2009年11月23日月曜日

ディランとスティングのクリスマス

 

・ディランの"Christmas in the heart"は楽しいアルバムだ。1曲目から「サンタクロースが今晩やって来る」と歌うディラン自身の声が弾んでいる。全曲が有名なクリスマス・ソングでおなじみだが、あのだみ声で歌われると、やっぱり、ディランの歌になってしまうから不思議だ。クリスマスまではまだだいぶ日にちがあるが、我が家では夕方暗くなり始める頃に毎日かけている。

・大不況でアメリカの失業率は10%を超えている。クリスマスどころではない人が大勢だが、ディランはこのアルバムの印税を全額寄付するようだ。ディランのオフィシャル・サイトには発展途上国の子どもたちに50万食、イギリスのホームレスに1万5千食、そしてアメリカの140万の家庭に 400万食の食事を提供するだろうと書いてある。もちろん、これは目標だが、このサイトでは印税の他に募金も求めている。今度のクリスマスには、ディランがサンタになって、大勢の人の飢えを癒すことになる。

dylanxmas.jpg・ディランに孫がいるのかどうか知らないが、このアルバムを聴いていると、ディランが小さな子どもに囲まれて歌っている姿をイメージしてしまう。しかも、何の違和感もなく自然に思える。ところが、ブログを検索していたら、孫の前で歌って泣かれた話が出てきた。本当なのかどうかわからないが、このクリスマス・ソングだったら喜ぶだろうと思う。
・彼は相変わらず精力的にコンサート活動をこなし、ラジオでは20世紀のポピュラー音楽の講義を続けている。今年は新しいアルバムも出した。きわめて自然体で、好きな音楽とともに生きている。どこに行って、誰の前で、どんな歌を歌うのか。その幅の広さは年の功だが、いずれにしても薄っぺらでない深みを醸し出すのは、彼が歩いてきた歴史以外の何ものでもない。

stingwinter.jpg ・ほぼ同時に出たスティングの"If on n winter night......"はきわめてまじめだ。静かで厳粛なサウンドでできあがっている。歌われているのはイングランドやスコットランドで歌われているクリスマス・ソングで、聴いているとジャケットの写真のような雪景色をイメージするし、イギリスに出かけた時に見かけた石でできた田舎の小さな教会を思い出す。まだ聴いていないが、スティングの前作もまた、イギリスに伝わる古謡を集めて、彼なりにアレンジしたものでできているようだ。クリスマスのアルバムを聴きながら、そっちも聴いてみたい気になった。

・ちょっと前にBSでスティングのライブを見た。アルゼンチンのブエノスアイレスでの収録だったと思う。例によってベースを弾くスティングのバックにはドラムとギターしかいなかった。シンプルなサウンドでいつもながらに歌うスティングの声や姿は10年前に大阪で見たのと変わらなかった。肌や声がしわしわになったディランはなるがままという感じだが、スティングからは節制に徹する求道者のような雰囲気を感じる。今度の2枚のクリスマス・ソングには、そんな二人の違いがくっきりと映し出されている。

・今頃になって、Youtubeを見始めている。公式に提供されたU2のコンサートをダウンロードして何度か聴いた。よくできたコンサートで、歌われている曲目も新旧盛りだくさんでなかなかいい。しかし、太ったボノはいただけない。若いままである必要はないが、それなりのふけ方が必要だ。なにより、ボノに贅肉は似合わないだろう。

2009年11月16日月曜日

ベルリンの壁

・ベルリンの壁が崩壊して20年になる。ドイツでは盛大な式典が催されたようだ。その特集番組がNHKのBSでいくつかあった。意外な気がしたのは、現状を批判して、壁の復活を望む人たちがいる反面で、壁の存在やその意味をほとんど知らない子どもたちがいることだった。それは、壁がなくなって20年も経つのに、ドイツ人の中にある意識の壁が未だになくなっていないことと、20年も経つと、壁自体の意味がなくなってしまっていることの両面を教えてくれた。

・第二次大戦後にドイツは東西に分割されたが、東ドイツに位置するベルリンもまた二つに分断された。とは言え、市民の中には東に住んで西の大学に通ったり、住居は西で職場は東といった人も少なくなかったから、道路も鉄道も自由に往来できた。だからまた、東から西への亡命も比較的簡単だった。壁ができたのは分断から16年たった1961年である。その時から、東から西への亡命はきわめて困難になったが、それだけではなく、ベルリンの東西を行き来して生活していた人たちの中には、家族や恋人、友人関係を分断され、職場や学校に通うことができなくなった人たちも数多くいた。ドイツで制作されたドキュメントには、突然行き別れにされた学生結婚をしたカップルの脱出作戦と失敗、拘留と裁判、そして再会が本人のことばによって再現されていた。

・ベルリンの壁は徐々に堅固なものになり、およそ30年の間、一つの都市を分断し続けた。一つの都市が政治体制の対立を理由に引き裂かれ、行き来が自由にできなくなる。しかし、ラジオやテレビの電波は、壁を乗りこえて伝播する。東と西の対立はまた、互いを批判し、自らの正当さを主張し合う情報戦争の舞台でもあった。西からは自由な言論や表現と、豊かな物質文化を謳歌する声が発信され、東からは国家が保障する平等で安定した暮らしが宣伝された。そのような対立は、ソ連の揺らぎと共産圏諸国の混乱によって崩される。ベルリンの壁はそういった第二次大戦後の世界情勢の象徴として存在し、冷戦構造の消滅の象徴として壊された。

・壁を懐かしむ旧東ドイツの人たちは、西側の貧富の格差や不安定な生活を批判する。物質的には豊かでなくても、国によって保障された安定した生活を懐かしむ。しかし、そういった態度が、旧西ドイツの人たちから、怠け者として批判される理由になる。壁のあった30年の間に生まれたイデオロギーから生活スタイルの違いが、東西に分断されて来た人たちの意識に壁を作っていて、それが対立の原因になっている。だからいっそ壁を作って、昔の東の世界に戻りたいという気持ちを募らせることにもなるのである。

・放送されたドキュメントには東ドイツのライプチヒで起こったデモと取り締まりの過程と、当時を振り返る人たちのコメントによって構成された番組もあった。監視され、統制された世界から自由な世界への希求が小川から大河になる。それは一大ドラマのようだが、20年経って実現した社会は、ユートピアにはほど遠かった。けれども、豊かで自由に思えるけれども、幸福だと感じにくい社会という実感は、旧東ドイツの人たちだけが持つ思いではない。東への郷愁と片づけるのではなく、西への批判として受けとるべきことだと思った。

2009年11月9日月曜日

インターネットの現在・過去・未来

 

ジョナサン・ジットレイン『インターネットが死ぬ日』ハヤカワ新書
ジェイムズ・ハーキン『サイバービア』NHK出版

internet1.jpg・新聞やテレビが死ぬ日ならわかるが、インターネットの死ぬ日というのはぴんとこない。そう思いながら『インターネットの死ぬ日』を読んでみた。原題は「インターネットの未来」で、この方が内容を的確に表している。
・この本によれば、インターネットの未来が問題なのは、あまりに巨大になりすぎた現状にある。ただし、それは大きさ自体にではなく、大きくなったゆえに政治力や資本に左右され、専門家や大企業だけに任されるようになってきた点、あるいは何より、安心して便利につかえることが最優先されるようになったところにある。インターネットは草の根の民主主義から生まれたメディアで、新聞や雑誌、ラジオやテレビとはまったく異なる形で発展してきた。その本来のメディア特性が、巨大化したことで失われつつあるというのである。

・20世紀に新しく生まれたさまざまなメディアや道具の多くは、完成品として特定のメーカーが生産し、商品として売られてきた。だから利用者には、そのハードもソフトも、自ら改良して使いやすくしたり、新しい機能を追加することなどはできなかった。不満を聞いて改善するのはあくまでメーカーの責任と権利で、それが次の新商品のセールス・ポイントにもなってきたのである。ユーザーが勝手に手を加えることは主として安全性の観点から法律で厳しく規制されてきた。しかし、パソコンとインターネットはまるで違う。

・インターネットとパソコンの特徴は,さまざまな人びとが夢を描き、アイデアを出し、実用化し、改良してきたことにあり、それを無料か少額の使用料で共有し合ってきたことにある。パソコンはAppleやIBMが商品化し、日本をはじめ世界中にメーカーが開発にしのぎを削ってきた。それを動かすソフトはMicroSoftの独壇場だが、新しい世界の開拓には、無数の人たちによる自由な競争や協力の成果であるものが少なくなかった。インターネットはまさに、その好例だと言えるだろう。

・ユーザーを利用だけに限定して、製品やサービスの機能の改善や開発はメーカーがおこなう。ジットレインは、パソコンやインターネットが、そういった発想の通用しないところで発展したことを力説する。そして同時に、巨大な企業によるユーザーを利用者として限定する新たな戦略の普及に危惧を抱く。ハードもソフトもブラックボックスになっていて、利用者には手も出せない。その例としてIphoneやXBoxの普及をあげるのだが、日本のケータイはその典型だと言えるだろう。

cyburbia.jpgg ・パソコンやインターネットの登場と草の根の民主主義の関係には60年代の対抗文化の影響がある。ジェイムズ・ハーキンが主張するのは、そのまた源流として、ノーバート・ウィナーのサイバネティックスの発想だ。サイバネティックスは情報は一方的な流れではなく相互のもの、つまり一つの情報が発せられた時には、すぐにそれに対するフィードバックがあり、そのやりとりがくりかえされることが重要だと考える。多様な人たちが平等に参加し、自由にやりとりすることで誤りや誤解が正される。それは権力による大衆操作に抗する力にもなる。パソコンとインターネットは、そんな発想に基づいて蓄積された情報の産物であり、それを可能にしたメディアだというのである。

・パソコンとインターネットはハードもソフトも、誰もが自由に参加して、新しい使い道を探し、改善できるメディアである。だからこそ、ウィルスが蔓延したりもする。商品として売られている映画や音楽が無償でダウンロードされて被害を被ったりもする。そういったリスクを防いで安全に使えるメディアにすることが何より必要だと考えれば、それに応じてさまざまな制限が施されることになる。しかしそれは、当然、これからも生まれるはずの可能性を摘むことになるし、人びとを受け身のユーザーに限定していくことになる。インターネットの未来は確実に、国家や企業のもとに舵きりがされはじめているのである。

2009年11月2日月曜日

秋の山歩き

 

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パノラマ台から本栖湖、その向こうの山は龍ヶ岳と雨ヶ岳

・10月になってから毎週山歩きをしている。車で出かけて3〜4時間ほど歩くのだが、すべて、付近の山ばかりだ。当然、山頂に登って見るのは富士山ということになる。冠雪して消えたと思ったら、また冠雪。そのたびに、雪の量が多くなり、やがて根雪になって、上半分が真っ白になる。山に登ると、そんな経過がいっそうよくわかる。

photo53-2.jpg・富士吉田市の東に杓子山がある。河口湖インターから高速に乗ると、すぐに右手に見えるひときわ高く、尖った山だ。いつも気になっていたが、その登山ルートの途中にある高座山(たかざす)まで行くことにした。明見(あすみ)から忍野に抜ける山道を鳥居地峠まで車で行くと、歩くのは1時間ほどで頂上に着く。ただし、ほとんど一直線の山道で、ロープがなければ上り下りが難しい場所もあった。木を切った後の茅場からは、忍野の村と北富士演習場、そして富士山が間近に見えた。長年、入会権を巡って闘ってきた「忍草母の会」のシンボル的な存在だった天野美恵さん(85歳)が亡くなったという記事を見たばかりだった。演習場からは大きな砲撃音が聞こえた。頂上には必死に登る小学生の一群。


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・百藏山(ももくら)は中央線の猿橋駅の北にある。中央高速で岩殿トンネルを抜け葛野川橋を渡る頃に左手に見えてくる山だ。大月市の百藏浄水場に車をとめて歩いたが、ここもきつい登りだった。汗びっしょり。1時間半ほどで頂上に着くと、眼下の桂川と遠くの富士山がよく見えた。

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・パノラマ台は精進湖と本栖湖の間にある。三つ峠から続く御坂山系の西端で、富士山に向かって突き出ている。この先にもうひとつ烏帽子岳があるが、眺めはまさにパノラマで、360度見渡せる。広葉樹の森はブナやケヤキなどをはじめ種類が多様で紅葉もすばらしい。栗やドングリがいっぱい落ちていて、栗ご飯用に十粒ほど拾った。

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左から精進湖、王岳、十二ヶ岳、遙かに三ツ峠、西湖、河口湖、手前の烏帽子岳、眼下の樹海、富士山、朝霧高原、龍ヶ岳

2009年10月26日月曜日

恩人の死

・仲村祥一さんが亡くなった。もう一月ほど前のことで、「誰にも知らせるな」という遺言だったようだ。ご高齢(85歳)とは言え、井上俊さんからのメールを読んだ時には驚いたし、からだから力が抜けた思いだった。

・仲村さんと僕の関係については、彼が75歳の時に出された『夢見る主観の社会学』(世界思想社)をレビューした時にふれた。読み返してみると、それ以降、年数回の手紙のやりとりだけで、一度もお会いしなかったことに気がついた。勤務先の大学を変えて引っ越す前にお会いした時に、「今生の別れになるかもしれん」と言われて、まさかと思ったが、本当にあの時が最後だったわけで、一度お訪ねすべきだったと、今になって反省している。


教員生活を50年してきたが、納得しがたい命令に従うのが嫌いでこの業界に入り、抵抗できる他者には我を通し、妥協の余地ない組織からは身をそらし、「思想の科学研究会」的な勝手連は別として、どのような政治団体にも加わらず、教え子たちにも我が見るところは明言しても好き勝手に勉強せよと励ます式に五つほどの大学を転々としてきた。私はしたくないことをできるだけ回避し、したいことが可能な方へと生活を導いてきたらしい。

・非常勤の時代から数えれば、僕の教員生活もすでに30数年になる。仲村さんの生き方を真似たわけではないが、ほとんど同じ思い、同じ姿勢でここまで生きてきた。「したくないことをできるだけ回避し、したいことが可能な方へと生活を導く」。こんな自分勝手な生き方は、仲村さんと出会わなかったらできなかったかもしれない。その意味では、彼は僕にとって一番の師と言える。

・歳相応と言えばそれまでだが、身近な人や気持ちの通じる人がいなくなるのは寂しいことこの上ない。今年はそんな二人が続いたから、心にぽっかりふたつ、穴が開いてしまった気がしている。

2009年10月19日月曜日

祭日と授業日数

・今年度から、大学の年間の授業回数が1科目30回になった。もちろん、文部科学省からの指導で、日本全国、どこの大学でも、そのスケジュールに改変させられている。とは言え、回数が増えたわけではない。祭日などで減る授業数を、減らさずに実行しろというお達しなのである。しかし、そのために、年間のスケジュールはきわめてタイトで変則的にならざるを得なくなった。とりわけひどいのは月曜日だ。他大学に勤める友人や知人とのメールのやりとりでも、このことがまず話題になることが多くて、どこも対応に苦慮していることがよくわかる。

・後期の授業は9月の第3週から始まった。しかし5連休で月火水が最初から休みで、月曜日はその後も10月12日、11月23日と祭日がある。それに加えて11月の第1週は大学祭で2日が休みになる。つまり、11週で4回休みになるわけだが、その分をどこかで穴埋めしなければならないのである。一方で月曜日を祭日にしておきながら、他方で授業回数を減らすなという国の政策は、まさしく「ダブルバインド」で、奇妙なスケジュールを組むことを強いる結果になっている。つまり、祭日でも授業をおこなうとか、他の曜日におこなうといったもので、これまではあまり気にする必要のなかったスケジュールの確認や、他の仕事との調整に気をつかわなければならなくなったのである。

・おかげで夏休みの開始が8月になってからになったし、学年末のスケジュールも、試験期間、採点や成績の提出が入学試験と重なって、春休みも短縮された。さまざまな業務で飛び飛びに出校しなければならないから、休みという感じがしないままに、新学期が始まるようになった。これでは落ち着いて仕事もできないし、長期間の旅行もままならない。文科省は一方で大学教員の研究業績にもシビアな目を向けるようになったから、大学の教員は教育と研究の二つの仕事について、これまで以上に勤勉になることを強いられている。

・しかも、学生の獲得を巡る競争は大学間でますます熾烈になっている。少ないパイを定員増という形で奪い合うから、条件のよくない魅力に乏しい大学は定員割れで存続の危機にも立たされている。そんな大学が全国で半数近くになろうとしているのが現状なのである。教育と研究の他に学務や広報に時間とエネルギーを割くこともまた、大学にとっては重要なことだから、大学の先生は、どこも休む間もなく働かされるのである。

・授業の回数を増やして、休まずにやる必要が出てくる原因は、大学生の学力低下にある。しかし、皮肉なことに、大学生はますます、授業さえ出ていれば勉強をしていると錯覚するようになっている。知的好奇心にしたがってさまざまに関心をもつことはもちろん、自発的に予習や復習をやることもない。問題意識を持たずにただ教室に来て座っているから、言われなければノートもつけないし、注意すると、話したことは何でもメモをするようになる。手取り足取りでやれば、それだけ受動的で他力本願な態度になるのは当然で、そういう扱いを、生まれた時からずっと受け続けているから、自主的になどと言ってもどうしたらいいのかわからずに、途方に暮れてしまうのである。

・大学が大学と言える場ではなくなってきている。文化の発信基地ではないし、魅力的な人材が育つ場でもない。忙しくて、息苦しくて、何をやっても徒労感ばかりが募ってしまう。大学は時間に余裕がある場だからこそ、新しいものが生まれ、人も育つ。形式的な勤勉さは百害あって一利なしなのである。

2009年10月12日月曜日

団塊再び

・民主党が政権を取ったことで、また、「団塊」ということばを目にするようになった。鳩山をはじめ政権の中枢部に団塊世代が多いからだ。そういえば、自民党には団塊世代と言える有力な政治家は見あたらない。大学紛争やカウンター・カルチャーの世代だったから、当たり前かと思うけれども、改めて、自民と民主の違いに気づかされた

・選挙後の動向を見ていると、政治が大きく変わりはじめていると思う。僕は民主党を支持しているわけではないけれども、その変化には、これまでにない新鮮さを感じて、期待したい気がしてしまう。予算の使い方の大幅な見直しやアメリカとの関係の仕方といったことはもちろんだが、何より、イメージとして印象が強いのは、テレビに映る鳩山夫妻の姿だろう。

・飛行機のタラップから手をつないで降りる二人はきわめて自然で、わざとらしさがほとんどない。それが普段の生活そのままであることは、感覚的によくわかる。同様のことは菅直人夫妻にも以前から感じていたことだが、それは、僕自身が普段している夫婦の関係の仕方に共通した特徴であるからにほかならない。

・僕は「団塊の世代」というくくり方には、以前から異議を唱えてきた。それはこの呼び名が広まったのが、当の世代が三十代になろうかという時点だったことと、数が多いという以外に、何の特徴も意味していない、身も蓋もないことばだと思ったからだ。この世代は、「団塊」と名のつく以前には「全共闘世代」「ビートルズ世代」などと呼ばれていたし、アメリカでも「ベビーブーマー」のほかに「緑色世代」「ヒッピー」「対抗文化」等々さまざまな名がつけられていて、それらはすべて、中身の特徴をあらわしていたのである。

・僕にとってこの世代の特徴は、何より「ライフスタイル」への自覚にあると思ってきた。生活の仕方、人間関係の持ち方について、従来の常識を疑い、新しいものを模索する。それは一方で、社会全体に大きな影響を与える力も持って、今では当たり前のものになった部分もあるけれども、ほとんど忘れられてしまった側面も少なくない。結婚した夫婦が作る関係は、日本では明らかに後者に属していて、そのことは後の世代でもあまり変わっていないと言えるだろう。

・僕が結婚した頃に「ニュー・ファミリー」ということばがはやった。対等な関係で、家事や育児も分担する。そんな生活の仕方が注目を集めて、実践しながらそのことを本に書いた僕のところに新聞やテレビや雑誌がよく取材にきたのは、もう30年近くも前のことだ。僕はそのことをずっと自覚しながら生活スタイルを実践し、記録し、考察もしてきたが、実際に夫婦関係のスタイルは、30年たった今でも、あまり変わっていないと言える。特に僕の世代の人たちの多くは、昔ながらの関係に収まってしまっている。

・僕が鳩山や菅夫妻に感じるのは、「ニュー・ファミリー」の洗礼をライフスタイルとして実践し、定着させたカップルだという仲間意識に近い印象だ。それは「団塊」世代から始まったスタイルだが、「団塊」世代に共通したものでは決してない。むしろ、ごくごく少数の人だけに見られる特徴だろう。だからこそ思うのだが、世代が一緒であることで感じるのは共通性ばかりでなく、同じ時代を過ごしたのに「なぜ?」と思う違和感のほうが遙かに多いのである。保守とか革新とは何より、身近な生活の中でこそ検証できるものなのである。