2020年7月6日月曜日

田村紀雄『自前のメディアを求めて』

 

tamura.png田村さんについては、1年前にカナダ移民について書かれた『移民労働者は定着する』を紹介したばかりだが、また新著をいただいた。80代も後半だというのに、気力充実ですごいなと感心した。とは言え、『自前のメディアを求めて』は書き下ろしではなく、インタビューで、聞き手は『鶴見俊輔伝』をまとめた黒川創さんである。
黒川創さんからメールで、田村のこれまでの生涯60年間をこえる執筆作業について話を聞きたいと言ってきた。私も小さな新聞・雑誌を発行していた人たちに「パーソナル・ヒストリー」として聞き書きをとる仕事はたくさんしてきたが、立場をかえてじぶんの生涯をインタビューされるとは思いもよらなかった。
もちろん、このインタビューには事前に入念な準備がなされている。田村さんは少年時代の戦争体験から始まって、最近の仕事に至るまでを思い出し、調べ、整理しなければならなかったし、黒川さんには田村さんの著書の多くを読む必要があった。で、話はゼミでの教師と学生のやり取りのようにして行われた。

田村さんは1934年に群馬県前橋市で生まれている。自宅が爆撃されるという戦争体験、高校生の時の「レッドパージ」、東京に出て働きながらの大学生活、卒業後のフリー・ライターという仕事と関西移住、そこで何人もの研究者と出会って、メディアやコミュニケーションについて関心を持つようになる。その業績が認められて東京大学新聞研究所の助手になり、桃山学院大学、そして東京経済大学で教鞭をとり、研究者としての仕事を続けるようになった。

田村さんの仕事は大きく三つにわけられる。一つは小さなメディアとジャーナリズムに対するもの、そして田中正造を中心にした足尾銅山と鉱毒にまつわるもの、それからカナダを中心にした日本人の移住についてである。インタビューはそれぞれについて、代表作を中心にしながら行われていて、田村さんの記憶力と、黒川さんの読み込みの深さに感心させられた。実際に書かれたことの背後や奥にあるものについて質問し、そのことについて明確な理由が述べられていたからだ。

田村さんの研究は三つにわけられるとはいえ、そこには一貫して小さなメディアがあった。 彼の最初の著書は『日本のロ-カル新聞』(現代ジャーナリズム出版会)で、60年代から70年代にかけて盛んに発行されたミニコミやタウン誌に注目した『ミニコミ 地域情報の担い手たち』(日本経済新聞社)や『タウン誌入門』(文和書房)、そして『ガリ版文化史 手づくりメディアの物語』(新宿書房)などがある。しかし、『鉱毒農民物語』(朝日選書 )や『明治両毛の山鳴り 民衆言論の社会史』(百人社)にしても、『カナダに漂着した日本人 リトルトウキョウ風説書』(芙蓉書房出版)や『日本人移民はこうして「カナダ人」になった 『日刊民衆』を武器とした日本人ネットワーク』(芙蓉書房出版)にしても、その仕事のきっかけや研究の材料になったのは、その動きや運動の中で発行された新聞や雑誌だったのである。

僕は田村さんと大学院の学生の時に知り合い、雑誌『技術と人間』で一緒に「ミニコミ時評」をやり、彼が編集した『ジャーナリズムの社会学』(ブレーン出版)等に寄稿した。また彼が中心になって開設した東京経済大学コミュニケーション学部に、大学院開設時から赴任している。もう五十年近いつきあいで、彼から教えられたこと、影響を受けたことは極めて大きかった。本書には、そんな僕にとっても懐かしい場面の話がいくつも登場してくる。

この本のタイトルは「自前のメディアを求めて」で、田村さんは一時期『田中正造研究』を出していた。僕も田村さんと知り合った頃から、最初はガリ版、和文タイプと謄写ファックス、そしてワープロ、パソコンを使って自前のメディアを発信し続けてきた。このホームページは1995年以来25年になる。その意味で、田村さんからは、何より自前のメディアの大切さを教えられたと思っている。

2020年6月29日月曜日

Pearl JamとStereophonics

 

Pearl Jam "Gigaton"
Stereophonics "Kind"

jam3.jpg・パール・ジャムとステレオフォニックスは、僕が聴ける数少ないロック・バンドで、新譜が出るとほとんど買っている。そのパール・ジャムのアルバムは6年半ぶりのようだ。リーダーのエディ・ベダーのソロアルバムの方がじっくり聴かせる感じでいいのだが、今度のアルバムには、そんな落ち着いた歌もある。3月にリリースした後、今ごろはヨーロッパをツアー中だったはずだが、コロナ禍でキャンセルされたようだ。
・ アルバム・タイトルは「メガトン」の上を行く「ギガトン」という意味なのだろうが、それと同名の曲名はない。ジャケットは海洋生物学者のポール・ニックレンの作品を使用していて、ノルウェイのスヴァーバル諸島で撮影した、地球の温暖化によって解け出した氷河だという。ギガトン級の規模と速さで温暖化が進むことへの警鐘なのかもしれない。

・とは言え、アルバムのコンセプトが地球温暖化にあるわけではないようだ。エディ・ベダーはデビュー以来、政治的なメッセージを歌に載せてきたが、今度のアルバムでもトランプ大統領を批判することばがいくつも出てくる。


国境を越えてモロッコへ
カシミール、それからマラケシュ
トランプがまだ台無しにしてない場所を見つけて
どこまでも行かなければならない "Quick Escape"

ヤツが何と言い、何と言われたか
認めたくはないだろうが、ヤツの良き日は去った "Seven O’Clock"


stereophonics7.jpg・ステレオフォニックスの"Kind"は意外なほど穏やかなサウンドで仕上げられている。音は激しくても、メロディがあって歌詞に物語がある。それがこのグループの魅力だったが、この新譜は、僕にとっては音も好ましい。パール・ジャムはバンド結成30周年だが、ステレオフォニックスも20年を超えたようだ。ネットで見つけたこのアルバムの批評には、前作の"Scream Above The Sounds"を2017年に出して世界ツアーをした後で、リーダーでほとんどの楽曲を作っているケリー・ジョーンズがバンドを辞めたいと言い出したそうだ。で、しばらく休息期間があって、今までとは違う歌が生まれてきた。心身ともに疲れ、ただ休息をしようとした時に、自然に生まれてきた曲ばかりだと言う。今度のアルバムには、物語のある曲はないが、生ギターだけの曲もあって、繰り返し聴いている。

流れ星が遠くにあり
君はジャーから水を飲む
僕は自分の傷を癒やしたい
子供の世話をし、妻の面倒を見る
だが、自分の落ち着かない心にはあまり優しくなれない "Restless Mind"

・ケリー・ジョーンズには高校生の娘がいて、彼女が性同一障害であることをカミング・アウトした。その時に感じた動揺をもとに作った曲が、このアルバムの中にあって、シングル・カットされている。歌詞からはよくわからないが、ビデオ・クリップを見れば納得する。 「何もかも上手く行く。全て大丈夫だ」。親として悩み、葛藤した後で出てきたことばだと思う。。→"Fly Like An Eagle"

2020年6月22日月曜日

テレビ中継とスポーツ

 

・プロ野球がやっと始まった。とは言え、しばらくは無観客で、試合はテレビで観戦するしかない。台湾は既に客を入れて試合が行われているし、韓国でも1ヶ月以上前に始まっている。日本よりも感染者数も死者数も多いヨーロッパでも、既にサッカーのドイツのブンデス・リーグやスペインのラ・リーガ、そしてイタリアのセリアAも行われていて。イングランドのプレミア・リーグも始まったが、それらももちろん無観客だ。

・無観客でも試合ができるのは、テレビで大勢の視聴者が観戦して、リーグやチームには放映権料が入るからだ。ヨーロッパのサッカー・リーグは世界を市場にしているから、収入の多くがテレビの放映権になっている。日本のプロ野球は、最近では、地上波ではめったに中継されていなかった。BSやCSで多くの試合を中継していたが、その放映権料は決して高くはないだろうと思う。試合数も少なくなったから、当然、収益減になるのだが、選手への報酬をどうするかという話は進んでいないようだ。とりあえず試合を始めて、お金については、後から決めようというわけだが、選手はいったい、どこまで納得しているのだろうと疑問に感じている。

・他方で、アメリカのMLBは選手会との交渉が難航して、開幕出来るかどうか危ぶまれている。当初は7月4日の独立記念日からシーズンを開始するといわれていたが、それ以前のキャンプや練習試合の期間を考えると、既に不可能になっている。一体、シーズンを何試合にするのか。選手の報酬をどうするのか。感染を恐れて出場を辞退する選手をどう扱うのか。そういったことがなかなか決まらないのである。MLB、各チームのオーナー、そして選手にとって、何より大事なのは、どれほどの収入が確保できるかだから、銭闘などと皮肉られてもいる。もちろん、経済的な事情はチームによってさまざまだし、選手がもらう報酬も、格差はあまりに大きなものである。

・MLBの各チームはそれぞれ、全米各地の小都市に4つか5つのマイナーチームを持っていて、若手の育成や、地域のファン獲得に努めている。経済的な負担から、その球団を縮小しようという動きがあったのだが、コロナ禍で、マイナーの選手を解雇した球団が続出した。あるいは解雇はしないまでも、報酬を払わないところもいくつかあった。マイナーの選手の年俸は100万円にも満たなかったりするようだが、それさえ払わないというのは、あまりに現金だというほかはない。

・他方で、一流選手の年俸は高騰が続いている。たとえば大谷選手が所属しているエンジェルスのトラウト選手は昨年、12年で479億円の契約をした。毎年40億円というのは。試合数で割れば2500万円になる。同じ野球なのに、シーズン通して100万円しかもらえない選手との格差には驚いてしまうが、野球にかぎらず、一部のエリート選手にお金が集中する傾向は、どんなスポーツでも変わらないようだ。もちろん、多くのスター選手がマイナーの選手やスタッフ、あるいはコロナ関連で多額の寄付をしている。しかし、格差そのものを疑問視する声は少ない。

・プロ・スポーツが無観客でもシーズンを開始できたのは、テレビの放映権料が入るあてがあったからである。実際それは、入場料収入よりもはるかに大きな額になっている。ただし、MLBのマイナー・リーグでは、入場料以外の収入は得られないから、今シーズンはなしということになった。そこは1部、2部を入れ替え制にしている世界中のサッカーリーグとは違うところである。小都市にある小さな球場で、将来、メジャーに上がるかもしれない選手を応援する。我が町の我がチームを支えているからこそのメジャーなのだが、それが壊れてしまいかねない状況なのである。

・コロナ禍でプロスポーツとテレビの関係が改めて浮き彫りにされたが、スポーツがテレビに左右されるのは、オリンピックの真夏開催でも明らかになっていて、そこにも巨額な放映権料という問題が立ちはだかっている。テレビでいろいろなスポーツを楽しむことができるのはいいことだが、テレビによってスポーツがむしばまれていることを目の当たりにすると、何とも矛盾した思いに捕らわれてしまう。スポーツを金のなる木に変えたのはテレビだが、そのスポーツをダメにしてしまうのもテレビなのである。

2020年6月15日月曜日

安全と安心

 

・コロナ禍が落ち着いて、終息宣言も出された。人びとの生活が少しずつ元に戻ってきているが、誰もがおっかなびっくりといった状態に変わりはないようだ。新しい生活様式が上から推奨されているが、それで果たして本当に安全なのか不確かだし、経済活動も社会活動も、結局のところどうしたらいいのか、本質的なところは何もわからないのが現状だろう。その根本的な原因は、「安全」と「安心」の曖昧な関係にあるように思う。

・「安全」とは危険でないことを意味する。それは客観的な事実やデータに基づくもので、コロナで言えば、感染の恐れがない状態になることである。もちろん、100%とはいかないから、どこかで線引きが必要になる。これまでの例で言えば、新型インフルエンザの感染者数と死者数程度ということになるかもしれない。日本では毎年1割が感染し、1000人程度の死者が出ていたのに、それで三密を避けろとか、営業を自粛せよとかは言われなかったからである。ここにはもちろん、ワクチンが開発されて、希望者には全員、それが投与されることが必要になる。

・しかし、そうなるのは早くても来年以降のようだから、これから第二波や三波に備えて、より「安全」な状態にもっていくことが喫緊の課題になる。どうしたらそれが可能になるのか。おそらく、三密を避けた生活様式の励行や、人の集まる場でのマスクや距離の取り方ではないように思う。それらは結局、客観的な根拠のない対処法で、何となく「安心」を感じることに過ぎないからである。つまり「安心」とは、あくまで主観的に心が安らぐ状態のことであって、実際に「安全」であるかを確認するものではないのである。

・街中でマスクをつけない人を見かけたり、他県ナンバーの車とすれ違うと、何となく「不安」を感じてしまう。みんなが自粛をしているのに、営業している店や、海や山にでかけるのはけしからん。そんな空気が蔓延して、誰もが、その標的になるまいと萎縮をしてしまっている。政府や自治体、それにメディアがそれを推奨したりするから、誰もが「不安」の払拭に敏感になっている。何しろ「自粛警察」なる勝手な取り締まりが横行したりもしているのである。

・これは日本人が陥りがちな、良くない精神状態だと思う。たとえ「安全」であっても、けっして「安心」できるわけではないし、「安心」したからといって、必ずしも「安全」なわけではない。そこに無自覚になって「安全・安心」とひと括りにしてしまっている。ましてや「安心感」なるものは自己満足や自己納得以外の何ものでもないのである。

・コロナに安全に対処する方法は、感染者をできる限り多く見つけることで、「PCR検査」や「抗体・抗原検査」を大量に迅速にすることに尽きると思う。現在いくつかの大学で行われている「抗体・抗原検査」では被験者の0.7%ぐらいに陽性反応が出ているようである。極めて少ない数字だが、しかし、日本の人口では80万人ということになって、公表されている感染者数の50倍もいることになる。ちなみに、東京都の3月と4月の死者数が合計で、過去5年の平均値より1481名多かったそうだ。コロナによる死者数は、同時期で119名とされているから、実際には10倍以上多かったということになる。感染者数や死者数の報告がいかにいい加減なものかを如実に表していて、こんな数字で「安心」したり「不安」になったりするのはばかげたことだと感じてしまう。

・ウィルスの感染力が弱まるのは人口の6割以上の人に抗体ができた時だと言われている。スウェーデンの方針は、それを目指して、ほとんどの制限を設けなかったようだ。それでもとても6割には達しないし、死者数も多いから批判されること多いようだ。しかし、経済活動にそれほどの支障は起きなかった。日本はお粗末な政策にもかかわらず、理由の定かでない要因(factor x)で死者数が抑えられている。ところが「不安感」を煽って、経済活動や社会活動が恐ろしく停滞させてしまっているのである。

・皆保険制度が徹底している日本では、年一回の健康診断が義務づけられている。この時に、わずかの血液採取で済む「抗体・抗原検査」を行えば、かなりの人の感染状態がわかるはずである。何より優先すべきことが、そこにお金と人員をつぎ込むことであるのは自明なのである、「安心感」ではなく「安全」であることを徹底させて、不要な自粛をやめること。それができるかどうかが、日本の未来を左右するように思うが、多分、「go to キャンペーン」や「オリンピック」を電通と結託して決行しようとしている政権では難しいだろう。

2020年6月8日月曜日

快適だけど、ちょっと寂しい気もする

 

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forest167-5.jpg・今年は連休中も桜が咲いていて、山の新緑と相まってなかなかの景色だった。いつもなら車と人でごった返すのに、今年は閑散としていた。自転車に乗っても、車や人を気にしなくて済んだから快適だったが、ちょっと寂しい気にもなった。締め切ったホテルや土産物屋、そして食べ物屋の人たちは、さぞ大変な思いをしていることだろうと思う。非常事態宣言が解除されても、まだ観光客は戻ってこない。特に外国人は全く見かけなくなった。元通りになるまでには、相当時間がかかるだろうし、ひょっとしたら戻らないかもしれない。他人事ながら気にはなる。

forest167-3.jpg ・連休前から湖畔の駐車場はどこも閉鎖され、山という山の入り口に禁止の立て札がたった。仕方がないから、家の付近を歩いて川遊びをしたりしたのだが、家の裏山なら大丈夫だろうと登ることにした。200mほどだがかなりの急登で、引っ越してきた直後に登ったきりだった。眺めも悪いし、道なき道のようだったからだ。ところが、登ってみるときれいに整備されていて登りやすく、上には新しく富士山を眺める見晴らし台もできていた。そして、たまたま、ここを整備している人たちと一緒になり、何年も前からはじめて, これからも続けるといった話を聞いた。で、僕もぜひ参加させて欲しいと頼むことにした。

forest167-4.jpg・続いて翌週にも登って、別のルートで下山したのだが、道がわからず遠回りをすることになった。しかも道は途中で崩れていて、倒木をかきわけて進まなければならなかった。足の悪いパートナーにはちょっと危険だったが、引き返すのも大変なので、かぶさった枝を折ったり、どけたりして、何とか通れるようにした。家から歩いて、こんな冒険ができるところがあるとは思わなかったが、今度は鉈やシャベルを持って、なおしに行こうかなどと考えたりしている。もっとも一人では大変だから、相談してということになると思う。さていつになることやら。

forest167-2.jpg・というわけで、車に乗るのも週一回の買い物だけというのが2ヶ月近く続いている。もちろん、東京にも3ヶ月以上行っていない。母親のいる老人ホームには、いつになったら行けるのか。認知症気味だから、もう忘れられてしまっているかもしれない。去年の夏に生まれた孫が、送られてくる写真やビデオではどんどん成長してしまっている。どちらにも、会いたいのはやまやまだが、感染も心配だ。月に一度は給油をしていたのに、ガソリンスタンドにはもう2ヶ月以上行っていない。しかも車にはまだ半分以上のガソリンが残っている。折から松の花粉の季節だから、赤い車が黄色くなってしまって、久しぶりに自分で洗車をした。しかし、次の日にはまた花粉だらけ。 

2020年6月1日月曜日

コミュニケーションの教科書


CS-1.jpg・『コミュニケーション・スタディーズ』(世界思想社)を出版したのは2010年ですが、それから10年経って、9刷で1万部を超えました。毎年300名以上が受講する「コミュニケーション論」を担当することになって、教科書を作ろうと思ったのがきっかけでした。当時大学院で担当していたゼミには在籍者や卒業生が多数参加していたので、それぞれの得意分野のテーマを担当させ、ゼミでの討議を経て完成させました。出版状況が悪い折りでしたから、初版の2000部は何年かかけて、自分で使いきろうと思ったのですが、翌年には増刷ということになりました。それからほぼ毎年、1000部ほどを出し続けて、とうとう1万の大台に達しました。

・日本の大学にはどこでも「コミュニケーション論」という名の講義が置かれています。「コミュニケーション能力」といったことばが注目され始めた時期でしたから、教科書として多く使われたのだと思います。しかも、中には継続して使い続けている方もいて、ありがたいことだと思ってきました。ぼくは大学を辞めて3年になります。もう研究者としても引退をしているのですが、今年も増刷という知らせを聞いて、少し手直しをしなければいけないと思いました。

・この10年で何がどう変わったのか。まずは2011年に起きた「東日本大震災」など、大きな出来事がいくつもありました。コミュニケーションやメディアについても、インターネット環境を中心に大きな進展と変化がありました。また、障害者やLGBTを自任する人たちに対する社会の対応の変化など、人間関係について改めて見直すことも求められるようになりました。そして何より、現在進行中のコロナ禍です。何しろ、人ごみにいてはいけないし、集まってもいけない。人と接する時には2mの間隔をとって、必ずマスクを着用して行うことが強制されたのです。

・その「社会(的)距離」(social distance)ということばは、E.T.ホールが提案した「近接学」(proxemics)において、人間関係における親しさを、「親密距離」「個人距離」「社会距離」「公衆距離」と区分したものでした。ここにはもちろん文化差があって、挨拶時にハグやキスをおこなう欧米人と、離れてお辞儀をする日本人では、その距離の取り方にずいぶん違いがあります。ところが日本では、毎朝の通勤通学電車では、誰もが当たり前としてすし詰め状態を許容しています。こんな特徴は感染の度合いとどう関係したのでしょうか。

・おそらく、人びとの接触や関係の仕方、集まりの仕組みには、これから大きな変化が起きることでしょう。それは当然、人間関係やコミュニケーションの仕方を変えていくはずです。そんな予測も含めて、執筆者たちには、担当したテーマについて書き直しをお願いしました。あまりに大胆な予測をして、数年後に陳腐化してしまってはいけませんから、そのあたりをどう書くかが問題になりますが、現在各自検討中です。

・コロナ禍を経験した人たちが、今後どのような人間関係やコミュニケーションの仕方をするようになるのかという疑問は、極めて興味深いテーマになると思います。テレワークや遠隔授業の経験は仕事や教育の仕方を変えるでしょう。外食や旅の仕方、音楽や演劇、そしてスポーツの楽しみ方も変わるでしょう。そんな大きな転機を感じさせますが、それが現実化した時には、全く新しい『コミュニケーション・スタディーズ』が必要になるかもしれません。もちろん、監修するのは僕ではなく、若い人たちになると思います。今回の改訂は、そんな予測をちりばめるだけになると思います。

2020年5月25日月曜日

●音楽の聴き方、楽しみ方

 

・コロナ禍で音楽を生で聴く場が閉ざされている。感染を防ぐためには、社会距離と呼ばれるおよそ2mの距離をとりあうことが必要とされるから、ライブハウスはもちろん、コンサート・ホールや野外もダメということになっている。確かに、ライブハウスの多くは狭い空間で、そこに大勢の人が集まり、ステージのパフォーマンスに応えて歌ったり踊ったり、掛け声をかけたりすれば、感染のクラスターになりやすいだろう。実際、ライブハウスは流行のごく初期に感染しやすい場所として注目され、3密の好例として槍玉に上げられた。

・そんな場に自粛を要請し、休業を強いるのであれば補償をするのが当たり前だ。しかし政府の対応は無視に近いし、わずかな補償も遅々として進まないほどお粗末である。EU諸国の対応に比べて、文化の大切さに対する認識不足が、露呈されてしまっている。このままでは、つぶれたり、閉じたりするところもあるだろう。また、主な活動の場としている人たちにとっても、表現の場が制限され、収入が途絶えてしまっているのだろうと思う。

・いったいいつになったら、音楽をライブで聴くこと、楽しむことができるのだろうか。感染が一旦終息しても、2次、3次と流行することは避けられないから、免疫や抗体を作るワクチンが一般に提供されるようになるまで、ということになるのかもしれない。しかし、そうなったとしても、今までと同じようなスタイルで復活するのだろうか、できるのだろうかという疑問は残る。インフルエンザと同じように、冬の流行時には多くの人が感染し、死者も出ることは避けられないはずだからだ。たとえばインフルエンザは毎年日本人の1割が感染し、数千人が亡くなっている。今まで通りの再開には、新コロナによる感染をあわせて、流行を常態として受け入れることが必要になる。何しろ、日本では毎年、9万人を超える人が肺炎で亡くなっているという報告もあるのだから。

・ライブハウスはビルの地下室のように密室状態のところが多いようだ。しかもオール・スタンディングにして、ぎっしり詰め込んだりもする。決して居心地の良いところではないが、好きなミュージシャンのライブを楽しみに集まった人たちには、知らない者同士でも仲間意識は生まれやすい。だからこそ、盛り上がったりもするのである。それは野外で行われる大規模なフェスでも変わらないが、密閉状態ではないし、夏場だから、感染の危険性は少ないかもしれない。

・僕は既に退職したから、大学で今行われている遠隔授業をしなくて済んでいる。大変な作業に追われているようで、辞めた後でよかったと思う。しかしゼミなどでは、学生が積極的になったといった経験を話す人もいる。大学のゼミ室や教員の研究室では、学生たちは圧倒的にアウェイであると感じている。だから緊張し、牽制しあい、遠慮しあって発言を控えるようになる。ところが家での参加になれば、ホームで一人だから、自然に積極的になれるというわけである。

・それを聞いて、だったらすべての授業を大学内でやることはないし、教員同士の会議だって家から参加にしたっていいのではと思った。それはまた、テレワークで仕事がはかどるのなら、毎日会社に出勤する必要がなくなることにも繋がる。それでは人間関係が疎遠になってしまうと危惧する人がいるかもしれない。しかし、人間関係やコミュニケーションの仕方は通信機器や交通の発達で、この1世紀で激しく変わってきてもいるのである。もちろん、仕事の種類だってそうだ。

・音楽はそういうわけには行かないと言う人もいるだろう。しかし音楽を聴く仕方も、通信や交通同様に劇的に変わってきてもいる。記録して聴くレコードやCD、ウォークマン、そしてスマホはもちろんだが、ライブだって、ミュージックホールやパブ、あるいはコンサートホールが’できてからまだ200年と経っていないし、野外のフェスはまだ半世紀といったところなのである。ライブがいいと思うなら、それなりの方策を生み出さなければならないし、欲求が強ければ必ず、新しいスタイルが生まれてくるはずである。

・だから、今のコロナ禍を転機として、さまざまなことが大きく変わっていくのではないかといったことを夢想したくなる。もちろんそれは音楽にはかぎらないし、演劇やスポーツなどの文化全般、そして仕事の仕方や学校のあり方、あるいは近隣の人たちとの関係にも及ぶのではと思っている。できればそれが、環境問題や気候変動に本気になって向かう方向に舵が切れれば、もっといいのにと思う。そもそも、ウィルス禍が頻発するようになったのは、開発による自然環境の破壊が原因だと言われていて、そこを改善しなければ、これからも新種が瞬く間に世界中に蔓延することを繰り返す恐れがあるからである。