2006年8月7日月曜日

"LOHAS"なんて流行るわけがない

 

・8月になってやっと夏らしい暑さになった。湖畔は平日でも合宿らしい学生でにぎわっている。週末ともなると道路も渋滞気味で、高速道路はほとんど動かない状態になってしまうようだ。いつもなら1時間のところが4時間、あるいは5時間もかかる。それで日帰りというと、ほとんど高速道路上で一日過ごすことになる。クーラーをかけっぱなしだから、動かなくてもガソリンは消費する。何しに来たのかとうんざりするばかりだと思うが、週末になると、それがくりかえされている。来週はお盆の帰省もあるから、いったいどんなことになるやら。
・何でみんなが同じ時に一斉に休みを取るのか。こんな時期になるといつも思う。日本の社会はどこまで行っても仕事優先だから、生活は働くためにあるのであって、決してその逆ではない。生活のために働く。遊ぶために働く。そういう生き方がもっとあたりまえになってもいいと思うが、いつまでたってもそうはならない。


・しばらく前から"LOHAS"ということばを見聞きするようになった。もちろん、テレビや雑誌や新聞での話だ。その前には「スローライフ」で、こちらもメディアがはやしたてたことばだったが、最近ではほとんど聞かれない。「ロハス」は"Lifestyle of Health and Sustainability"の略で、直訳すると「健康で持続可能なライフスタイル」となる。何のことやらよくわからないが、自分自身のことから地球規模のことまでを連続させて、健康とそれを持続可能にする仕組みを考えた暮らしを目指そうということらしい。けっこうなポリシーだと思う。しかし、である。

・「ロハス」はなにより経済用語であることがうさんくさい。つまり、このことばには新種のビジネスを開拓するという狙いがなにより強く感じられるのである。ビジネスであれば、関心を集めて売り上げを伸ばすということが第一になる。趣旨に賛同した人がやることは、消費するものをちょっと変えるということだけだ。確かに、農薬をつかわない野菜や、化学合成の飼料をつかわないで育てた牛や豚の肉を僕も食べたいと思う。電気や石油などのエネルギーを浪費しない工夫も大事だし、ゴミや廃棄物のことまで考えた生活サイクルを実現することが必要だと思う。そして、こういった意識で生活するためには、じぶんの力だけではとてもだめで、企業や自治体、あるいは政府や国連機関の力に依存せざるを得ない面がたくさんある。しかし、である。「ロハス」という理念を共有した新ビジネスは新しい経済システムとなって「地球を救うのだろうか」?。

・要するに、ロハスは「より良い社会のためのお買い物」を提案し、そのための商品を開拓しようという運動なのである。しごくもっともらしいが何かおかしい。じぶんの健康を考え、環境の悪化を防ごうと思ったら、まず、できあいの商品を買わないですむ生活スタイルを考えてみるといった発想からスタートすべきではないのだろうか。スローライフを実践することはスローフードを買って食べることではなくて、時間をかけてじぶんでつくることを意味している。一晩かけてシチューをつくることと、有名シェフが時間をかけてつくったシチューのレトルトパックは全然違う。そこのところが、うやむやにされている。だから「スロー」も「ロハス」もインチキくさいのである。


・今の社会で、それなりの快適さと楽しさと安全さを前提にして生きていこうと思えば、それに対してお金を払うことは避けられない。しかし、「ロハス」や「スロー」というなら、そこからまず疑ってかかることが必要で、じぶんでできることはじぶんでやる、という姿勢をもたなければ、立派な趣旨も一過性のブームで消えてしまう。「ロハス」は懸命に宣伝しても今ひとつブームになりきれていないから、そう時間がたたずに消えて、また新しい標語がつくりだされるのだと思う。第一、"LOHAS"は日本人には全然しっくりこないと思う。 "sustainability"なんてことばをいったいどれほどの人が理解できるのだろうか。もっとも「エステ」や「セレブ」や「カリスマ」だってもともとは難しいことばだから、「サステ」などといって流行る可能性はなくはない。

2006年7月31日月曜日

気仙沼と十和田湖

 

去年は行かなかったが、夏休み恒例の東北旅行に出かけた。今年は青森まで行ったが、1日目は気仙沼まで。翌朝魚市場に出かけると、ちょうど船から魚を降ろしているところで、次から次へと鱶(フカ)が出てきた。さすがはフカヒレの町だけのことはある。積み上げられた小山が無数に並んでいる。フカの体はグニャグニャで、頭は切り取られてある。まるでアウシュビッツだなと思うとちょっと気持ち悪くなった。 photo36-1.jpg photo36-3.jpg
photo36-2.jpg photo36-4.jpg魚はほかにもいろいろ並んでいる。中でも見事なのは大きな(←)本マグロだ。ここでも滅多にあがらない大物らしく、仲買人たちがのぞきこんでは話していた。ほかに長い鼻をちょん切られたカジキマグロもごろごろと並んでいる。一本釣りで生きたままの大きなヒラメや鯛は一匹ずつ水槽に入っている。東洋一の水揚げだそうで、たしかにすごい。ちなみに、ここには高いところに見学者用のフロアがある。そこから見下ろすのだが、景色は壮観だった。
青森では三内丸山遺跡を見た。なだらかな丘にあるかなり大きな集落で、天気もよかったから、その環境の良さに縄文時代の豊かさが想像できた。巨大な塔は栗の木で作られている。栗の木がこんなに大きくなるとすると、栗の実はどれほどみのったことか。海岸線も今よりずっと近くにあったようだから、ここで何千年も暮らした人びとの生活はきっとものすごく豊かだったことだろう。5000年前のユートピア。photo36-5.jpgphoto36-6.jpg
photo36-7.jpg photo36-8.jpg青森は、本当に森の県だ。ブナやヒバの森がどこまでも続いている。広葉樹の多い森は松や杉に比べてもっこりとして緑の色も明るい。十和田湖から唯一流れ出る奥入瀬川の流れは、テレビでよく見てきたがやっぱりさわやかで美しい。雨続きのせいか流量も多い。両脇の崖から清水が落ちて、あたり一面に霧が立ちこめている。月並みだが、やっぱり幻想的な雰囲気だと思った。
十和田湖でカヤックをやった。着いた日は風があって波が高くてあきらめたが、翌日は無風で波もほとんどなかった。早朝にガイド付きで湖畔を散策して、その自然の豊かさに驚いたが、湖に浮かんで周囲を見ると、森の深さにまたびっくり。冬は-20度にもなって訪れる人もないようだ。泊まったホテルも4月から11月までの営業で、周囲には土産物屋もレストランもない。開発されすぎた河口湖とは対照的な景色だった。photo36-9.jpgphoto36-10.jpg
photo36-11.jpgphoto36-12.jpg桂の木は香木として有名だが、その巨大さは並外れたものだった。古い木の後に新しい芽が出て、やがて一つの根の上に何本もの幹が立ち並ぶ。樹齢は数百年で根の周囲は11m。近くにはツキノワグマの糞。十和田湖にはまた来てみたい。帰りに田沢湖によった。ここは三度目だが、今回はカヤックはやらず。かわりに、パートナーと一緒に、前回来たとき見つけた粘土の採集をした。白くてねっとり柔らかい。いい土なのだそうである。

2006年7月24日月曜日

ポートランドのデザイン工房

 

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去年の12月におじゃましたポートランドの友人から写真が送られてきた。雪のかぶったMt.Hoodが間近に見える湖でカヌーをやっている。針葉樹に囲まれた静かなところのようだ。こういう写真を見ると、たまらなくカヤックがやりたくなる。山と森と湖。そこにただ一人だけというのは、まさに世界を一人占めという気持ちになる。夏に来ませんか?というお誘いに、「今年は忙しくてだめです」と返事をしたのだが、こんな写真を見せられると、誘惑に負けそうになってしまう。 

 tomita1.jpgおまけに、すっかり仲良しになった黒ラブのatom君まで写っている。のんびり水など飲んでいるが、水が怖くて意気地がなかったそうだ。犬は不安定なところを嫌うから、カヌー犬にするには、小さい頃から乗せなければむりかもしれない。しかし、犬と一緒にカヤックに乗るというのは、いずれは実現したい僕の夢だから、こういう写真には参ってしまう。仕事を辞めて、毎日犬と散歩ができる身分に早くなりたいな、と思う。車に犬とカヤックを乗せ、あちこちの湖や川に出かける。もっとも、アメリカまで出かけるのはちょっと無理だろう。

  送られてきた写真の中には、ちょっと怖そうなものもあった。滝から飛び降りているのだが、やっているのはK君、弟のY君は飛び降りる勇気がなかったのか下で見ている。彼はatomと同じで、慎重なのである。僕も高所恐怖症だから、一緒にいてもぜったいにやらない。右の写真では壁をよじ登っているから、たぶん、何度も落ちている。高さは10m以上はあるだろう。そう思っただけで、心臓がかゆくなる。

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tomita1.jpg ・tomita1.jpgK君はデザイン工房をやっていて、奇妙なオブジェをいっぱい作っている。名前はTomita Design.Buildで、作品を展示したサイトもある。木工のいすやテーブルなどもあって、そのデザインもおもしろい。アメリカ育ちの日本人だから、竹などの素材を使うが、和洋折衷とはちがうおもしろさがある。 

2006年7月17日月曜日

初心を忘れず

 

Neil Young "Living with War", Bruce Springsteen "We Shall Overcome"

・ニール・ヤングとブルース・スプリングスティーンが、どういう関係かよくわからないが、ふたりはよく同じ場面に登場する。エイズをテーマにした映画『フィラデルフィア』ではスプリングスティーンが導入部の、ヤングがラストの主題歌を歌っているし、9.11直後の追悼番組でも最初がスプリングスティーンで最後がヤングだった。あるいは、最近ふたりが出すアルバムにはDVDがよく付属している、といった共通点もある。それからもう一つ、これが一番大事だが、アメリカ社会や政治、そして文化の現状について、人一倍の危機感を持っていて、それがアルバムのコンセプトになっていることだ。
young2.jpg・ニール・ヤングの"Living with War"はその題名通り、アルバムのほとんどが反戦歌で占められている。歌詞はどの曲も率直なものだ。

「この庭がなくなった後で、人は一体何をするんだ?」"After the Garden"


「毎日戦争と一緒に生きている。心には戦争のことがある。
平和に手を上げて、思想警察の法律になど屈服しない。」"Living with War"


「落ち着きのない消費者が世界中を毎日駆け回っている。
おいしさとおしゃれの欲のために。」"The Restless Consumer"


「1963年のボブ・ディランの歌を聴いてみろ。
<自由の旗>がはためくのを見よ。」"Flags of Freedom"


「この国を誤った戦争に引き込んだ大統領の嘘を弾劾せよ。
我々の力を浪費させ、我々のお金を外に投げ捨てた。」"Let's Impeach the President"


springsteen2.jpg・スプリングスティーンの"We Shall Overcome" にはトラディショナル(伝統的)なフォーク・ソングが集められている。タイトル曲はピート・シーガーが作り、黒人に対する人種差別に反対する運動などで歌われたが、マルチン・ルーサー・キング牧師の「私には夢がある」という演説とならんで、公民権運動には欠かせない一曲になった。

・アルバムにおさめられている曲の多くはピート・シーガーがアラン・ロマックスとアメリカを回って集めたものだ。どれもポピュラーになってよく歌われるが、最初のものとはずいぶん変わってしまったものもある。それを最初に戻って歌ってみる。そこには、シーガーが残したものを語り継ぐという使命感もあるようだ。録音は彼の自宅の居間でおこなわれ、シーガーに近いミュージシャンたちが集められている。フォーク・ソングにしても、黒人のブルースにしても、各地に散在し、埋もれかけていたものを集める作業をした人がいる。それが現在の音楽の出発点になっていることを、多くの人は忘れているし、若い人には知らされていない。

・だから、古いものを出発点に戻ってやり直してみる。それは最近のディランのアルバムにも見られる姿勢だ。ピート・シーガーとの関係でいえば、もちろん、ディランの方がはるかに近い。ウッディ・ガスリーやピート・シーガーに憧れて歌を歌いはじめたディランは、メッセージ性の強いフォーク・ソングをつくる若手として、彼らから期待をかけられた。ニール・ヤングが「1963年のボブ・ディランの歌」と歌っているのは「風に吹かれて」のことで、この歌は"We Shall Overcome" とならぶ60年代を代表するフォーク・ソングになっている。

・そのディランはギターをエレキに持ち替えて、シーガーとは一線を画したし、彼が始めたフォーク・ロックのスタイルからニール・ヤングもスプリングスティーンもスタートした。そんなフォークの第二世代や第三世代が、今、共通して、初心に帰っている。ノスタルジーではなく、できるだけ昔のままのものを求め、それを若い世代に伝えようとする姿勢には、スターという立場とは無関係な、アメリカの歌を語り継ごうとする意志がある。あるいは、何か訴えたいことがあったら率直に、素直に声に出す。そんな表現の仕方の大切さを訴える気持ちもある。

・初心に戻るのはノスタルジーに浸るのとは違う。それは現在から過去を懐かしむのではなく、過去に戻って、そこから現在や未来に向けてやり直すことだ。あるいは現在までの道のりをたどり直してみる。ディランはもちろん、ヤングもスプリングスティーンもそういう年齢になったといえるのかもしれない。彼らのメッセージを若い世代はどう受け止めるのだろうか。

2006年7月10日月曜日

ビートルズ伝説への疑問

  NHKでもWowowでも、ここのところビートルズ関連の番組を放映している。新聞記事や雑誌の特集も目につく。理由はビートルズが来日して40周年ということのようだ。大きな話題になったできごとであることは間違いないが、今わざわざふりかえるほどのことだったのか、という疑問を感じてしまう。というより、CDやDVD、あるいは関連グッズなどを売るためのキャンペーン、といった印象が強い。
1966年に高校生だったぼくはもちろん、ビートルズが次々とヒット曲を出して、それまでのポピュラー音楽の傾向を変えていったことは知っている。しかし、ビートルズに興味がわいたのは日本公演の後の彼らの活動やつくりだした音楽であって、来日までの印象は、女の子たちがキャーキャー騒ぐアイドルといったものでしかなかった。
当時の僕にとってのアイドルは断然、ボブ・ディランで、メロディやサウンドはともかく歌の内容は、とても比較にならないほど高尚で、しかも政治的な意識の高いものだったから、ビートルズがいいなどというやつは意識が低いと馬鹿にしていたし、「かわいい」などといって熱を上げる女の子たちは軽蔑の対象でしかなかった。
実際、そんな熱気は身近で手っ取り早く同じ雰囲気を味わえる「グループ・サウンズ」という新種の芸能タレントを生み出すことになった。タイガース、テンプターズ、スパイダース等々だが、彼らは他の既成の歌手たちと同様にナベプロなどの音楽事務所に所属し、テレビの歌謡番組に出演した。彼らの歌が自前のものではなく、それまでは歌謡曲を作っていた作詞家や作曲家、あるいは編曲家の手になるものだったことはいうまでもない。だから、グループ・サウンズの人気者は、ブームが下火になると俳優やタレントになっていった。で、そういう人たちが、当時を懐かしがって、いい時代だったと感慨にふけっている。

40年もたつと、時代のディテールは消え去って、同じシーンばかりが再現され、特定の人物や出来事が伝説化され、ノスタルジーに彩られた別の歴史として変形する。それは団塊世代について書かれた本でうんざりしているが、いつのまにか事実そのものとして定着してしまうから始末が悪い。しかも、さらにうんざりするのは、当の団塊世代が、ビンテージのエレキギターを買って、若い頃にやっていたバンドを復活させたりしているという話題だ。それは童心に帰ってする子供遊びと同じで、定年後にする楽しみを見つけたという点では結構だが、「ノスタルジー」だけではどうしようもない、という批判をしてしまいたくなる。
もっとも、ノスタルジーに浸るのは団塊世代ばかりではない。50代も40代も、そして30代ですら、自分が子供だった頃に夢中だったものに愛着をもち続けていて、テレビ番組の人気キャラを買い集めたがるから、ゴムやプラスチックや鉄でできた当時のグッヅが信じられないような値段で取引されている。レコードがCDにかわってアルバムジャケットの魅力が失われたといったことがいわれたが、今、売れているのはLPレコードに似せた紙ジャケといわれる装丁のCDだ。元々はレコードのリメイクとして一部のファン向けに売り出されたもので、無機質なプラスチックのケースにない魅力を感じさせるから、新しいアルバムなどにも使われている。

交換経済の下での文化の発展の中では、オーセンティックな、すなわち真物の経験に対する追求、またそれと繋がってオーセンティックな事物に対する追求は俄然危機的になる。経験がいや増しにさまざまな媒(なかだち)をはさみ抽象化していくにつれ、身体と現象世界との生きられた関係は、接触と現存のノスタルジックな神話にとって代わられる。S.スチュアート「欲望のオブジェ」
ノスタルジーは本物をまがいものにする一方で、本物をアンティークなもの、牧歌的なもの、深遠なものとして神秘化させ、高級品化させもする。あるいはもう一つ、まがいものをいつのまにか本物のようにもする。個人のどんな経験も、今では、ノスタルジーをたっぷりしみ込ませたモノをたよりにしなければリアルなものとして思い起こすことさえ難しい。しかもそこには共感してくれる仲間が欠かせない。

ビートルズは解散して、ジョンもジョージも死んでしまったが、同時代にデビューして、今も生産的に音楽活動をしている人はたくさんいる。僕は、その人たちのノスタルジーを売り物などしない、今の姿に興味がある。彼や彼女たちだって、昔のままでいてとか、昔を再現してなどといわれたら、きっとうんざりだろう。ただし、日本人の中にはノスタルジーだけが売り物というミュージシャンが少なくない。

2006年7月3日月曜日

民主主義の生まれたところ

 

星川淳『魂の民主主義』(築地書館),D.A.グリンデJr.,B.E.ジョハンセン『アメリカ建国とイロコイ民主制』(みすず書房)

journal1-103-1.jpg・9.11 の後にアメリカがおこなったアフガニスタンとイラク侵攻に、ブッシュ大統領は、「民主的な国家」にするという大義をかかげた。それはまるで、出来の悪い勧善懲悪のハリウッド映画のセリフそのもので、ばかばかしかった。しかも、現実におこなわれた戦争は、悲惨で泥沼化し、とてもハッピー・エンドとはいかない状況に陥ってしまっている。ヴェトナム戦争のおろかなくりかえしと言ってしまえばそれまでだが、性懲りもなくくりかえすアメリカ人の精神構造は、やはり問題にしなければならない。
・『アメリカ建国とイロコイ民主制』はイギリスからアメリカ大陸に移民していった人たちが独立するまでの過程で、インディアンのイロコイ族とどのようにかかわり、どのような影響を受けたのかを史実を洗い直しながら明らかにしている。それは白人が作り上げたアメリカの歴史とは違うという点で、目から鱗といった読後感を与えてくれる。
・たとえば、移民たちの多くはイロコイ族やその他の部族の人たちに助けられて新大陸での生活を確保していったし、その身分の違いや貧富の差のない社会のあり方、つまり民主的な制度から多くのことを学んでいる。それが何よりはっきりしているのが合衆国憲法で、ジョン・ロック等の啓蒙思想に基づくばかりでなく、それ以上にイロコイの制度に負うところが多いというのである。

journal1-103-2.jpg・星川淳はその『アメリカ建国とイロコイ民主制』の訳者だが、彼はまた自ら『魂の民主主義』を書いて、イロコイ民主制をわかりやすく説明している。それによれば、イロコイはオンタリオ湖南岸に住むいくつかの部族によってできた連邦で、諍いを解消するためにたがいに努力してできたものである。その伝承された物語から読み取れるのは、「グッド・マインド」(理性と冷静さ)をもって話し合えば、かならず合意点が見いだせるという確信であり、そのために必要な公平な審判を間にはさんだ話し合いの形(イロコイ・トライアングル)である。いったん合意が達成されたら、それは「ワンパム」という飾り帯に協議の内容や約束されたことを明記する。それは文字ではなく様々な色の貝殻や鳥の羽根をつかったビーズ模様のものだが、事実の記録だけではなく、そのときの気持ちまでも記憶させる媒体になったということである。
・「ワンパム」はもちろん、イロコイと移民たち、あるいは建国後のアメリカ合州国の間でも何度もつくられている。ところが、白人たちはまた、それをくりかえし反古にしてきたようだ。たとえば初代大統領のワシントンは、独立戦争のときにイロコイから戦力の支援や食料の調達を受けたにもかかわらず、その恩を忘れて、数年後にはイロコイ掃討作戦を実行して集落に焼き討ちをかけている。だからイロコイ族のなかではワシントンには「町の破壊屋」というあだ名がつけられたが、そのあだ名はワシントン一人にとどまらず、歴代の大統領や有力政治家、あるいは将軍などにもつけられるものになった。もちろんそれは現在のブッシュにもあてはまる。
・アメリカ人は初心に帰れば、躊躇なく理想主義的な発想に傾倒する。しかし、それを忘れてしまったり、邪魔だと思えば無視したりするのもまた、彼らの得意とするところだ。この二冊は、そんなアメリカ人の特徴をあからさまにしている。新天地に夢を描いて移住した人たちの理想主義と現実的な対処に際しての利己主義という矛盾した考えが同居して、それがことあるたびに便宜的に使われてきた。そしてどういうわけか、その矛盾にとらわれ、立ち止まって考えるということがない。

・星川淳はそのような発想を日本との戦争と戦後政策、そして何より「日本国憲法」の作成過程に見ている。日本の憲法は世界に類を見ないほどの理想に溢れたものだが、それは戦争の無益さをほとほと実感したマッカーサーが、戦争のない世界の実現を念頭に置いて作成させたものだという。しかし、武力の一切の放棄をうたっておきながら、朝鮮戦争が起きると自衛隊の創設を強く要求したのもまた、マッカーサーの進駐軍だったのである。
・人民主権という発想が薄い日本では、その憲法は一方では絵に描いた餅のように扱われ、また他方では、軍備については、便宜的な曲解がほどこされてきた。だからおしつけられたものではない自前の憲法をというわけだが、その最近の主張には「憲法に愛国心を書き込め」というものがある。ここには「憲法」が一体どういうものかという理解についての主客転倒がある、と著者は言う。「憲法とは国民/市民/人民が政府をコントロールするための指示命令文書であるという近代法の基本」が忘れられている。日本では、政府はお上であって、民主主義はあいかわらず上意下逹のシステムでしかない。ただし、自由は自分が好き勝手に何かをする権利だと考える風潮は、隅々に蔓延している。そんなところを見ると、忘れてしまったのではなく、最初から理解していないのだと考えたくもなってしまう。


<魂の自由=平等>に立ち、同時にあらゆる他者の自由=平等を尊重しながら生きるには”好き勝手”的なフリーダムと、様々な社会的要請を引き受けつつそれらの囚人にならないリバティのあいだの絶妙なバランスが必要だ。112ページ

・「リバティ」と「フリーダム」。アメリカ人はそのバランスをしばしば見誤るが、日本人には、そもそもその違いすら自覚されていない。「自由」「民主」「自由民主」。政党名としておなじみだが、またほとんど意味の問われない、使いたい放題のことばでもある。

2006年6月26日月曜日

Wカップで気づいたこと

 

・サッカーのWカップは本当にワールドワイドな大会だと思う。春にやった野球のWBCがアメリカ大陸とアジアに限定されたローカルなスポーツ大会だったことを認識した後ではなおさら、そう思う。
・出場国はどこも2年間に及ぶ予選を勝ち抜いてきた。だから、どうしようもなく弱い国は一つもない。審判も世界中から厳選され、中立的な立場でゲームを管理できる人が担当する。当たり前の話だが、WBCはそうではなかったし、奇妙な判定が勝負を左右したことが何度もあった。アメリカ生まれのローカルなスポーツで、メジャー・リーグが現在でも頂点なのだから仕方がないといえばそれまでだが、世界大会を本気で考えるのなら、見直すべき点があまりにたくさんある。Wカップを見ていて、何よりそのことを感じた。しかし、である。
・Wカップに参加するチームはどこも勝つことを第一の目標にしていて、それぞれ、できる限りの支援をしてきている。けれども、それぞれのチームを支える国の状況は、また、あまりに違いすぎる。それはとても、公平な条件でやっているとはいえないものである。
・たとえば、アフリカから参加したチームには、その報奨金をめぐって選手やコーチに不満がくすぶって、試合をボイコットするといった問題が生じた。これは前回の日韓大会でもあったことで、国が極貧状態にあったり政情不安だったりすることが原因である。しかも、選手の多くはヨーロッパのプロ・リーグで活躍していて、母国に帰ることはほとんどないし、そもそもヨーロッパ生まれだったりもするようだ。監督や選手の要求する金額は国の財政からすれば法外なものだろうから、工面するのも大変なことだろうと思う。
・今回参加したアフリカの国は、トーゴ、ガーナ、アンゴラ、コートジボアール、そしてチュニジアの5カ国だが、どこもヨーロッパの植民地だった歴史がある。地図でそれぞれの国を調べると、トーゴ、ガーナ、それにコートジボアールは隣国で象牙海岸と呼ばれたところに位置している。
・奴隷貿易が盛んでカカオや穀物のプランテーションがつくられ、象牙や金などもとれて、ヨーロッパを潤わしたところだが、その代わりに貧しい生活と政情の不安がもたらされた。イギリスやフランスなどから60年代にあいついで独立したが、その後の政情はどこも不安定で、クーデターが何度も起きている。たとえばアンゴラは75年にポルトガルから独立した後、アメリカとソ連をそれぞれ後ろ盾にした勢力が激しい内戦を繰り返した。で現在のGDPはどこも世界で100位前後で最貧国と呼ばれる位置にいる。
・同様のことは中南米から参加する国にもいえる。ブラジルがポルトガル、トリニダードトバゴがイギリスで、ほかのアルゼンチン、パラグアイ、コスタリカ、エクアドル、そしてメキシコはスペインの植民地だった。その多くは19世紀の前半には独立しているが、アフリカほどではないにしても政情は不安で経済は破綻しているところが少なくない。
・ブラジルは経済的には比較的裕福だが、スター選手の多くは黒人で、極貧生活のなかで育った人が多い。彼らは奴隷貿易の時代にコーヒーや砂糖のプランテーションで働かすためにつれてこられた人々の子孫である。拉致され強制連行されてきた人は、カリブ海から中米、そしてもちろんアメリカ合衆国にも数多くいて、その大半は現在でも貧しい生活状況にある。ちなみに、トリニダードトバゴのGDPは世界126位でアンゴラの103位よりも低いし、コスタリカは82位だ。
・このような国々でサッカーが盛んなのは、もちろん、植民地支配をした国の影響である。だから、サッカーが文字通りの世界大のスポーツであることは、世界中のほとんどがヨーロッパの大国に支配された歴史を持つことを意味している。そして、宗主国の子孫ではない人たちにとって、サッカーやその他のプロスポーツが経済的な豊かさや社会的な地位を得る数少ない道の一つであることも共通している。同じ可能性を持っているのが音楽だが、それもまた、ヨーロッパから持ち込まれた楽器や音楽が、土着のものや奴隷によって伝えられたものと融合して生まれたものである。
・国情や国力の違いは他にもある。日本と対戦したクロアチアはユーゴスビアから凄惨な内線をへて独立した国である。人口は400万人で、 GDPは世界72位。一人当たりのGDPは12,000ドルで、日本とくらべて3分の1強、人口は30分の1である。もっとも旧ユーゴで今回出場しているセルビア・モンテネグロは6月5日にさらに分離したが、セルビア単独では人口は1000万人に近いものの、一人当たりGDPは3200ドル(日本の約1割でトーゴの2倍)にすぎない。
・こんなことに気づくと、試合を見ていて応援したくなるのは、どうしても、ヨーロッパの強国以外になってしまう。このような歴史や現状が反映して、試合以上に盛り上がるスタンドや自国での応援の熱の入れ方のすごさに圧倒されてしまう。「がんばれ、にっぽん」とはいっても、どこかにわか騒ぎで、せいぜい「感動をありがとう」程度で終わる日本の応援とは決定的に違う何かがある。
・日本はテレビの放映権に140億円もだしたそうだ。しかも、視聴率をあげるために日中の試合を2試合も組んだ。テレビは「がんばれ日本」を煽っておきながら、勝負よりは視聴率を重視したということになる。メディアは何よりビジネス大事。そのことは、もっと問題にしてもいいことだと思うが、さして話題にならないのは、勝敗より見やすい時間のほうがいいと考えた人が多かったということなのだろうか。