2008年2月18日月曜日

ベンヤミンの『パッサージュ論』

 

benjamin.jpg・ベンヤミンの『パッサージュ論』は読書ノートを集めたもので、5巻本として翻訳されている。この本を読むと、彼が書いた多くのエッセイの準備のために、どんなものを読み、どんなことを考え、どのようなイメージを膨らませたかがよくわかる。そういった内容の本なので、これまでところどころつまみ読みしてきたのだが、その題名のパッサージュにはあまり注意が向かなかった。
・『ライフスタイルとアイデンティティ』(世界思想社)を書いて、18〜20世紀のロンドンやパリのことを調べていた時に、パッサージュの存在の重要性に気がついた。ただし、本はロンドンを中心にまとめたので、パリのパッサージュはもちろん、ベンヤミンのパッサージュ論も取りあげていない。それだけに気になっていたのだが、残念ながらパリにはまだ一度も行ったことがない。と言うより、あまり行きたいと思わなかった。で、パッサージュが何だったのか、じっくり読みなおしてみようかという気になった。


パリのパサージュの多くは、1822年以降の15年間に作られた。パサージュが登場するための第一の条件は織物取り引きの隆盛である。

・パッサージュは街路にガラス張りの屋根をつけて、天気にかかわらず街を歩けるようにした一角、つまりアーケードである。石ではなく鉄骨の建築物がつくられるようになり、ガス灯が街の夜を明るくしはじめた。繁華街の街路が交通の手段であると同時に商売の場であるのは、はるか昔からだった。けれども、パッサージュは、そこから交通の手段という役目を排除した。商売の場に限定されたパッサージュは、そこに集まる人を滞留させる。各商店に並べられた商品を眺め、物色し、あるいはカフェでの談笑や議論、レストランでの食事を楽しむ。パッサージュは「商売に対してのみ色目を使い、欲望をかきたてることにしか向いていない」場だったとベンヤミンは言う。
・おもしろいのは、パッサージュが人びとに喫煙を広めたという点だ。「明らかにパサージュではもうすでに煙草がすわれていた。それ以外の街路ではまだ一般化していなかったのにである。」コロンブスが新大陸から煙草を持ち帰ったのが15世紀の末だから、煙草の普及はゆっくりしたものだったと思うが、ここでもパサージュが、その習慣を一気に広めた。パリはつい最近、カフェやレストランなど公共の場での喫煙が全面的に禁止された。と言うことは、喫煙という行為はわずか200年たらずの束の間の習慣になってしまうということになる。

・パッサージュは自転車を流行させた場所でもあるようだ。それも最新のファッションで着飾った若い女たちを虜にした。そしてそのスカートが翻るさまに男たちが欲望をする。「自転車に乗った女性は、絵入りポスターでシャンソン歌手と張り合うようになり、モードの進むべきもっとも大胆な方向を示した。長いスカートが少しばかりまくれたからと言って、どうということはないのが現代的な感覚だが、当時はそうではなかった。「当時のモードの特性。それは完全な裸体を知ることの決してない身体を暗示することだった。」
・そんなパッサージュの賑わいも、百貨店が登場した18世紀の中頃から衰退しはじめたようだ。ベンヤミンがパリでパッサージュを訪れた20 世紀の20年代には、すでに過去の遺物のようだった。とは言え、芸術家たちがたむろする場所でシュルレアリスムが生まれるきっかけもつくった。


 いずれの街区にせよ、それが本当の全盛期を迎えるのは、そこにぎっしりと建物が建てられてしまういくらか以前のことではあるまいか。そして、建物に埋め尽くされてしまうと、その街区という惑星はカーブを描いて商売に接近していく。
 街路がいまだいくらか新しい間は、そこには庶民が住んでおり、モードがほほ笑みかけるようになってはじめて、街路は彼らを厄介払いする。ここに関心を抱く者が、金に糸目をつけずに、ちっぽけな家屋や個々の住居の所有権をたがいに争い合うようになるのだ。

・パッサージュはもちろん、今でもパリの街にある。そのいくつかを歩いてみたい。そんな気になって、出かけたくなった。一時のさびれ果てた街路も、今ではレトロな観光名所になっているところもある。地球の歩き方を片手に、いくつかのパッサージュを歩いてみよう。というわけで、しばらくロンドンとパリに行ってきます。

2008年2月10日日曜日

2007年度卒論集『三人ぼっち』

 

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1.「戦後日本のポピュラー音楽 〜歌詞から読みとる時代背景〜」 ……菊地奈津子
2.「クリニクラウン〜笑いの治癒力〜 」…………………………………澤井みゆき
3.「日本のクラブカルチャーの現状と未来」………………………………田中新悟

<特集 人の群がる場所をフィールドワークする>3年生
1.「コンビニ観察」 …………………………………………………中嶋千尋
2.「ディズニーという聖地 」………………木下早弥、杉林里奈、 山内志保子
3.「図書館という場所」 ……………………………………………柴田あかね
4.「スターバックスカフェ」 …………………………………………森嶋美帆
5.「映画館検証 」……………………………………………………鍛冶田芽生子
6.「なぜライブハウスに コスプレイヤーが集まるのか」……………庄司美希
7.「カフェブーム 」…………………………………………………松野みどり
8.「ファーストフードと利用者の関係」………………………………賀嶋紀子
9.「ファッションビルを訪れる女性たち」……………………………糸谷里美
10. 「おもちゃの魅力」 ………………………………………………土屋亜樹
11. 「レンタルビデオで働く」…………………………………………秋山知宏

2008年2月4日月曜日

声の肌理

 

voice3.jpg ・ロックのボーカルはテナーが多い。ビートルズからずっとそうだし、最近は特にその印象が強い。男らしさよりは繊細さや色っぽさが魅力、とりわけ女の子たちを夢中にさせる要因だったということだろうか。そう言えば、カントリーには低音の魅力といえるミュージシャンが多い。典型はジョニー・キャッシュで、僕が最初に彼の声を聴いたのはディランとデュエットしたナッシュビル・スカイラインだった。しわがれ声のディランが珍しく素直に歌ったアルバムで、キャッシュとの対照で、ディランの声の高さが改めて印象づけられた。

・歌の魅力はまずメロディー、そして歌詞にある。けれども、歌手の声や歌い方も欠かせない。テナーというよりはボーイ・ソプラノのようなニール・ヤングの声は、デビュー以来少しも変わっていない。対照的にディランの声は、だんだん太くなって、年齢も感じさせる。
・たとえば、好きなミュージシャンを思い浮かべてみると、声の高低で偏りがあるわけではない。ルー・リード、ヴァン・モリソン、ブルース・スプリングスティーン、ライ・クーダー、マーク・ノップラー、そしてトム・ウェイツと声の低いミュージシャンはかなりいる。しかも、美声というよりはだみ声が多く、そのがらがらでしわしわの声が、猥雑で浮き沈みのある人生の機微や襞を感じさせることが少なくない。それに比べると高音は透き通っていて、非日常的な世界や気分に引き込んでくれるようだ。

voice4.jpg ・その日常と非日常、濁と清の対照は、たとえば低音と高音のデュエットなどを聴くと一層強調される。たとえば、ルー・リードのライブ盤 "Animal Serenade"には二人の高音の歌手が登場している。その一人アントニーの声はずいぶん印象的だったが、ディランの伝記映画 "I'm Not There" のサントラ盤を聴いたら、彼が'Knockin' On Heaven's Door'を歌っていて、やっぱり、他の曲を歌うミュージシャンとはずいぶん違う印象を受けた。で、さっそく2枚買って聴いてみた。アルバムのジャケットそのままに、アントニーの声はまるで天使のようだ。

voice2.jpg ・同じような印象を受けたミュージシャンがもう一人いる。ずいぶん前にアイリッシュ・ミュージックのオムニバス盤を買って、やっぱりその声に惹かれた歌手がいた。北アイルランドのベルファスト出身のブライアン・ケネディの声は、他のミュージシャンに比べてひときわ高音で透明感があった。そのオムニバス盤で気に入ったミュージシャンのアルバムをさがして買い求めたのだが、彼のだけは見つからなくて忘れていた。ところが、最近Amazonで偶然見つけて、さっそく注文した。ベルファストでのライブ盤で、おなじみのアイリッシュ・ミュージックをたくさん歌っている。

・もちろん、テナーの声は誰でも透明感を感じさせるというわけではない。スティングの声には氷のような冷たさや鋭さを感じるし、ジェームズ・テイラーには正反対の暖かさや穏やかさを感じる。U2のボノには色気と熱気、エリオット・スミスには繊細さと針のような棘………。そういった声の肌理はまた、当然ながら、サウンド全体にも共通し、歌の中身、つまりメッセージとも重なりあう。

・アントニーとケネディの声の肌理にはどんなメッセージがこめられているのだろうか。残念ながら、今ひとつわからない。ただはっきりしているのは、彼らの声は、じぶんひとりではなく、誰かとの対照でこそ、その存在感を増すということだ。ルー・リードとアントニーの組みあわせはその最適な例だろう。こんな視点でこれまで聴いた歌を思いだしてみると似たような効果を狙ったものが少なくないことに気がついた。エリック・クラプトンとベビー・フェイス、ヴァン・モリソンとチーフタンズ、R.E.M.とQ-Tip等々。単なるバック・コーラスというよりは、極端に違うものを共存させて、じぶんを目立たせる。あくの強いミュージシャンであればこその手法だと思った。

2008年1月28日月曜日

久々の雪景色

 

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去年は暖冬、一昨年は寒すぎて雪が降らなかった。だから家の周囲が白一色といった風景が、本当に懐かしい。雪かき機も本格的に動いたのは3年ぶり。手入れはもちろんろくにエンジンもかけずに放置していたのに、一発で始動した。
最初の雪は21日で、この日は午前中に「音楽文化論」の試験が予定されていた。僕は前日から東京に出かけたから、積もる雪は見ていない。22日に戻って雪かき機で入り口前の道路をきれいにしたが、しめった雪で何とも重かった。


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積雪は15cmほどでたいしたことはなかったが、23日にまた降ったから、合わせて30cmほどになった。今度は粉雪で、午前と午後の2回、雪かきをした。その後で、たまたま遊びに来たkちゃんと雪だるまを作った。
雪の玉を作って転がすと、数分で、動かせないほど大きな固まりになった。小さい方を二人で持ち上げて、炭で眉毛と鼻と目と口を入れた。少し怒った顔。


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雪がやむと真っ青な空。1年で一番美しい色だ。しかし、猛烈な風。木の枝に積もった雪が舞って、あたりがまっ白になる。ついでに枝まで折れて、屋根や庭に落ちてくる。
翌朝は-10度。つららが下がるのも久しぶりで、中には1mを超える長さに成長したものもある。うっかり下を歩いて、落ちてきたら、頭に刺さりかねない。だから外に出るときには、帽子が欠かせない。


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風が作った雪の風紋。そこになぜか鯨がやってきた。ここは南氷洋か北極海。いやいやここは、河口湖の森のなか。白銀の世界に魅せられて、思わず工房から飛び出して、泳いでしまったのでした。


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2008年1月21日月曜日

我が家の食べもの

 


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forest65-2.jpg・買い物は週一回で、買うものはほぼ決まっている。果物から始まって、野菜、魚、肉、牛乳、それに麺類や乾物、調味料、で、最後はお菓子のコーナーを回る。その順路もいつも変わらない。レジ袋に4〜5袋。これに冬場だと灯油が20Lx6缶にもなるから、帰りはワゴンの荷台が一杯になる。二人しかいないのによく食べるな、と思うが、一週間でほぼなくなるから不思議だ。みんな僕の胃袋に消えているのだとすると、やっぱり食べ過ぎかな、と反省しないこともない。

forest65-5.jpg・もっとも、ほとんど外食しないし、大学へも弁当を持っていくから、食事の大半は、我が家ですましていることになる。大体、何でも作れるし、材料を確かめて食べたいから、外食は自分では作れないもの、たとえば、月一回のウナギ(河口湖駅前の川津屋)や、海の近くに遠出をしたときの寿司といったものにかぎられる。昔ながらの洋食屋のメニューは僕のお得意だし、イタリアンやパンならパートナーが作るものの方が外で食べるよりずっとおいしい。

forest65-1.jpg・ストーブをつけるようになると、当然、煮物が多くなる。カレー、シチュー、肉じゃが、あるいはブリ大根………。2日も後の食事を考えて準備したりするのだから、テレビでやるこだわりの店にも負けないと、本当に思う。ただ、材料は何処どこの何々といったこだわりはない。カレーは牛のすじ肉で十分だし、豚肉だって切り落としでいい。もっとも、できるだけ近くのもの、これは、野菜では特に気にしているが、残念ながら、冬になるとぐんと少なくなる。

forest65-6.jpg・おいしいものを食べようと思ったら、とにかく手間暇かけること、これが一番だ。面倒くさがってはいけないが、大体、食事は作るとき、というよりは材料選びの時から楽しい行為のはずなのである。右にあるのはパートナーが作ったカボチャのパイ。彼女は他にも、ビスケットやジャムを手作りしている。僕が作るのはカスタードクリームとそば粉のクレープ。ただし、メタボが心配だから、たまにと抑えている。 

 

forest65-8.jpg・買い物に行ったときに欠かさないのが大福。冬になるとそれに苺が加わる。餅に少し切れ目をつけて、大きな苺を一つ入れる。で、半分に切ると、右のようになる。これはこつがいるから僕の仕事。一番近い静岡の「紅ほっぺ」は、なぜか熟していないことが多い。「栃乙女」の方が少しましだが、一番熟して甘いのは福岡の「甘王」。はるばる九州から燃料使って運ばれてくるのが気に入らないが、どうしても、おいしいものに手が伸びてしまう。

2008年1月14日月曜日

硫黄島の2部作

 

・クリント・イーストウッドが監督をした、硫黄島の2部作『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』を見た。戦争映画は必ず、一方の側から見た物語になる。だから太平洋戦争をテーマにしたアメリカ映画を見れば、敵が日本軍になり、見ていて奇妙な違和感に囚われることが少なくなかった。たとえば、ノーマン・メイラーの『裸者と死者』は、その典型で、そこに出てくる日本兵に対して感じた複雑な思いは今でもよく覚えている。
・戦争には、どちらの側にも大義名分がある。で、こちら側は正義で相手は邪悪ということになる。ブッシュの演説でおなじみだが、映画はそのような視点をさらに強調するから、敵側にアイデンティファイしたのでは、とても見られたものではなくなってしまう。もちろん、そうでない戦争映画もなくはないし、『裸者と死者』も決して能天気な戦争映画ではなかった。

・ジェームズ・ジョーンズの『地上より永遠に』を原作にしたテレンス・マリック監督の『シン・レッド・ライン』は、ガダルカナル島での日本軍との戦いを描いているが、戦闘場面はほとんどなくて、主題は戦場で生死の淵をさまよう人間達の心模様だった。印象的だったのは、ガダルカナル島が天国のような島で、そこに地獄のような世界を挟み込んで対照させるという手法である。豊かな動植物、のんびりとした島民の暮らし、それに、日米両軍の兵士たちが繰り返す死闘。この映画が優れていたのは、兵士たちの心理状態の描写を米軍だけでなく、捕虜にした日本兵にもしていたところだった。僕は、今まで見た戦争映画の中で、これが一番優れたものだと思っていた。

letter.jpg・硫黄島の2部作は、一つの闘いを両方のサイドから別々に二つの作品として描いたもので、同時につづけてみると、今までの映画では経験しなかった感覚を味わうことができる。もちろん、主題は壮絶な戦闘シーンよりは、そこにいた兵士たちの心理状態であり、戦場に来るまでのそれぞれの経歴や生活である。『硫黄島からの手紙』で描かれる日本軍の兵士は、日本でこれまで作られた戦争映画とは少し違っている。全軍を指揮した栗林中将はアメリカでの留学経験があり、精神主義ではなく、冷静に戦略を練るタイプだし、部下にはオリンピックの馬術でメダルを取った西中佐もいた。直情型の兵隊もいれば、生きて返ることを最後まで考えていた兵隊もいた。玉砕的な行動を厳禁し、不利な戦力をもとに考え出された戦略が日本軍の抵抗を強いものにしたが、そのために日本軍はほぼ全滅し、アメリカ軍にも多大な被害をもたらすことになった。

flags.jpg・『父親たちの星条旗』はアメリカ軍からみた硫黄島の戦いである。実は僕は、この戦いについては、これまで日本側のことは何も知らなかった。ところが、アメリカ側についてはピーター・ラファージの「バラッド・オブ・アイラ・ヘイズ」を知っていたから、彼がどう描かれているのかについては、映画が作られたという話を聞いてからずっと気になっていた。もっとも最初に聴いたのはディランの歌だった。
・アイラ・ヘイズはピマ・インディアンで、硫黄島の擂鉢山に星条旗を掲げて英雄に祭りあげられた兵士たちの一人である。ラファージはその英雄が、その後の人生を狂わされ酒浸りになったことを歌っている。映画を見ると、アイラ・ヘイズが酒浸りになった理由がよくわかった。硫黄島の英雄は、戦時国債の宣伝に使われて、アメリカ中を巡回させられたのである。時にはスタジアムで、張りぼての擂鉢山に登って旗を立てることまでやらされたようだ。

・英雄でも何でもないのに、英雄の演技をさせられる。戦友を多く失った地獄のような戦いの後で待っていたのが、嘘で塗り固められた宣伝の世界だから、おかしくなるのが普通の心理だろう。『父親たちの星条旗』は『硫黄島からの手紙』とは違って、戦いの後や現在のシーンなども登場して、戦争の残酷さや無益さを訴える構成になっている。ここにあるのは、過去の歴史ではなく、現代の戦争に対する批判である。クリントイーストウッドはそれを声高に主張してはいないが、それだけに、そのメッセージがよく伝わってくる映画だと思った。

2008年1月7日月曜日

走ることについて語ったこと、について

 

murakami.jpg・村上春樹の作品はほとんど読んでいる。しかし、小説に比べてエッセイはおもしろくない。そんな印象を持っていたから、期待しなかったのだが、『走ることについて、語るときに、ぼくの語ること』(文藝春秋)はおもしろかった。ぼくは走らないから、マラソンやトライアスロンそのものについて語っているところは、どうでもいい。ぼくが興味をもったのは、走ることを中心にしながら、じぶんのこれまでの道筋をたどり、じぶんの性格や信条について、彼が語っているところだ。
・その素顔と思える一面に接して、まず感じたのは「何とストイックな人なんだろう!」ということだ。小説を書くことに専念するために喫茶店を閉じたら、途端に太り始めてきた。走りはじめたのはそれがきっかけで、『羊の冒険』を書いた後だというから、もう25年以上も走り続けていることになる。その持続力もたいしたものだが、絶えずじぶんに課題や目標を与えて、そのための努力を怠らない、その生真面目さ、勤勉さは、彼の小説から受ける印象とはずいぶん違う感じがした。
・ところが村上は、走ることと書くことを、ほとんど同じスタンスでとらえている。たとえば、次のような語りがある。


 誰かに故のない(と少なくとも僕には思える)非難を受けたとき、あるいは当然受け入れてもらえると期待していた誰かに受け入れてもらえなかったようなとき、僕はいつもより少しだけ長い距離を走ることにしている。………中略………腹が立ったらそのぶん自分にあたればいい。悔しい思いをしたらそのぶん自分を磨けばいい。そう考えて生きてきた。

・つまり、村上春樹にとって書く作業は走ることと同じだ。誰に言われたわけでもなく、じぶんで決めて、目標を設定して、できるだけその通りにこなしていく。もちろん、マラソンを走れば競争心も湧くし、小説家としては作品の評判も気になる。しかし、そこで感じた悔しさや腹立ち、あるいは寂しさは、他者にではなく、じぶんに向かう。彼にとって大事なのは、じぶんで決めた目標に対する達成の度合いであって、他者からのものではないからだ。
・村上ワールドに長年親しんできた感じから言えば、村上春樹の想像力は天才的なものだという気がしていた。しかし、この本を読むと、彼はむしろじぶんを不器用の人間として理解していて、いつでも努力して精進しなければ、納得できる仕事はできないと考えている。中年をすぎて、ランニングするじぶんに体力の衰えを感じているように、作家としての想像力も、放っておけば枯れてしまうと自覚している。そうならないための走りであり、翻訳作業であるというわけだ。

・とは言っても、走ることはけっして、作家としての資質を維持するための手段ではない。走ることはそれ自体、じぶんの中に大きな存在感を持っている。走りながら何かを考えるわけではない。インスピレーションを求めているわけではない。それはむしろ「ホームメードのこぢんまりした空白」や「懐かしい沈黙」を作りだす。そこにじぶんを置き、その時間や空間や行為と戯れる。この感覚は僕にもよくわかる。ただし、そこに苦しさがともなうのは、ぼくはごめんだが………
・木工を始めたら、頭は考えることを休止する。自転車に乗る、カヤックを漕ぐ、薪割りをする。あるいはトレッキングをする。いつでもそれは、空白の時間で、しかも無駄なことをしたなどと感じないひとときだ。もちろん、癒しなどとは違うし、リクリエーションでもない。何が目的で何が手段か、それは一概に言えることではないのである。

・僕もじぶんの才能のなさをくりかえし自覚してきた。しかも、歳を重ねるとともに、わずかにあった想像力さえ枯れてしまってきている。だからこそ、日頃の鍛錬と、持続する意志を怠らないことが大事だ、とつくづく思う。あるいは、じぶんを判断するのは、他人ではなく、自分なのだということも、僕にとっては基本的な基準として、ありつづけてきた。その意味では、この本で彼が書いていることには、共感できる部分がたくさんある。
・ただし、ぼくは、村上春樹が作家という仕事にもっているような天職的な意味を感じてはいない。ぼちぼち仕事をやめて、無為に生きたい、と考え始めている。大学の職に就いているからなのだが、それを辞めても、僕は書くことをつづけたいと思うだろうか。そうだと言える自信は、今のところほとんどない。この本を読んで、村上春樹が求道者のように思えてきた。

・P.S.野茂がカンサスシティ・ロイヤルズとマイナー契約を結んだ。ヴェネズエラのリーグで投げていて、メジャー・リーグへのカムバックを期していることは知っていたから、ホッとした。先発ローテーションへのサバイバル・レースがもうすぐ始まる。持続する志。すごい人がもう一人いた。