2006年7月10日月曜日

ビートルズ伝説への疑問

  NHKでもWowowでも、ここのところビートルズ関連の番組を放映している。新聞記事や雑誌の特集も目につく。理由はビートルズが来日して40周年ということのようだ。大きな話題になったできごとであることは間違いないが、今わざわざふりかえるほどのことだったのか、という疑問を感じてしまう。というより、CDやDVD、あるいは関連グッズなどを売るためのキャンペーン、といった印象が強い。
1966年に高校生だったぼくはもちろん、ビートルズが次々とヒット曲を出して、それまでのポピュラー音楽の傾向を変えていったことは知っている。しかし、ビートルズに興味がわいたのは日本公演の後の彼らの活動やつくりだした音楽であって、来日までの印象は、女の子たちがキャーキャー騒ぐアイドルといったものでしかなかった。
当時の僕にとってのアイドルは断然、ボブ・ディランで、メロディやサウンドはともかく歌の内容は、とても比較にならないほど高尚で、しかも政治的な意識の高いものだったから、ビートルズがいいなどというやつは意識が低いと馬鹿にしていたし、「かわいい」などといって熱を上げる女の子たちは軽蔑の対象でしかなかった。
実際、そんな熱気は身近で手っ取り早く同じ雰囲気を味わえる「グループ・サウンズ」という新種の芸能タレントを生み出すことになった。タイガース、テンプターズ、スパイダース等々だが、彼らは他の既成の歌手たちと同様にナベプロなどの音楽事務所に所属し、テレビの歌謡番組に出演した。彼らの歌が自前のものではなく、それまでは歌謡曲を作っていた作詞家や作曲家、あるいは編曲家の手になるものだったことはいうまでもない。だから、グループ・サウンズの人気者は、ブームが下火になると俳優やタレントになっていった。で、そういう人たちが、当時を懐かしがって、いい時代だったと感慨にふけっている。

40年もたつと、時代のディテールは消え去って、同じシーンばかりが再現され、特定の人物や出来事が伝説化され、ノスタルジーに彩られた別の歴史として変形する。それは団塊世代について書かれた本でうんざりしているが、いつのまにか事実そのものとして定着してしまうから始末が悪い。しかも、さらにうんざりするのは、当の団塊世代が、ビンテージのエレキギターを買って、若い頃にやっていたバンドを復活させたりしているという話題だ。それは童心に帰ってする子供遊びと同じで、定年後にする楽しみを見つけたという点では結構だが、「ノスタルジー」だけではどうしようもない、という批判をしてしまいたくなる。
もっとも、ノスタルジーに浸るのは団塊世代ばかりではない。50代も40代も、そして30代ですら、自分が子供だった頃に夢中だったものに愛着をもち続けていて、テレビ番組の人気キャラを買い集めたがるから、ゴムやプラスチックや鉄でできた当時のグッヅが信じられないような値段で取引されている。レコードがCDにかわってアルバムジャケットの魅力が失われたといったことがいわれたが、今、売れているのはLPレコードに似せた紙ジャケといわれる装丁のCDだ。元々はレコードのリメイクとして一部のファン向けに売り出されたもので、無機質なプラスチックのケースにない魅力を感じさせるから、新しいアルバムなどにも使われている。

交換経済の下での文化の発展の中では、オーセンティックな、すなわち真物の経験に対する追求、またそれと繋がってオーセンティックな事物に対する追求は俄然危機的になる。経験がいや増しにさまざまな媒(なかだち)をはさみ抽象化していくにつれ、身体と現象世界との生きられた関係は、接触と現存のノスタルジックな神話にとって代わられる。S.スチュアート「欲望のオブジェ」
ノスタルジーは本物をまがいものにする一方で、本物をアンティークなもの、牧歌的なもの、深遠なものとして神秘化させ、高級品化させもする。あるいはもう一つ、まがいものをいつのまにか本物のようにもする。個人のどんな経験も、今では、ノスタルジーをたっぷりしみ込ませたモノをたよりにしなければリアルなものとして思い起こすことさえ難しい。しかもそこには共感してくれる仲間が欠かせない。

ビートルズは解散して、ジョンもジョージも死んでしまったが、同時代にデビューして、今も生産的に音楽活動をしている人はたくさんいる。僕は、その人たちのノスタルジーを売り物などしない、今の姿に興味がある。彼や彼女たちだって、昔のままでいてとか、昔を再現してなどといわれたら、きっとうんざりだろう。ただし、日本人の中にはノスタルジーだけが売り物というミュージシャンが少なくない。

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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。