1997年10月20日月曜日

『デッド・マン・ウォーキング』ティム・ロビンス(監) スーザン・サランドン、ショーン・ペン


  • 二人組の男が、男女のカップルを遅い、女の子をレイプした後、二人を撃ち殺す。二人組は捕まるが撃った男には有能な弁護士がついて死刑を免れ、もう一人には死刑が宣告される。この映画は、その死刑囚マシュー(ショーン・ペン)からカトリック修道女のシスターであるヘレン・プレジーン(スーザン・サランドン)に手紙が届くところから始まる。
  • マシューには自分のやった行いに対する反省の気持ちが強くある。けれども、もう一人にそそのかされてつきあっただけの自分が死刑で、撃ち殺した張本人が終身刑になったことに対する怒りもある。母親や兄弟が受ける仕打ちも気がかりだ。彼は定期的に面会をはじめたヘレンに、そんな複雑な気持ちを打ち明けはじめる。彼女は刑の軽減を申し出る機会を作ろうと動きまわる。
  • マシューは被害者の親たちに謝りたいという。けれども、被害者の親たちは、そんなヘレンの話を聞こうともしない。子どもを殺された親にすれば、子供を失った悲しみや怒り、あるいは悔しさを鎮めるきっかけは、犯人が死刑になることでしか生まれない。「加害者と被害者の両方にいい顔をしようったって、そうはいかない」と追い返されてしまう。
  • あるいは、マシューの母親と兄弟たちを訪ねる。母親は、当然そっとして置いてほしいという。ヘレンに動かれたら、また話題になってしまう。しかし、最初は冷淡だった母親も、息子が会いたがっていることを聞くと、子どもたちをつれて面会に行くことを承知するようになる。刑の軽減を審理する場で証言すること決心する。
  • 犯罪に対するもっとも重い刑が死刑であることにはさまざまな議論がある。僕は、どんな理由であれ、人の命を絶つことを正当化することはできないと考えるから、基本的には死刑には反対だ。殺したヤツは殺されて当然だ、といった発想には与することはできないし、罪を償うやり方はほかにもあるだろうと考えている。
  • たとえば、日本では死刑の次に重いのは無期懲役だが、刑の軽減の機会があって、これが20年とか30年で出所できたりしてしまう。だから、そのあいだの落差は甚だしいといわざるをえない。なぜ懲役100年とか、500年とか、あるいは1000年といった判決ができないんだろう。そんなことを以前からよく考えた。これなら、どんな恩赦があっても、二度と社会にはでられない。死の恐怖は確かに恐ろしいものだが、死ぬまで刑に服することには、また違った辛さがあるはずである。
  • けれどもまた、そのような態度が、自分が当事者でないからこそできるものかもしれないといった思いも感じている。神戸でおきた事件に数日前に家裁から裁定が下された。加害者の少年に対して精神的な治療を愛情をかけて行うということだった。慎重に出された判断だと思うが、新聞には被害者の父親の「加害者ばかりを優先した審判ではなく、被害者の心情をより考慮した審判がなされてもよいのではないかと思う」というコメントが載せられていた。
  • マシューはヘレンや母親、あるいは被害者の親たちの立ち会いのもとで、薬物によって処刑される。その時点では、もちろん彼は犯罪を犯したときとはまったく別の人間に生まれ変わっている。被害者の親の中には、そのことに理解を示す余地を見せはじめ、埋葬にまで参列した人もいたが、しかし、許せない気持ちは、けっしておさまったわけではなかった。加害者の心情と被害者の心情。その両立しがたい思いをどうやって調停するか。この映画はそんな人を裁くことの難しさを垣間みさせてくれた。
  • 0 件のコメント:

    コメントを投稿

    unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。