2019年6月2日日曜日

井上俊『文化社会学界隈』 (世界思想社)

 

inoue1.jpg・井上俊さんはぼくにとって社会学の先生である。ぼくは60年代後半にアメリカで盛んになった「カウンター・カルチャー」に興味があって大学院に進んだが、それをどう分析するかはさっぱりわからなかった。院の授業で、映画や文学、あるいはポピュラー音楽などについて、雑談のようにして話をしたり、「文化」についての最新の研究を教えてもらったりすることで、視点の取り方や分析手法みたいなことが少しずつわかってきた。「大衆文化」や「若者文化」が関心をもたれるようになり、それらを分析する社会学的な考察にもまた、従来とは異なる新しい波が押し寄せていた。70年代初めは、新しい文化現象を新しい手法で分析できる、おもしろい時代のはじまりだったのである。

・ぼくが書いた修士論文のタイトルは「ミニコミの思想 対抗文化の行動と様式」だった。「ミニコミ」については、やはり大学院で、この分野の第一人者だった田村紀雄さんから、いろいろ教わった。大学院には教員と学生の間に「教える者」と「教わる者」という明確な違いがあって、その垣根を越えることは、学生にとってはしてはいけない行為のように思われていた(今でもそういうところはかなりあるようだ)。しかし、二人とは最初から友達関係のようにしてつきあうことができた。その意味で、たまたま行った大学院で二人の方と出会うことができたのは、幸運以外の何ものでもなかったとつくづく思う。

・『文化社会学界隈』を読んでいると、そんな半世紀も前のことが思い出されて楽しくなった。とは言え、書かれているのは決して古いものではなく、大半は今世紀になって書かれたり、話されたりしたものである。たとえば「社会学と文学」の章では文学と社会学の関係を改めて整理している。社会学にとって文学とは何か。それは社会学の理論をわかりやすくする具体例の宝庫というだけでなく、先行研究として、その中にある社会学的な芽を見つけるべきものでもある。社会学が扱うテーマや視点、あるいは考え方は文学だけでなく、社会や人間を扱うさまざまな表現形態のなかにもある。映画や音楽、アート、そしてスポーツなど。まさにこの本の題名が示す「文化社会学界隈」である。

・また、「初期シカゴ学派と文学」では、その代表的な存在であったR.E.パークがジャーナリスト出身であることを取りあげて、社会学の調査とジャーナリズムの取材における類似性と違いについてふれている。社会の実態をより正確につかむためには、その表層だけでなく、非行や犯罪、浮浪者や売春婦などを研究対象にして、いかがわしさの側から見る視点が必要になる。そんな伝統は20世紀前半に、シカゴ学派から始まった。他方で社会学には統計調査をもとにした「科学的手法」もある。社会学は社会科学の一分野だから文学とは違う。こんな考えは現在でも根強くある。だからこそ、社会学は文学と科学の中間の営みとして発展してきたという指摘は、今でも大事だと思った。

・この本ではさらに、武道を中心にしたスポーツや、コミュニケーションと物語についての考察がされている。そう言えば、スポーツを社会学として本格的に研究すべきとして立ち上げた「スポーツ社会学会」では、井上さんは中心的な存在だった。そしてここから、スポーツを単に体育学の中だけではなく、その近代化の過程やナショナリズム、消費社会や商業化、あるいはメディアや芸術との関係としてとらえ直すことが始まった。今日のスポーツが、政治、経済、社会の多くの問題と絡みあっていることはいうまでもない。

・同様のことはコミュニケーションについても言える。コミュニケーションや人間関係を、「話せばわかる」といったコミュニケーションの理想型から見るのではなく、通じない、わからない部分、つまりディスコミュニケーションとの関係を前提にして捉えていく。このような考え方も、ぼくが学生の頃に指摘され始めたものだった。ここでは鶴見俊輔が作りだした「ディスコミュニケーション」という概念を取りあげながら、人間関係やコミュニケーションにおける「感情」の問題に目を向けている。「コミュニケーション力」の必要性が盛んに叫ばれているが、「ディスコミ」の部分や人間の感情の複雑さにもっと目を向けることは、今こそ必要なのである。

・井上さんはぼくより一世代上である。体調を崩して心配したこともあったが、本を出されたことでほっとした。ぼくは退職して、研究活動もやめてしまったから、このような本をいただいて恐縮している。論文を書く気はないが、文化社会(学)界隈についての関心は持ち続けようと思っている。

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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。