・一方にもう原発はこりごりという思いがあって、他方に、だけど貧しくはなりたくないという不安がある。今の日本の社会を二分する対立だが、この不安は一人一人の中にも同居して、その気持ちを揺り動かす。いったいどうしたらいいのか。日本人の誰もが、自分の生活の現在や未来を見つめながら、答えを探さなければならない問題で、なおかつ本質的で緊急を要する問いかけである。
・原発は一基が100万キロワットを越える電力をおこし、それが一カ所に複数つくられて大都市に供給している。それに代わる再生可能エネルギーは太陽光、風力、地熱、バイオマス、それに潮流を利用するものだが、一つ一つの発電量は小さくて、供給が安定的でないものもある。原発をやめるわけにはいかないとする意見があげる理由の多くは、まずここにある。それが、これまでのように、便利で豊かな暮らしができなくなってもいいのかという脅し文句に使われることも少なくない。
・けれどもまた、一方では、3.11の大震災と原発事故を機会に、すでに当たり前になった現在の生活スタイルを見直す必要が問いかけられてもいる。もちろん、このような発想や提案には20世紀の後半を通してずっと主張されてきたという長い歴史があって、1976年に出版されたF・エルンスト・シューマッハーの『スモール イズ ビューティフル』(講談社学術文庫)など、その都度大きな話題になったものも少なくなかった。けれども現実には、経済成長とさらなる豊かな暮らしが目標に掲げられ、それがグローバルな総意であるかのようにして繰りかえされてきた。
・ビル・マッキベンの『ディープ・エコノミー』 は、そんな経済成長の神話を「現在の制度では、成長が衰えるとすぐに悲惨な状況、すなわち景気後退とそれに伴った困窮に陥ってしまうからだ」とするところから書きはじめている(p.20)。だから早急に景気刺激という政策が打ち出されるのだが、それはすでに「魔法の杖」ではなくなって、その都度「繁栄よりは不平等を、進歩よりは不安定」を生み出している。しかも「魔法を使い続けるために必要なエネルギー」は実際には十分ではないし、そもそも、そうやって多少の成長が達成されたとしても、それによって幸福がもたらされたと実感できた人がほとんどいないのが現実である。
・景気刺激策によって確かに数字上の経済成長は果たされるのかもしれない。しかし、「アメリカの納税者のうち下位90%の実収入はじりじりと下がり続け」ていて、増えた富を手にするのはほんの一握りの富裕層に限られている。この傾向は、バブル崩壊後の日本でも同じだろう。だから、大多数の人の生活は経済的にはすでに貧しくなっている。それを覆い隠すのは、安価なモノの氾濫であったり、地域や季節に関係なく遠くから運ばれてくる食べ物であったりする。けれども、そのような傾向がまた、自分の職を脅かし、身近で生産されたり収穫されたりしてきた物をダメにしてきたのである。
・この本の題名に使われている「ディープ」には「人々が日々の生活で選択していることについて、これまでより深く掘り下げて問いただす」という意味がこめられている。経済学を量ではなく質、それもモノそのものというよりは人々がもつ「幸福感」を基準にして考える。この本の狙いは何よりその点にある。だから、各章は地産地消を取り戻すべきとする「食から見えてくる経済」、家族や近隣、あるいは友だち関係を大事にする必要性に触れた「失われた絆」「地域に芽生える力」などで構成され、最後は「持続可能な未来へ」となっている。
・幸福に暮らすことが、大多数の人にとっての願いであり、理想なのだとすれば、そのために必要なことやモノは何か、そして人は誰かといったことを考え、そこから生活スタイルを見つけだしていくことが不可欠だ。それは身近な問題であるが、また同時に、電力やその他の資源、そして環境の問題につながる大きな視点や視野を必要にする問いかけでもある。「原発停めたら不便で貧乏な暮らしになるぞ」などという脅しにおびえる必要はないのである。
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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。