2007年11月19日月曜日

細見和之『ポップミュージックで社会科』

 

hosomi.jpg ・ぼくは森山良子という歌手が大嫌いだ。その理由は、外国生まれのいくつものいい歌を、その心や意味を台無しにして日本に広めたからだ。そう思って憤慨し、毛嫌いしたのは40年も前だが、最近また、その名前をたびたび耳にすることがあって、その度に不快な気持ちを呼び覚まされている。そんなときに、その理由を詳しく説明している本を見つけたから、これはどうしてもとりあげねば、と思った。

・細見和之はアドルノの研究者だが、同時に詩人で、ポピュラー音楽にも詳しい人のようだ。ぼくは以前、彼の書いたアドルノ論のなかにある「ミメーシス」という概念を引用して音楽論を書いたことがある。「ミメーシス」は「主体と客体が一体となって、その一体感のなかでその内側から知られるようなあり方」で、アドルノが音楽をはじめ、あらゆる芸術にとってなにより重要な成立の要素としているものだ。少しむずかしい説明だが、ぼくは、それを次のように読みかえてみた。


・たとえば、日本人にとっては、英語の歌を聴いて、その歌詞の意味をすぐに読みとることはむずかしい。けれども、その歌声から、あるいはメロディや演奏の音色から、何となくわかる感覚といったものはある。ごく単純にいえば「ミメーシス」とはそんな理解のあり方である。『アイデンティティの音楽』(世界思想社)

・ある特定の音楽や歌に対して示すのがこの「ミメーシス」的共感であることはいうまでもない。けれども、歌の場合には、そこにことばがあるだけに、それがわからなければ伝わらないこともすくなくない。細見はそれをジョーン・バエズが英語で歌い、森山良子が日本語でヒットさせた二つの曲を例に上げて説明している。その一つは「ドナドナ」で、もうひとつは「思い出のグリーングラス」である。

・この本によれば、「ドナドナ」はもともとはイディッシュ語でつくられていて、ユダヤ人に対してくりかえしおこなわれてきた虐待や虐殺をテーマにしている。荷車に手足を縛られて乗せられた子牛が屠殺場にひかれていく。うめく牛に農夫が「いったい誰がおまえに子牛であれと命じたのか」という。空を燕が自由に旋回し、ライ麦畑には風が子牛あざ笑うかのように吹き続ける。この歌はナチのユダヤ人虐殺と重ねあわせられることが多いが、生まれたのはそれが起こる前だった。
・日本語訳された「ドナドナ」にはユダヤ人の悲劇を歌ったものであることが、まったく抜け落ちている。これはあくまで、殺されて食べられてしまうかわいそうな子牛の歌であり、だから子供向けの歌として小学校や中学校の音楽の教科書にも載るようになった。日本語で強調されているのは元歌にはない「悲しそうなひとみ」の「かわいそうな子牛」であり、「もしもつばさがあったなら、楽しいまきばにかえれるものを」という同情の念である。

・もうひとつ「思い出のグリーングラス」はジョーン・バエズ以前にトム・ジョーンズがヒットさせた曲として知られている。歌詞の内容は、昔懐かしい家にもどる男の話だ。汽車を降りるとそこには、家を出たときそのままに、パパやママがいて、恋人が出迎えてくれている。緑の草に囲まれた懐かしいわが家。子供のころに遊んだ樫の木もそのままある。しかし、3番目の歌詞になると、男のまわりには突然、冷たい灰色の壁が見えてくる。そこは刑務所で、今朝は処刑の日。思い出のわが家は、彼が牧師や看守の前で一瞬回想した風景だったのである。ところが、日本語訳では、その3番目が見事に抜け落ちていて、主人公は都会に絶望して田舎に帰った若い娘になっている。

・フォークソングにメッセージ性があるのは、その誕生からいって必然的なことである。で、それに影響を受けたロックやその他のポップ音楽にも、その要素は受けつがれている。ところが、日本にはいると、その要素は、まるで検閲されたかのように抜け落ちてしまう。あるいは、ポップ音楽は単に若者の娯楽ではなく、そこには他の芸術や文学と同様に、作品としての奥行きや広がりを持たせる可能性が確かにある。ところが日本では、ポップ音楽にそんな可能性があると信じている人は多くないし、そんな作品もきわめてまれにしか存在してこなかった。

・中身を換骨奪胎して抜け殻を消費する。だから、受けとめるのはあくまで、表層のところにある、「かわいい」「かわいそう」「たのしい」「うれしい」「かっこいい」「つらい」「せつない」「くるしい」「つまらない」といった「ミメーシス」まがいの感情でしかない。細見はこのように翻訳してしまう日本人の感性を批判しながら、同時に、つくる側が、そうしなければ、歌が商品として成功しないことを知っていたためだという。なぜそうなるのか。そこを明らかにすることは、またもうひとつのおもしろいテーマになるのかもしれない。
・しかし、ぼくはだからこそ、そういう仕組みを拒絶して新しい歌を作ろうとした動きが、ここにあげた歌のようにして元の木阿弥にされてしまったことに、批判的であり続けたいと思う。フォークシンガーまがいの歌手が、日本のジョーン・バエズとか、日本のボブ・ディランとかいわれて、大物気取りでいつづけている。その能天気さや鈍感さは、また、その後のディランやバエズやそのほかのミュージシャンの作品にある真摯さやこだわりとはきわめて対照的なものである。

・ちなみに、この本では取りあげられていないが、ディランの「風に吹かれて」のリフレインは、森山良子の歌ではやはり、童謡化されて「かわいい坊や、お空吹く、風が知ってるだけさ」となっていた。「かわいい文化」は今も、日本人の感性の基本だが、それはまさに「無知は力」(オーウェル)といった姿勢の蔓延でもある。

2007年11月12日月曜日

古い本をPDFにしました


・新しい本『ライフスタイルとアイデンティティ』(世界思想社)が出たのを機会に、すでに品切れで手に入らなくなっている本を、PDFとして公開することにしました。引用などをしやすくするために、ページのレイアウトも本と同じにしました。

book3.jpeg・PDFにして公開する理由はいくつかあります。それなりに需要があるのに本として手に入りにくいこと、データとして著者がもっていて、ネット上に公開することができることなどで、ここには、ある期間(本の場合には品切れ)を過ぎた著作物は公開して共有物(パブリック・ドメイン)にすべきだという考えに同意するという理由もあります。

・実際に、これまでにもいくつかのファイルをWeb上に公開してきましたが、中にはびっくりするぐらいのアクセス数のあるファイルもありました。もちろん、メールでさまざまなものを要求してくるケースもあります。学生の卒論などは原則的にお断りしていますが、出せるものは利用していただこうと考えました。

book4.jpeg・今回公開するのは、筑摩書房から1988年に出した『私のシンプルライフ』と1989年の『メディアのミクロ社会学』です。残念ながら、それ以前のものについては、デジタル化したデータがありません。ワープロを使い始めたのが86年頃で、マッキントッシュを購入したのが89年ですから、それ以前の原稿は、原稿用紙に手書きで書いたということになります。今のところ、改めてデジタル化する予定もありません。

・PDFのダウンロードは、「作品」のページからできますが、容量が多いですし、印刷をするとそれぞれ200ページを越えますから、お気をつけください。

2007年11月5日月曜日

新しい本が出ました

 

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・すでに予告済みですが、ぼくが書いた新しい本がやっと出版されました。『ライフスタイルとアイデンティティ』(世界思想社、2625円)です。内容については「ライフスタイルとアイデンティティ」のページをご覧ください。目次やあとがきの他、表紙やオビについての欄もあります。

・「ライフスタイル」にしても「アイデンティティ」にしても、ぼくにとっては、大事なことばですが、すでに手垢にまみれてほとんど魅力を失ったことばのようにも感じられます。それが、広告のことばのなかには、相変わらず氾濫していて、何かまだ特別のイメージを感じさせるかのようにつかわれています。そんな傾向にたいして、出発点に帰って問いなおしをして、最近の風潮を批判してみたいと思いました。

・現代は、本当に高度に発展した「消費社会」です。学生たちと長年接してきて、そのことを年々強く実感するようになりました。彼や彼女たちにとっては、あらゆることが「消費」という行動を通して実現されます。衣食住に関わることはもちろんですが、「楽しい」「うれしい」から「悲しい」「怖い」、あるいは「くやしい」といった感情の経験でさえ例外ではないようです。だからそのために一生懸命バイトをする。勉強はといえば、きめられたことを要領よくこなすことであって、じぶんなりの興味や関心にしたがって、ということではありません。だから当然、こんな社会の傾向やシステムそのものに疑問を感じるなどといったこともありません。このシステムは何より「豊かさ」を感じさせてくれるものですから、すべきことは、そのなかでうまく立ち居振る舞うことだというわけです。

・このような意識はもちろん、もっと上の世代の人たちにも共有されています。というよりは、かつてはそうでなかった社会を経験した人たちほど、現在の社会のありようを肯定しているといってもいいかもしれません。しかし、本当にそうだろうか、という疑問を、ぼくはずっと持ちつづけてきました。たとえば「豊かさ」とはいったい何なのか、それは実際どう生きることで実感されるものなのか、あるいはじぶんはどんな人間になりたかったのか、といった問題です。『ライフスタイルとアイデンティティ』ではそのことを、現在に関わるいくつかのテーマと、「ユートピア」思想を手がかりにした近代化以降の歴史を軸に考えてみました。

・欲しいと思うものの大半は、実は欲しいと思わされてしまったものであるし、お金を出して買うものの多くは、実はじぶんで作れるものでもあるのです。「モノ」はもちろん、「経験」だって例外ではありません。ということは、欲しいわけではないモノやことのために、したいわけではないしごとをしているということになります。生きていくためにはだれもが「何者」かにならなければいけないけれども、そのためには、じぶんのなかにある、そうではない部分を抑えたり、捨象したり、無能にしたりすることが要求されます。だからまた、違うじぶんを求めて「消費」に走ったりもする。

・もちろん、この本で問いかけているのは、現代に典型的な「ライフスタイル」や「アイデンティティ」を全面否定せよ、といったラディカルなものではありません。何かをする前に、たちどまって考えてみる。そんな気持の持ちよう提案したものであるにすぎません。しかし、学生たちにそんな話をすると、「そんなこと考えたこともなかった」といった応えがかえってきますから、そんな提案でさえ、強いインパクトを与えるのではないかと考えています。

2007年10月29日月曜日

"A Tribute to Joni Mitchell" "Shine"

 

joni1.jpg・「トリビュート」と名のついたアルバムは死んだ人へのものだと思っていたら、最近はそうでもないようだ。尊敬する、敬愛する、あるいはかけがえのない人なら生死にかかわらず「捧げ」る。そんな風潮があるのかもしれない。勘ぐれば、新しいものの売れ行きがよくないし、いいものがさっぱり出てこないから、かかわりのある人を適当に集めて1枚のアルバムをつくれば、話題になって売れるだろう。そんな思惑が見え隠れする。
・"A Tribute to Joni Mitchell"もそんな一枚かと思ったが、彼女はたしか引退宣言をしたから、それにあわせてなのかもしれないと思って買うことにした。ジェームズ・テイラーやエミルー・ハリスは当然な気もするが、プリンスやビョークはなぜ?という感じがする。それを確かめてみたい。そんな興味もあった。

joni2.jpg・残念ながら、アルバムには参加者についてのコメントは何もない。もちろんこのアルバムがなぜ生まれたかについても一言の説明もない。おまけに、ジョニ自身が復活のアルバム"Shine"を出したから、トリビュートの意味はますますわからなくなってしまった。しかも、おなじみの曲を違った感じでという「トリビュート」より、彼女自身の最新作の方がずっといい。その1曲目は、彼女が今、生活している世界のスケッチだ。


大洋の輝き/木の上の鷲
狂ったようなカラスたちのいつもながらの騒ぎ
ここが私の家
隣人と話していたら/彼が言った
「天国に行っても、気に入らなかったら、雲をとんで、ここに戻ってくる」
この天国のような至福の地へ
"This Place"

joni3.jpg・ジョニ・ミッチェルはマイペースの人だ。じぶんのやりたいことをやりたいようにする。けっしてわがままというのではない。じぶんのできることだけやる。そんな生き方にぼくはずっと憧れを持ちつづけてきた。もっともそんなライフスタイルは、彼女にとってもはじめから実現していたわけではない。
彼女のサイトには、自分の人生をいくつかに区切って、それぞれの時期に名前をつけて説明しているところがある。たとえば、デビューした1968-70年までは「ポピュラー・アーチスト出現」、71-73年が「告白詩人」、74-75年は「有名な時」、で、76-77年に「その道から避難」とある。以後「ジャズシンガー」になり、「確かな愛」を手にする。80 年代は「実験を試み」、90年代には「ルーツに戻る」。その後は「ご褒美」、つまり隠遁と引退だ。田舎に住み、絵を描く時間をより多くもつ。彼女のアルバムの多くは自画像だが、並べて眺めると、それぞれの時代の彼女の心模様がよく分かる気がする。

joni4.jpg・ジョニ・ミッチェルは知的でおしゃれで、多才な人だ。ぼくは好きだが、ずっと一点気になっていたところがあった。鼻の下が長い。その鼻の下が、2001年にでたベストアルバムでは、いっそう長く描かれている。じぶんの顔をデフォルメしておもしろいが、絵の感じからして、彼女の作ではないのかもしれない。確かめたい気もするけれど、ヒット曲ばかり集めたものだから、買う気にはならない。
・「トリビュート」と言うことでいえばもうひとつ。バフィ・セントメリーの"Circle Game"が入っていてもいいのにと思った。大学紛争をテーマにした『いちご白書』の主題歌で、ジョニがまずソング・ライターとして注目されるきっかけになった曲だからだ。そのあとのCSN&Y、なかでもデイビッド・クロスビーとニール・ヤングとの関係だって、彼女にとっては重要なものだった。だから当然、"Both Sides Now"も入っていなければならない。この「トリビュート」には、そういう関係を感じさせる人が、ジェームズ・テイラー以外にはほとんど登場しない。だから、盛りだくさんという以外に、特に感じさせるものがないのかもしれない。

2007年10月22日月曜日

富士山の秋

 

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・あたりの紅葉がまだまだなので、富士山を上がってみることにした。河口湖からはスバルラインが一般的だが、富士吉田口の滝沢林道も5合目まで通じていて無料だ。で、まずは、一度も行っていない船津胎内樹型から。噴火の際に溶岩で埋もれた大木のあとが洞窟になったもので、付近にはあちこちある。まるで母親の胎内のようだというのでこんな名前がついたが、そうすると神社の中にある入り口は………?。しゃがんでも頭がぶつかりそうな狭い洞窟が縦横に広がっていて、たしかに奇妙な世界だった。
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・滝沢林道は4合目で通行止めになっている。平日だがキノコとりの人たちの車が結構とめてある。ナンバーも湘南や多摩や沼津といろいろだった。海抜は1800mぐらいだが、まだ寒いというほどではないから、木々の色づきもまだこれからという感じだった。黄色に色づくダケカンバは白樺の一種だが、ずっと頑丈そうで、しかも大木が多い。傾斜地に横に傾きながらしっかり根づいているものもある。
・山のせいか天気はめまぐるしく変わる。青空がのぞいたかと思うと、霧が下からはい上がってきて、あっという間にもやってしまう。残念ながら上も下も眺めはほとんど望めなかった。

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・2時間ほど歩いて、5合目の佐藤小屋に着いた。2230m。登ってきたのは、ほかに湘南から来たちょっと上の世代の夫婦とロシア語を話す10人ほどの集団。それに、途中で、下ってきたアメリカ人とモーリシャス人の青年。ふたりは昨日の夜頂上まで登っただが、道をまちがえて吉田口に降りてきてしまったようだ。バス停はないかと聞かれたが、富士吉田の町までずっと歩かなければだめだと答えてわかれた。佐藤小屋は一年中開いていて、冬山登山の基地になっている。ここで見事なトリカブトを見つけた。富士山の木々はここから少しあがったところが限界で、その上は砂地にわずかな草があるだけとなる。で、引き返すことにした。

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・富士山はあちこちで崩落していて、砂防ダムがつくられている。その中の大きなひとつに近づくと、下界に山中湖が見えた。しかし、上はまるでダメ。4合目までの下りは1時間ほどで、車で下っていくと、さっきの青年たちが歩いている。で、河口湖まで乗せてあげることにした。ふたりは東京で仲良くなって、富士登山に来たようで、このあとは一緒に京都まで行くらしい。アメリカとモーリシャスが東京の浅草で出会い、そのふたりに富士山で出会う。旅のおもしろさで、貧乏旅行をすればこそだが、だからこそ、誘拐、なんてことにもなりかねないのかもしれない。

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・本当に久しぶりに快晴になった。朝、河口湖まで出ると、冠雪した富士山がきれいに見えた。気温も急に下がって、2度。紅葉が一気に進む陽気になった。

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2007年10月15日月曜日

秋がきたような来ないような

 

forest63-1.jpg・今年の夏休みは忙しかった。特にしごとがつっまていたわけではない。ただふりかえって、そう思う気がするということだ。大きなしごとは『ライフスタイルとアイデンティティ』の校正で、これはたっぷり時間をもらったから、じっくりやることができた。いつもながら世界思想社のチェックは厳しくて、参考文献のこまかな表記や、引用文のマチガイまで指摘されてしまった。日頃からきっちりノートをとって、その都度マチガイがないか確認しておくべきだったと反省するが、新しく読んだ本のノートをつくりはじめると、またチェックは後回しでいいと思う気持ちになってしまう。その校正も、三校目が来て、最終のチェックをしているところである。

forest63-3.jpg・いつになく、部屋にとじこもって机に座っている時間が長かったせいか、お盆にぎっくり腰になった。甲斐駒ヶ岳への登山は何とかがんばったが、気にならなくなるのに1ヶ月以上かかってしまった。忙しいときでも体を動かさないと、すぐに固くなってしまう。実はぎっくり腰はカヤックをして分解するときにやったのだが、9月の末に久しぶりに河口湖に漕ぎ出した。カヤックの組み立てと分解は、中腰になることが多く、前にもぎっくり腰になったことがある。だから、こわごわ気をつけた。しかし、なんと言っても運動不足で、近くの散歩の散歩だけでは飽きてしまうから、折り畳みの自転車を買った。

forest63-2.jpg・マウンテンバイクだが、悪路を走れるほどのものではない。さっそく乗り出して、すでに河口湖を何周もした。河口湖は一周がおよそ20kmで、家からだと+5knぐらい。それを今までの自転車でのんびり走ると1時間半ぐらいかかっていたのだが、27段変速でスピードが出るから、最初から15 分ほど短縮できた。そうなるとついつい記録を更新したくなる。2回目からは、かなりがんばって漕ぐようになって、その度に記録を縮めたが、1時間を切ったところで、がんばるのはやめにした。それからは、思いっきり漕いだり、ゆっくり流したり、あるいは止まって休んだりしながら回っている。しかし、同じ道は飽きてきたので、車に積んで、他の湖にも出かけようかと考えている。



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・ところで、秋がちっとも来ない。稲刈りの季節にはなったが、周囲の山は緑一色で、林道を車で走っても、山の上でもまだ秋ははじまったばかりの感じだ。もっとも、秋の味覚は豊作だ。森の山栗が3年ぶりで収穫できた。写真の籠に3杯ほどで、よそへわけて、あとは皮をむいて栗ご飯や栗パン、そしてレンジでチンして食べた。のこりはお正月の栗きんとん用に冷凍した。富士山の松茸も近所のJAで見つけて買って食べた。はじめてで、大きなやつが2本で 2000円。松茸ご飯はまずますだったが、においがないから、焼いても今ひとつの味で丹波のものにはとても及ばない。もっとも、実際には松茸ではないという説もあるようだ。ただ、富士山の滝沢林道を上ると、止まっている車がいっぱいで、松茸狩りに来ている人の多いのには驚かされた。

・このあたりでも、紅葉は11月に入ってからで、すっかり枯れるのは12月になってから。そんな感じが、ここ数年続いている。東京の紅葉は12月だそうで、冬になるのがおそくなったなとつくづく感じてしまう。

2007年10月8日月曜日

先人の『富士日記』

 

takeda-fuji.jpg・武田百合子の『富士日記』(中公文庫)は友人のクロちゃんの愛読書である。わが家に来た折りに持参して、忘れて帰ってしまったのが、読むきっかけになった。何度も読みかえしているという彼女の話を聞いて不思議な気がしたが、読んでみると、その理由がなんとなくわかるようになった。どこから読みはじめてもいいし、どこでやめてもいい。同じところをくりかえして読んでもいい。ぼくは1ヶ月ほど前から、寝る前に読むようになって、やっぱり、行きつ戻りつしながら、やっと3冊目まできた。

・武田百合子は作家の武田泰淳の奥さんで、河口湖から富士山に登る途中にある富士桜高原に別荘を買って昭和39年から暮らしてきた。『富士日記』はその記録で、昭和51年まで続いている。もちろん、公表を念頭において書いたものではないが、その量は3巻本で1500頁近くになっている。「武田が死ななければ、活字にしていただけるようなこともなく、日記帳は押入れの隅の段ボール箱にしまわれていたものと思われます。彼方の岸から武田は言っているのではないかしら、『百合子何やってるんだ、俺がいなくなったら。ーー恥ずかしい』と」。しかし、この日記は昭和52年に田村俊子賞を受賞している。そんな気もなく書き続けたものだが、読めばたしかに良質の日記文学になっている。

・ぼくは武田泰淳の作品はほとんど読んだことがない。だから、最初に感じたおもしろさは、泰淳自身やその家族のプライベートな一面ではなく、河口湖周辺の40年ほど前の様子だった。昭和39年は東京オリンピックがあった年で、河口湖周辺も、大きく変化をしはじめた頃だった。経済成長の波に乗って、ゴルフ場や遊園地(富士急ハイランド)ができ、別荘地が開発された。冬の厳しい寒さと溶岩台地の痩せた畑で貧しい暮らしをする人が大半だった地域にも、戦後の豊かさが訪れはじめている。この日記を読むと、そんな変化が随所に読み取れる。

・たとえば、彼女は地元でよく買い物をし、すぐに親しくなることを特技にしてるが、地元の女たちに「奥さんは毎日何をやってるだね」と聞かれるところがある。「洗濯や掃除、買い物………」とこたえると「そんなこたあ、仕事のあいまにするもんずらー」と言いかえされてしまう。専業主婦は都会の中流家庭に限られた、新しい夫婦の役割分担にすぎなかったのである。

・もちろん、この時代に別荘を持って都会から通うといったライフスタイルは、ごく限られた人(有閑階級)だけに可能な特権だった。しかし、それだけにまた、快適で安楽な一面ばかりではなかった。例えば高速道路はないから、東京からの道のりには3,4時間はかかってしまう。東名高速が厚木まで開通したのが昭和43年(1968)で、中央自動車道の八王子ー河口湖間が開通したのは翌44年(1969)である。あるいは、自動車の性能も、今とは比較にならないほど心細いものだった。運転するのは彼女一人だが、よくパンクをし、故障もしている。事故を目撃したという記述もひんぱんにあるが、事故による死亡者数が最も多かったのは、1970年で、1万6765人に達している。ちなみに彼女も一度追突され、痛めた背骨の後遺症で、その後ずいぶん悩まされている。

・武田泰淳にとって百合子は妻であるだけでなく、専用運転手であり、また有能な秘書でもあった。彼が病に倒れてからは、口述筆記の作業も任されている。おもしろいのは泰淳の書いた原稿を河口湖駅に行って列車便に乗せるという作業だ。これだと、3時間弱で新宿駅まで届く。電話や速達で出版社にその旨連絡するのだが、電話は別荘にはない。それほど売れっ子の作家ではなかったと思うが、河口湖に来れば必ずその仕事がある。あるいは、急な電話が管理人のところにかかってきたり、郵便局員が速達を運んできたりと、なかなか忙しい。

・別荘に建てられた家も、現在のものとはずいぶん違う。水道が凍って破裂する。雨、風、雪で破損箇所が出る。防寒対策が不十分で、家の中まで凍りついてしまう。そんなことへの対応も、地元の業者とのやりとりとなっておもしろく語られている。作業に来た人にはお茶だけでなく、食事も振る舞い、ビールなども出していたようだ。そういえば、地元の人も、そして彼女もアルコールを飲んでの運転に罪悪感をまるで持っていない。今では考えられないことだが、思いかえしてみれば、そんな風潮になったのはつい最近のことで、河口湖周辺では今でも、飲んで車で帰宅といった例は少なくないようだ。

・もうひとつ、季節に対してもった違和感も書いておかなければならない。近所とは言え、ぼくの家と彼女の別荘では、気候が少し違う。富士山の麓は傾斜地で、わずかの距離でも海抜が100mも200mも違ってくる。だから、夏はともかく、冬の寒さにはかなりの違いが出てくる。けれども、その差を差し引いても、この本の書かれた40年前に比べて、最近の冬は温暖だ。第一に秋や冬の訪れが半月から1ヶ月ぐらい遅くなっている。今はもう10月で、本では紅葉の様子がくりかえし語られているが、わが家の森はまだ、緑一色である。おそらく、10月の後半にならなければ、本格的な紅葉は始まらないだろう。

・こんなふうに、読みながら考えること、想像すること、ふりかえることが少なくない。別荘に来ると作者は精力的に車で走りまわり、あちこちに出かけている。今とはずいぶんかわったところ、相変わらずのところなど、いろいろあって、ただ読むだけでなく、実際に出かけて確認したくもなってくる。おそらく、ぼくにとってもクロちゃん同様、読み終わったらおしまい、というのではなく、時折開いては少し読むといった種類の本になるのだと思う。今日の食事=朝、昼、晩。今日の買い物=肉、野菜、缶詰………。こんな記述ばかりがくりかえされる内容だが、奇妙におもしろい。武田百合子の観察眼と文体のせいだろうか。だとしたら、それは門前の小僧として習得したのか、それとも彼女の才能なのか。