黒川創『彼女のことを知っている』(新潮社)
・『日常の哲学』は友人の庭田茂吉が書いたものである。彼は哲学者でメルロ・ポンティの現象学などを専門にしている。僕にはよくわからない分野だが、彼とは学生の頃から勉強会などもしていて、一緒に話すことは楽しかった。ただし話の中身は、身の上話や下世話なものであることが多かった。極めて話し上手で、こんなことをテーマに本を書いたら売れるのに、とよく思った。最近はめったに会わないから、そんな話が懐かしく感じられるのだが、「日常」ということばが題名についた本を見つけて、読んでみようという気になった。 ・読みはじめたら、まるで話を聞いているような感じになった。映画やテレビ番組、あるいは新聞記事から取られた宇宙人に盗まれた街や対顔恐怖症、イセエビにアオリイカが話題になり、またカフカや鶴見俊輔、そして田中小実昌などが取り上げられる。話は時に何度も繰り返され、別の話題に飛び、深く哲学する。あー、たしかに、彼の話はこんな感じだったと懐かしくなった。 ・特に面白かったのは、新聞記事に載ったてんぷらの話だ。さつまいも(90円)、クジラ(100円)、大エビ(200円)………と並べられているところにおばちゃんの笑顔がある。その写真に美しさを感じ、心の底からしびれたというのである。で、その話を頼まれた講演会の話題にしたのだが、話の落ちが作れなくて大失敗をしたという落ちがついていた。うん、彼ならやりそうなことだと、笑ってしまった。 ・黒川創の『彼女のことを知っている』は小説である。物書きを仕事にする中年の男が、映画のシナリオを頼まれた話から始まる。しかしその仕事がはかどらないうちに、話は、京都の喫茶店でアルバイトをした自分の少年時代のことになる。僕はその喫茶店の常連だったから、その部分は実話として読むことになった。70年代初めにできた自由を模索する若者たちがたむろする空間で、僕の知らない内部事情なども興味深かった。ところが、この本はあくまで小説なのである。読んでいて、その辺がごっちゃになって奇妙な感覚に襲われた。 ・主人公には高校を卒業して大学に行く娘がいて、その人生の大きな転機に一人でキャンプをしたいという。父は娘一人ではと心配して、近くで見守ることにするが、娘とセックスのことについて、自分の経験をもとに話をする。それがまた、京都での話になるから、虚実の区別がわからなくなる。実際彼には娘がいるのだろうか。そんなことを考えながら読んだ。 ・カトリーヌ・ドヌーブの全作品をまとめて本にするという仕事の部分も、やたら具体的すぎて不思議な感じがした。もちろん、小説の上での話だから、こんな本は出版されていない。しかし、映画のシナリオの話と同様、これは実際に取り組んで実現しなかったことではないのか。著述で得る収入は不定期だったろうから生活が苦しかったのではないか。そんな余計な心配をしながら読むことになった。 |
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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。