2002年6月17日月曜日

ワールドカップについて

 

  • ワールドカップが後半戦に入った。すでに3週間、連日の熱戦を見て、もう充分堪能した気になっているが、日本が決勝トーナメントに進出したから、まだまだ目を離すことはできない。けれども、正直言ってぼくはもう、かなりくたびれている。サッカーのおもしろさや怖さを、今さらながらに実感したのだが、それももうすでに満腹状態になっている。
  • ぼくはサッカーはそれほど好きではない。大学生の頃からずっと見てきたのはラグビーだったし、ここ数年、特に熱心なのはメジャーリーグの野球だった。Jリーグが発足してからもう10年近くなるが、実際に見に行ったのは、リーグ昇格をかけた京都パープルサンガの試合ひとつだけだし、テレビの中継もめったに見ない。中田がセリエAのペルージャに行った年はWowowで中継したから何度か見たが、2年目からはCSのスカパーになって、見られなくなった。
  • ラグビーや野球にくらべて、それほど熱心になれない理由はひとつ。点が入らないことだ。引き分けが多いし、ペナルティ・キックで勝敗を決めたりする。その白黒つきにくいところが面白くない。そんなふうに思っていたのだが、ワールドカップを見ていて、その1点の重みというのがよくわかった。1点がどちらにはいるかによって、気持ちは天国と地獄に別れる。淡々としたストーリーに突然、クライマックスがやってくる。サッカーはその瞬間をじっと待つドラマである。
  • ラグビーはサッカーから派生したものだが、ゲームとしては対照的で、点を積み重ねていくことで展開する。一試合で何十点もはいるし、百点を超えることも珍しくない。それは野球も同じで、点が入らないことはまれで、二桁の点が入ることも多い。サッカーはゴールしそこなってため息といったシーンが多いから、どうしても見ていてストレスがたまることになる。凡試合ではそれがつまらなさの原因になるのだが、ワールドカップでは国民の期待や国の威信がかかっているから、そのなかなかとれない点をめぐってくり広げられる戦いに、一瞬も目が離せなくなってしまう。たった1点がもたらす狂喜と落胆のゲーム。暴動が起こるのも無理はないのである。
  • 今回のワールドカップでも、すでにあちこちで暴動が起こっていることが報道されている。日本に負けたロシア、決勝トーナメントに残れなかったアルゼンチン。韓国では霊になって韓国チームを支えるといって自殺した青年がいたそうだ。悪名高いイングランドやドイツのフーリガンは国外に出ることを徹底的におさえられたから、日本や韓国で騒ぎが起こることは、今のところない。けれども、これから決勝までのあいだに何が起こるか、まだまだわからないだろう。
  • いずれにしても、今、1点をめぐって世界中が一喜一憂している。大げさではなく、世界大戦状態にあるといってもいい状況だ。実際に殺し合い、破壊しあう戦争とはちがって、スポーツなら大いに結構という気もする。何しろやっていることは、ボールをゴールにいれるということだけなのだから。けれども、国中が大騒ぎという状態を見ると、こんなイベントがはたして必要なのだろうか、という疑問も感じてしまう。ワールドカップが原因で戦争が起こるといった可能性は少ないと思うが、そんな不安を感じてしまうような興奮ぶりが気にかかる。
  • ワールドカップは、ヨーロッパや南米の人びとにとっては長い間親しまれてきたイベントだが、世界中を巻きこむような形になったのは、テレビによる中継がはじまってからで、その巨大化はここ数回の大会で起きた現象にすぎない。だからこそ、今回のテレビ放映権料が一気に高額化したりもしているのだ。その放映権を獲得したドイツのテレビ局がつぶれたり、試合のチケットがうまく捌ききれなかったりといった不手際もあって、FIFAが批判されているが、FIFAの対応を見ていると、ワールドカップとはしょせん、一スポーツ団体がはじめた国際大会にすぎないのだと、改めて思ってしまう。FIFAにまつわる利権の大きさも計り知れないが、世界中を揺るがす巨大なイベントであることを認識していない、その能天気さも気にかかる。
  • スポーツはメディア、特にテレビの力によって、ますます巨大なイベント化していく。興奮、狂喜、歓楽、怒り、落胆、悲哀といった感情とそれを共有することでもたらされる一体感を消費させる場として欠かせないものになっている。ぼくはそこに入りこむことに消極的ではないが、みんながみんなという状況を目の当たりにすると、ちょっと躊躇して、一歩後ずさりしたい気になってしまう。「盛り上がること」だけが目的の行動には、何か気味の悪い影を感じとってしまうからである。
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    unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。