2005年9月20日火曜日

ユートピアについて

 

yutopia1.jpg・ユートピアについての本を読んでいる。もっとも最近書かれたものはない。ユートピアということばもあまり使われない。それではなぜユートピアかというと、ライフスタイルについて考えるためである。現在の日本人の生活や生き方はいいものなのかどうか、理想に近いものなのか、あるいは遙かに遠いものなのか。それを考えるための尺度として、古今東西のユートピア論、ユートピア小説を読もうと思ったのである。


・いわゆる「ユートピア」と名がつく物語はそれほど多くはない。誰もが名前ぐらいは知っているトマス・モアの『ユートピア』とウィリアム・モリスの『ユートピアだより』ぐらいかもしれない。けれども、理想郷をテーマにしたものは、モア以前から存在するし、モリス以降にもたくさんある。あるいはSFなどに目を向ければ、これはもう無数と言ってもいい。とても全部というわけにはいかなかったが、そのいくつかと数冊の「ユートピア論」を読んでみた。


yutopia3.jpg・トマス・モアの『ユートピア』は、1515、6年頃に書かれている。当時のイギリスの政治や社会の状況を痛烈に批判した風刺小説という意味合いが強い。『ユートピア』はラテン語で、あくまで人に聞いた話として書かれたが、それは彼が時の国王ヘンリー8世の下で重要な地位についていたからである。ヘンリー8世は離婚を目的にカトリックを離れプロテスタントを国教としたことで有名な暴君だが、モアは彼によって断頭台にかけられている。理由は『ユートピア』ではなく、カトリックを支持し続けたことにある。
・「ユートピア国」には貨幣制度がない。また貴金属は価値がないものとして認識されている。つまり、財産の私有が認められていないし、国民のほとんどは、それを必要と考えていない。だから虚栄や搾取といったこともない。人が生きていくのに必要なものはまず食べ物だが、それはすべての国民の手でつくられる。もちろん都市に住んで様々な専門職に従事するものはいるが、その人たちも収穫の時期には田舎に出かけて手伝いをする。そうすれば、一日6時間働くだけで、国から飢饉はなくなるという。したがってユートピア人には、一日の3分の1を自由に過ごすゆとりがある。それを使って人びとは団らんし、また勉強をする。それはきわめて合理的で、清く正しい世界である。

・生活の必需品にしろ文化品にしろ、あらゆる必要な物資を潤沢豊富にそろえるのには、6時間という時間は決して足らないどころか、むしろ多すぎるくらいなのである。このことは、他の国々においてはどんなに多くの国民が遊んで生活しているか、ということをとっくり検討する時、自ずと判明することがらである。(84ページ)

・遊んで生活している人とは、司祭や聖職者、王侯貴族、地主、紳士といった支配層、あるいはそれに雇われている人たちをさしている。だれもが働き、財産を一人占めしなければ、飢える人が出る社会は克服できるし、病院をつくって伝染病による大量死を防ぐこともできる。ここには当時のイギリスやヨーロッパ諸国の現状に対する痛烈な批判が読みとれるが、そこにはまた、マルクス以前に発想された共産主義的な理想郷という性格もうかがえる。

yutopia2.jpg・ウィリアム・モリスの『ユートピアだより』は1890年に書かれている。モアの『ユートピア』から400年近くたっているが、イギリスの社会、とりわけ人びとの生活は改善されていない。もっとも、社会そのものは大きく変動して産業革命が起こり、イギリス人の多くは都市生活者になった。生活の劣悪さと貧困は、その都市で起こる現象になっている。19世紀にはイギリスは世界中に植民地をつくり、ヴィクトリア女王の下でもっとも繁栄する国となったが、モリスがユートピアを描いて批判したのは、モア同様に時の支配層である。ただし、そこには近代化の中で台頭したブルジョアという新しい階級が含まれている。モリスはマルクスに共鳴して社会主義的な社会を提唱するが、そこにはまた、機械によって支配されない人間の手仕事やデザインや美観を重視した建築物や道具、あるいは印刷物といった発想と実行がある。彼は思想家であり作家、あるいは詩人であると同時に、建築物や木工用品のデザインを手がけ、自著を自分の手で出版した。ロンドン郊外にあるケルムスコット・ハウスには当時の印刷機が残されている。


yutopia5.jpg・ケルムスコット・ハウスはロンドンのテムズ河畔にある。ケルムスコットはコッツウォルド地方にある村の名で、モリスはその間をボートで行き来した。ロンドンからコッツウォルドまでのボートでの行程は『ユートピアだより』にもある。残念ながら今回の旅ではケルムスコットには行けなかったが、その近くのバイブリーでは、マナハウスに一晩泊まって周囲の景色や雰囲気を楽しんだ。

・モリスが『ユートピアだより』で描いた世界は近代化によって劣悪になった社会環境とブルジョア階級の強欲さを批判したもので、やはり人びとは衣食住に関わるものを金銭でやりとりはしないし、また私物化しようともしない。そして大量生産で出回る粗悪品は排除されている。衣食住に必要なものは人びとが共同して生産し、そこに従事する仕方も積極的なものだ。つまり、人びとは自分の生き甲斐としてものを工夫してつくり、技を磨こうとする。20世紀になってモリスの理想は一つはロシア革命とソヴィエト連邦の誕生となって実現する。そしてもう一つは大量生産品にデザインや品質の工夫をするといったバウハウスの発想や、アメリカにおける商品文化の台頭へとつながっていく。 

・トマス・モアの『ユートピア』は外国に旅して理想郷にたどり着いた者の話として描かれている。それはコロンブスのアメリカ大陸発見以降の大航海がヨーロッパにもたらした驚きや富、そして世界認識の変化を反映したものだ。一方、ウィリアム・モリスの『ユートピアだより』は主人公が一時期未来に行ってしまうという想定で書かれている。異世界の創造が空間から時間に移行したというのは、19世紀がそれだけ未来や将来のことを現実的なものとしてとらえるようになったことを意味している。


・20世紀になると、この時間を未来に設定した物語がたくさん書かれることになる。その代表はH.G.ウェルズで『タイムマシーン』といった時間を旅する道具そのものが題名の小説も書かれた。科学技術と機械によってもたらされる世界は、一面では人びとに無限の可能性を夢見させる。しかしまた同時に、とんでもない悪夢の世界も想像させる。機械に抑圧される人間、機械を使って管理される人間。20世紀の前半だけでなく、後半、あるいは最近でも、このようなテーマで書かれる小説や映画は数多い。


yutopia6.jpg・「デストピア」つまり逆ユートピアをテーマにした作品としてはG.オーウェルの『1984年』と『動物農場』が有名である。それらは革命後に全体主義的な国家に変貌したソ連やヒットラーのドイツを批判した物語だと言われたが、また同時にメディアが発達して管理化の進んだ先進資本主義の社会にも当てはまるのだともされた。『1984年』は1948年に書かれ、普及し始めたばかりのテレビが国民を監視する道具として使われる独裁国家が舞台だった。小さな部屋の壁一面をおおう巨大なテレスクリーンは双方向で、政府の宣伝を流すと同時に人びとの行動を監視する。空恐ろしい世界として描かれたが、今多くの家にはテレスクリーンに負けない大画面のテレビがあり、双方向のインターネットに接続されたパソコンがある。そして町のいたるところに監視カメラ……。それを異様と思わないのは、それが危険なものではないとわかったからなのだろうか。それとも危険さに無自覚なだけなのだろうか。(上の写真はオーウェルがはじめて就職したロンドンの北にある本屋さん跡に掲げられた記念碑、今はピザ屋さんになっている)


・科学技術と機械を駆使した上にできる理想郷とそれとは反対に、それらを全く拒否した上で達成されるユートピア。この関係は60年代にでた「対抗文化」のなかでも大きな議論となる。クリスチャン・クマーの『ユートピアイズム』(昭和堂)にはユートピア理論に共通してみられる特徴として人間とその理性に対する信頼があるという指摘がされている。


・物質的に豊かで、社会的に調和が保たれ、個人の自己実現が可能であるような多少とも永続的な状態を生み出すことを不可能にしてしまうものは、人間や自然、社会の中には存在しない。(48ページ)

・60年代の対抗文化は「性と文化の革命」と言われた。欲望の解放を可能にし、なおかつ人びとが競争や対立ではなく、共同と融和によって暮らせる社会。その理性と人間の欲望、それを誘発させて自己増殖する資本主義のシステムの関係に取り組んだマルクーゼは、『エロス的文明』『一次元的人間』などを書いて「対抗文化運動」のイデオローグとなった。

・このような問いかけはしかし、70年代になると説得力を持たなくなってしまう。マルクーゼのことばで言えば「ニセ」の欲望、快楽、あるいは幸福が、「真の」もの以上に魅力的なものになって人びとを魅了するようになったのだ。「消費社会」の到来が「対抗文化」の後に訪れたというのは何とも皮肉だが、その原因や理由は、必ずしもきっちりと検証されたわけではない。

yutopia4.jpg・夏休みに読もうと思った本は、その半分以上が残ったままだ。読書の秋にがんばろうということにしているが、読まなければならない本が芋づる式に次々出て、ため息ばかりをついてしまうこのごろである。読めなかった理由はイギリス・アイルランド旅行だが、ロンドンでは、その「対抗文化」やその後の「若者文化」についてもふれてみようと思った。60年代に有名になったロック・ミュージシャンの多くは大富豪になって城の住人になり爵位を授かったりしている。その後を追いかける気はなかったが、パンク発祥の地の「キングスロード」は落ち着いたファッション通りになっていたし、今一番元気だという「カムデンロック」も、にぎやかなのはがらくた市で、新しい文化が生まれそうな感じは受けなかった。もっとも「コミケ」や「フリマ」が最近の若者文化の特徴だから、両方の通りとも、それなりに新しかったのかもしれない、などと納得したりもしている。


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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。