・竹内成明さんは2013年に亡くなっている。その6年後に出た本書は、かつての教え子たちによって編まれたものである。実は彼が書き残した原稿は他にもあって、本にまとめようという話は、ぼくにも持ちかけられた。現在の出版事情や竹内成明という書き手のネーム・バリュー、あるいは世界の情勢やネットなどによる人間関係やコミュニケーションの仕方の変化等々から、ぼくは強く反対した。本にするためにはそれなりの費用が必要だし、在庫の山を抱えて難儀することがわかっていたからだ。しかしそれでも出版した。
・編者の三宅広明と庭田茂吉の両氏は、竹内さんが同志社大学に赴任した時の最初のゼミ生で、それ以降ずっと、彼が死ぬまで関係を続けてきた。彼らより少し年長のぼくは竹内さんの授業を受講したことはなかったが、彼らに誘われて研究会に出席をした。会えば必ず酒盛りになる。酒に弱いぼくには、その関係の濃密さに辟易することもあったが、少し距離を置いて関わるかぎりは、おもしろい集まりであることは間違いなかった。
・ぼくが1989年に出した『メディアのミクロ社会学』(筑摩書房)のあとがきには、その本が竹内さんの『コミュニケーション物語』(人文書院、1986年)に触発されたものであることが書かれている。「この本は人間以前の猿の歴史から始まって活字の誕生までの人びとのコミュニケーションの歴史を、物語ふうに解き明かしたものである。その壮大な時間の流れを、語り部が村人を集めて語って聞かせるような文体で展開していることに強い印象を持った。」だから『メディアのミクロ社会学』は活字以降に登場して人びとにとって欠かせないメディアとコミュニケーションに注目した『続コミュニケーション物語』でもあるとも。
・この本は題名通り、さまざまな哲学者や思想家の業績を「コミュニケーション」を軸に分析した論考を中心にまとめている。たとえば第一章で登場するのはアダム・スミス、プルードン、マルクス、ガンジー、そして中井正一であり、第二章はルソーとデリダである。一章は主に70年代に本の一部として、二章は80年代に同志社大学文学部の紀要に連載されている。ルソーは竹内さんがした思索の出発点にいた人で、紀要という狭い世界で発表されたものであるから、この章が、この本の中心に位置づけられていると言えるかもしれない。
・第三章のメディアの政治学序説は三宅氏の解題によれば1994年に出版された『顔のない権力』(れんが書房新社)の理論的枠組みになっているということだ。しかしぼくは同時に、読み物であることを意識した『コミュニケーション物語』の後に書かれた理論的枠組みでもあるように感じた。第四章は新聞等に書いた書評や短いエッセイを集めている。
・ところで、なぜ、今このような内容で本を出そうと思ったのか。最後に二人の編者が書いた文章を紹介しておこう。先ず三宅氏から。「無知で先の見えない私たちの愚かな話を面白がりながら酒を楽しむ姿に、私たちはいつも励まされ、大人になるのもいいものだと思ったものだ。ちょうどその頃に書かれた文章がここに収められているわけで、当時は楽しい酒宴と発表される論文の広がりと深さのギャップに驚かされながら、同時にそこに通底する竹内の強い意志と価値観に圧倒される思いで読んでいたのを思いだす。」
・なぜ出したかったがわかる一文だが、もう一人の庭田氏はもう少しさめている。「竹内成明の仕事の過去と現在、そして書きつつあったことを考えた。残された、多くの論文や文章がある。何冊かの著書がある。いつか、それら全部を読まなければならない。まだ生々しさが残っているうちに。しかし、時間は残酷である。竹内成明は忘れられつつある。彼の本は消えつつある。本屋からはすでに消えている。大学からも消えている。では、それはどこにあるのか。はたして、読者はいるのだろうか。」
・冷たい言い方だが、ぼくは読者はほとんどいないと思う。ただ若者であったときから現在まで、竹内さんが二人にとってかけがえのない人であったことは、この本には十分すぎるくらいににじみ出ている。ただし、読みながら思ったのは、どの文章も決して時の流れによって陳腐化などはしない、普遍的な問題を深くついていて、筆者の立ち位置に共感できるものであることは間違いないということだ。ものすごく大事なことを問うているのに、ほとんど見向きもされないかもしれない。今はそんな空疎な時代なのである。
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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。