2008年1月14日月曜日

硫黄島の2部作

 

・クリント・イーストウッドが監督をした、硫黄島の2部作『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』を見た。戦争映画は必ず、一方の側から見た物語になる。だから太平洋戦争をテーマにしたアメリカ映画を見れば、敵が日本軍になり、見ていて奇妙な違和感に囚われることが少なくなかった。たとえば、ノーマン・メイラーの『裸者と死者』は、その典型で、そこに出てくる日本兵に対して感じた複雑な思いは今でもよく覚えている。
・戦争には、どちらの側にも大義名分がある。で、こちら側は正義で相手は邪悪ということになる。ブッシュの演説でおなじみだが、映画はそのような視点をさらに強調するから、敵側にアイデンティファイしたのでは、とても見られたものではなくなってしまう。もちろん、そうでない戦争映画もなくはないし、『裸者と死者』も決して能天気な戦争映画ではなかった。

・ジェームズ・ジョーンズの『地上より永遠に』を原作にしたテレンス・マリック監督の『シン・レッド・ライン』は、ガダルカナル島での日本軍との戦いを描いているが、戦闘場面はほとんどなくて、主題は戦場で生死の淵をさまよう人間達の心模様だった。印象的だったのは、ガダルカナル島が天国のような島で、そこに地獄のような世界を挟み込んで対照させるという手法である。豊かな動植物、のんびりとした島民の暮らし、それに、日米両軍の兵士たちが繰り返す死闘。この映画が優れていたのは、兵士たちの心理状態の描写を米軍だけでなく、捕虜にした日本兵にもしていたところだった。僕は、今まで見た戦争映画の中で、これが一番優れたものだと思っていた。

letter.jpg・硫黄島の2部作は、一つの闘いを両方のサイドから別々に二つの作品として描いたもので、同時につづけてみると、今までの映画では経験しなかった感覚を味わうことができる。もちろん、主題は壮絶な戦闘シーンよりは、そこにいた兵士たちの心理状態であり、戦場に来るまでのそれぞれの経歴や生活である。『硫黄島からの手紙』で描かれる日本軍の兵士は、日本でこれまで作られた戦争映画とは少し違っている。全軍を指揮した栗林中将はアメリカでの留学経験があり、精神主義ではなく、冷静に戦略を練るタイプだし、部下にはオリンピックの馬術でメダルを取った西中佐もいた。直情型の兵隊もいれば、生きて返ることを最後まで考えていた兵隊もいた。玉砕的な行動を厳禁し、不利な戦力をもとに考え出された戦略が日本軍の抵抗を強いものにしたが、そのために日本軍はほぼ全滅し、アメリカ軍にも多大な被害をもたらすことになった。

flags.jpg・『父親たちの星条旗』はアメリカ軍からみた硫黄島の戦いである。実は僕は、この戦いについては、これまで日本側のことは何も知らなかった。ところが、アメリカ側についてはピーター・ラファージの「バラッド・オブ・アイラ・ヘイズ」を知っていたから、彼がどう描かれているのかについては、映画が作られたという話を聞いてからずっと気になっていた。もっとも最初に聴いたのはディランの歌だった。
・アイラ・ヘイズはピマ・インディアンで、硫黄島の擂鉢山に星条旗を掲げて英雄に祭りあげられた兵士たちの一人である。ラファージはその英雄が、その後の人生を狂わされ酒浸りになったことを歌っている。映画を見ると、アイラ・ヘイズが酒浸りになった理由がよくわかった。硫黄島の英雄は、戦時国債の宣伝に使われて、アメリカ中を巡回させられたのである。時にはスタジアムで、張りぼての擂鉢山に登って旗を立てることまでやらされたようだ。

・英雄でも何でもないのに、英雄の演技をさせられる。戦友を多く失った地獄のような戦いの後で待っていたのが、嘘で塗り固められた宣伝の世界だから、おかしくなるのが普通の心理だろう。『父親たちの星条旗』は『硫黄島からの手紙』とは違って、戦いの後や現在のシーンなども登場して、戦争の残酷さや無益さを訴える構成になっている。ここにあるのは、過去の歴史ではなく、現代の戦争に対する批判である。クリントイーストウッドはそれを声高に主張してはいないが、それだけに、そのメッセージがよく伝わってくる映画だと思った。

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