・ロバート・F・マーフィー『ボディ・サイレント』新宿書房
・アーサー・クラインマン『病いの語り』誠心書房
・半世紀以上も生きてくると、からだの具合がいつでも万全だというわけにはいかない。たとえば、今は50肩で右腕が十分に動かないし、腰の調子も不安定だ。胃の薬も欠かせない。痛い、重苦しい、むかつく、だるい………。どれも不快だが、こんな感覚が日常化すると、それとうまくつきあう術もわかってくる。
・ところが医者に相談すると、食生活は?酒は、タバコは?睡眠、ストレスは?運動はしてますか?と、決まったことを聞いてきて、決まったアドバイスをしてくれる。「病気」にはかならず原因があって、それを治療する方法も、大概、確立されている。胃カメラ、血液検査、尿検査、CTスキャン、超音波………、で注射や薬を処方してくれて、不摂生や意志の弱さを戒めるというわけだ。
・もちろん、医者の言うことは逐一ごもっともで、反論できることはほとんどない。けれどもいつでも、聞きたいこと、あるいは聞いてほしいこととはちょっと違うんだけどな、という気持を感じてしまう。教師というのは人に教えることはあっても、人からの教えを素直に受け止めない。このような気持は、そんな職業病と根っからのへそ曲がりのせいかもしれない。からだの調子が悪くなると、そんな反省の気持も出て、医者の忠告を思い出したりするが、回復すればすぐに忘れてしまう。
・アーサー・W・フランクの『からだの知恵に聴く』はみずからの病気(心臓発作と癌)の経験を素材にした社会学である。ここで問われているのは、痛みや苦しみ、あるいは不安や焦りといった感情として経験される、自らの病いについてであり、それとはずれる医療や医学、医者や看護士との関係である。
・身体への治療は人に対してなされるべきことのごく一部にすぎない。私のからだがダウンしたときに起きたことは、からだだけではなく、私の生にも起きていたのだ。
・体験とはそれを生きるべきものであって、支配すべきものではない。からだは自分自身によっても支配されるべきではない。からだは人生の手段であり、媒体である。私はからだの中で、からだを通して生きるのだ。心とからだを切り離すべきではないし、からだを物ととらえるべきでもない。『からだの知恵に聴く』15頁
・医学は病気をからだの変調や不全としてとらえる。だから医者が立ち向かうのは病気、つまり病んだ身体であって、その症状を示す患者そのものではない。患者にとって特別の経験も医者や看護士にとっては日常的な仕事の一例でしかない。その感覚の落差が医療行為のなかではほとんど無視されてきた。もちろん、医者も看護士も毎日数十、数百人の患者に対面するから、その一人一人の心の中まで思いはかっていたのでは、仕事になりはしない。もちろん、町医者とは互いによく知っている関係をつくることができる。けれども、病気の正確な診断は、大きな病院に行かなければはっきりしないことが多い。病気と医療行為のあいだには、そんな根本的な断絶がある。
・ロバート・F・マーフィーはアマゾンをフィールドにする文化人類学者だが、やっぱり脊髄癌におかされた自分の経験を記録したものだ。病気になるとはどういうことか、他者の態度はどう変わるか、所属する集団の扱いは、そして死と闘い、それを受け容れることとは………。彼は病いによって身体に障害をもつことは「からだのあり方であると同時に、社会的アイデンティティのあり方」でもあるという。自らの経験や実感に基づく分析であるだけに、とても説得力がある。もちろんそれは『からだの知恵に聴く』にも言えることだ。
・アーサー・クラインマンの『病いの語り』は、前記した2冊とは違って、病いに冒された者の経験、その内的世界や周囲の人々との関係、そしてもちろん医療行為について、ひとつの研究領域として分析しようとしたものである。彼は医療が診断する「疾患」(desease)とは区別して、患者固有の体験を「病い」(illness)と呼んで区別する。その「病い」にとって大事なのは患者やその身近な人間たちが語る物語である。
・病いの語りは、その患者が語り、重要な他者が語り直す物語であり、患うことに特徴的なできごとや、その長期にわたる経過を首尾一貫したものにする。病いの語りを構成する筋書きや中心的なメタファーや、あるいは表現上の工夫は、経験を意味のある方法で整理し、それらの意味を効果的に伝達するための文化的、個人的モデルからひき出されるものである。『病いの語り』61頁・「病い」とは単に身体的な変調に限定されるものではなく、それを経験する人の感情の起伏や、人生を通した意味づけ、周囲の人たちとの関係の変容に注目する視点である。医学のおかげで寿命が延びて、その分、病院の世話になったり、そこで死を迎える人が増えた。そのことで問題になるのは、病気そのものではなく、それを経験する人の心。これは医学にとってというよりは人間論や人間関係論にとっての新しい課題なのだと思う。