2017年12月4日月曜日

伊藤守『情動の社会学』(青土社)

 

ito1.jpg・「情動(affect)」は日常使われることばではない。一般的には「感情」や「情緒」が普通だろう。英語では「エモーション」。そんなつもりで読み始めたら、なかなか難しい。この本で使われている「情動」は、自分で意識して表出される「感情」とは違って、その元になる意識以前の身体的なものである。それをさぐるために検討するのは、ウィリアム・ジェームズの「純粋経験(pure experience)」やホワイトヘッドの「原初的感受(primary feeling)」といった概念で、どちらかといえば、「感情」よりは「知覚」と関連するものだ。なぜ、意識できる「感情」ではなく、その元にある「情動」に注目する必要があるのか。著者はその理由を次のように書いている。


・現在のデジタルメディアの特性がいかなるものであり、それがどのような社会的機構を構築しているのか、そしてその機械機構のなかで知性と感性と欲望、そして情動がいかに算出されているのか。本書が試みているのは、このことを解明すること、あるいは解明するために諸概念を手繰り寄せ、実際の分析に手さぐりながらも活かしていること、そのことにかぎられている。(pp.17-18)

・デジタルメディアで飛び交う情報は、人間の歴史上かつてないほど膨大で多様なものになっている。しかし、その機械機構を支えているのはAppleやGoogle、FacebookやTwitterといったごく限られたもので、それらが感覚知覚を管理し制御するテクノロジーとして進化してしまっている。デジタルメディアを利用する人たちは自由気ままに利用していると思う一方で、感覚機能までコントロールされてしまっている状態が現実化しているというのである。それは「コミュニケーション資本主義」と呼べる社会の実現である。

・たとえば、形あるものの本質が設計図であり、生き物の本質がDNAであるように、情報の本質は、表に現れた部分ではなく、その奥に隠されたところ、つまり「情動」にある。著者が訴えたいのは、何よりこの点にある。そして、このような理論的整理をした上で分析するのは、3.11の大地震と福島原発事故と、その後に現れた石原慎太郎と尖閣諸島の購入、そして安倍首相のオリンピック招致での演説である。


・石原発言は、多くの人々の政治意識を、原発問題から領土問題へ、放射能汚染というリアルな脅威から日中の緊張関係が及ぼす脅威へ、とシフトさせる転換点を創り出したのである。言い換えれば、情動の集合的な編成が、リアルな脅威への不安から、自ら作り上げた偽装の脅威へとシフトしたことを意味している(pp.146)

・尖閣といい、オリンピックといい、正しい言動ではないとわかっていながら、それを黙認し、さらに好意的に受け止めようとする。著者はその理由を「不安のなかにあるからこそ、閉塞のなかにあるからこそ、その状況を一変させ不安を払拭させたいとする欲望」に火をつけたのだと言う。萎縮と自粛に囚われたマスメディアの追随と、SNSによる憎悪や嫌悪、あるいは賛同やナショナリズムのことばの拡散が、現実の厳しさを隠蔽し、国威発揚や希望の未来に共振する現象を作りだしている。

・このような主張には、もちろん、異論はない。しかし、「情動」がいわば人間が自覚し発散するあらゆる「感情」や「知覚」の元になるものであるとすれば、喜怒哀楽や優劣(競争)の意識、そして欲望や嫉妬、あるいは「認識」や「知覚」と「情動」の関係は、もっと多様な側面に向かう必要がある。それは途方もない作業を必要とするはずである。

・著者はまた、現在が、近代化が勃興し始めた19世紀と酷似していると言う。新聞や雑誌が生まれ、都市に溢れた人々の集まりを、「群衆」や「公衆」と名づけて注目したタルドに依拠しながら、デジタルメディアが日常的に使われるようになった今日的状況を、「ベクトルが反転したかのように、近代の諸制度から弾き出され、かつ同時に諸制度を食い破るような、その意味で(群衆と公衆という)両義性を体現する集合的な主体の生成」という事態だとみている。

・このような指摘もまた、興味深いものだと思う。しかし、19世紀に続く20世紀もまた、けっして安定した社会だったわけではない。その間に登場した写真や映画、電話やラジオ、そしてテレビといった多様なメディアもまた、それぞれに「情動」に訴えかける特徴を持っていたはずである。そのような側面を含めて、これからの仕事をどう展開するのか。ちょっと無謀に思えるほどに、野心に溢れた内容だと感じた。


2017年11月27日月曜日

『オン・ザ・ミルキー・ロード』

 

journal3-169-1.jpg・去年の9月に久しぶりに映画を見に行って以来、たびたび出かけるようになった。ただし、映画館はその時々で甲府、三島、新宿と、まったく違っている。シネコンがあちこちにできたとは言え、マイナーな映画は、どこでもやるわけではない。だからその時によって、東に北に南と車で出かけることになる。今回は三島の「サントムーン」で上映期間が短かったから、日時が限られていた。日曜日でショッピングセンターは一杯の人だったが、見た映画の観客はわずか13名だった。しかも同世代の人ばかりで、若い人はいなかった。スクリーンをいくつも持つシネコンがあちこちに作られていればこそだと思う。

・「オン・ザ・ミルキー・ロード」は、ボスニア・ヘルツェゴビナ出身のエミール・クストリッツァが監督する、戦時下の農村を舞台にした喜劇映画である。特に場所は明らかにしていないが、ユーゴスラビア分裂後の紛争地であることは間違いない。戦争中で銃撃戦があり、大砲の音が鳴り、ヘリが上空を旋回するなかで、村人たちは何ごともないかのように働いている。泣き叫ぶ豚を屠殺場に引っ張り込み、殺処分した後の血をバスタブに流し込むと、アヒルたちが次々飛び込んで、羽根を真っ赤にする。すると虫がたかってきて、アヒルたちはそれを次々食べ始める。卵をひたすら割る人たちがいて、空襲警報が鳴ると卵を抱えて家に避難する。そんななかで、主人公の男がロバにまたがり日傘を差して牛乳を調達に出かけるのである。

・映画は最初から、えーっと驚くようなシーンが続く。出くわした熊にミカンを食べさせたり、こぼれたミルクを飲みに来た蛇に絡まれたり、なついいているハヤブサが時に彼の右肩に、時に頭の上を旋回したりする。村の男たちも女たちも豪放磊落で、飲み食い、大騒ぎをし、歌を歌い踊るが、そこは同時に戦争中の場所で、突然空爆や銃撃戦が始まるのである。物語はイタリアから逃げてきた美しい女と恋に落ちた主人公が、その女を追いかける兵士たちから逃れて、女と一緒にさまよう展開になる。主人公を演じたのは監督自身で、共演の女優はモニカ・ベルッチだ。

・ユーゴスラビアは第二次大戦後に、チトー大統領によって独自の社会主義を基本にして、東にも西にも距離を取る立場を取る国になった。しかし、その死後、以前からあった民族や地域的な対立が起こり、ソ連が崩壊し、東欧諸国が非共産化すると、ユーゴスラビアからスロベニアとクロアチアが独立を宣言し、内戦状態になった。隣人同士が殺し合うその様子は長期化とともに悲惨さを極めたが、6つの共和国になって終結したのは2006年のことで、戦争は15年も続いたのだった。

・クストリッツァは、これまでにも第二次世界大戦からユーゴスラビアの分裂と内戦にいたる壮大な物語を描いた『アンダーグラウンド』(1995)で、カンヌ国際映画祭パルム・ドールを獲得している。もっともこれは2回目の受賞で、最初はまだ20代だった85年の『パパは出張中!』である。他にも『黒猫・白猫』でヴェネツィア国際映画祭で監督賞、初の長編作の『ドリー・ベルを覚えている?』ではヴェネツィアで新人賞を得ている。ジム・ジャームッシュやジョニー・デップが敬愛し尊敬する監督のようだ。僕はこの監督のことをこれまで何も知らなかった。

・クロアチアやスロベニアは最近では、日本人旅行者の訪れる観光地として人気になっている。自然はもちろん、その歴史や人々の気質など、日本とはずいぶん違うようだ。この映画を見て、そんな違いも実際にこの目で見て確かめたいと思うようになった。そのためにもこの監督の映画をもっと見ることにしよう。

2017年11月20日月曜日

不倫とセクハラ

 

・テレビや週刊誌は、もっぱら不倫とセクハラの報道で賑わっている。視聴者や読者が喜ぶからなのかもしれないが、もういい加減にしろと言いたくなる。と言って、そんなものにつきあって、見たり読んだりしているわけではない。週刊誌の見出しやテレビの番組欄を見ているだけで、反吐が出てきそうになるのだ。もっと報道すべき大事なことがたくさんあるじゃないかと思うし、性倫理を盾に弱い者いじめをする心理がおぞましい。そして何より、権力にとって邪魔な者を執拗に追いかけるくせに、権力の側についた者については、知らん顔をする。そんな姿勢があまりに露骨過ぎるのである。

・伊藤詩織さんが元TBSワシントン支局長の山口敬之にレイプされたと訴えている事件は、新聞やテレビではほとんど取りあげられていない。ジャーナリスト志望の彼女に近づいて、酒や睡眠薬を飲ませてレイプした事件は、警察の捜査で逮捕直前までいきながら、警視庁本部の刑事部長(中村格)の指示で中止されて不起訴になり、再審請求でも「不起訴相当」という判決が出た。山口は安倍首相お気に入りの記者だから、上からの力が働いたのだろうと言われている。しかし、彼女が本(『ブラック・ボックス』文藝春秋)を出しても、外国特派員協会で発言をしても、メディアはほとんど取りあげない。タレントの不倫どころではない、れっきとした犯罪なのにである。

・他方で、不倫ごときで執拗に取りあげられる人もいる。衆議院議員の山尾志桜里に対する週刊誌の取材は現在でもしつこく行われているようだし、議員が不倫などとんでもない、といった論調が相変わらずよく聞かれる。しかし、不倫は犯罪ではない。道徳心や倫理観を盾にすればもっともらしく聞こえるが、性に対する意識は人それぞれでいいし、議員としての能力に関係するわけでもない。そもそも、本人はずっと否定し続けているのである。そして何より、ここにも政権にとってやっかいな奴は叩いてしまえといった意図を感じざるを得ない。

・アメリカでは有名な映画プロデューサー(ハービー・ワインスティーン)が長年にわたって大勢の女優にレイプや性暴力を含むセクハラをくり返してきたことが明るみに出て、あらたに被害を名乗り出る女優が続出している。さらにそれを機に、有名なスターの性的スキャンダルが次々に話題にされるようになっている。力のある者がその地位を利用して行うセクハラはアメリカでも、明るみに出にくいことだった。そんなことを改めて実感した。

・こんなニュースが飛び込んできたら、テレビや週刊誌は、日本ではどうかと騒ぎはじめても良さそうなものだが、やっぱり力ある者には弱いのか、そんな話題はとんと聞かない。かつての映画スターたちの武勇伝の中に、セクハラと言うべき行いが数限りなくあったのではないか。あるいは現在の芸能界で、自らの地位を利用してセクハラ行為を強制する者がかなりいるのではないか。そんなことは容易に推測できるが、おそらく、踏みこんで取材をしようなどという人はいないのだろう。

・伊藤詩織と山尾志桜里。奇しくも同名の二人だが、僕はどちらも頑張って欲しいと思う。地位や権力を笠に着たセクハラに、泣き寝入りせず訴える姿勢が当たり前になるべきだし、有能な女の政治家として現政権を揺るがす力を持っていると期待できるからである。

・それにしても、日馬富士の暴行容疑に対する新聞やテレビの報道ぶりはあきれかえる。

2017年11月13日月曜日

やっぱり、紅葉と薪割り

 

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forest145-2.jpg・この秋の富士山は初雪が遅い。そう思っていたら、10月の末に雪化粧をした。ところがその後の台風で、綺麗さっぱり消えてしまった。その後もうっすら白くなるが、またすぐに消えてしまっている。他方で、今年の紅葉は鮮やかで長持ちしている。10月初めに急に寒くなって色づきはじめた後、暖かい日が続いたせいかもしれない。湖畔を車や自転車で走るのは気持ちがいいが、見物客が年々増えて、人や車で溢れるようになってきた。だから、自転車に乗ることが少なくなった。暖かいとは言え、朝は10度以下になる。寒いところで汗をかくと手足に湿疹が出たりするから、ついつい控えがちになってしまう。

forest145-3.jpg・我が家の欅や紅葉も色づいて綺麗だったが、落ち葉が屋根に積もり、台風で枝もたくさん落ちた。そこで久しぶりに屋根に登って、掃除をしなければならなくなった。はしごに乗り、急な屋根をつたって上までいく。屋根の端にある雨樋にたまった落ち葉を掻き出した。慣れた作業ではあるが、歳を取るとできたことができなくなる。いつまでできるのか。それにしても、台風で落ちた枝の量ははすごかった。雨もよく降ったが、おかげで渇水状態だった河口湖の水量がずいぶん回復した。それでもまだ、マイナス1mのようだ。

forest145-4.jpg ・薪ストーブを焚き始めたら、来年の薪を作らなければならない。例年の恒例行事だが、原木をまず4㎣運んでもらって、それをチェーンソーで40cm前後に玉切りし、斧で割って、積み上げて乾かしていく。今度来た原木は大木ばかりで、切るのも割るのも大仕事になっている。細いのがなかったというから仕方がないのだが、この作業もやっぱり、いつまでできるか心配になる。できることは自分でやる。そんなふうにして暮らしてきたが、それができなくなったら、どうするか。退職をして悠々自適な生活ができるようになったとは言え、老いは避けられない。そんなことを思いながら、あれこれと仕事をしている。

2017年11月6日月曜日

ジャクソン・ブラウンとヴァン・モリソン

 

Jackson Browne "The Road to East - Live in Japan"
Van Morrison "Roll With The Punches"

browne2.jpg・ジャクソン・ブラウンの新譜"Tha Road to East-Live in Japan"は2015年の3月に来日して行ったツアーのライブ盤である。僕はこのツアーの初日に行われた渋谷のオーチャードホールのライブに出かけた。脳梗塞のリハビリで入院中だったパートナーを連れ、車椅子で道玄坂を押して辿り着いて、彼の歌を聴いた。その時の様子は、この欄でも書いている(→)。ちょうど「3.11」から4年目の日だったこととあわせて、いろんな意味で印象に残るコンサートだったし、ジャクソン・ブラウンが以前にも増して好きになった。

・このアルバムは2年半ぶりの日本ツアーにあわせて発売されたもので、僕はコンサートに行く代わりにこのアルバムを買った。前回には、その直前に"Standing in the Breach"が出されていて、それについてもこの欄で紹介した。6年ぶりの新譜だったから、2年半でまた新譜というわけにはいかなかったのだろう。しかし、前回一緒に行った知人が、感動的なコンサートだったとフェイスブックで書いていたから、よかったのだろうと思う。

・このライブ盤がどこでのものなのかは明記されていない。あちこちのものから選曲したのかもしれないが、なかでOsakaと話す部分がある。集められた曲は、古いものから新しいものまである。聴いていると、ライブの様子が蘇って、懐かしくなった。政治や社会のことを率直に歌にして歌う姿勢と音楽性の高さを兼ね備えてミュージシャンは、今、彼が随一だろうと改めて思った。

morrison2.jpg ・ヴァン・モリソンは相変わらず新譜を出し続けている。日本に一度も来たことがないから、僕が好きなミュージシャンの中で、ライブで聴いたことがない最後の人になっている。飛行機嫌いだと言うが、アメリカには何度も行っているから、日本には関心がないのかもしれない、あるいは、日本には彼の歌を好むファンなどいないと思っているのだろうか。僕はもう70年代の初めから、ずっと聴き続けている。たぶん、ジャクソン・ブラウンと同じぐらいの年月になるはずだ。

・"Roll With The Punches"は37作目で前作の"Keep Me Singing"から1年しか経っていない。批評の中に「原点回帰」といった言葉が多いように、ブルースをテーマにしたものだ。オリジナルもあるが、ボ・ディドリー、Tボーン・ウォーカー、サム・クック、そしてジョン・リー・フッカーといった人たちでおなじみのブルースの古典といった曲をカバーして、年齢を感じさせないほどに力強く歌っている。タイトル曲は「パンチで揺れる」といった意味だろうか。ロックンロールする歌と演奏は、ジャケット写真のように、まるでボクシングやプロレスを戦っているようである。

・ジャクソンブラウンもヴァン・モリソンも「歌うために生まれてきた人」だ。そして「いつまでも歌い続け」ようとする人だ。ここにはもちろんもう一人、ボブ・ディランがいる。彼らとはこれからもずっと、死ぬまでのつきあいだ思っている。

2017年10月30日月曜日

立憲民主党に

 

・森友・加計問題の追及を隠すための解散が自公の現状維持という結果で終わりました。「希望の党」が「民進党」を飲み込み、そこから排除された人たちが「立憲民主党」を立ち上げるという慌ただしい流れの中で、終わってみれば、自公の数はほぼ変わらずでした。安倍首相は疑惑は晴れて、憲法発議に向けて進むと公言しています。投票日は折から強い台風が列島を襲い、期日前投票が大幅に増えたにもかかわらず、投票率は前回より微増の戦後二番目の低さでした。天気がよければ、結果はもう少し違ったものになったかもしれませんから、安倍首相の悪運の強さには、改めてうんざりしました。

・自公の勝利に反応して株価も上がっています。上昇の仕方は戦後最長で、経済成長期を超えているとも報道されています。しかし、この現象が日銀や年金機構の介入によるものであることは、大きく報道されてはいません。アメリカの好景気に影響されているという側面もありますが、アメリカではブラック・マンデーの時によく似ていると警鐘を鳴らす人もいます。東芝に日産、そして神戸製鋼と、日本の経済を支える企業が、次々とおかしなことになっているのに、なぜそれが株価に繁栄されないのでしょうか。

・安倍政権は選挙で信任をされたと言っています。しかし、得票率を見ると、「自民党」が得た議席が国民の判断を反映していないことがよくわかります。小選挙区で「自民党」が得た票は2669万票で得票率は48%にすぎないのですが、75%の218議席を占めています。他方で「希望の党」は1144万票で18議席、立憲民主党は486万票で18議席でした。小選挙区制の弊害が顕著に出たと言っていいでしょう。ちなみに比例区では「自民党」は1852万票(33%)で66議席、「立憲民主党」は1107万票(20%)で37議席、「希望の党」は966万票(17%)で32議席でした。投票数自体で見れば、安倍政権が信任されたとはとても言えない結果だったと言っていいでしょう。

・うんざりする選挙の中で「立憲民主党」の頑張りは、一筋の光明だったと言えるかもしれません。「枝野立て!」という声に推されて立ち上げた新党は、ツイッターなどのSNSを駆使した選挙運動を展開しました。ツイッターのフォロワーは数日で10万近くになり、最終的には19万を超えました。また選挙活動を支えるカンパも8000万円を超える額が集まったようです。枝野代表が登場した街頭での演説には、どこでも大勢の人が集まり、「エダノン!」というかけ声がわき起こりました。最終日の新宿には8000人が集まりましたが、秋葉原の自民党には日の丸が乱立して、その対照が、浮き彫りにされました。しかしこの違いがマスメディアで報じられることはなかったようです。

・「立憲民主党」は野党の統一候補を求めて活動していた市民グループの要望を受けとめて「生活の現場から暮らしを立て直します」「1日も早く原発ゼロへ」「個人の権利を尊重し、ともに支え合う社会を実現します」「徹底して行政の情報を公開します」「立憲主義を回復させます」の五つの政策を掲げました。そして枝野代表が選挙活動でくり返し訴えた党の理念は、「上からではなく下からの政治」「保守とリベラルの対立ではなく、リベラルであり、かつ保守である立ち位置」でした。

・この理念と政策はきわめて当たり前で穏健なものだと思います。しかし新鮮に見えるのは、安倍政権が保守反動的な政策を実現してしまっているせいではないでしょうか。非正規が増えたのに失業率が減ったと吹聴し、とっくに破綻しているアベノミクスをまだ道半ばだとごまかし、戦争法案に共謀罪といっためちゃくちゃな法案を強硬に成立させました。森友加計問題隠しの露骨さは言うまでもありません。そんな状況に対する批判票は希望の党もあわせれば多数派になるのですが、結果は正反対になっています。

・さてこれからどんなことが起こるのか。北朝鮮の脅威をあれだけ煽った安倍総理はトランプ大統領来日時に、松山選手を伴って一緒にゴルフをやるようです。それが終われば憲法改悪に邁進することでしょう。得票数の中にある批判票の多さは無視して、国会内の議席数だけを理由にする傲慢さは、これまで以上に強くなるはずです。国会での質疑時間をこれまでの野党に多い時間から、議席数にあわせたものにするなどと言い始めています。それだけに、小さいとは言え野党第一党になったのですから、「立憲民主党」には頑張ってほしいものだと思います。国民に呼びかけて、一緒に活動をする。そんな動きが’起こるかもしれません。

2017年10月23日月曜日

黒部峡谷と飛騨

 

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・ここ数年、10月にはパートナーの誕生日をどこかに出かけて過ごすことにしている。今年は宇奈月温泉に泊まって欅平までトロッコ電車に乗ることにした。去年は栂池高原に泊まって自然園から白馬を眺めたし、一昨年は伊豆に出かけた。噴火前の御岳に出かけたのは何年前だったろうか。
・秋の長雨が続いて、当日の予報は雨。朝5時過ぎに雨の中を出発したが、松本を過ぎたあたりから雨はやみ、やがて薄日もさしてきた。僕たち二人はそろって晴れ男、晴れ女で、どこかに出かけて雨にふられたことがほとんどない。だから今度も、と思ったのだが、道中雨にふられることはなく、帰り道の高速で山梨県に入った頃から雨になった。ジンクスは今回も破られなかったが、帰った後は台風で豪雨になった。

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・宇奈月温泉には10時過ぎに着き、さっそくトロッコ電車に乗った。金曜日なのに30分おきに出る電車はほぼ満員で、アジアからやってきた人たちが目立った。日本の観光ブームはこんなところにまで及び始めている。そんな様子に驚いた。
・トロッコ電車は平均速度16kmほどで1時間20分かけて欅平まで走った。黒部峡谷は日本最大の深さを持ち、それを利用してダムと発電所がいくつも作られた。鉄道はそのために敷かれたのだが、ものすごい工事だったことは、乗っていてもよくわかった。もっとも黒四ダムの建設では長野県側の扇沢からトンネルを掘るという別工事になった。僕はそのルートで2007年に立山に行った。

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photo79-6.jpg・雨は降らなかったが山には雲がかかって、北アルプスを眺めることはできなかった。帰りはルートを変えて、富山経由で飛騨から松本に出た。今年の紅葉は遅いなと思ったが、飛騨から上高地にかけての道路沿いでは、山は黄色に染まり始めていた。
・それにしても一泊二日で600km以上を一人で運転するのはきつかった。一泊ではなく二泊にすればよかったと思ったが、一日ずれていれば、台風でキャンセルしていたかもしれない。台風直撃の投票日。低投票率で安部の悪運の強さにうんざりしてしまう。