2003年3月10日月曜日

心と肉体の関係について

 
・三浦雅士『考える身体』NTT出版
・下條信輔『意識とは何か』(講談社新書)『サブリミナル・マインド』(中公新書)
・アントニオ・R・ダマシオ『生存する脳』(講談社)


・茂木健一郎『心を生みだす脳のシステム』NHKブックス
三浦雅士の『考える身体』は舞踏をテーマにした身体論だが、身体感覚のもつ意味に注目して、そこから知識、知性、あるいは理性を問い直すといった内容になっている。たとえば芝居や踊り、またロック・コンサートに集まる人たちは狭い場所にからだを寄せ合うようにぎっしり詰め込まれたりする。しかし、それは必ずしも居心地の悪さをともなうわけではない。むしろ、そのような接触が、見ず知らずの人間同士に連帯感を持たせたりする。しかもパフォーマンスへの共感には、それが大きな役割を演じることになる。それは、「感動」がそもそも身体的なものであるからだ、と彼は言う。「それは嵐のように、突風のように襲ってくるのである。鼓動が高まり、背筋が青ざめる。文字通り打ちのめされるのである。」で、理屈は後から考えられる。


たとえばことばは考えるために欠かせない道具だが、それ以前に話し、聞くための道具でもある。で、それは頭でではなく、からだにしみこませるようにしておぼえていく。体得である。発生(発達)的にみれば、人が頭や心でしていることのほとんどは、まずからだから始まっている。楽器を弾く、絵を描く、自転車に乗る、ボールを投げる、蹴る………。しかし人間はまた、その身体を精神とは区別して、意識的にコントロールできるもの、すべきものであると理解するようになった。


近代の知は社会科学も人文科学もそれを前提にして発達したし、身体や感性に訴えるスポーツや芸術(音楽・美術)も同様だった。音楽は座して、耳を澄ませ、意識を集中して聴くものであり、美術は静かに凝視して味わうもの。コンサートや美術館でおなじみのものだ。スポーツだって冷静さやスポーツマンシップが何より尊ばれた。その意識や心や精神の偏重からからだをどう再発見していくか。三浦雅士はその解き口を最新の脳科学や認知心理学に見つけている。


下條信輔 の『意識とは何か』を読むと、「私」という意識が脳のどこかにあるのでもなく、もちろん霊魂のような神秘的なものでもなく、脳の各部と身体のあらゆる部分の関係、その相互作用の中にあるものだということがわかる。

脳は孤立した存在ではなく、身体を支配し、逆に身体に支配されます。この身体は一方で脳の出先機関であるとともに、その基礎でもあり、さらに脳にとっての環境の重要な一部を構成します。このように脳は(したがって心も)世界と連動し合い、反響し合い、取り込み合う存在なのです。(5頁)
・環境に対してからだが何かを感覚し、反応して行動する。それが情報として記憶される。蓄積された記憶(来歴)は意味のもとに整理される。記憶の場は第一に脳だが、しかし、「知覚のように身体に染みついた反射的知性や、身体反応をともなう情動表出、身体の生理的特徴」といったものもある。また、このように蓄積された記憶は、そのほとんどが意識されないものでもある。心や精神、あるいは理性は、この意識できる部分で自覚されがちだが、しかし、「私」という存在の自覚は、実際には広大で深遠、無意識の部分との複雑な関係の中に現れる。最近の脳科学や認知心理学は、その仕組みを解明しようとするところまできているようだ。


類似したテーマの本を何冊か読んだ。聞き慣れないことばが次々と出てきて読みすすむのが大変だった。たとえば脳の各部分の名前などは、何度も図にもどって確認しないとわからない。たとえばこんな文章。

脳の後頭葉には、視覚野がある。側頭葉の上側には聴覚野があるが、特に左の聴覚野は、ウェルニッケ野と呼ばれ、言葉の意味を処理する部位だと言われている。頭頂葉には、体性感覚(触、痛、温度、など皮膚の表面の感覚と、筋覚、関節覚などの深部感覚)を処理する領域があり、また、空間知覚や、ボディ・イメージを司る領域がある。これらの領域に嗅覚、味覚を処理する領野を加えて、「感覚野」と総称する。(茂木健一郎『心を生みだす脳のシステム』23頁)
けれどもまた、読み慣れると、おもしろい発想の概念にも興味をもった。たとえば脳の活動はドーパミンとかアドレナリンといった化学物質によるもののほかに、「ニューロン」と呼ばれる電気信号によっておこなわれるものがある。その「ニューロン」の働きには「相手がある行為をするのを見た時に、自分の脳の中であたかも自分が同じ行為をしているかのようなニューロン活動」があって、これを茂木は「ミラーニューロン」と呼んでいる。それは新たな行動の学習や、他者の心的状態を推定するのに役立つという。「人のふり見て我がふりなおせ」が脳のメカニズムとして説明されている。あるいは社会学でいう「他者の役割取得」にも近い。 


またアントニオ・R・ダマシオが『生存する脳』のなかで取り上げている「『あたかも』装置」もおもしろい。それは「「情動的」身体状態を身体で表現しないで、脳の中にその身体状態の不鮮明なイメージをつくる」はたらきである。つまり私たちは身体そのものをはバイパスして、あたかもは身体がはたらいているかのように感覚するというのだ。それは時間やエネルギーを節約し、脳の内側だけでつくりあげるヴァーチャルな世界(脳-身体-環境)である。


このあたりまで読んでくると、「私」という意識の存在がいったいどんなものか、おぼろげながらに見えてくるような気になる。このような視点と社会学的な「自我論」「対人関係論」を重ね合わせて「感情の社会学」を考えてみる。おもしろいけれど、はるかなる道。

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