・イラクの人質事件で「自己責任」ということばが頻繁につかわれた。危険を承知で出かけた行為は国家にとっては迷惑だという考え方で、ずいぶん議論がたたかわされた。政府関係者の発言が引き金になったものだが、世論の体勢は、この意見に同調していたように思う。おもしろかったのは海外からの反応で、おおかたは、捕まったボランティアやジャーナリストの人たちに同情的で、敬意を表すべきだとするものも多かった。
・なぜ、このような違いが出てきたのか。その理由を考える基本は、個人と社会、あるいは国家の関係についての日本人のとらえ方にあるのだと思う。簡単に言えば、日本人にとって「個人」よりは「国家」が優先するということ、「社会」と考えられる集団の枠組みが「世間」という独特の構造をもったものだという点にある。
・佐藤直樹著『世間の目』は、そんな「世間」と「個人」の関係を考えるために、タイミングよくだされた好著である。彼によれば「世間」とは「私たち日本人が集団になったときに発生する力学」で、日常的な人間関係から「世論」といった大きなものにまで作用するものである。「世間」は人間関係のなかの些細な行動や発言を律するものであり、また、場合によっては「きわめて強力に人間を拘束するような」力となって個人の抵抗を難しくする。
・私たちが日頃の人間関係で気をつけるのは、何によらず出すぎてはいけないこと、協調の精神と謙遜の気持を態度で表明すること、他人に世話をかけないこと、かけたらそれなりの返礼をし、侘びたり感謝の念を表すこと等々である。人間関係を円滑に行うためには欠かせない処世術だが、この点が強調されすぎると、個人の言動は抑えられてしまうことになる。
・この本では、そんな「世間」という枠組みがもたらす弊害について、医療、学校、職場、事件、マスコミ、ネット社会という章を設けて具体的な事例をもとに分析している。「世間」というキーワードを通して見直すと、確かに腑に落ちることは少なくない。
・医者が患者を子どものように扱うこと、学校などでのイジメの発生のメカニズム、過労死や過労自殺、あるいは理由のわかりにくい凶悪な犯罪や、少年少女が起こす事件の数々。さらにはそのような事件や出来事についてのマスコミの報道の仕方、被疑者や問題の当事者に浴びせられる匿名の批判や誹謗中傷の電話やメール。このような事例を見ていくと、「世間」という古くて、なおかつ現在でも強力な枠組みのもつ問題は、けっして小さくないことがよくわかる。
・「世間」は「個人」と相いれないものであるし、国際的には通用しにくい日常感覚である。だから、一方で、個性を大事にしたり、国際感覚を身につける必要性を説いても、同時に、「世間」を気にしていたのでは、その芽も摘まれてしまうことになる。イラクでの人質事件に対する政府や世論やメディアの姿勢が明らかにしたのは、何よりその点だったのではないかと思う。
(この書評は『賃金実務』6月号に掲載したものです)