクセスしてもらいたいという狙いもある。実は、河合塾ともリンクしているのだが、残念ながら、メールはまだ一通も来ていない。通りいっぺんの大学の入学案内などよりは、このようなページの方がずっと役に立つと思うのだが、受験生にはホームページなどを見ている余裕などないのかもしれない。
  • ホームページを見る側に立てば、ぼくにとって役に立つのは、何より、知りたい情報が詳しく紹介されているものである。それは逆に言えば、ぼくのホームページも、そのような、何か特徴のある情報を提供しなければ、あまりお役にはたてないということになる。なかなかそんな材料がなくて困っているが、これも、これから何とかしたいと思案している。そんなわけで、何か、いい示唆を与えてくれるメールがほしい今日この頃である。
  • 1997年11月3日月曜日

    B.バーグマン、R.ホーン『実験的ポップミュージックの軌跡』勁草書房

     

    ・たとえば、音楽のジャンルを「芸術」「ポピュラー」「民俗」といった枠で分類する考え方がある。「芸術」とはいわゆるクラシック音楽と呼ばれる分野だが、ここにはもちろん、比較的新しい前衛音楽もふくまれる。一方「ポピュラー」は主にマス・メディアの発達の中で生まれた音楽をさし、典型的にはジャズやロックなどがある。この二つの音楽のちがいは、もちろん聞けばすぐわかるものとして考えられている。けれども、最近の音楽の傾向としては実際には、二つのジャンルの境目はますます曖昧になってきているようである。

    ・ B.バーグマン、R.ホーンの『実験的ポップミュージックの軌跡』には、さまざまなミュージシャンが紹介されている。あまりに数が多すぎて、その分、個々にはカタログ的な簡単な記述しかないという不満が残らないわけではない。けれども、この本を読むと、60年代のロック登場以降の音楽、とりわけ「芸術」と「ポピュラー」の前衛的な流れがよくわかる。

    ・ 一方に、シュトックハウゼンやジョン・ケージといった人に代表される現代音楽の流れ、そしてもう一方にプログレッシブ・ロックやパンクからの流れがある。この二つを最初から、そして現代においても峻別しているのは、学校で学んだ音楽かそうでないかのちがいだけだろう。だから、サウンドではうまく区別がつけられない音楽も、それを作り演奏している人に採譜の能力があるかないかを確かめれば、一目瞭然になってしまう。逆に言えば、楽譜が書けるとか読めるといった能力(技術)は、音楽作りや理解にとって必要不可欠なものではないということになる。

    ・「芸術」は何らかの予備知識なしにはわからないものとして考えられてきた。一定の評価を与えられた作品には、またそれなりの聴き方、解釈の仕方があって、それにしたがうことではじめて、その作品を理解できるのだという前提があった。他方で、「ポピュラー」は何より大勢の人に楽しまれることを第一の目的として作られてきた。独創的で難解な音楽と、画一的でわかりやすい音楽。そのちがいがまるでベルリンの壁のように崩壊してしまっている。この本は80年代以降の音楽の特徴を、何よりそこに見ているのである。

    ・けれども、この本の作者は、一見融合してしまったかのように聴こえる音楽の中に、楽譜の読み書き以外のちがいも見つけだしている。たとえば、「コマーシャリズム」に対する姿勢のちがいである。ロックはビートルズやローリング・ストーンズ以来、自分の音楽が商品として売られ、巨額のお金をもたらすことにさほどの抵抗感を持ってこなかった。だから「ポップ」には、何より、たくさん売れて、大勢の人に好まれて、なおかつ新しさやユニークさを持った音楽というニュアンスがずっとふくまれてきた。前衛的な実験音楽を志向する人たちには、この点について二律背反的なジレンマがあるという。「ポップ」は好きだが「ポップ」にはなりたくないというわけだ。

    ・こんな話を読んでいると、僕はついついスポーツにおけるプロ化の波とアマチュアリズムの問題にダブらせて考えたくなってしまう。プロを目指す人は何より名声とお金を重視する。サッカーにしてもバスケットにしても、プロ選手になることはどん底の世界から身を立てる数少ない可能性の一つになっている。それはたぶん音楽でも同じだろう。レゲエ、パンク、ラップとそのことを裏付ける音楽の流れを指摘するのはむずかしくない。だから、一流の才能を持ちながら、アマチュアリズムにこだわる姿勢には、ある種の貴族主義的なニュアンスを感じてしまう。そう考えると、同じようなサウンドを志向しながらも、個々にはやっぱりまだまだ大きな壁が残されていると感じざるを得ない気になってくる。

    1997年10月26日日曜日

    A.リード『大航海時代の東南アジアI』

     

    ・東南アジアと呼ばれる国々にはインドシナ半島とインドネシアやフィリピンなどがふくまれる。最近ではASEANと呼ばれて、これからの成長が期待されている地域である。しかし、一部の国を除けば、現状では、政治的には不安定で、経済的には貧しいと考えられるのが一般的だ。つまり豊かで平和な環境は、何よりこれからの近代化にかかっているという発想である。僕も漠然と、そんなふうに考えていたが、『大航海時代の東南アジアI』を読んで、認識を変えなければと思わされた。
    ・リードによれば、15-16世紀の東南アジアは、きわめて豊かで平和な地域だったようだ。たとえば、熱帯地域だから食べ物は豊富だし、当時のヨーロッパにくらべて寿命も長く、生む子どもの数も少なかった。幼児の死亡率が低かったから、一人の子どもに長い時間をかけて愛情を注ぐようにできたようである。母親は子どもが2歳をすぎるまで母乳を与えていたという。衛生観念、薬草や医学についての知識、住居は熱帯の植物をつかった簡単なもので十分だったし、衣服も必要ないか、薄着でよかった。
    ・あるいは、戦争における穏やかさ。「敵を殺すためではなく、威嚇するために空や地面に向かって発砲し、傷つけないで自分の領域に追い込もうとする。」それはヨーロッパ人には「天使の戦争」のように見えたということだ。そして性についての開放的な意識と、女性の地位の高さ。「性において女性が持っていた強い立場をもっとも具体的に示すものは、女性の性的快感を強めるために男性が苦痛を耐えて行なったペニスへの手術である。ここでも、東南アジア中のこの習慣の普及には驚くべきものであり、同じような習慣は世界の他の部分には見られない。」婚前交渉の相対的自由、一夫一婦制と結婚内での貞節。比較的容易な離婚。女性は商業の部分では男よりも重要な存在であった。この本の中には、このような話が次々とでてくる。しかも、そこには、入念に集められた資料やデータの裏付けがある。
    ・驚くことはまだまだある。たとえば、リテラシー(読み書き能力)について、リードはヨーロッパの中世とは違って、大多数の人が文字を読み、かつ書くことができたという指摘をしている。普通はリテラシーの向上は近代化のなかでの学校教育や活字メディアの普及が前提となるのだが、東南アジアでは、むしろ、それはリテラシーの低下を招いたというのである。つまり、豊かで平和な東南アジアの国々を変えたのは、イスラム教などの宗教と、ヨーロッパ人の渡来、そして植民地化にほかならないというわけだ。
    # 確かに、ヨーロッパに近代化をもたらしたのは、インカやマヤの金銀財宝であり、じゃがいもやとうもろこしであり、植民地化したアジアやアフリカから収奪したもろもろのものであったことはすでに周知の事実である。アメリカは移住していったヨーロッパ人が原住民たちをほとんど全滅させるやり方で作り上げた国である。ヨーロッパ人たちは、収奪し絶滅させた人びとを野蛮人として扱ったが、彼らには、ヨーロッパ以上に成熟した文化がすでに存在していた。このような歴史はすでに、アメリカ大陸の近代化の過程についての指摘のなかで教えられてきたことだが、東南アジアという日本から近いところでの話として指摘されると、あらためて、西欧の近代化とは何だったのかといった疑問を感じざるをえないし、ちょっと単純だが、腹を立てたくもなってくる。
    ・先日NHKのBSでインドネシアのある島で捕鯨によって生活している人びとのドキュメントが放送された。男たちが鯨を捕まえるとそれを村で平等に分け、女たちが干して、山の村に、塩などと一緒に頭の上に乗せて持っていく。それをとうもろこしと変えるのだが、その様子は、まるでこの本の中にでてくる話そのままだった。あるいは、これは東南アジアではなくチベットだが、やっぱりBSで、ラマ教の僧が同時に薬草に精通した医者でもあって、その知識が教典に書かれていて、現在でも若い人の教育に使われていることを知った。そんなわけで、ここのところつづけて、アジアについて何もわかっていないことを、実感させられた気がした。

    1997年10月20日月曜日

    『デッド・マン・ウォーキング』ティム・ロビンス(監) スーザン・サランドン、ショーン・ペン


  • 二人組の男が、男女のカップルを遅い、女の子をレイプした後、二人を撃ち殺す。二人組は捕まるが撃った男には有能な弁護士がついて死刑を免れ、もう一人には死刑が宣告される。この映画は、その死刑囚マシュー(ショーン・ペン)からカトリック修道女のシスターであるヘレン・プレジーン(スーザン・サランドン)に手紙が届くところから始まる。
  • マシューには自分のやった行いに対する反省の気持ちが強くある。けれども、もう一人にそそのかされてつきあっただけの自分が死刑で、撃ち殺した張本人が終身刑になったことに対する怒りもある。母親や兄弟が受ける仕打ちも気がかりだ。彼は定期的に面会をはじめたヘレンに、そんな複雑な気持ちを打ち明けはじめる。彼女は刑の軽減を申し出る機会を作ろうと動きまわる。
  • マシューは被害者の親たちに謝りたいという。けれども、被害者の親たちは、そんなヘレンの話を聞こうともしない。子どもを殺された親にすれば、子供を失った悲しみや怒り、あるいは悔しさを鎮めるきっかけは、犯人が死刑になることでしか生まれない。「加害者と被害者の両方にいい顔をしようったって、そうはいかない」と追い返されてしまう。
  • あるいは、マシューの母親と兄弟たちを訪ねる。母親は、当然そっとして置いてほしいという。ヘレンに動かれたら、また話題になってしまう。しかし、最初は冷淡だった母親も、息子が会いたがっていることを聞くと、子どもたちをつれて面会に行くことを承知するようになる。刑の軽減を審理する場で証言すること決心する。
  • 犯罪に対するもっとも重い刑が死刑であることにはさまざまな議論がある。僕は、どんな理由であれ、人の命を絶つことを正当化することはできないと考えるから、基本的には死刑には反対だ。殺したヤツは殺されて当然だ、といった発想には与することはできないし、罪を償うやり方はほかにもあるだろうと考えている。
  • たとえば、日本では死刑の次に重いのは無期懲役だが、刑の軽減の機会があって、これが20年とか30年で出所できたりしてしまう。だから、そのあいだの落差は甚だしいといわざるをえない。なぜ懲役100年とか、500年とか、あるいは1000年といった判決ができないんだろう。そんなことを以前からよく考えた。これなら、どんな恩赦があっても、二度と社会にはでられない。死の恐怖は確かに恐ろしいものだが、死ぬまで刑に服することには、また違った辛さがあるはずである。
  • けれどもまた、そのような態度が、自分が当事者でないからこそできるものかもしれないといった思いも感じている。神戸でおきた事件に数日前に家裁から裁定が下された。加害者の少年に対して精神的な治療を愛情をかけて行うということだった。慎重に出された判断だと思うが、新聞には被害者の父親の「加害者ばかりを優先した審判ではなく、被害者の心情をより考慮した審判がなされてもよいのではないかと思う」というコメントが載せられていた。
  • マシューはヘレンや母親、あるいは被害者の親たちの立ち会いのもとで、薬物によって処刑される。その時点では、もちろん彼は犯罪を犯したときとはまったく別の人間に生まれ変わっている。被害者の親の中には、そのことに理解を示す余地を見せはじめ、埋葬にまで参列した人もいたが、しかし、許せない気持ちは、けっしておさまったわけではなかった。加害者の心情と被害者の心情。その両立しがたい思いをどうやって調停するか。この映画はそんな人を裁くことの難しさを垣間みさせてくれた。
  • 1997年10月17日金曜日

    "Kerouac kicks joy darkness"


    kerouac.jpeg・ジャック・ケルアックはビート世代を代表する小説家である。作品には『路上』『地下街の人びと』などがある。今年は同世代のA.ギンズバーグが死んだし、僕の知人の中山容さんも死んだ。ビート世代が注目されたのは50年代だが、それをリードした人たちが、ぽつりぽつりといなくなりはじめている。
    ・ビート世代の登場は、たとえばジェームズ・ディーンやマーロン・ブランド、あるいはエルビス・プレスリーといった若いヒーローの誕生と重なっている。彼らや彼らを支持した人たちにくらべたら、ビート世代は文学中心でロックンロールではなくモダンジャズを好んだ。ハイブロウでアンチ・マスコミ、反商業主義的だったが、二つはどこかでつながっていた。「接合」の条件は「若者」という世代への社会の注目かもしれないし、それを可能にした第二次大戦後の豊かな社会、あるいは戦争への嫌悪感なのかもしれない。
    ・だから、60年代になると、ロックンロールとビート詩、モダン・フォーク・ソング、あるいはブルースやモダンジャズの影響も受けたロックという新しい音楽が登場することになる。その音楽を支持したヒッピーと呼ばれた人たちのライフスタイルは、ビートそのものだった。ヴェトナム反戦や黒人の公民権運動、ドラッグと性の解放、ポップ・アート、そして、新しい巨大な市場としてのポピュラー文化。
    ・"Kerouac kicks joy darkness" には40人を越える人びとが登場する。作家、詩人、ロックミュージシャン、映画俳優、ジャーナリスト。それにケルアック本人。さまざまな人たちがケルアックの書き残したことばなどを朗読したり歌ったりしている。同時代の詩人であるA.ギンズバーグ、ローレンス・ファーレンゲッティ、ウィリアム・バロウズ。ロック・ミュージシャンではパティ・スミス、ジョン・ケイル(「ヴェルベット・アンダーグラウンド」)、スティーブン・タイラー(「エアロ・スミス」)、ジョー・ストラマー(「クラッシュ」)、それにフォーク・シンガーのエリック・アンダーソン。もちろんケルアックはすでに1969年に死んでしまっているが、若い人の参加も少なくない。たとえば、「REM」のマイケル・スタイプ、「パール・ジャム」のエディ・ベダー、「カム」『バスケット・ボール・ダイアリー』のジム・キャロル、映画俳優のマット・ディロン。そんな多様な人たちの多様なパフォーマンスを聴いていると、ケルアックやビートの影響が現代にも深く、広く及んでいることがよくわかる。
    ・日本版には中川五郎、高木完の二人が訳をつけている。ポピュラー音楽の訳詞は時にとんでもなくひどいものがあるが、二人の訳はなかなかいい。けれども、木本雅弘の写真など日本版につけ加えたものは完全に蛇足だ。


    <マクドーガル・ストリート・ブルース>
    イメージの海をかきわけて練り歩く
    イメージ、イメージ、見つめる
    見つめる.........
    そしてみんながが振り返って
    指さす
    見上げる者もいなければ
    覗き込む者もいない
    .............以下略................
            中川五郎訳

    <ウーマン>
    女は美しい
    けど
      君はふりまわされる
      ふりまわまわされる
      きみはまるで
      ハンカチみたく
        風ん中
          高木完訳

    1997年10月1日水曜日

    ジョン・フィスク『テレビジョン・カルチャー』(梓出版社)

     

    ・テレビはずっと二流のメディアと言われ続けてきた。ニュースは新聞、ドラマは映画や舞台、そして音楽は、コンサートやレコードとの比較で、いつでもけなされてきた。テレビは映画とちがって、俳優がそこで演技をする場所ではないし、コンサートともちがって歌や演奏によって自分の世界を表現する場でもない。どんな人でも、いわば素の顔で登場することを要求するし、そのつもりがなくとも裸にされてしまう。だからテレビには出ない俳優や歌手はアメリカにも日本にもかなりいた。

    ・そんなメディアに対する評価が変わりはじめたのは、日本ではたぶん八十年代になってからだろう。カラーの大画面、ヴィデオ、お金も手間もかかったおもしろいCM、ニュース番組の変化、種類も中継方法も多様化したスポーツ番組、そして衛星放送。ヒットする映画も音楽も、流行も、テレビが発信源である場合が少なくない。今やテレビなしには、文化はもちろん、政治も経済も語れない。そんな時代になった気がする。

    ・しかし、それはテレビというメディアから生産される番組が作品として充実してきた結果を意味するものではない。J.フィスクは『テレビジョン・カルチャー』のなかで、テレビの力は、テレビによってつくられるテクストの完成度によってではなく、むしろその未完成さによって生み出されるのだという。つまり、作品として完成させ、意味を確定するのは、最終的には視聴者に任されているのだという。

    ・たとえば、映画館にいる観客は、大きなスクリーン映像とスピーカーからの音響を集中して受け取り、それを一つの作品として味わう。あるいは小説の読者も、たとえ一気に読まなくとも、最初のページから読み始めて、最後に読み終わるまでを一つの作品として受けとめる。ところがテレビの視聴者は、たいがいテレビの前でじっとしてはいない。テレビから受け取るテクストは、視聴者にとって、現実の場におけるさまざまなテクストのなかの一部にしかなりえない。しかも視聴者は、気まぐれにリモコンで次々とチャンネルを変えたりする。すべてのチャンネルを一巡りさせるのに必要な時間は数秒だから、数分の間に何十回、何百回とチャンネルを変えることにもなる。視聴者にとって、一つの番組が一つの完結した世界であるという意識などは、最初からほとんどないに等しいのである。

    ・もちろんそんなことは制作者とて先刻ご承知である。というよりは、テレビ(商業放送)は、数分おきに挟み込まれるCMによって成り立つメディアとして始まったのである。CMの混入はシリアスなドラマであろうと、深刻なニュースであろうと関係ない。まさに「釈迦の説法、屁一つ」といったことが常態化しているのだ。だからもちろん、テレビは、社会的にはやっぱり、新聞にも映画にもレコードにもかなわない、ダメなメディアだとみなされている。ダメだといわれながらますます強力になるテレビ。

    ・フィスクはそのテクストとしての未完成さはまた、日常の世界で私たちがさまざまに人びとと関係しあったり、雑用仕事をしたり、ちらっと興味や関心、あるいは欲望を感じたりする、そのスタイルそのものだという。テレビは私たちの日常に、何の違和感もなく入り込み、そして私たちの日常そのものになってしまった、というわけである。

    ・ぼくはCMに邪魔されるのが嫌いで、BSで映画やスポーツやドキュメントばかり見ているが、たまに民放を見ると、やっぱり、リモコンが手から放せなくなってしまう。BSやCSとCMのはいらないテレビがますます増えてくると、テレビと視聴者の関係はまた、変わっていくのかもしれない。そんなことを考えながら、ぼくはわりと集中して今晩もテレビを長時間見てしまった。

    1997年9月15日月曜日

    『NIXON』オリヴァー・ストーン(監) アンソニー・ホプキンス(主)

  • ニクソンは、ぼくにとってはもっとも嫌なアメリカ大統領という印象が強かった。J.F.ケネディの敵役だったし、大統領になれたのは、JFKや弟のロバートが暗殺されたおかげだった。大統領になると、北爆やカンボジア侵攻で、ヴェトナム戦争を一層の泥沼状態にしたし、学生運動を強硬に取り締まった。そして最後は、ウォーターゲート事件。要するに、反共主義者で狡猾で汚い政治家だった。ちょうど時期的にも重なった、日本の田中角栄と共通点があったようだ。貧しい家庭に育ち、苦学して政治家になった。で、二人とも続いて中国と国交を回復させた。ただ、田中角栄は庶民派の政治家として、かなりの人気を得ていたから、暗い悪役のイメージのニクソンとは。ずいぶん違うという気もしていた。
  • ところが、そんなニクソンに対する印象は、1976年に発行されたE.ゴフマンの"Gender Advertisement"という本を見てすっかり変わってしまった。この本は新聞や雑誌の広告、あるいは記事の中で使われた写真を材料にして、主に男らしさや女らしさを表情やしぐさ、あるいはポーズといった点から分析したものである。ゴフマンがこの本に使った素材は、人が自覚してする行動ではない。ほとんど意図せず、また写真に撮られていることも気にせず写された一コマ。そこに、無意識のうちに現れる、習慣的な行動や、その時々の正直な胸の裡がよく読みとれる。そこから、社会的に身についた性の違いを読み解こうというのがこの本の狙いだった。
  • ニクソンはこの本の中で、はにかみ笑いや、ぶすっとした不機嫌な顔、娘の結婚式での照れ笑いなど、ずいぶんおもしろい一面を登場させている。ぼくはこれを見たときに、本当はずいぶん正直な人なのだな、と思った。彼がJ.F.ケネディと大統領選を争った時の敗北の最大の原因はテレビ討論会での印象の悪さだったと言われている。テレビでは、何を話したかではなくて、どう映ったかが強い意味あいをもつ。メッセージではなくてメディアの特質。真善美を兼ね備えたケネディと偽悪醜をさらけ出したニクソン。M.マクルーハンのこんな主張を納得させるのに、これほどいい材料はなかった。しかし、そうであれば、ニクソンの失敗の原因は彼の人格にではなく、印象操作のまずさに求められるはずだが、一般にはそうは理解されなかった。
  • この映画に登場するニクソンも、喜怒哀楽を素直に出す人物として描かれている。非常に強くて厳格な母親を聖女として慕い、また忠実な犬になると誓って恐れる。そんな母親のイメージが彼の妻にもダブる。家柄も学歴も格好の良さも比較にならないケネディに嫉妬し、恐れ、逆にそれへの反発心を政治家としてのエネルギーにする。ケネディとは違う現実を見据えた政治家。けれども、世論はそんな彼を最後まで支持しなかった。
  • 悪者のイメージをまとい、嫌われたままで大統領になった男。ヴェトナム戦争はケネディによってはじめられた。それが泥沼化して誰もがやめろと言いはじめた。しかし、アメリカにとっては敗北による幕引きはできない。映画の中のニクソンは、その名誉ある終結に至るシナリオを考えあぐねて苛立つ。それは、いわば、ケネディの尻拭いである。中国との国交も回復させたニクソンには再選に向けた大統領選挙の見通しは暗くはなかった。民主党の対抗馬は草の根民主主義をかかげ若者の支持を基盤にしたマクガバンだった。決して強力な対抗馬ではない。けれども、ニクソンは選挙に向けて、いろいろ策略をめぐらせた。選挙には大勝したが、その策略がウォーターゲート事件として発覚し、任期途中での辞任に追い込まれることになる。
  • 権力欲に取り憑かれた正直で、不器用で、小心な男の悲劇。ニクソンが大統領としてした仕事は、今まで思っていたほど悪いことばかりでなかったのでは。この映画を見て、あらためてそんなことを考えた。
  • 1997年9月8日月曜日

    Brian Eno "The Drop"

     

    eno2.jpeg・イーノは車を運転しながら聴くにかぎる。何年か前に京都の北山に紅葉を見に出かけた。空が真っ青で、山が緑と黄色と赤。その鮮やかなコントラストに見とれながら山道を運転している時に、イーノの『ミュージック・フォー・フィルムズ』をかけた。かけたというよりは、たまたまそのカセットが入っていたのだが、目の前の風景にぴったりあって、ぞくっとしたことを覚えている。それからは、どこかへドライブするときにはイーノのアルバムを必ず何枚か持っていくようになった。
    ・ブライアン・イーノの出発点は『ロキシー・ミュージック』のキーボード奏者である。だからプログレッシブなロック・ミュージシャンという一面を持つが、同時に「アンビエント」と呼ばれる新しいジャンル(環境音楽)を代表する人という側面もある。あるいは、さまざまなミュージシャンとの共作も多い。たとえば、デビッド・ボーイ、デビッド・バーン(トーキング・ヘッズ)、ジョン・ケイル(ベルベット・アンダーグラウンド)、ロバート・フィリップ(キング・クリムゾン)、そしてU2.........。もちろん、どれもなかなかいい。

    eno3.jpeg・イーノは自らをミュージシャンではなくてエンジニアと呼ぶ。彼は楽譜が読めないし、楽器を演奏することはしても、音楽作りの大半は時間もエネルギーもスタジオでのミキシングに費やすからである。ロックに限らず現代の音楽は、単に楽器だけで作り出されるものではない。というよりは、音は機械的な処理をすればどのようにでも変化させることが可能だ。その音をモザイクやコラージュのように組み立てて作る音楽。イーノの作り出すサウンドは一言でいえばそのようなものである。
    ・『ブライアン・イーノ』(水声社)を書いたエリック・タムはイーノのアンビエントを「音の水彩画」と言っている。とてもうまい表現だと思う。ただし、彼の音は最初に書いたように、現実の風景の中で聴いた方がより印象的になる。経験的な感覚から言えば、イーノの音楽には現実の風景を水彩画に変える力があるような気がする。まるで絵のような景色、と言うよりは、比喩ではなく、現実が絵そのものになるのである。
    ・もちろん、彼の作品のどれもが紅葉にあうというわけではない。硬質の感じの音は、街中の渋滞にぴったりという場合もあるし、何も見えない高速道路をすっ飛ばしているときにちょうどいいサウンドというのもある。けれども、彼の作る音は、基本的にはどんな風景も拒絶しない。つまり基本的には、いつどこで聴いていてもさほど違和感は感じない。これは、映画のサウンドトラックが場面やストーリーの展開、あるいは登場人物の心理描写を補強するかたちで使われるのとは、ちょっと違う意味あいがあるように感じられる。
    ・で、新作の『The Drop』だが、なかなかいい。ライナー・ノートによれば、このアルバムはタイトルが何度も変更になったそうである。「Outsider Jazz」→「Swanky」→「Today on Earth」→「This Hup!」→「Hup」→「Neo」→「Drop」→「The Drop」。つまり、イーノの作る音楽にはタイトルなどはいらないということなのだと思う。実際ぼくは「The Drop」というタイトルに近づけてこのサウンドを聴いているわけではない。やっぱり車で聴くことが多いから、音によってイメージされる水彩画は、そのときどきの現実の風景である場合が多い。彼の作る音はちょうど水のように、透明で臭いもなく、それでいていつどこにもなじんでしまう。けれども、決してイージー・リスニングではない。

    1997年9月3日水曜日

    高校野球について

      今年の夏一番時間をつぶしたのは、何といっても野球だろう。メジャー・リーグの野茂の試合はずっと欠かさず見てきたが、7月からは伊良部が加わった。ドジャーズもヤンキースもプレイ・オフに出場可能な位置にいるから、二人の登板以外の試合結果も気にかかる。ヤクルト・ファンだから、日本の野球も気にはなる。特に横浜が急追しはじめた8月は、こちらの試合もついつい見ることになった。それに甲子園。今年は京都の代表校が平安で、ピッチャーがNo.1の川口だったから、とうとう決勝戦までつきあってしまった。こんなわけで、日によっては、朝はメジャーリーグ、昼は高校野球、そして夜がプロ野球なんていう日が続く夏休みになった。もちろん、これは過去形の話ではなく、現在進行形である。
    高校生のぼくの子どもにはあきれられてしまったが、彼は野球部の練習に一日も休まず行って、メジャー・リーグも甲子園も、プロ野球もほとんど見ることはなかった。朝早くから出ていって、夜暗くなってから帰ってくる。顔の日焼けは黒光りという状態で、頬もげっそりこけてしまった。どうせ、地区予選で初戦敗退だったくせに、何もこのクソ暑い時期に一日中外で練習しなくたっていいものを、などと皮肉を言いつつ、ぼくはカウチポテトでテレビの前に寝転がってばかりいた。もちろん、ひと夏、がんばり続けた子どもの努力には感心したし、ぼくのぐうたらな生活にはちょっぴり罪悪感を感じないでもなかったが、それでも、高校野球やプロ野球には、言いたいことをいくつか感じた。

  • ぼくの子どもの高校は地区予選で初戦敗退した翌日から、新チームの練習を開始した。岡山県での合宿や他府県への遠征もやり、夏休み中の休養日はたぶん3日ほどだった。監督のかかげる目標は県大会のベスト8だそうである。費用も相当にかかるが、激励会だの試合の応援だのとよく声もかかる。公立高校で決して強くはないチームだし、クラブとしてたまたま野球を選んだだけなのに、監督は一体何を考えているのだろうと、入学早々から疑問を感じたし、機会があったら文句の一つも言ってやろうという気にもなっている。けれども「それだけはやめてくれ」と子どもが言うから、今のところは沈黙している。ちなみに、子どもはレギャラーはもちろん、ベンチ入りも当分、というよりは3年まで続けても無理なようである。
  • メジャー・リーグを見ていると、選手も観客も楽しんでやっていることがよく伝わってくる。テレビ中継に解説者などはいないことが多いから、日本のように技術論をペラペラとやることもないし、精神論や集団論を唱える人もいない。野球が大味だなどと言われるが、野球を野球として楽しむ姿勢には大いに好感が持てる。そんなスタイルに比べると、日本の野球は高校から、ただただ一生懸命で、そこに人生や人間性を読みとろうとしすぎるという気がする。勝つことばかり考えずにもうちょっと楽しく、時間も短く、体にも気をつけて、と子どもには説教めいて話すが、彼は鼻で笑って、そんなんではクラブをやる意味はないと言う。すっかり洗脳されてその気になってしまっているのである。
  • 今年の甲子園は川口の4連投でわいたが、高校生にあんなに投げさせることを批判する人は解説者にもいなかったし、新聞の記事でも見かけなかった。野茂が100球を越えるとぼちぼち交代かなどとやってるベースボールとどうしてこんなに違うのだろうか。監督に行けと言われても、「ぼくは連投はしません」と言う高校生が出てきたらおもしろいのになどと思うが、自分の子どもを見ていると、とてもそんな土壌ではなさそうだ。自主性を養って自分を大事にするといった発想は、少なくとも高校野球を見る限りでは、ほとんどないと言ってもいいだろう。
  • しかしこのような傾向は学校教育だけに限ったことではない。野茂や伊良部がメジャーに行くことについては、やれわがままだ、自分勝手だと、マスコミはこぞって感情的な批判をした。それで活躍すれば、大々的に報じてヒーロー扱いする。で、日本のプロ野球についての中継や報道はと言うと、優勝争いとは無関係に相変わらず、巨人と阪神ばかりである。野球はチーム一丸、和が大事、報道は寄らば大樹の陰。日本での試合をほとんどテレビでは見ることができなかった野茂や伊良部が今は全試合見ることができる。イチローも佐々木も我を通してメジャーに行けばいい。アメリカは遠いが、メジャーの試合はプロ野球よりも近い。「周囲の声や上からの命令に惑わされずに自分を大事にしろよ。」とぼくは伊良部の試合を見ながらつぶやくが、そのことを一番わかってほしい子どもは、今日も練習で暗くなっても帰ってこない。