司馬遼太郎『空海の風景』中公文庫
高村薫『空海』新潮社
・ほとんど何も知らずに四国遍路の旅に出た。88箇所の寺にはどこも、本堂の他に太子堂があって、必ずお参りをすることになっていた。白装束の人たちは、そこでお経を上げ、ろうそくや線香に火をともしていた。そんなお遍路さんには誰にも空海が同行すると言われているが、ただ、お賽銭を上げて手を合わせるだけの僕には、そんな気がしたことは一度もなかった。
・我が家は一応日蓮宗で、身延山にお墓がある。毎年数回墓参りに行くが、日蓮がどんな人なのかもほとんど知らない。信仰などとはおよそ縁がなく生きてきたから、仏教の宗派がそれぞれどんなものかについても、全く興味がなかった。しかし、お遍路さんのまねごとをしたのだから、空海についてちょっと知っておきたいと思った。
・司馬遼太郎の『空海の風景』は空海の教えそのものを論じたものではない。むしろ空海の人生を幼年期から追ったものである。もちろん仏教用語はたくさん出てくるし、引用文はほとんどが漢文だったりするが、仏ではなく一人の人間としての空海がうまく描き出されていると思った。もちろんそれは著者の創造力によるところが大きいが、司馬はまた、膨大な資料を集め、丹念に読み込むことを基本にしているから、彼が描く空海の人間像には、強い説得力があった。
・空海は讃岐の豪族の家に生まれている。一族には都に出て宮廷に仕えた者もいた。幼少期から聡明であったから、空海も都に行き大学に進んだ。しかし、そこを中途でやめ、仏教を学び、四国の山中を放浪した。88箇所には、その時に訪れた場所を起源にするところもあるが、空海は四国中を歩いたわけではない。
・空海はその後、唐に行き真言密教をわずか2年で習得して帰国する。通訳がいらないほど語学ができたし、長安でも、名文家や書道の達人として評判になったようだ。そして、新しい仏教を持ち込んだだけではなく、最新の科学技術や多様な文化が開花していた唐から、あらゆるものを学んで持ち込んだ。司馬はそこに、狭い島国の人間とはかけ離れた空海のコスモポリタン的な気質を見ている。空海は帰国後、徐々に権力の中枢に近づき、高野山に理想の宗教都市を築くことになる。
・司馬遼太郎が描く空海は、古今未曾有の天才である。また恵まれた環境と多くの幸運のなかで、自分の理想を実現した人である。しかも空海が唱えた真言密教は、そこでほぼ完成されていて、その後に新説を唱える僧を排出していない。彼と同時代に生き、天台宗を始めた最澄が、その不完全さ故に、法然、親鸞、道元、一遍、そして日蓮といった僧を排出しているのとは対照的である。あるいは清貧さを唱え実践した最澄とは違い、空海は欲望を肯定し、あの世ではなくこの世における幸福の追求を是としたようだ。
・空海の人となりはおおよそわかったが、それが四国遍路と今ひとつ繋がらない。そんな感想を持って高村薫の『空海』を読んだ。高野山は空海の死後に幾度かの盛衰があって現在の姿になっている。現在の形にする上で大きな役割をはたしたのが、全国を行脚して空海と密教を広めた高野聖の役割が大きかったようだ。そして同じことが四国の遍路にも言えるという。四国遍路にはさらに、罪を犯した者や病に苦しむ者が、懺悔や快方を願って歩いて今日に至る歴史もある。そしてそのような行為は必ずしも、空海が唱えた真言密教と結びつくわけではない。
・四国遍路は全行程が1400kmもある。そこを車で走り、居心地の良い宿で寝泊まりした。空海のことをほとんど知らず、特に悔い改めることや願掛けしたいこともなかったから、スタンプ・ラリーをしているような気分だった。しかしあらかじめ空海や真言密教やお遍路の歴史を知っていたら、自分が出かける気にはならなかったかもしれない。そんな感想を持った。